「戯言の部屋」

セピアス、戯言を語るの間

夏の陽炎

2011-02-07 01:26:50 | ショートショートショート

 ふと眩暈を感じて、少女は額に手をあてた。
 照りつける殺人的な日差しは、容赦なく彼女の体を射抜いていく。
 視界が揺らめくのは、眩暈のせいなのか陽炎のせいなのか。
 ほんの些細なことすら考えるのが困難なこの暑さの中では、何もかもが不安定にぼやけて見えた。 
 胸がざわめく。
 震える睫を伏せて、耳を澄ます。

 古ぼけたロールフィルムが回る音。
 真っ直ぐに壁へと伸びる、光の帯。
 そこに映し出されるのは、忌まわしくも懐かしい夏の記憶。
 お父様がいて、お母様がいた。
 お姉さまがいて、私がいた。
 優しいお父様と、美しいお母様と。
 物静かなお姉さまと、いつも真っ黒になって走り回っていた私と。
 澄んだ水を湛えた湖畔の傍で、四人は寄り添うように佇んでいる。
 どこから見ても、完璧な家族。
 平和で平穏で、愛に満たされた家族。
 カタカタと音を立てて、フィルムは回りスプールに巻かれていく。
 音のない世界で、微笑む家族は少しずつ夏の日差しに溶けていく。
 真っ白い獰猛な獣に食われていくように、輪郭が消えてゆき影から飲み込まれていく。
 やがてホワイトアウトした画面に、小さな雫が滴り落ちた。
 色の無い白黒映画でも、その雫が赤黒く濃ゆいことが分かる。
 一滴、一滴、流れる雫はやがて一筋の流れを作り、画面を黒く染めていく。
 これは、血だ。
 白い肌を染めるように、とめどなく流れた血。
 そう、優しいお父様は優しい顔のままお母様を殴った。
 美しいお母様は、流れ落ちる血も美しかった。
 物静かなお姉さまは、どんなに殴られても声を出さずに地面に転がっていた。
 それは、とてもよく出来たお人形のようだった。
 澱んだ空気を湛えた湖畔の家で、お父様は獰猛な獣になって佇んでいる。
 足元には、お人形になったお母様とお姉さまと私が転がっている。
 どこから見ても、狂った家族。
 狂気の饗宴で、血に染まった家族。
 カタカタと音を立てて、フィルムは回りスプールに巻かれていく。
 そう。
 恐怖や絶望など、とっくの昔に乗り越えた。
 苦しみや痛みなど、とっくの昔に捨て去った。
 私の心にあったのは、しんと冷えた静寂。
 その静寂の中で、一遍の迷いもなく小槌を振り下ろしたのは。
 両手を血に染めて、月夜に照らして高く細く笑い声を立てたのは。
 ロールフィルムが回る音が聞こえる。
 寄り添う黒い影の中で、むっくりと体を起こす小さなシルエット。
 その右手に、しっかりと小槌を握り締めて。
 
 ざわめきが激しくなり、そっと手の平で胸を押さえた。
 そう、視界が揺らめくのは眩暈のせいでも陽炎のせいでもない。
 恐れ、だ。
 恐れ、のせいだ。
 それはあの日犯した私の罪が、白日の元に晒されることを恐れているのではない。
 あの日からこうして幾つもの夏を見送ってもなお、罪悪感すら抱かない自分自身への恐れ。 
 それが私の心を妖しく奮わせるのだ。

 この湖畔に眠る、私の記憶と寄り添いながら。
 やがて、全ては白く風化して行くのだろう。
 この何もかも焼き尽くさんとする、狂った日差しの中で。 

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