内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

プレゼンテーションで終助詞「ね」は原則使うな

2023-11-24 23:59:59 | 日本語について

 語感は同じ母語の話者たちの間であっても一様ではない。それでも、日本語を学んでいるフランス人学生たちと日々接していると、日本人同士ならほぼ誤解の余地はないと思われるところで、彼らが語感をうまくつかめていないと感じることはしばしばある。それは名詞、動詞、形容詞、副詞、助詞、いずれでもある。
 例えば、発表でやたらと終助詞「ね」を使いたがる学生が毎年必ず何人かいる。自分の発言について聞き手からの暗黙の同意・承認を求めるときに使われる(もちろん他の用法もあるが)この「ね」を頻用すると、日本語を母語とする聞き手は、必ずしも同意が自明ではない場合には、押し付けがましく感じるだろう。
 例えば、昨日まで穏やかな天気が続いていたのに、今日、急に気温が10度も下がったとしよう。そんなときに誰かと出会い、その人が「急に寒くなりましたね」と言うのを聞いて違和感を抱くことはまずないだろう。しかし、ある人のことを非難して、「すべてあいつのせいですよね」と誰かが私に同意を求めるように言うのを聞いて、私がそれに同意できないときは、それだけ強く反発を覚えるだろう。いったい何を根拠にこっちも同じ意見だと想定しているのかと不可解なときもあるし、無神経あるいは不遜に感じられることさえあるだろう。
 使っている学生本人は「ね」がそんなニュアンスをもってしまうことなどつゆ知らず、聞き手が自分と同じように感じていると想定して、いわば共感の表示として使っていることが多い。悪気などもちろんない。発表内容の理解の妨げになることもない。しかし、そもそもプレゼンテーションで使う必要はない。
 で、原則、「使うな」と助言する。自分の考えに相手が共感あるいは同意してくれるかどうかは、発表後の質疑応答を通じて明らかにすべきことで、発表の段階で相手の同意あるいは共感を無根拠に前提することは差し控えるべきだからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


興味と関心の違いについて

2023-09-14 23:59:59 | 日本語について

 ある授業で取り上げる日本語のテキストのなかに「興味・関心」と併記してあり、それぞれの語に異なった意味が与えられているかどうかは文脈からは判断しかねた。もし授業で学生からこの両語の違いについて質問があったらどう答えようかと考えた。
 一番無難かついい加減な解答は、「ほぼ同義である」と一言で済ますことである。当該の文章の中では実際そうなのだから、これはこれで間違った解答ではない。しかし、文脈を離れた両語の一般的な用法については、これでは答えたことにならない。実際、用法の違いがあるからである。「無関心」とは言うが「無興味」とは言わない。だが、「興味がない」とは言える。「興味津々」とは言えても、「関心津々」とは言わない。読みからして「カンシンシンシン」と「シン」が三つも重なって笑ってしまう。
 手元にある国語辞典四冊『角川必携国語辞典』『三省堂国語辞典』『明鏡国語辞典』『新明解国語辞典』を引いてみた。最初の三冊は、いずれも語釈がそっけなくて両語の違いを明解に説明する手がかりがない。『新明解』だけ、「関心」の語釈が目立って詳しい。

その事について自分自身に直接かかわりがあるかどうかに関係なく、無視するわけにはいかないと感じ、△より深く知ろう(今後の成行きに注目しよう)とする気持ちを持つこと。〔心理学・教育学では「興味」と同義に用いることもある〕

 「興味」の方はわりとそっけない。

その物事について、おもしろいと思うこと。

 これらの語釈によると、例えば、「政治に関心がない」と「政治に興味がない」とではどう違うのか。
 「関心がない」と言えば、「(自分には)関係がないから、より深く知ろうとは思わないし、成行きがどうなろうと知ったことではない」という意になるだろう。「興味がない」と言えば、「面白くないから、知りたいとも思わない」という意になるだろう。
 「知的関心」と「知的興味」とではどう違うか。前者には、関心の対象に対する情報に敏感になり、情報を収集するという継続的な態度が予想されるが、後者は、対象に対する知的好奇心が引き起こされた状態である。こう違いが言えそうな気がする。前者は、その関心が何らかのより大きな理由によって引き起こされるのに対して、後者は、対象そのもの魅力によって引き起こされるという違いもあるだろうか。
 「関心」と「興味」の用法の違いという問題とは別に、対象に対する二つの異なった心的状態という問題もあるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アウティング現象の拡散という悲しい現実を前にして

2023-09-09 05:27:14 | 日本語について

 カタカナ言葉(多くの場合英語に由来し、和製英語も含まれる)の氾濫(今、一番上の変換候補が「反乱」だった)など、いまさら話題にもならないほどの日常茶飯事だ。ただ、新しいカタカナ言葉の登場がある社会現象の広まりに対応していることもしばしばあり、それはそれで興味深い。が、興味深いとだけ言って済ませていられない深刻な事態も発生している。
 「アウティング」という言葉を『ジャパンナレッジ』で検索してみると、『現代用語の基礎知識』の2019年版に初登場している。語義は「性に関する思考や同一性問題を本人の了承なく第三者に暴露すること」となっている。以後各年度版に項目として収載されているが、2021年版には以下のような格段に詳しい記述が見られる。

性的指向や性自認など、信頼できる他者以外には知られたくない個人のプライバシーを、本人の同意なく第三者に開示すること。重大なプライバシー侵害であり、望まない情報開示の被害者に、さらに差別や暴力に晒される可能性を負わせる、きわめて暴力的な行為である。

日本では、2015年に一橋大学法科大学院の学生がアウティングを苦に自殺した事件を一つの大きな契機として、この語が広まった。

なお、多様な性的指向や性自認はいずれも差別の理由となってはならない点を逆手に取り、恥ずべきことでないならば開示されても問題ないはずだ、とアウティングを正当化することはできない。暴力が不当だからといって、他者がその暴力の被害者になる可能性を高めてよい理由にはならないからである。

一橋大学の位置する国立市では、18年にアウティングを禁止する条例が制定された。

 ところが、2022年版と2023年版では上掲の2021年版に示された具体例が消去されている。この両年度版の記述はまったく同一である。

性的指向や性自認など、信頼できる他者以外には知られたくない個人のプライバシーを、本人の同意なく第三者に開示すること。重大なプライバシー侵害であり、望まない情報開示の被害者に、さらに差別や暴力にさらされる可能性を負わせる、きわめて暴力的な行為である。

なお、多様な性的指向や性自認はいずれも差別の理由となってはならない点を逆手に取り、恥ずべきことでないならば開示されても問題ないはずだ、とアウティングを正当化することはできない。暴力が不当だからといって、他者がその暴力の被害者になる可能性を高めてよい理由にはならないからである。

 具体例が消去されたのは、それだけアウティングがSNS等によって社会現象として一般化していることと対応しているのだろうか。ちなみに『三省堂国語辞典』(第八版、2022年)には立項されており、「〔outing〕 ほかの人の性的指向を暴露すること」と定義されている。
 なんでこの言葉を話題にしたかというと、つい一昨日、日本学科の今年度の新入生間でこの問題をめぐっていざこざがあったからである。当事者の一人から学科長宛に Discord 上での新入生間の激しい言葉の応酬のスクリーンショットが送られてきて、それが学科長から学科の専任教員にも転送されてきた。そのときの学科長のメッセージの中に « outé » とあって、最初は「?」だったのだが、すぐに outing から仏語の動詞として造語された outer の過去分詞形だとわかった。おそらく「アウテ」と発音されるのだろうが、このいかにも感じの悪い言葉がフランス語として一般化すれば、「ウテ」とフランス語風に発音されるようにもなるだろう。
 SNSが世界的なアウティングの拡散に多大な「貢献」をしていることは明らかである。その勢いには抗し難い。せめてその時流には乗らないという消極的な抵抗しか私にはできない。ただ、自分が書く文章の「品位」は、これを常に保つように心がけたい。

 

 

 

 

 

 

 

 


「させていただく」が氾濫する世界は住みにくい

2023-09-08 06:06:55 | 日本語について

 今日も辞書の話。
 『三省堂国語辞典』と『明鏡国語辞典』とには「させていただく」が立項してある。
 前者には語釈として三つ挙げてある。①許しをもらってするときの、けんそんした言い方。②許しをもらってするかのように、自分の行為をけんそんする言い方。③思いどおりにするとき、うわべだけ礼儀を示した言い方。
 この三つの用法のすべてに当てはまることとして、「戦後、関西から東京にはいって広まり、二十世紀末に使用が増えた〔ただし、昭和初期の東京の例もある〕」という注記がある。なぜ二十世紀末から使用が増えたのだろうか。
 ①の用法は、他者の許しを明示的に前提する。例えば、(先生の許可を得て)「出席させていただきます」。②は、自分がこうするのは、他者の許しがあってのことだということをちゃんと自覚していますよ、決して自分勝手にしているのではないのですよ、という気持ちを伝えたいときの用法だ。例えば、「本日、司会を務めさせいただく〇〇です」。この二つの用法には違和感を覚えないし、自分でも使う。
 ところが、いつからとははっきり言えないが、「~させていただきます」と聞いて、あまりいい感じがしないことが多くなった。その理由は上記の③の用法が増えたということなのだと思う。つまり、他者からの許しを得ることなしに、一方的に自分で自分に許しを与えている場合が増えたということなのだと思う。
 この点を『明鏡国語辞典』は次のようにずばりと指摘している。
 「(1)許可を得なければならない相手がいない、またそのような相手が漠然としていて特定されない場合に使うのは、慇懃無礼な表現となって不適切。『☓今日は感動させていただきました(◯感動いたしました)』『〔自己紹介で〕☓俳優をさせていただいています(◯俳優をしております)』』(2)『…ていただく』は、〈相手のことは考えず、自分の都合でそうする〉という含みを持つため、お願いの意を示す場合には『…ください』を使うほうが適切。『〔上司に向かって〕☓帰らせていただきます/◯帰らせてください』」
 「させていただく」のかくのごとき「不適切」な用法が氾濫する世界は住みにくい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二十一世紀という異世界

2023-09-07 08:45:59 | 日本語について

 『三省堂国語辞典』(第八版、二〇二〇年)の箱の帯には、「新語に強く、説明はやさしい」、「新しく生まれたリアルなことばを多数収録! ウェブだけでは得られない価値ある情報が満載!」とある。確かに、新語の収録数では、小型国語辞典のなかで群を抜いている。
 それらの新語、あるいは既存の語の新用法は、主に若者たちによって使われている。漫画、アニメ、コンピューターゲームなどに由来することが多いようだ。ウェブなどで若手俳優のインタビュー記事を読むとき、この手の言葉に出会うことが多い。
 「世界線」 相対性理論の術語としてはかねてよりあったが、若者たちがこの語を現在使うのはまったく別の意味においてだ。『三省堂国語辞典』によると、「①〔いくつかの中から選ぶ〕世界の進む方向。『別の―に行く』〔コンピューターゲームの『シュタインズ・ゲート』から、二〇一〇年代に広まったことば〕、だそうな。
 「斜め上」 もとは普通の言葉だったが、「②〔俗〕それまでの流れからは考えられないこと。『予想の―を行く展開・―の反応』〔一九九五年、富樫義弘の漫画『レベルE』から出たことば、二十一世紀になって広まった〕」。「ふーん、そうなの」。
 「なにげに」 「③〔表面はなにげないようすで〕意外に。けっこう。『ほめられると―うれしい・お茶が―おいしい』。その後に、「なにげに」の用法全体について、「一九七〇年代に例があることばで、一九八〇年代後半~九〇年代に広まった」と注記があり、さらに、「③の用法は二十一世紀になって広まった」とある。確かに、昭和の時代から聞いた覚えがあるような気がするが、③は、昨日の記事で話題にした「ふつうに」とだいたい同じ頃に登場したということか。
 「パリピ」 「〔←パーリーピーポー(party people)〕〔俗〕いつもパーティーをしてさわいでいる(ような、軽薄な)人。〔二〇一〇年代に広まったことば〕」。「ほんとにいるの、こんな人たち?」
 「はんぱない」 「〔俗〕←半端でない。パない。パねえ。『―食欲・〔副詞的に〕半端ねえ うまい』〔一九九〇年代に例があり、二十一世紀になって広まったことば〕」。
 これらの言葉の用法を眺めていると、二十一世紀が私にとってどんどん異世界になっていくように思われてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「フツーに」ついて行けない新しい日本語の用法

2023-09-06 05:59:05 | 日本語について

 自分自身では使わないけれど、よく耳にするようになった新しい表現あるいは用法がいくつかあって、それらを聴く度に違和感を憶える。一昨日の記事で話題にした「だいじょうぶ」の用法もその一例だ。
 新しい用法に出会って、「なんか違うんだよなぁ」と感じるのは、こちらの言語感覚が古びて時代に遅れているからかもしれない。そもそも時代の流行について行こうとは思っていないから、ズレを感じる機会が増えるのは致し方のないことだと諦観している。
 「普通に」の新用法にもやはり馴染めない。『三省堂国語辞典』(第八版、二〇二二年)には、「普通」の項に⑤として以下のような用法説明がある。

⑤〔―に〕〔俗〕(a) 何も条件をつけずに、文字どおりの意味で。「あの人、―に歌うまいよね・このアイス、わたし的には―においしい〔以上、ほめた言い方〕・裏切られて―にショックです」 (b) 当然(であるかのように)。「あんなことを言われたら―におこる・おれが言ったことを、なに―に忘れてるんだ?」〔⑤は、二十一世紀になって広まった用法〕

 この「フツーに」の用法は、「めちゃ」とか「めっちゃ」ほどではないが、何も言葉を付加しないよりは評価の程度が高かったり低かったりすることを表すためなのだろうか。
 『明鏡国語辞典』(第三版、2021年)には、さらに立ち入った説明がある。

❷〔新〕〈「普通に」の形で〉ありのままであるさま。正直なところ。‖「―においしい」「『あれ、どこから出てきた?』『―に店から』」使い方 (1)この「普通に」は、状況によって「意外に」「思ったより」「まあまあ」「ただ単に」などさまざまな意を表す。(2)会う約束をした人が来ないので連絡をとったところ、「ごめん、普通に寝てた」と謝るなどの場合は、「特別な理由があったわけではなく、単に寝ていたのだ」「そんなつもりもなく、寝ていたのだ」といった意を表す。

 これで謝ったことになるとは私には「フツーに」思えないが、若者たちの間で軽く謝るにはこれでいいのだろう。
 これらの「普通に」の新用法に対する違和感の強さは世代間の隔たりの大きさに対応しているのであろう。


地に落ちた「神」の用法

2023-09-05 13:23:35 | 日本語について

 ネットなどでドラマ評として「神回」という表現を見かけるようになったのはここ十年くらいのことだろうかと思って、昨日挙げた四つの辞書を引いてみた。この用法について記載があるのは『三省堂国語辞典』のみだった。
 第三の用法として以下の記載がある。

「神①」のようにすばらしい〈人/もの〉「この演奏、まじ―!・―アプリ・―回〔=連続ドラマなどで、すばらしい回〕〔二〇〇九年ごろからの用法〕

 膨大な用例採集の結果として二〇〇九年ごろからと推定しているのだろう。
 『聲の形』(2016年)のなかに、主人公の石田将也が同じ高校の生徒に自分の自転車を貸そうと提案したのに対して、「神じゃん」とその生徒が答えるシーンがある。映画のストーリーからしたらさして重要なシーンではないのだが、妙に印象に残った。
 「神対応」の反対語としての「塩対応」が立項してあるのは『明鏡国語辞典』のみ。「〔新〕そっけない態度。愛想のない対応。‖『アイドルがファンに―をする』」。『三省堂国語辞典』は「塩」の項に「③〔俗〕そっけないこと。『―対応』」と組み込まれている。この対になっている用法において、「神」の反対語は「塩」であり、「悪魔」ではない。
 これら用法を見聞きするにつけ、「神」の権威も地に落ちたものだと嘆息してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「大丈夫」の若者的な、「本来は不適切」な用法について

2023-09-04 23:59:59 | 日本語について

 2019年2月8日の記事で、若者に特徴的な「大丈夫」の用法のことを話題にした。この用法について記載のある国語辞典はまだ少ないようだ。手元にある四つの国語辞典『角川必携国語辞典』『新明解国語辞典』『三省堂国語辞典』『明鏡国語辞典』のうち記載があるのは最後の一冊のみ。この辞書は、誤用まで調べられることで評判になった辞書だが、その名に違わず、「大丈夫」の項に以下の説明と用例がある。

〔新〕相手の勧誘などを遠回しに拒否する語。結構。‖「『お一ついかが?』『いえ、―です』」「『砂糖は二個?』『いえ、―です』」使い方 そんな気遣いはなくても問題はないの意から、主に若者が使う。危なげがない場面で使う用法で、本来は不適切。

 まさに、我が意を得たり、である。

 ちなみに、この「我が意を得たり」を立項しているのは、『角川必携国語辞典』と『三省堂国語辞典』のみで、『新明解国語辞典』と『明鏡国語辞典』には、「意」の項にさえ、「意を得る」も挙げられていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


解釈と翻訳を通じて政治思想の問題に至る ― 一つの実例に即して

2023-04-01 10:45:41 | 日本語について

 熟練のプロであれ、駆け出しの新人であれ、ずぶの素人であれ、原文の解釈なしに翻訳はできない。端的に言えば、一つの翻訳は一つの解釈である。いずれの解釈が正解、あるいはいずれが他に優ると決定できる場合もあるが、できない場合もある。後者の場合、その理由はさまざまあるが、主に原文自体が孕んでいる非決定性、両義性、曖昧性にある。
 当該の文章だけでは複数可能な解釈のうちのいずれが正しいか或いはより妥当か決定できない場合でも、その文章が置かれた文脈というより高次のレベルで解決できることはある。あるいは、著者のその他の著作に示された考えを参照することによって判断を下せることもある。あるいは、その文章が書かれた歴史的・社会的・文化的文脈にまで視野を広げることで、重層的かつ漸近的に正解あるいは相対的に良い解に接近することができる場合もある。
 以下に挙げる一例は、授業で実際に取り上げた一文である。これを仏訳するとき、どうしても二つの解釈のうちのどちらか一つを選ばなくてはならない。まず原文を示す。

福澤の考えでは、それ[=日本の独立]は あくまでも「自由の気風」によって、人々それぞれの「独一個の気象」すなわち個人の独立の意識が育つことで確立する、「国民」どうしの水平な紐帯の意識に基づいた、一国の独立でなくてはならない。

 問題は、「確立する」がどの語にかかっているか、である。直後に読点が打ってあるので、「国民」にはかからないことはわかる。残る可能性は二つある。一つは「水平な紐帯の意識」であり、もう一つは「一国の独立」である。
 第一の解釈は、個人の独立の意識は「国民」どうしの水平な紐帯の意識の確立の前提であり、後者が一国の独立の基礎である、と捉える。一国の独立を、個人の独立の意識に支えられた国民の水平な紐帯の意識に基礎づける、いわば「二層構造」説である。
 第二の解釈は、個人の独立の意識と「国民」の水平な紐帯の意識とを一国の独立の二つの条件とする、いわば「並立」説である。
 これら二つのうちのどちらの解釈を採るかで仏訳は次のように異なる。前者が第一解釈に対応し、後者が第二解釈に対応する。

Selon la pensée de Fukuzawa, cette indépendance devra être celle d’un pays, fondée sur la conscience du lien horizontal entre les membres d’un État, et celle-ci ne s’établira qu’après, par l’esprit de liberté, le développement de l’individualité, c’est-à-dire de la conscience de l’indépendance de chaque individu.

Selon la pensée de Fukuzawa, cette indépendance devra être celle d’un pays, qui ne sera établie qu’avec, par l’esprit de liberté, le développement de l’individualité, c’est-à-dire celui de la conscience de l’indépendance de chaque individu, et (aussi) fondée sur la conscience du lien horizontal entre les membres d’un État.
 

 前者の解釈には未解決の問題が残されている。個人の独立の意識の発展は国民の水平な紐帯の意識を必然的に生じさせると著者は考えているのか、あるいは、前者は後者の必要条件ではあっても十分条件ではなく、前者から出発して後者の確立へと至るためにはさらに平等意識や民主主義等を条件として必要とするという考えがこの文章に前提されているのか、という問題である。しかし、翻訳としては、この不確定性はそのままにしておくのが妥当であろう。
 後者の解釈によれば、この文は、個人の独立の意識と国民の水平な紐帯の意識との関係はここでは問われておらず、一国の独立にはこれら二条件が必要だと言っているだけだということになる。したがって、後者の翻訳が穏当ということになる。この場合、個人の独立の意識と国民の水平な紐帯の意識とは、それぞれ独立に成立しうるのか、あるいは、後者は前者なしでも成立しうるのかという問いが残る。しかし、これらの問題への解答は、この文章の翻訳という問題の枠組みを超えている。
 これは翻訳の問題としては些細な一例に過ぎないが、それを通じて向き合うことになる政治思想の問題はけっして小さくはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


曖昧な日本語が気になる老教師のモノローグ ― 遅れることを怖れずに立ち止まって考える

2023-03-31 23:59:59 | 日本語について

 ネットの新聞記事のようにその日その日に書かれては消費されていくレベルの文章は、推敲と呼べるような注意深い作業はもちろん経ておらず、他者によるチェックが入っているのかも怪しまれる「粗悪品」であることが多い。商品としての「情報」さえ伝わればいい、ということだろうか。
 大手新聞社の記事であっても、特に若手の記者の書いた文章には、間違って使われている慣用句や漢字熟語などをよく見かける。日々、取材と雑務に追われながらの記事執筆であろうから、落ち着いて文章を推敲する時間などないのだろうと同情しつつも、もう少し勉強しろと言いたくなるときもある。こんな粗製乱造を繰り返しているだけでは、新聞記者という文章のプロであっても、文章力は向上しないだろう。
 私の授業では、新聞記事を取り上げることはまずないのだが、一般書籍はどの授業でも毎回必ず読ませる。一般書の中でも日本語として比較的読みやすいものを選ぶし、量的には一回の授業でせいぜい数頁なのだが、取り上げるテキストを授業の準備の際に読み直していると、日本語の表現としてちょっと気になるところに出くわすことがしばしばある。
 例を二つ挙げてみよう。著者の名誉のために書名と著者名は伏せる。
 一つ目の例は、高校生向けの日本史教科書の自由民権運動を説明している箇所に見られる表現である。「欧米の近代的な自由と民主主義の考え方」という表現である。文法的には何も間違っていない。しかし、「近代的な」は何を限定しているのだろうか。「自由」だけなのか、「民主主義」にもかかるのか、あるいはそれらではなくて「考え方」にかかるのか。日本語では限定句が何にかかっているのかしばしば曖昧になりがちだが、これはその一例である。文脈から考えれば、「考え方」にかかっていると見るのが妥当で、そうであるならば、「自由と民主主義という欧米の近代的な考え方」とすれば、上に指摘した曖昧さを回避することができる。
 二つ目の例も、文法的には間違いではないし、内容理解においても誤解の余地はなさそうなのだが、フランス語に訳そうとすると、言葉が足りないことに気づく。

[…]そうした歴史地理的に恵まれない条件にかかわらず、たえず日本民族の文化的エネルギーは積極的に先進文化を取り入れ、これを消化して先進国に劣らぬ日本の文化を形成してきた。

 どこが気になるかというと、日本の文化が劣らないのは「先進国」に対してではなくて、「先進国の文化」に対してである。だから、この文を仏訳すると例えば次のようになる。

Malgré ces conditions historiquement et géographiquement défavorables, les énergies culturelles du peuple japonais ont toujours activement adopté et digéré la culture avancée pour former une culture japonaise qui n’était pas inférieure à celles des pays avancés.

 つまり、celles という指示代名詞(この文ではもちろん cultures を指す)が必要なのだ。仏語でさらに厳密さを要求されるのは、「先進国」の単複とその「文化」の単複である。この点、どれが正解かは原文の著者の考えに依存するので、文法的には決定できない。
 私はここで、だからフランス語のほうが日本語より厳密だ、などと言いたいのではない。日本語としてはさらっと読め、一見誤解の余地もなさそうなところに、立ち止まって考えてみるべき問題が隠されていることがあり、外国語に訳すという作業はそのことに気づかせてくれる一つの手段となりうる、と言いたいだけである。しかも、これは先達たちによってすでに繰り返し言われてきたことに過ぎない。
 日々消費されるためだけに書かれた文章の洪水の中で読み流しているだけだと、その洪水に実は流されているだけであり、ほんとうには何も読んではいない、ということになりかねない。そうはならないように、遅れることを怖れずに、気になるところで立ち止まって考えることを日々実践したい。このブログもいわばその実践の場の一つである。