内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

遺言ノート ― たまゆらの記(七)

2014-12-29 11:42:12 | 随想

 その人は、今月に入ってから、身近な人たち一人一人に遺す言葉を「遺言ノート」に、丁寧な字で、思いを込めて、書き付けていった。その死後、それらの人たちは、それぞれ、自分に遺されたその人の言葉を読んだ。
 その「遺言」の宛先の一人である二十歳になる孫娘は、今、フランスにいる。その父親は、娘に、「あなたの祖母の余命は数えられている。いつ連絡が入いるかもわからない。そのつもりでいなさい」と伝えてから、帰国した。
 その孫娘は、小さい頃から中学生になる頃まで、お祖母ちゃんが大好きで、夏の一時帰国の度毎、その側を離れることなく、「お祖母ちゃんの子になりたい」とまで言っていた。その人も、孫を心から愛していた。「自慢の孫」だったと遺言ノートに記されている。
 しかし、そのどちらの所為でもない理由によって、一つ屋根の下に暮らしながら、孫娘は、祖母に対して、ほとんど口も利かないような冷淡な態度を取るようになってしまった。
 その人が亡くなってから三日後、葬儀の前日、その人の息子は、孫娘への遺言を書き写し、本人にメールで伝えた。そこには、「自立した女性になって下さい。**子なら立派に出来ます。誰の人生でもありません。**子自身のものです。人に寄りかからず、自由な心で前へ進んで下さい。きっと道は開けていくでしょう」とある。
 それを読んだ孫娘からその父親への返事は、以下のようであった。

最後にもう一度だけおばあちゃんと話す機会が欲しかったです。
素直じゃなくなっていったきっかけもはっきり覚えているし、後悔してもしきれません。
もっと早く大人になればよかった。

 こう書きながら、おそらく、孫娘は、悔恨の涙を流していたことだろう。しかし、責められるべきは、孫娘ではない。孫娘が祖母に対して素直になれなくなってしまった理由は、その両親にあるのだから。
 遺言ノートに込められたその人の願いが叶うようにこれから生きていこう、と息子は思う。息子とその娘は、来夏の帰国時に、一緒にその人の墓参りに行くことを約した。

 

 

 

 

 

 

 


償うことさえできず ― たまゆらの記(六)

2014-12-28 12:15:27 | 随想

 その人の生き方を、少しでも、たとえ拙い仕方ででも、言葉にしておきたい、と息子は思う。
 しかし、それは、贖罪のためではない。その人に歯の浮くような頌歌を捧げることや、その人を無欠の聖人として祭壇に祭りあげることで、自ら負うべき重荷を軽減したり、自分の罪を誤魔化したりしたいのではない。あたかも一つの作品のように見事に完結したその生涯は、それ自体でその人を知る人たちを今も動かし続けているのだから、それについて駄文を弄したところで何になろう。
 息子がその人にまったく不当にも負わせることになった長年の重荷と心労とは、その人の命を奪った病の、控えめに言ったとしても、大きな誘因であっただろう。その重荷と心労がなければ、その人はもっと長生きができただろう。少なくとも、晩年をもっと楽しく生きることができただろう。それに十二分に値する苦難の人生を生きてきた人だった。
 その人がもういない今となっては、もはやその人に対して償うことさえできない。








「日記」という意志 ― たまゆらの記(五)

2014-12-27 12:12:15 | 随想

 その人は、数十年にわたって、毎日、ただの一日も欠かすことなく、日記を付けていた。集文館の赤い表紙の小型三年活用新日記を愛用していた。一日八行、その日の出来事が時系列に沿って、簡潔に記されている。旅行にも携行し、旅先で付けていた。あるいは、旅先でのメモを基に後で当該日付に普段と同じように記入していた。
 死の八日前の十二月十四日、三十九年前に亡くなったその人の夫の命日まで、その日記は自筆で丁寧に記されている。とても綺麗な楷書を書く人だったが、自筆での最後二日間の字は、若干乱れている。ずっと日記用として使っていた夫の形見のパーカーのボールペンは手に持つのにもう重すぎたのだろう、その二日間は軽いフェルトペンで記されている。その後、死の四日前の十八日まで、娘に口述筆記させ、日記を継続している。
 その最後の日記に記されているのは、主治医の往診、介護用ベッドの搬入、娘婿の来訪、見舞客五名の名前、友人が持参してくれた自作のブリザードフラワーについて「素敵!」、排便・排尿の記録。「おむつ着用」、この一言で日記は途切れている。







記憶の「泉」― 覚えられた千二百人の子供たち たまゆらの記(三)

2014-12-25 13:27:00 | 随想

 その人は、単なる一在園児の母に過ぎなかった三年間を除いた、最初のきっかけであった事務手伝いというパートタイムのときから数えれば、四十年間、ある幼稚園に関わり続けた。もうすぐ八十に手が届くという年齢になって、周囲に切望され、とうとう園長になった。それを一時帰国の際に本人から聞かされた息子は、冗談混じりに、「前代未聞のすごい出世だね」と言ったら、「それどころじゃないわよ。本当に大変なんだから」と応えたその顔には、自分でやれるだけのことはやり尽くそうという静かな覚悟が感じられた。
 二〇一一年三月までの園長としての三年間は、その人の幼稚園との関わりの集大成でもあり、存亡がかかった幼稚園最大の危機を、園の先生たち・保護者たちと共に闘いつつ乗り越えた困難な時でもあった。八十歳で園長退任後も財務理事として園に関わり続け、経営の安定化に貢献し、その引き継ぎを後任者に行ったのが死の四日前であった。文字通り「生涯現役」を貫いたのである。
 その人には、物や数字で残せるような作品や業績があるわけではない。しかし、彼女を知るすべての人が驚嘆するのは、卒園生とその家族すべてについての生ける記憶である。
 卒園後十年以上たって久しぶりに園を訪ねてきた卒園生に「〇〇ちゃん、久しぶりね」と瞬時にその子を名前で呼び、満面の笑顔で迎えるのだった。「〇〇ちゃんは今どうしているのかな」と、もう四十代のはずの卒園生のことを話題にすると、たちどころに、その卒園生が今どこに住んでいて、どんな仕事をし、結婚しているのか、子供はいるのか、あるいはその他の消息について答えてくれた。昨日、最後の別れに親子三代同園卒園の祖母・母・娘三人が来てくれたとき、「自分たちが忘れていることまで先生は覚えていてくれた」と言っていた。このような例は、枚挙に暇がない。
 千二百人を超える卒園生たちとその家族は、このように、その人によって常に覚えられていた。それを可能にしていたのは、単なる記憶力のよさということではもちろんない。それは、一人一人の子どもへの湧き出るような愛情によってその深みと広がりが増し続けた記憶の「泉」である。











「すべてよし」 ― たまゆらの記(二)

2014-12-24 23:19:17 | 随想

 すでに自分の死が間近に迫っていることを明白に自覚していたその人は、連日訪れる多数の見舞客を、その都度、満面の笑顔で、「来てくれてありがとう。会えてよかったわ」と迎えながら、それらの人たちの手を両手で握り、しばらく思い出話に花を咲かせていた。そして、別れ際には、手を振りながら、「さようなら」と一人一人の方に最後の別れを笑顔で告げていた。
 その死の三日前、ふと見舞客が途切れたとき、傍らの息子が「疲れていませんか」と聞くと、「うん、疲れるけど、これは心地良い疲れ、そのお陰で夜はよく眠れる」と、目を閉じ、ふーっと深く一つ息をつき、わずかに口元で微笑むと、「すべてよし」とその人は呟いた。

 

 

 

 

 

 


花摘む乙女の呼び鈴 ― たまゆらの記(一)

2014-12-23 23:29:30 | 随想

 八四才の誕生日を迎える今月まで、癌に侵されていることを知りつつ、可能なかぎり自宅で自律した一人暮らしを続けていたその人は、今月初めより、自律歩行が困難になり、自宅での在宅医療・看護を受けるようになった。それ以来、その娘は泊まり込み、付きっきりで世話をした。海外で暮らすその息子は、十七日に帰国して、枕辺に駆けつけた。息子の帰国までは何としても生き延びようとしていたその人は、息子の手を取って再会を喜んだ。
 息子の帰国の翌日、その人は、娘と息子に、その家に百年伝わる真鍮製の花摘む乙女の形をした呼び鈴を探し出して枕元に持って来てくれるよう頼んだ。寝たきりの自分が子供たちを呼ぶためにそれを使いたいからだという。息子も娘も、自分たちが幼少の頃、庭で遊び呆けていると、夕食の準備が調ったことを知らせるためにその人が鳴らす、涼しげに夕空に響く鈴の音を覚えている。その鈴は、三十九年前に亡くなったその人の夫が海外出張に行く度に買ってきた世界各国の人形たちが所狭しと並べられた硝子張りの飾り戸棚の中にどこかにあるはずだとその人は言う。
 娘がまず探した。飾り棚の中を隈なく探したが見つからなかった。その人はそんなはずはないと言う。今度は息子が探した。息子はその飾り棚だけでなく、家族三世代の想い出が染み込んでいるサイドボードの中を探してみたが、やはり見つからなかった。「おかしいわねえ、飾り棚の中に必ずあるはずよ」とその人は言う。息子は、翌日また別の場所を探してみると、その人に約す。
 翌朝、誰よりも早く起きた息子は、まず、もう一度飾り棚を探してみようと、その前に立った。驚いたことに、昨日あれほど探して見つからなかった鈴が棚の手前に並べられた人形の間に立っている。それを手にとった息子は、笑いながらその人の枕元で、「不思議だね、鈴、棚の前列の目につきやすいところにあったよ」と、その人の目の間にかざして、鳴らせてみせた。「まるで自分で歩いて出てきたみたいだね」と冗談交じりに息子が言うと、「そうね。あなたたちが探しものが下手だから、自分で歩いて出てきたのよ」と、満足そうにその鈴を眺めながら、その人も笑った。娘にもその話をし、三人でまた笑った。
 その鈴は、その人が寝たままでもすぐに取れるところに、小さな藁の籠に入れて吊るされた。ときどき、娘や息子、隣の家に住むその人の姪が来ては、その鈴を鳴らして、昔を懐かしんだ。
 しかし、その真鍮製の花摘む乙女の鈴は、衰弱し始めたその人が手に持って鳴らすには重すぎた。三日後、その人は、その鈴を一度も鳴らすことなく、息を引き取った。鈴は、今、その人を生前見舞った人たち、死後最後のお別れに来た人たちが持ってきた花々に囲まれて、ひっそりと佇んでいる。










王家に連なる一族の末裔の娘への叶わぬ愛 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(三)

2014-12-12 06:00:27 | 随想

 昨日読んだ「アドリエンヌ」前半に引き続き、今日はその後半を読む。

 À mesure qu’elle chantait, l’ombre descendait des grands arbres, et le clair de lune naissant tombait sur elle seule, isolée de notre cercle attentif. — Elle se tut, et personne n’osa rompre le silence. La pelouse était couverte de faibles vapeurs condensées, qui déroulaient leurs blancs flocons sur les pointes des herbes. Nous pensions être en paradis. — Je me levai enfin, courant au parterre du château, où se trouvaient des lauriers, plantés dans de grands vases de faïence peints en camaïeu. Je rapportai deux branches, qui furent tressées en couronne et nouées d’un ruban. Je posai sur la tête d’Adrienne cet ornement, dont les feuilles lustrées éclataient sur ses cheveux blonds aux rayons pâles de la lune. Elle ressemblait à la Béatrice de Dante qui sourit au poète errant sur la lisière des saintes demeures.

 アドリエンヌの歌につれて、闇が大樹の間から降りて来る。昇り始めた月の明かりが、彼女のみを照らし、固唾を呑んで聴き入る少女たちと「私」の輪から彼女を截然と際立たせる。彼女が歌い終えても、その後の沈黙を破ろうとするものは誰もいない。芝一面が、草の先々にその小さな白い破片を広げつつある、弱く、凝縮された霧によって覆われていた。まるで天上の楽園にいるかのようだ。
 「私」はやおら立ち上がると、月桂樹が植えられた単彩の陶器の花瓶が置いてあるお城の花壇に向かって駆け出す。王冠のように編まれ、リボンで結んである枝を取って戻ってくる。そして、アドリエンヌの頭にその月桂樹の冠を戴せる。その艶やかな葉は、青白い月の光に照らされた金色の髪の上で、光彩を放つ。その姿は、聖人の家のほとりを彷徨っていたダンテに微笑みかけるベアトリスを彷彿とさせる。

 Adrienne se leva. Développant sa taille élancée, elle nous fit un salut gracieux, et rentra en courant dans le château. — C’était, nous dit-on, la petite-fille de l’un des descendants d’une famille alliée aux anciens rois de France ; le sang des Valois coulait dans ses veines. Pour ce jour de fête, on lui avait permis de se mêler à nos jeux ; nous ne devions plus la revoir, car le lendemain elle repartit pour un couvent où elle était pensionnaire.
 Quand je revins près de Sylvie, je m’aperçus qu’elle pleurait. La couronne donnée par mes mains à la belle chanteuse était le sujet de ses larmes. Je lui offris d’en aller cueillir une autre, mais elle dit qu’elle n’y tenait nullement, ne la méritant pas. Je voulus en vain me défendre, elle ne me dit plus un seul mot pendant que je la reconduisais chez ses parents.
 Rappelé moi-même à Paris pour y reprendre mes études, j’emportai cette double image d’une amitié tendre tristement rompue, — puis d’un amour impossible et vague, source de pensées douloureuses que la philosophie de collège était impuissante à calmer.
 La figure d’Adrienne resta seule triomphante, — mirage de la gloire et de la beauté, adoucissant ou partageant les heures des sévères études. Aux vacances de l’année suivante, j’appris que cette belle à peine entrevue était consacrée par sa famille à la vie religieuse.

 アドリエンヌは立ち上がった。すらりと背筋を伸ばしながら、「私」たちに気品に満ちた別れの挨拶をし、お城の中へ戻っていった。彼女はフランスの歴代の王家に連なる一族の末裔の娘だという。つまり、彼女の血管にはヴァロアの血が流れている。このお祭りの日だけ、彼女は「私」たち「平民」と一緒に遊ぶことを許されていたのだ。彼女は寄宿している修道院に翌日戻らなければならなかった。だから、「私」が彼女と再び会うことはなかった。
 シルヴィの傍に戻った時、彼女が泣いているのに「私」は気づく。言うまでもなく、「私」がアドリエンヌに捧げた月桂樹の冠がその涙の原因であった。もう一つ取って来ると「私」が言っても、「そんなものいらない、自分はそれに値しない」と拗ねる。「私」は言い訳を試みたが、無駄である。家まで送る帰り道、シルヴィは一言も発しない。
 新学年開始とともにパリに呼び戻されたとき、「私」は、悲しくも途切れてしまった淡い友情と報われることのないぼんやりとした愛という二重のイメージを引きずっていた。学校で習う哲学では癒すことができない悲痛な思い出がそこから湧き出してくる。
 輝かしいアドリエンヌの姿だけが心の中に残った。その姿は、栄光と美の幻影として、学業で疲れた「私」の心をよく癒してくれた。次の年の夏休みのこと、前年の夏休み中にわずかに垣間見たこの美しい少女が、その家族の願いによって、修道女として宗教生活に身を捧げたことを「私」は聞かされる。

 互いに異なった分野での表現者であるにもかかわらず、トクヴィルとネルヴァルとの間に精神の深層における親近性を認めることができるとすれば、その理由の一つは、決定的に失われ「今ここにはないもの」としてのみ現在において形象化されうる〈高貴なるもの〉を絶えず想起しうる鋭敏で繊細な歴史への感受性を両者が共有していることにあるのではないであろうか。
 この感受性を涵養し、失われた〈高貴なるもの〉に表現を与え続ける努力をすること、そのために日々書き続け、表現の技法としての修辞の訓練と工夫を重ねること、広い意味での〈書く者〉としての作家の使命の少なくとも一つは、そこにあると私は考える。










ヴァロアの古国に響くフランスの心 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(二)

2014-12-11 07:32:39 | 随想

 ネルヴァルの名作『シルヴィ(Sylvie)』は『火の娘たち(Les filles du feu)』という作品集に収められており、邦訳は筑摩書房のネルヴァル全集第五巻に収録されている。「ちくま文庫」からも『火の娘たち』が出版さているが、どちらも未見なので、同一訳なのか後者が前者の改訂版なのかどうかはわからない。『シルヴィ』は近代フランス文学の代表的な名文としてフランス語学習の教材としてもよく使われるからだろう、『大学書林語学文庫』シリーズの一冊としても出版されている。フランスでは、もちろんのこと、多数のポッシュ版が出ていて、いつでも簡単に入手できるし、専門家による研究も多数、解説書の類にも事欠かない。
 日本の一流の仏文学者による立派な邦訳があるのに素人の私が拙訳を掲げるのは、いくら自分のブログの記事の中でのこととはいえ、作品そのものに対する冒涜と言っていいだろうし、邦訳者の方にも失礼極まりない愚行であるから、原文をそのまま掲げ、おおよそ中身がわかるような意訳にコメントを加えるという形で、今日明日の二回に分けて、「アドリエンヌ」全文を読む。

 Je regagnai mon lit et je ne pus y trouver le repos. Plongé dans une demi-somnolence, toute ma jeunesse repassait en mes souvenirs. Cet état, où l’esprit résiste encore aux bizarres combinaisons du songe, permet souvent de voir se presser en quelques minutes les tableaux les plus saillants d’une longue période de la vie.

 語り手は、うまく寝付けずに、ベッドで微睡みの中に沈んでいる。すると、少年だった頃のことが次々と思い出されてくる。このとき精神は、もう日常の現実世界から離脱し始めているが、まだ半覚醒状態で、夢の中でのような奇妙なイメージの結合に対してはまだ抵抗を続けている。つまり、夢と現とのあわいという境界領域を精神が彷徨っている状態である。こんな状態にあるとき、長い人生の中で際立った出来事の場面が何分かの間に押し寄せて来ると語り手である「私」は言う。
 以下の場面は、だから、自分の少年期に現実にあった出来事の想起ではあるのだが、その出来事が夢と現とのあわいという「今ここではないところ」に立ち現れることで、現実の時間性から解放される一方、どこにもないものの夢想の儚さに陥ることもなく、それ固有の現実性が純化され、きわめて美しい表現として結晶化している。

 Je me représentais un château du temps de Henri IV avec ses toits pointus couverts d’ardoises et sa face rougeâtre aux encoignures dentelées de pierres jaunies, une grande place verte encadrée d’ormes et de tilleuls, dont le soleil couchant perçait le feuillage de ses traits enflammés. Des jeunes filles dansaient en rond sur la pelouse en chantant de vieux airs transmis par leurs mères, et d’un français si naturellement pur, que l’on se sentait bien exister dans ce vieux pays du Valois, où, pendant plus de mille ans, a battu le cœur de la France.

 古色を帯びたアンリ四世時代のお城がまず描出される。そして、夕日がその燃えるように赤い光線で木の葉を突き刺している楡と菩提樹で囲まれ、緑に彩られた大きな広場へと場面は転ずる。その広場では、少女たちが芝生の上に輪になって、母親たちから教わった古い歌を歌いながら踊っている。その飾り気のない純粋なフランス語は、千年以上もの間フランスの心が鼓動してきたヴァロアの古国に今自分が立っているのだということを実感させてくれる。広場に響く少女たちの歌声は、長い歴史の中を生き続ける〈フランス〉の精髄そのものの現前に他ならない。

 J’étais le seul garçon dans cette ronde, où j’avais amené ma compagne toute jeune encore, Sylvie, une petite fille du hameau voisin, si vive et si fraîche, avec ses yeux noirs, son profil régulier et sa peau légèrement hâlée !... Je n’aimais qu’elle, je ne voyais qu’elle — jusque-là ! À peine avais-je remarqué, dans la ronde où nous dansions, une blonde, grande et belle, qu’on appelait Adrienne. Tout d’un coup, suivant les règles de la danse, Adrienne se trouva placée seule avec moi au milieu du cercle. Nos tailles étaient pareilles. On nous dit de nous embrasser, et la danse et le chœur tournaient plus vivement que jamais. En lui donnant ce baiser, je ne pus m’empêcher de lui presser la main. Les longs anneaux roulés de ses cheveux d’or effleuraient mes joues. De ce moment, un trouble inconnu s’empara de moi. — La belle devait chanter pour avoir le droit de rentrer dans la danse. On s’assit autour d’elle, et aussitôt, d’une voix fraîche et pénétrante, légèrement voilée, comme celles des filles de ce pays brumeux, elle chanta une de ces anciennes romances pleines de mélancolie et d’amour, qui racontent toujours les malheurs d’une princesse enfermée dans sa tour par la volonté d’un père qui la punit d’avoir aimé. La mélodie se terminait à chaque stance par ces trilles chevrotants que font valoir si bien les voix jeunes, quand elles imitent par un frisson modulé la voix tremblante des aïeules.

 語り手「私」は、その踊りの輪の中で唯一人の男子であった。一緒に連れてきた隣村のシルヴィという名の少女は、生き生きとして新鮮で、真っ黒な瞳と整った横顔、軽く日焼けした肌を持っていた。「私」は、彼女だけを愛し、彼女しか見えていなかった、と言う。しかし、直後に、「そのときまでは!」と付け加える。
 「私」は、踊っている輪の中にいる、金髪で背の高い美しい少女に気づく。皆は彼女をアドリエンヌと呼んでいた。突然、その踊りのルールに従って、アドリエンヌは輪の真ん中に「私」と二人だけ立たされてしまう。背丈はほぼ同じ。皆はキスするようにと二人を囃したて、ダンスとコーラスは次第に激しくなっていく。「私」は、彼女にキスをしながら、彼女の手を握り締めずにはいられなかった。長い金色のカールした髪が頬に触れる。その瞬間、今まで経験したことのない心のときめきが「私」の体を貫く。
 アドリエンヌは、ダンスの輪の中に戻るために歌を歌わなければならないことになる。皆が彼女の周りに座るとすぐに、この霞棚引く国の少女たちのそれのように、みずみずしく、心に響き渡る、薄いヴェールのかかったような声で彼女は歌いはじめる。歌は、恋をした罰として父親によって塔の中に閉じ込められた王女の不幸を物語る悲しみにあふれた昔の恋愛歌の一つであった。メロディーは詩節ごとにトリルで区切られ、そのトリルは、アドリエンヌの若い声が抑揚をつけられた顫音によって祖先たちの声を真似るときに、ことのほか際立つ。
 このときのアドリエンヌの歌う姿と歌声とは、「今ここにはなく」、もはやそこには立ち戻れないがそれこそが古国ヴァロアの歴史の精神的源泉であるものから流れ出ている〈高貴なるもの〉の現在における間歇的湧出の一つの形として、聴く者の心を打つ。











高貴なる感情としての〈王〉への臣従 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(一)

2014-12-10 07:50:32 | 随想

 トクヴィルとネルヴァルは、十九世紀前半という同時代を生きたフランス人であるが、両者の間に生前何らか直接的な接点があったわけではないようである。それぞれの出自や生きた世界の違いからすれば、それも当然のことだと思われるが、まさにそうであるからこそ、両者の文章の中に見られる精神的親近性はどこから来るのかということが問われうるだろう。
 トクヴィルの父母両家系とも高貴な血筋を引いているが、特にトクヴィルの母方の曽祖父マルゼルブ(1721-1794)はトクヴィル家にとって崇敬の対象であった。ユダヤ人、プロテスタント教徒を弁護し、百科全書派を擁護し、民衆の側に立つ、アンシアン・レジームの苛烈な批判者でありながら、王家への忠誠を尽くし、フランス革命時にはルイ十六世を弁護し、自らもギロチンによって処刑されたマルゼルブに対して、トクヴィルは終生限りない尊敬の念を抱き続け、自分がその血筋を引くことを誇りとしていた。そして、この血筋は、トクヴィルの政治思想家としての卓越した分析力を養った知的源泉でもあった。
 晩年のある手紙の中で、トクヴィルは、父の居城でのある晩の親族の集まりで、母親がルイ十六世の幽閉の憂いをテーマとした歌を歌ったときのこと想い出しているのだが、その箇所は詩的な美しい文章になっている。

Je me rappelle aujourd’hui comme si j’y étais encore, un certain soir, dans un château qu’habitait alors mon père, et où une fête de famille avait réuni à nous un grand nombre de nos proches parents. Les domestiques avaient été écartés ; toute la famille était réunie autour du foyer. Ma mère, qui avait une voix douce et pénétrante, se mit à chanter un air fameux dans nos troubles civils et dont les paroles se rapportaient aux malheurs du roi Louis XVI et à sa mort. Quand elle s’arrêta, tout le monde pleurait, non sur tant de misères individuelles qu’on avait souffertes, pas même sur tant de parents qu’on avait perdus dans la guerre civile et sur l’échafaud, mais sur le sort de cet homme mort plus de quinze ans auparavant, et que la plupart de ceux qui versaient des larmes sur lui n’avaient jamais vu. Mais cet homme avait été le Roi (Lucien Jaume, Tocqueville, op. cit., p. 401-402).

 母親が歌い終わった時、その場に居合わせた親族皆が涙を流していた。しかし、それはそれぞれの個人的な辛い体験のゆえでも、革命時の内戦で失った、あるいは処刑台の露と消えた一族を想ってのことでもなく、十数年前にギロチンによって処刑されたある人の運命を想って泣いたのだ。しかも、その涙を流した者たちの多くは一度もその人を見たことさえなかった。しかし、その人は〈王〉だったのである。
 ここに表現されているのは、「失われた時」への旧懐の情ではない。ある故人への追悼の念でもない。皆が涙を流したとき、〈至高なるもの〉の喪失とともにそれに臣従しつつ〈国〉のために尽くすという高貴なる生き方もまた不可能になってしまった現実世界にあって、まさに「今ここにはないもの」こそが自分たちを生かしてきたのだということが切実に実感されたのである。
 この失われた〈高貴なるもの〉へのノスタルジーは、その具体的表象は歴史的所与によって様々でありうるとしても、人間の感情としてきわめて基礎的なものだろうと私は考える。そして、それは、トクヴィルにおいて典型的に見られるように、知的に鋭利な現実世界の分析の情感的源泉でもありうる。
 他方、この〈高貴なるもの〉へのノスタルジーが〈美〉へのそれと融合するとき、その融合からこの上なく美しい人間的形象が文学作品として生み出されることがある。その一つの良き例をネルヴァルの『シルヴィ』の中の「アドリエンヌ」と題された節に見出すことができる。
 この作品が発表されたのは一八五三年のことだが、上に引用したトクヴィルの手紙の日付は一八五七年五月六日であり、社会的には大きく異なった立場にそれぞれあったとはいえ、同じ時代の空気の中で両テキストは書かれたわけである。しかし、言うまでもなく、そこに醸成されている精神的気圏の親近性は、単なる同時代性ということには還元し得ない。その親近性はより深い精神的次元に由来するものであろうと私は考える。
 「アドリエンヌ」はプレイヤード版で二頁ほどと短く、そこだけ切り離して読んでも、その類まれな美しさを湛えた文章を嘆賞することができるので、明日以降の記事では、原文全文をゆっくり読みながら、トクヴィルとネルヴァルの精神的親近性について考えていきたい。