数ヶ月前から、不思議な無気力感に苛まれている。
仕事をし、食べ、眠り、遊ぶ。
何も問題のない、どこからどうみても完璧なルーティンワーク。
微かにくすぶるようなこの不安と、それを覆いつくすような虚脱感はなぜなんだろうか。
問題がないことを喜ぶべきなのか。問題がないことに焦るべきなのか。
体はどこも傷ついてないのに、深い傷を抱えているように、俺はじっと横たわっている。
「それはきっと、あんた自身の年齢的なもんなんじゃないの?」
ミーナは、俺のベッドで煙草に火をつけながらそう言った。
「年齢?」
「そう。」
彼女は首をこちらに向けて、俺の胸に頭を寄せた。彼女の香水の匂いが、微かに俺の鼻腔を擽る。
小さな火種が、体の奥底でぞろりとさざめく。
「夢は必ず叶うと信じられる程子供じゃない。かといって夢を諦め捨て去る程大人になりきれない。そんな中途半端さが、あんたの中で消化不良を起こさせているんじゃないの。」
ミーナはふうっと紫煙を吐き出した。
崩れた彼女の口紅が、フィルターを紅く染める。
それがやけに官能的に見えた。
ミーナと知り合ったのは数年前。知り合い当初は映画を見に行くこともあったかもしれない。今では一緒に食事に行くこともまれになってきた。
彼女とは何度か寝ているが、付き合っているわけではない。
彼女がそれを望んでいるのか。よく分からない。少なくとも、彼女から付き合いたいと望んでいるそぶりを感じたことはない。
いや。それは違う。
彼女は感受性の鋭い子だ。付き合いたいと望んでない相手にそれを求めることは、賢明ではないと思っているのかもしれない。
ミーナは手を伸ばして、灰皿に煙草を押し付ける。
細く白いミーナの手首。そこにつけられた紫色の傷跡。
俺はまだ、その理由を聞けないでいる。理由を聞けないから、ミーナは俺に何も求めない。
つまりは、そういうことなのだ。
夢にも賞味期限があるのだろうか。
いつまでもいつまでも鮮やかに胸の中に燃え続けるには、根気と体力と忍耐が必要なのかもしれない。サバイバルに立ち向かう勇気がないといけないのだ。
夢だけじゃない。
いつも誰かを、強く強く愛したいと思う。
でも俺は、小さな炎を前にして互いの肌で温めあうような、そんな恋愛しか出来ない。
今のこの生活に不満があるわけではない。
でも、どうしても幸せになれなくて、どう足掻いていいのかも分からず、途方にくれてしまうだけなのだ。
誰も導く者はいない。
それは俺に、長く続く線路の上をたったひとりで闊歩する情景を彷彿とさせる。
もしかしたらやってくるかもしれない、列車に怯えながら。
もしかしたら振ってくるかもしれない、チャンスを求めて。
空を見上げながら、ただ孤独に俺は歩いていく。
線路の行き先は、いつだって霞に包まれている。
どんなに目を凝らしても、何も誰も見えないのだ―――――。
ミーナを送り出した後、俺はふと気が向いて街を散歩することにした。
通りを歩くアベックや家族づれを、早足で追い越していく。
石畳が微かに濡れているのは、昨夜の雨の名残か。でも今空は、星が透けて見えそうな程瑞々しく晴れ渡っていた。
エスプレッソの芳ばしい香り。
露天で売られるワッフルの甘い香り。
どこかで誰かが罵倒する声を上げ、どこかで誰かが出会えた喜びを分かち合い、どこかで誰かが愛を交わしている。
そう、街はこんなにも生きている。
俺は小さく、深呼吸した。
抜けるような空に浮かぶ、小さな半月を見た。
白く清浄なその姿を目にした途端、俺の中にとてつもない情動が沸き起こる。
ああ、そうだ。
生きているということを、狂う程俺は実感したいんだ。
たとえ傷だらけの野犬になっても、今自分は確かにこの場に立って生きていると、他の誰でもない俺自身が認めたいのだ。
長く尾を引いて、闇を切り裂く咆哮。
その物悲しい声に感じるものは、寂しさか?違う貪欲さだ。
良識や常識など関係ない。
地面を這いつくばって生きるものだけが持つ、醜く美しい貪欲さなのだ。
俺はそっと後ろを振り返る。
列車はまだ、見えない。
闇に沈んだその先にあるのは、ただただ痛みと後悔の残骸だ。
たとえ行く先がクリアでなくても、このレールの上を走っていくのか。
もしかしたら。
そうもしかしたら、いつかこのレールから外れて、歩き出すことが必要になるかもしれない。
俺の道は、誰でもない俺だけが決めること。
そこが肥溜めだろうが、ガラクタの山だろうが、道のない場所だろうが、行きたいと望む場所に行くことこそが正解なのだ。
俺は煙草を取り出し、ゆっくりと火をつけた。
吐き出す紫煙が、細く棚引いていく。
月はいつでも、無言で俺を見守っている。
俺は月を見上げて、ただ吼え続ける。
一人ぼっちで。
鉄錆の香り。俺はまた歩き出す。昨日とは違う足取りで。ほんの少し、鋭くなった眼差しで。
この、日常という名の線路の上を。
楽しみや喜びを日常から
感じ取ることができるのではないでしょうか?
今の生活に特に不満はないのに、何故だかゆっくりと死んでいくような倦怠感・このままでいいのかと問いかけてしまう焦燥感を感じている青年をモチーフに、一つの「生き様」というものを描いてみました。
個人的なことを言えば、私自身は毎日がドラマチック(本音を言うと綱渡り状態)なので、この青年の憂鬱みたいなものを感じたためしがありません。
毎日毎時間毎秒、何かしら心が「感じて」いる状態です。苦しみも喜びも、瑞々しくありありとそこにあります(若干苦労の比率が高いですが)。
人生に賞味期限はない、とは思いますがついそれを忘れがちな人もいるのではないか?
そんな方に共感して頂けたらいいなと思って書きました。