その部屋は「行きずりの部屋」と呼ばれていた。
部屋の中には、一人の女がいて。
彼女がその部屋の主だった。
部屋は常に整頓されていて、余計なものが一切なく必要なものは十二分に揃っていた。
いつもあるべきものがあるべき位置に収まり。
こざっぱりとした雰囲気を湛えて、客人を迎え入れるのだった。
「行きずりの部屋」には鍵がかかっておらず。
常に誰でもが入ることが出来た。
勿論、マナーの悪い人間は入ることは出来ないが。
常識の範囲で行動出来る人ならば、彼女は拒まなかった。
毎日誰かしら部屋に訪れる。
彼女は笑顔で迎え入れて、客人をもてなすのだった。
部屋のコンディションは常に最適に保たれ。
たおやかな午後の光が一杯に降りそそいでいる。
小さな丸いテーブルや、カウチには無数の傷があったし。
ソファの布張りは色褪せていたけれど。
しかしそれはむしろ、大切に使い込まれた暖かさを感じられた。
誰かがこの場所に座って、自分と同じように手足を伸ばし、心を開放したのだと。
そんな風に思える。
だからこそ、ここにいると心が落ち着く。
訪れた者は、誰もが同じことを言う。
自分の部屋ではないのに、自分の部屋のようにくつろぐことが出来る。
充分に羽を休めたら、好きな時に出て行ける。
訪れることを拒絶されないし、追いかけ引き止めるものもいない。
それが、「行きずりの部屋」だった。
「行きずりの部屋」は完全な正方形だったが。
実は西向きの壁に、小さな扉があった。
壁の色と同色の扉でしかもノブのない押し戸なので、気付く人は滅多にいなかった。
この扉の向こうには、小さな部屋があった。
そう、「彼女の部屋」である。
「彼女の部屋」の中央には、大きなガラスの器があって。
そこには、溢れそうなほど沢山のガラス玉が犇いていた。
悲しい時や苦しい時。
彼女はこのガラスの器に、ひとつずつガラス玉を入れている。
透明なガラス玉は、器の中にひっそりと転がってゆく。
このガラスの器を打ち壊し、ガラス玉を昇華すること。
彼女はずっとそれを切望していた。
それは、彼女一人の力ではどうしても出来ないことだった。
だから、「彼女の部屋」に入ってこられた人に彼女は、いつも器の中のガラス玉を見せてきたのだ。
誰もが、その器の蒼い輝きに目を奪われる。
手を触れようと、指先を伸ばす者もいた。
でも結局は誰も、その器に触れることはなかった。
なぜなら、「行きずりの部屋」では決して見せない本当の彼女と対面してさえ。
彼女が求めるものを与えるよりも。
自分が求めるものを彼女に与えてもらいたい、と望む人ばかりだったからだ。
「彼女の部屋」に、今は訪れる人はいない。
彼女はやがて、部屋に真鍮の鍵をかけた。
「彼女の部屋」で、ガラスの器からはとっくの昔にガラス玉が溢れ落ちているのに。
彼女はどうすることも出来ない。
ただこの「行きずりの部屋」に訪れる人に、心を砕くだけだ。
人々は彼女に求める。
自分の中の真実を見極めたい。
自分の中にある真実を吐露したい。
自分の中にある何かを見つけたい。
未来に希望を見つけたい。
この「行きずりの部屋」に来て、彼女の漆黒の瞳に向かって手を差し伸べる。
差し伸べる手を見たら、彼女はどうしても両手で包み込んでしまう。
それはその人のためではなく。
自分自身のために。
「行きずりの部屋」で寝そべりながら。
彼女は一人、虚ろな眼差しを中空に向ける。
かつては、「彼女の部屋」を解き放つことが望みだった。
ガラスの器を壊し、ただありのままの彼女でいられることが望みだったのだ。
でも今。
彼女は、息の根を止めてもらいたいと望んでいる。
やがて「彼女の部屋」中にガラス玉が満ちてしまう、その前に。
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「とある人?」って タイトルつけたいくらいの 感じだね
私は見つけられない様 ジャングルに隠した挙句 二重の鍵・・みたいな人を・・
えっ っと 違う違う 私の事じゃなくて・・
わ わたしは 疲れて 軽く 枯れて来たぐらいでって なんだかナ~ ごめんネ じゃっ
この物語は、個人的に非常に深い意味を持つ小説でつ。
この「部屋」にも意味があるし。
「彼女」には具体的なモデルがいます。
いつもいつも扉は隠されていたけど。
それでも「鍵」をかけることは無かった。
しかし、希望を捨てるつもりで「鍵」をかけた。
彼女は部屋の中で独りぼっちで生きていくつもりだったから。
しかし人生とは分からないもので。
もうダメだ、と思った時に意外な出会いが訪れたりもします。
現在「彼女」の扉は開かれ、彼女はガラスの器の前に佇んでいる状態です。
その中身を捨てるのか捨てないのか。
時間をかけて思案しながら、見極めようとしているって感じですかね(笑)