内的自己対話-川の畔のささめごと

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戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十八)― 言語過程説に見られる主体概念の「捻れ」について(承前)

2017-03-19 13:55:20 | 哲学

 昨日の記事の続きで、言語過程説における主体概念の「捻れ」について考察する。
 まず、『原論』総論第十節「言語の社会性」から何箇所か引用する。そのそれぞれの引用を別の言葉で言い換え、前後の文脈を考慮してそこから若干議論を展開することによって、私なりに時枝の論旨を了解することに努める(各引用末の括弧内の数字は岩波文庫版上巻の頁数)。

言語の目的は、内を外にし、主体を表現する処にある。(160)

 この一文を読む限り、主体とは内的存在であり、その表現意欲の外的実現という目的のために言語は用いられるということになる。さらに、その前後の文脈を考慮して、時枝の主張を展開すると、次のようになる。言語主体の志向は、個別言語の文法に先立って働いていなくてはならない。その志向が具体的言語使用の様態を決定するのであって、個別言語の文法によってその志向が拘束されることはない。

了解を考慮するということは、場面について考慮し、主体が場面に融和しようとする態度である。(160)

 したがって、語る主体は、ある場面において、そこでの聴き手の了解を第一優先するとき、置かれた場面の諸条件を考慮して、その場に最も相応しい表現を採択しようとする。つまり、語る主体は、置かれた場面によって拘束されているのではなく、自らその場面に合わせようとする。語る主体は、いかなる場面においても、状況から独立した自律的で自由な主体であり続けるのである。

言語に於いては、屢々素材の的確な表現を捨てても場面に合致した表現をとろうとすることがある。(161)

 語られている内容そのものについて最も的確な表現がそれ自体でその場面での最良の表現であるとは限らない。場面に応じて、それに対して「融和的」に主体が自ら選んだ表現がその時その場面での最良の表現である。

言語の不可欠な存在条件である場面に対する主体の顧慮を考えることは、言語の真相を把握する所以であり、又言語の社会性を明かにする足場であるといわなければならない。この様にして、聴手並に聴手を含めた場面一般に対する顧慮から、方言を捨てて標準語に準拠するということも行われるのである。(161‐162)

 この箇所を読んですぐに気づくことは、場面の諸条件が異なれば、「場面一般に対する顧慮」というまったく同じ理由で、標準語を捨てて方言を使うという逆方向の選択もありうるということである。さらには、了解を求めたい相手が日本語を解さなければ、その相手がこちらの考えを了解できるように相手が解する言語を採択するという決断も、主体によって自発的になされるべき場合もあるだろうということである。

又言語に於いて認められる拘束力は、我々に外在する処の「言語(ラング)」並にその法則にあるのではなくして、言語表現を制約する処の主体的な表現目的及び了解目的にあるのである。我々が他人の了解を求めようとする意識なくして、或は他人を了解しようとする意識なくしては、我々の間に共通した言語習慣が成立することはあり得ない。「言語」の外在性と拘束性は、要するに言語に必然的に備る右の様な主体的意識を外界に投影したものに外ならないのである。(162-163)

 実際の運用場面において言語表現に一定の制約が認められるのは、言語主体がそれを自らすすんで受け入れたからである。つまり、言語主体とは、その場での表現目的及び了解目的のために自らすすんで諸制約を受け入れることができる自発的被拘束可能存在なのであり、いわゆる言語の外在的拘束性は、その主体に内属する権能が対象界に外在化されたものにほかならない。
 要するに、言語主体とは、己の内的意図の表現及びその意図の聴き手による了解のために、その都度の言語活動の場面において、自らすすんでそこでの諸制約に自己を従属させることができる自発的受容可能存在だということである。
 しかし、ここから導かれうる論理的帰結の一つは、いかなる言語主体も、それが主体的であり得るためには、外部からその表現意志が拘束されてはならない、ということであるはずである。主体は、個別言語の諸制約から自由であり独立しており自律的であるかぎりにおいて、その諸制約を自発的に受け入れることができる言語主体たりうるからである。