内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

手書きの大切さ

2015-09-19 05:39:09 | 雑感

 昨日の記事で話題にしたシンポジウムの期間中、発表者の先生方と会食しながら歓談する機会があった。その際、いろいろと貴重なお話をうかがうことができたが、その中でも特に私にとって示唆的だったのは、情報処理を教えていらっしゃる先生のお話だった。
 その先生の師に当たる方は、現在はコンピュータ関係では日本のトップ企業の一つの重役になっていらっしゃる方だという。あるとき、その師に先生がレポートを、今なら誰でもそうするように、コンピュータで作成して送られたところ、ひどく怒られて、手書きでなければいけないと諭されたというのである。
 その理由は、手書きでなければ伝わらない情報があるからだという。それらの情報とは、まず筆跡であり、その時々の書き方、訂正、強調など、後になってそれを見ることによって当時の自分の思考のプロセスをすぐに思い起こせるような情報である。これらは、「きれい」な最終段階しか示さないコンピュータで作成した文章では、全部消去されてしまう。
 私なりにそれを言い換えると、作業の開始から終了までのプロセスの時間的経験の跡を、手書きの必ずしもあまり「きれい」ではない文章は保存してくれるということになる。もちろん丁寧にゆっくりときれいに手で書くことも大切である。そうすることでしか伝わらないこともある。かつては、履歴書は手書きが原則だったのもそれが理由の一つであろう。
 コンピュータその他、さまざまな電子機器は、確かに私たちの文章作成、データ処理の仕方を、それこそ革命的に変えたとも言える。それらを使うことによって、私たちは数十年前には考えられなかったほどの膨大なデータを瞬時に処理できる。それを巧みに使うことは今や必須のスキルである。しかし、それらの機器が取って代わることができない作業もある。
 同じ先生からうかがったある実験結果によると、同じ学習内容を、三つの異なったグループにさせたという。第一グループには、その全員にタブレットを与え、第二グループには、数人に対して一つのタブレットを与え、第三グループは何も機器はなし、というのが条件設定。その結果、もっとも成果のあがったグループは第二グループ、次が第三グループ、第一グループは最下位だったそうだ。
 この結果が示唆するのは、機械を使いこなすことはより良い成果を上げるために有効だが、機械に依存してしまっては、ましてや機械に使われてしまっては、ダメだということだ。
 これは語学学習にもよく当てはまる。例えば、作文をするとして、それを手書きですれば、書き直したり、付け足したり、線を引いて消したり、さまざまな作業を経て、文が完成したプロセスの跡が残る。それに対して、PCでは、その最終的な「正しい」結果しか残らない。もちろん文章校正ソフトを使えば、それらの跡を保存することもできるが、それを同一画面に表示するとかえってわかりにくくなりかねない。手書きのノートなら、同じ頁上にそれらのプロセスの跡がそのまま保存される。
 私自身の過去の経験でも、歴史の小論文の試験の一週間前に学生たちに十の問題を提示し、この中から一問出すから準備するようにと言い、試験ではすべてを持込可としていた。そうすると、多くの学生はPCを教室に持ち込み、その場でそこから必要な情報を探そうとする。だが、彼らの成績は概してよくない。最もいい成績を取る学生は、数枚のカードを持ってくるだけのことが多い。そこに手書きで各主題別に要点がまとめてある。それらを手がかりに自分の頭で考えるのだ。
 最近は、教室にPCを持ち込んで、何でも打ち込む学生も少なくない。私は一切自由にさせている。どう使うかは彼らの判断に任せている。しかし、上のお話をうかがった翌日である昨日の古代史の講義では、せっかくの大切なお話だからと、学生たちにもその要旨を話した。
 学生たちだけではない。私もPC依存型である。講義では手書きのノートを使うが、それを今まで以上に大切にかつ上手に使いたいと、思いを新たにした次第である。