内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ルイ・ラヴェル『〈私〉とその運命』(3)―「原初的事実」― 揺らぎ、委ね、孤独が打ち破られる場所

2015-09-04 05:42:02 | 読游摘録

 最初のエッセイのタイトルは « Le fait primitif »(「原初的事実」)。これだけでメーヌ・ド・ビランの話だとわかる。エッセイの最初の頁の脚注に示されているビランの著作は、『心理学の諸基礎とその自然研究との関係についての試論』(Essai sur les fondements de la psychologie et sur ses rapports avec l’étude de la nature, 1812)だが、本文中に同著作からの引用があるわけではない。同著作に主に依拠しつつ、その前後のビラン思想の変遷にも目配りを忘れずに、デカルト哲学との系譜的関係、ビラン思想の独自性と新たな貢献、ラヴェルから見て誤りと思われるテーゼなどが簡潔に提示されている。その上で、最晩年のビラン思想が前期の「努力論」をどのように超え出ているかが結論として述べられている。
 その結論部分を意訳してみよう。
 私たちのものと言える力能を私たちは何も手にしてはいない。「原初的事実」は、私たちの揺らぎの場所(point d’oscillation)を示している。そこで、私たちは、つねに己に存在を与えてはいるが、それは、自然の働きかけに譲歩してか、あるいは恩寵の呼びかけに身を委ねてのことである。このとき、努力論は超え出られている。なぜなら、努力は間歇的であり、活動の諸段階の一つを表しているに過ぎないからである。だから、放棄(abandon)のほうが努力よりも完全なのである。それまで私たちの努力に対する抵抗(résistance)と考えられていたものが、今や現前(présence)と贈与(don)となったのである。自己を徹底して捨て去ること(rigoureux dépouillement de soi)は、行動するために、他のすべての存在が私たちと同じようにそこから力を得ている諸力に身を委ねることを私たちに強いる。この自己放棄こそが私たちの内的孤独(notre solitude intérieure)を決定的に打ち破り、私たちの意識の最初の歩みを万有(l’univers)との一体化(communion)にするのである。
 努力に対する外的抵抗によって限界づけられる自己の内的領域を内側から確保しようとする内感の哲学から、意識の本来的到来性に気づき、それに身を委ねることで自己の内閉性を突破する恩寵の神学への転回の可能性を、ラヴェルは「原初的事実」に見ているのである。