内的自己対話-川の畔のささめごと

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ブラジルからパリへ、別離と戦争、そしてアメリカへ ― レヴィ=ストロース両親宛書簡集を読む(7)

2015-11-30 09:43:39 | 読游摘録

 リセの哲学教師としての最初の任地 Mont-de-Marsan からの最後の手紙の直後に収録されているのは、ブラジルに向かう船の出航を間近に控えたマルセイユからの夫婦連名の電報である。日付は、1935年2月3日。

BON VOYAGE BATEAU SPLENDIDE PENSONS À VOUS À BIENTÔT BAISERS = DINACLAUDE

 この電報の後に、スペイン東岸沿いを航行中の船上で書かれ寄港地で投函された一通がある。その日付は、電報のそれの二日後の2月5日。船上の様子や寄港地バルセロナの街の風景、同船者たちの印象などが記されている。レヴィ=ストロース夫妻を載せた船は貨物船で、彼らのようにブラジルへの渡航目的で乗船していたのは、全部で九人だけとある。
 この手紙が書簡集の前半の最後の一通であり、ブラジルからの手紙は一通も収録されていない。それが意味するのは、そもそも手紙がないということなのか、あるいは、見つからないということなのか、あるいは、その他の理由で収録されていないということなのか、何の注記もないのでわからない。
 書簡集の後半は、アメリカ入国直前に、フランス海外県の一つマルティニークから発送された、1941年4月25日付の一通から始まる。同年3月、ナチス・ドイツ占領下のフランスでの迫害を逃れようとする218名の難民たち(その中にはアンドレ・ブルトンもいた)と共にアメリカに向かう船上で書かれた手紙である。
 この二通の手紙を隔てる六年間に若き人類学者レヴィ=ストロースが誕生する。1939年3月にブラジルからパリに戻る。同月、レヴィ=ストロースは最初の妻ディナと事実上別れている(正式な離婚の成立は、1945年の春まで待たなければならない。別れる理由、当時のディナから夫への痛切な手紙、そしてディナが自殺未遂に至る経緯等については、Emmanuelle Loyer, Lévi-Strauss, 239-241頁を参照されたし)。9月に第二次世界大戦が勃発する。このようにレヴィ=ストロースが私生活での関係破綻と世界史的転換点とを経験したのは、パリでブラジルから持ち帰った膨大な資料の整理と分析に没頭しているときのことであった。

Le temps que je les classe et que je les analyse, la guerre a éclaté. C’est aussi à ce moment que Dina, ma première femme, et moi nous sommes séparés (Claude Lévi-Strauss, Didier Éribon, De près et de loin, Odile Jacob, coll. « Poches Odile Jacob », 2001, p. 39).