内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十四)― 隠蔽された超越論的主体

2017-03-12 15:57:11 | 哲学

 言語過程説の根本問題をより明確に剔抉するための手掛かりを得るために、三月二日の記事で言及した森岡健二の論文「言語過程説の展開」(『講座 日本語の文法 1 文法論の展開』、明治書院、昭和43年、214-265頁)に立ち戻ってみよう。
 森岡は、同論文の中で、言語過程説が「長い道程のなかで、時枝自身の内に発酵し、時枝自身の創意によって体系化されたものと思われるが、しかし、そうはいっても、当時の哲学や科学が、これと全く無関係であったとも考えられない。意識するとしないとにかかわらず、当時の学問の動きがその体系化の背景となり支えとなって、時枝の思弁を援けたとは言えないだろうか」(219-220頁)という問題意識から、時枝理論とその同時代思想のとの間に共鳴を聴き取ろうと試みている。
 その中で私が特に注目したいのは、二十世紀初頭のゲシュタルト心理学が十九世紀の構成主義的心理学に対して要素主義から機能主義への転換を図った方向性と時枝の言語理論の方向性との相同性を指摘しているところである。両者に共通する基礎的定立は、「あるがままの所与は、決して独立した断片でなく、多少とも分節化された全体、すなわち全体分節的な体制にほかならない、いいかえれば、部分は他から切り離された独立体でなく、有機的全体の中に機能している分節だ」(222頁)という見方である。
 ところが、森岡の指摘とは裏腹に(というか、この部分の森岡の記述は最初から論理的不整合に陥っている)、両者の基礎的定立を公式化して示そうとすると、むしろ両者の間の乖離が際立ってしまうのである。
 ゲシュタルト心理学における三要素である行動・人・場面の相互関係は、それらをそれぞれB・P・Eとすると、次のような関数関係として定式化することができる。

B=f (P・E)

 ところが、時枝における言語活動(B)は、主体(P)と場面(E)との間のそのような関数関係として定式化し得ない。時枝自身の用語により忠実に、この三項を主体・場面・素材に置き換えてみても、結果は変わらない。つまり、時枝における主体は、いかなる意味でも他の二項と関数関係を構成する一項にはなりえないのである。
 このことには森岡も漠然とは気づいており、「時枝学説における「主体」「場面」「素材」の言語の存在条件は、相互の機能的関連が必ずしも明瞭ではない。何となく言語という行動の外に、それを支えるものが存在しているという印象を与える」(224頁)と指摘している。
 これを「何となく」ではなくより正確に言えば、こうなろう。
 場面と素材については、「他から切り離された独立体でなく、有機的全体の中に機能している分節だ」ということは時枝理論の中でも維持されうるが、主体に関してはそうはいかない。主体は、場面と素材に対して関数関係にはない。なぜなら、主体は有機的全体としての言語過程全体を成り立たせている根本条件だからである。言い換えれば、具体的に生きられた言語過程(場面と素材からなる)に対して超越論的であるかぎりにおいて、主体はその言語過程全体の存在条件たりうる。したがって、この言語の存在条件としての主体Sは、言語活動において表現された主体、つまり、場面と素材との関係によって限定され得る主体sには還元され得ない。
 この超越論的主体Sは、したがって、時枝自身が『原論』「総論」で示しているような、場面と素材とを他の二つの頂点とする三角形のもう一つの頂点ではありえない(『国語学原論(上)』、岩波文庫、2007年、58頁)。むしろ、この主体Sは、その三角形の図式によって隠蔽されてしまっている、と言わなくてはならない。