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「戯言の部屋」

セピアス、戯言を語るの間

夏の陽炎

2011-02-07 01:26:50 | ショートショートショート

 ふと眩暈を感じて、少女は額に手をあてた。
 照りつける殺人的な日差しは、容赦なく彼女の体を射抜いていく。
 視界が揺らめくのは、眩暈のせいなのか陽炎のせいなのか。
 ほんの些細なことすら考えるのが困難なこの暑さの中では、何もかもが不安定にぼやけて見えた。 
 胸がざわめく。
 震える睫を伏せて、耳を澄ます。

 古ぼけたロールフィルムが回る音。
 真っ直ぐに壁へと伸びる、光の帯。
 そこに映し出されるのは、忌まわしくも懐かしい夏の記憶。
 お父様がいて、お母様がいた。
 お姉さまがいて、私がいた。
 優しいお父様と、美しいお母様と。
 物静かなお姉さまと、いつも真っ黒になって走り回っていた私と。
 澄んだ水を湛えた湖畔の傍で、四人は寄り添うように佇んでいる。
 どこから見ても、完璧な家族。
 平和で平穏で、愛に満たされた家族。
 カタカタと音を立てて、フィルムは回りスプールに巻かれていく。
 音のない世界で、微笑む家族は少しずつ夏の日差しに溶けていく。
 真っ白い獰猛な獣に食われていくように、輪郭が消えてゆき影から飲み込まれていく。
 やがてホワイトアウトした画面に、小さな雫が滴り落ちた。
 色の無い白黒映画でも、その雫が赤黒く濃ゆいことが分かる。
 一滴、一滴、流れる雫はやがて一筋の流れを作り、画面を黒く染めていく。
 これは、血だ。
 白い肌を染めるように、とめどなく流れた血。
 そう、優しいお父様は優しい顔のままお母様を殴った。
 美しいお母様は、流れ落ちる血も美しかった。
 物静かなお姉さまは、どんなに殴られても声を出さずに地面に転がっていた。
 それは、とてもよく出来たお人形のようだった。
 澱んだ空気を湛えた湖畔の家で、お父様は獰猛な獣になって佇んでいる。
 足元には、お人形になったお母様とお姉さまと私が転がっている。
 どこから見ても、狂った家族。
 狂気の饗宴で、血に染まった家族。
 カタカタと音を立てて、フィルムは回りスプールに巻かれていく。
 そう。
 恐怖や絶望など、とっくの昔に乗り越えた。
 苦しみや痛みなど、とっくの昔に捨て去った。
 私の心にあったのは、しんと冷えた静寂。
 その静寂の中で、一遍の迷いもなく小槌を振り下ろしたのは。
 両手を血に染めて、月夜に照らして高く細く笑い声を立てたのは。
 ロールフィルムが回る音が聞こえる。
 寄り添う黒い影の中で、むっくりと体を起こす小さなシルエット。
 その右手に、しっかりと小槌を握り締めて。
 
 ざわめきが激しくなり、そっと手の平で胸を押さえた。
 そう、視界が揺らめくのは眩暈のせいでも陽炎のせいでもない。
 恐れ、だ。
 恐れ、のせいだ。
 それはあの日犯した私の罪が、白日の元に晒されることを恐れているのではない。
 あの日からこうして幾つもの夏を見送ってもなお、罪悪感すら抱かない自分自身への恐れ。 
 それが私の心を妖しく奮わせるのだ。

 この湖畔に眠る、私の記憶と寄り添いながら。
 やがて、全ては白く風化して行くのだろう。
 この何もかも焼き尽くさんとする、狂った日差しの中で。 

行きずりの部屋

2008-10-29 03:26:30 | ショートショートショート


 その部屋は「行きずりの部屋」と呼ばれていた。
 部屋の中には、一人の女がいて。
 彼女がその部屋の主だった。
 部屋は常に整頓されていて、余計なものが一切なく必要なものは十二分に揃っていた。
 いつもあるべきものがあるべき位置に収まり。
 こざっぱりとした雰囲気を湛えて、客人を迎え入れるのだった。

「行きずりの部屋」には鍵がかかっておらず。
 常に誰でもが入ることが出来た。
 勿論、マナーの悪い人間は入ることは出来ないが。
 常識の範囲で行動出来る人ならば、彼女は拒まなかった。
 毎日誰かしら部屋に訪れる。
 彼女は笑顔で迎え入れて、客人をもてなすのだった。
 部屋のコンディションは常に最適に保たれ。
 たおやかな午後の光が一杯に降りそそいでいる。
 小さな丸いテーブルや、カウチには無数の傷があったし。
 ソファの布張りは色褪せていたけれど。
 しかしそれはむしろ、大切に使い込まれた暖かさを感じられた。
 誰かがこの場所に座って、自分と同じように手足を伸ばし、心を開放したのだと。
 そんな風に思える。
 だからこそ、ここにいると心が落ち着く。
 訪れた者は、誰もが同じことを言う。
 自分の部屋ではないのに、自分の部屋のようにくつろぐことが出来る。
 充分に羽を休めたら、好きな時に出て行ける。
 訪れることを拒絶されないし、追いかけ引き止めるものもいない。
 それが、「行きずりの部屋」だった。

「行きずりの部屋」は完全な正方形だったが。
 実は西向きの壁に、小さな扉があった。
 壁の色と同色の扉でしかもノブのない押し戸なので、気付く人は滅多にいなかった。
 この扉の向こうには、小さな部屋があった。
 そう、「彼女の部屋」である。
「彼女の部屋」の中央には、大きなガラスの器があって。
 そこには、溢れそうなほど沢山のガラス玉が犇いていた。
 悲しい時や苦しい時。
 彼女はこのガラスの器に、ひとつずつガラス玉を入れている。
 透明なガラス玉は、器の中にひっそりと転がってゆく。
 このガラスの器を打ち壊し、ガラス玉を昇華すること。
 彼女はずっとそれを切望していた。
 それは、彼女一人の力ではどうしても出来ないことだった。
 だから、「彼女の部屋」に入ってこられた人に彼女は、いつも器の中のガラス玉を見せてきたのだ。
 誰もが、その器の蒼い輝きに目を奪われる。
 手を触れようと、指先を伸ばす者もいた。
 でも結局は誰も、その器に触れることはなかった。
 なぜなら、「行きずりの部屋」では決して見せない本当の彼女と対面してさえ。
 彼女が求めるものを与えるよりも。
 自分が求めるものを彼女に与えてもらいたい、と望む人ばかりだったからだ。

「彼女の部屋」に、今は訪れる人はいない。
 彼女はやがて、部屋に真鍮の鍵をかけた。
「彼女の部屋」で、ガラスの器からはとっくの昔にガラス玉が溢れ落ちているのに。
 彼女はどうすることも出来ない。
 ただこの「行きずりの部屋」に訪れる人に、心を砕くだけだ。
 人々は彼女に求める。
 自分の中の真実を見極めたい。
 自分の中にある真実を吐露したい。
 自分の中にある何かを見つけたい。
 未来に希望を見つけたい。
 この「行きずりの部屋」に来て、彼女の漆黒の瞳に向かって手を差し伸べる。
 差し伸べる手を見たら、彼女はどうしても両手で包み込んでしまう。
 それはその人のためではなく。
 自分自身のために。

「行きずりの部屋」で寝そべりながら。
 彼女は一人、虚ろな眼差しを中空に向ける。
 かつては、「彼女の部屋」を解き放つことが望みだった。
 ガラスの器を壊し、ただありのままの彼女でいられることが望みだったのだ。
 でも今。
 彼女は、息の根を止めてもらいたいと望んでいる。
 やがて「彼女の部屋」中にガラス玉が満ちてしまう、その前に。


クリスマス・ディナー

2007-12-24 14:36:58 | ショートショートショート


 レノを街中で見かけた時、ニナは思わず最後に会ったのはいつだったか思い返していた。
 6ケ月。
 そう、6ケ月だ。
 久しぶりに見るレノは少し痩せていた。
 さらさらと舞い落ちる雪の中で、寒そうにコートの襟を寄せている。
 しんしんと冷える空気の中で、頬は白く透き徹り。 
 唇だけが朱を塗ったように赤く鮮やかだった。
「よう。」
 ニナは、片手をあげてレノに声をかけた。
 レノはニナに気付き、はんなりと微笑んだ。
「久しぶりだな。」
「うん。久しぶり。」
 言葉が、白い吐息となって中空に霧散する。
 彼を象る線はあまりに細く、このまま溶けて消えてしまうのではないかと思える程に華奢だった。
 無理も無い、とニナは心の中で呟く。
 今年の夏、レノの妻ミーナが死んだのだ。
 生まれ変わったら、きっと比翼の鳥となり。
 もしくは連理の枝となって、季節を彩ると思えるような。
 そんな仲の睦まじい夫婦だけあって、レノの嘆きようはあまりに激しかった。
 ミーナが、泣き叫ぶレノの魂さえも連れて行ってしまうのではないかと思える程だった。
 空ろな瞳でただ涙をはらはらと零すレノに、とても葬儀の相談など出来るはずもなく。
 ニナが一人で取り仕切ったのだった。
 それから6ケ月。
 レノは一度も外には出てこなかった。
 心配になって何度か家に訪れたのだが、レノはけしてその扉を開こうとはしなかった。
 人形師としての職業上、家に籠って製作することはよくあることであったが、時が時だけにやはり心配だった。
 でも、どんなに言っても、レノは大丈夫だと扉の向こうで繰り返すばかりだった。
「何してるんだ?」
「忙しくて、クリスマスの準備をしてなくて・・・当日に慌てて準備をしているんだよ。」
「そうか。」
 小さく笑うレノに、ニナは少なからずホッとする。
 事実、レノが抱える荷物には、クリスマスディナーに使うと思われる食材やら、蝋燭やら、飾りやらで埋め尽くされていた。
「仕事はどうだ?」
「うん、まずまずだよ。」
「まあ、仕事していれば気が紛れることもあるしな。この時期はクリスマスだから、注文も多いだろう。」
「そうでもないさ。」
 北風が、彼の前髪を巻き上げる。
 レノは小さく目を細めた。
 蝶の触角のような細い睫が震えるように揺れて、黒檀の瞳に僅かな陰がかかる。
 その瞳に宿る小さな瞳に、ニナはふと違和感を感じた。
 熱に浮かされたように潤んだ瞳は、確かにニナの方を向いているのだが。
 ニナの後ろ、遥か遠い何かへと焦点を結んでいるように思えたのだ。
 彼の眼差しの一切が、その一点へと吸い込まれているように見えた。
「大丈夫か?」
 ニナは、思わず声をかけていた。
「何が?」
 首をかしげて、微笑むレノ。
 ニナは、かける言葉が見つからなかった。
 黙り込むニナを見つめながら、笑顔はやがて雪と共に零れ落ちた。
「もう、行かなきゃ。」
「そ、そっか。」
 レノは、小さく手を振った。
 ニナも釣られて手を上げる。
「家で、ミーナが待っているからさ。」


 暖炉で赤々と燃える炎の前で、レノはばっとテーブルクロスを広げた。
 入念に洗濯し、沁み一つないクロス。
 きちんとアイロンがあてられて、ぴっしりとテーブルを包み込んでいる。
 その中央に、銀の燭台を載せる。
 燭台には赤い蝋燭が置かれ、火を燈されていた。
 レノは、ひとつひとつの料理を運んでくる。
 こんがりと焼けた七面鳥。
 パースニップと茹でたにんじん。 
 湯気を立てるマッシュポテト。
 林檎を丸ごと入れたパイ。
 ラム酒をたっぷりと入れたプラム・プディング。
 グレービーソースが、暖炉の火を映して艶々と輝いている。
 ワインの栓を抜くと、彼は磨き上げたグラスに注いでいく。
 完璧に飾り立てられたこの密やかな食卓に、レノはゆっくりと腰を落ち着ける。
「今年も、二人っきりのクリスマスだね。」
 ナプキンを膝に広げながら言った。
「これからも、ずっと、こんな風に二人っきりで過ごして行こう。」
 レノは、細い指先でワイングラスを手に取る。
 紫の漣に、白いドレスを着た女性が映っていた。
 いや、白いドレスを着た人形が映っていた。
「乾杯。」
 レノは呟き、幸福そうにワインを飲み干す。
 語ることもなく、微笑むこともない彼の妻。
 ひっそりとした静けさの中で、ただじっと頭を垂れていた。
 それはまるで、二度と戻ることの無い魂に向かって、祈りを捧げているかのように見えた。
 思い出の中で彷徨いながら、幸せな夢を見るレノを見守っているようにも見えた。
 窓の外にはしんしんと雪が降り積もり。
 この世界をどこまでもどこまでも、白く染めてゆく。
 雪が深くなればなるほど。
 沈黙の密度が色濃くなっていくように思われた―――――。


愛の唄

2007-10-17 23:22:29 | ショートショートショート


 波打ち際を歩いていると、歌声が聞こえてきた。
 沈む夕日の黄金色の光の中で、朗々と英々と響き渡る透明な歌声。
 僕は顔を上げて前方を見つめる。
 そこには一人の女性がいた。
 年は恐らく三十代後半と思われた。
 しかし彼女は、少女の笑顔を湛えていた。
 お腹一杯の子供のような顔をして、彼女は歓喜の唄を歌っていた。
 それが、ミーヤとの出会いだった。

 次の日も。その次の日も。
 ミーヤは夕暮れになると、お気に入りのヤシの木陰で唄を歌う。
 それは歌詞もなく、主旋律も音階も無視したメロディーなのに、なぜかはっと心を揺さぶられる。
 彼女の声は不思議な色合いを持っていた。
 けっして上手いわけではない。
 でも彼女の声は、まるで生まれたばかりの赤ん坊のような、無垢な輝きを持っているのだった。心の奥の奥にある、一番純粋な場所からその声は響いてくるのだ。
 目を閉じ、母の腕に眠るように。
 いつまでもいつまでも耳を傾けていたくなる。
 不思議な歌声だった。

 ミーヤは雨の日も風の日も、打ち付けるような嵐の日でも、椰子の木陰で歌っていた。
 ある時は毅然とした眼差しで。
 ある時はうっとりとした瞳で。
 空の蒼を切り取ったような彼女の目は、遠い何かを見据えている。
「どうしてここで歌っているの?」
 僕は不思議になって彼女に聞いた。
 ミーヤは僕を見て、にっこりと微笑んだ。
「私、待ってる、恋人。」
 たどたどしい言葉。
 彼女は必死に言葉の破片をかき集め、僕に語ってくれた。
 それは彼女の、恋の物語だった。

 ミーヤは昔、この椰子の木のたもとで一人の男性と恋に落ちた。
 彼は異国の言葉を話す、とても浅黒い肌の男性だった。
 浜辺を散歩するミーヤに、背後からいきなり抱きついてきたのだという。
 バランスを崩した彼女の体が、砂の上に投げ出された。
 吃驚して見上げると、覆いかぶさる男性の背後に、ぽっかりと浮かんだ月が見えた。
「月、とても奇麗。月を見る彼の目、もっと奇麗。」
 そう語るミーナの目は虚空を見つめ、まるでその時の月光を探すように彷徨った。
 覆いかぶさる男は、最初まるで獣のようだったという。
 ミーナは怖くて彼にしがみついた。
 深い彼の胸に触れた時、彼の鼓動と温もりを感じた。
 冷えた潮風に嬲られながら、彼の熱い体が彼女の恐怖を溶かしていくのを感じていたという。
「それは・・・。」
 僕はその後に言葉が続かず、黙り込む。
 やがて彼は動きを止め、ミーナの横にごろりと寝転んだ。
 ミーナはもっと彼の鼓動を感じたいと思い、彼の胸に頬を当てようとした。
 彼はすっと体を離し、そのまま海岸を走っていったのだった。
「それから、待ってる、ずっと。」
 ミーナは、まるで太陽の住人に焦がれるように、夕日に向かって手を伸ばす。
「どれくらい?」
 おそる、おそる訊ねる。
「じゅう、ねん」
 彼女の珊瑚色の唇から、言葉が零れ落ちた。
「もうやめろよ。待つのなんか。」
 気付いたら、彼女に大声で怒鳴っていた。
「来やしないよ、そんな奴!」
 僕の声に驚いて、みるみる彼女の瞳に涙が浮かぶ。
 僕ははっとして、口を押さえた。
「なんで、言うの、そんなこと。」
 たどたどしい言葉の合間に、小さな雫が頬を伝う。
「彼が、好き。だから、待つ。」
 そう言い放つミーナがあまりに奇麗だったので、僕は切なくなって、思わず泣き出してしまった。

 ミーナは、不幸なのか。
 恐らくそうだろう。
 でも不幸を認識出来ない彼女に、一体現実を知ることにどれほどの意味があるのだろう?
 ミーナはいつも幸せの中にいる。
 潮騒に抱かれながら、愛の唄を歌う。
 たった一度の邂逅に、ただ月が美しかったという理由で、彼女は自分の恋を信じた。
 そして過ぎる時の中で、二度と訪れない人を待ちながら、彼女は幸せそうに歌っている。
 ミーナは、不幸なのか。
 恐らくそうだろう。
 そして同時に、彼女は彼女にしか分からない幸福の中にいるのだと知った。
 そんな彼女に、どうして僕が「待つな」と言う権利があるのだろう?
「ごめん。」
 僕は涙を拭って、ミーナに謝る。
 君の世界を壊してごめん。
 君の愛を侮辱してごめん。
「君の恋人の話を聞かせてよ。」
 僕はそう言うと、ミーナは途端ににっこり笑って、話し始めた。
 拙い言葉で語る彼女の愛が、あまりに純真だったので。
 僕は涙が止まらなかった。


この孤独を

2007-09-24 14:36:20 | ショートショートショート


 高い歌声が聞こえる。
 斜めに差し込む日差しの中で、ゆらりゆらりと舞いながら。
 見晴るかす空は、眩暈がする程上天気。
 秋特有の雲ひとつない空の蒼さは、目に沁みて思わず瞼を閉じてしまう。
 世間は、こんなにも季節を享受しているというのに。
 私の心の中は、重く垂れ込めている。
 陰鬱な雲が幾重にもなって、覆い尽くそうとしているのを感じる。
 そんな予感はしていた、と呟く。
 悪い予感ばかりが、当たる。
 それが、人生の理というものなのかもしれない。

 ふと、思い立って会社の帰り道、いつもと違う駅で降りてみた。
 理由は分からない。
 夕焼けが奇麗だったからとか。
 夜気の香りに惹かれたからとか。
 多分、そんな「小さい気まぐれ」だった。
 薄紅色から群青色へと変化するグラデーションは、言葉を失うほどに美しく、しっとりとした空気が優しく私を包み込む夕暮れ。
 通りに軒を並べるレストランは、キャンドルの火を燈し、恋人達が額を寄せ合って微笑み合う夕暮れ。
 黄金色の日差しを浴びながら、私は軽い足取りで石畳を歩いていた。
 コツコツ、と響く足音に耳を澄ます。
 冴え冴えと、輝く音すら聞こえるような月を仰ぎながら。
 猫の爪で引っかいたような細い受け月は、優しく町並みを見下ろしていた。
 このまま、歩いて帰ろうか。
 そんな風に思っていた矢先。
 ふと、私は足をとめた。
 私の前方にある店のオープンテラスに、見知った二人がいるのに気付いたからだ。
 風に揺らめくキャンドルの明かりに照らされて、優しい時間が紡がれているのが見えた。
 それは、私の恋人と、私の親友の女性。
 二人は手を繋ぎ、言葉もなくお互いを見詰め合っていた。
 たっぷりとした沈黙が、二人を結びつけるのが見える気がした。お互いの目で、微笑みで、手の温もりで、二人は確かに二人にしか分からない会話を交わしているのだった。
 それは、どこからどう見ても幸せな恋人同士だった。
 その完璧なひとときが、私を打ち砕くのを感じた。
 声をかけるべきだったかもしれない。でも出来なかった。私はそっと踵を返して、駅へと歩き出した。
 涙も浮かばない。
 受け月だけが、そんな私をそっと見守っていた。

 友達に紹介した時、私は彼のことを「友人」と紹介した。
 付き合い始めの、お互いを手探りで感じ取るような時期だったから。好きという高揚感を感じていても、彼と恋人としての関係はまだ固まっていなかった。
 そんな弱気が、彼を「友人」と紹介させたのかもしれない。
 しかし私は、彼が女友達を眩しく見つめる瞳を見て、自分が過ちを犯したことを知った。
 女友達に会わせたのが、問題なのではない。
 彼女に、「彼とは付き合っています」と言えば、ちゃんと弁えてくれることも知っている。
 そして彼女は、とても魅力的な女性である。そのことが私は誇らしい。
 ただ、私が「友人」と紹介したことで、確かにあったはずの防波堤を私が自ら開け放ったのだ。
 彼の瞳から零れる思いを、友達は確かに受け止めていた。
 問いかけるような眼差しを、度々彼女から感じた。
 私はそれを、無視した。
 すべてを曖昧のままで、終わらせたかった。
 無言で交わされたやりとりが、ただの「気のせい」であると思い込みたかった。
 あの時逃げ出した代償が、こんな風に眼前に現れるとは。
 でも。
 でも、そんな予感はしていた。
 誰も言葉にする勇気がなかった。惹かれている気持ちも、線びくべきかどうかの判断も、「もしかして」と思いながらも、誰も言葉に出来なかった。
 言葉にした途端に、それが真実になると分かっていたから。
 私達は皆、臆病者だった。

 仕返しに、彼の友達と出かけることも出来たけれど。
 でも、それがなんになるだろう。
 空は、どこまでも晴れ渡る上天気。
 雲ひとつ無いそこに浮かぶのは、猫の爪あとのような受け月。
 仄白いその輝きを見ながら、絶え間ない孤独の海にたゆたうのを感じる。
 誰といても。
 どこにいても。
 どんなに沢山といても。
 拭いされないこの孤独。
 それは、どこまでも追ってきて、私を包み込もうとする。
 だから、私はそれを抱きかかえていくしかないのだ。
 この孤独を抱き締めながら。
 新しい一歩を歩き出すしかない。
 きっといつか、私の孤独をも愛してくれる人が現れるはず。
 だって空は青いから。
 たゆたう歌声が、美しいから。
 願いは、必ず叶うと思わせる秋の日和に。
 私は、静かに、この恋を終わらせたのだった。
 無言の中で、それがゆっくりと息絶えていくのを感じていた―――――。


優しい雨

2007-08-05 22:20:23 | ショートショートショート


 夕方の5時を過ぎたあたりで腰をあげた。
 一人息子が夕方になるまで帰ってこないのはザラだが、こんなに遅くなることはなかった。
 多分。
 多分友達と泥にまみれて遊んでいるのだろうと思う。
 午後一番で降った雨が上がったのは丁度下校時。
 空にかかる虹を、輝いた目で見つめる息子の姿が浮かんでくる。
 羽が生えたように軽い足取りで、とりあえずは一度家に帰ったことは、玄関に投げ込まれたランドセルが物語っている。
 きっと、靴の中まで泥にまみれるくらい、友達とはしゃぎまわっているに違いない。
 その後の洗濯とか、今日の夕飯とか、寝かしつけた後の雑務とか。
 考えなければいけないことは、沢山あるのに。
「まったく、もう!」
 私はイライラした気持ちを抑えきれず、ともかく息子の行きそうなところを片っ端から探すことにした。

 息子を探しながら走っていると。
 心がふわっと浮き上がって、空へと吸い込まれていくのを感じる。
 黄昏に染まる空を見ながらも、私の目は昨日の記憶へと焦点を結ぶ。
 倒れたコップ。
 零れたお茶が床に滴っていても、コップを戻すことも床を拭くことも忘れていた。
 とても激しい怒りが体を貫いているはずなのに、不思議に心はしんと冷えていた。
 背後で、小さく衣擦れの音がする。
 久しぶりに会った主人の顔は、疲れているようにも不安を抱えているようにも、どこか怯えているようにも見えた。
 こけた頬を覆う髭を見て、ああ年を取ったなと関係ないことを考えた。
 ゆっくりと玄関へとゆく足音。
 その確かな足取りが、切ない程胸を打った。
「あの女と、暮らすつもり?」
 私の口から、自分でもぞっとするような冷たい声が零れた。
 そんなことを言うつもりなどなかったのに。言った私が自分で驚いた。
「あの女と、暮らすつもり?」
 主人の足が、ぴたりと止まった―――――。

 携帯の着信音に、はっと我に返る。
 慌てて携帯をみると、息子からの着信だった。
「ちょっと今どこにいるの!?」
 安心に腰が砕けそうになりながら、自分でも泣きそうな声で電話に出る。
 羽虫が蠢くような、カサカサとした雑音。
「もしもし?」
 私の声に不安が混じる。
 背中から抱きすくめるように、黒い予感が私を覆いつくそうと構えているのを感じながら。
 じっとりと汗が沸く手で、携帯電話を握り直したその時。
「モシモシ。」
 低い、男性の声。
 明らかに、息子の声ではない。
 私の心臓が大きく撥ねた。
「もしもし、お母様ですか?」
「はい・・・そうですが・・・どちらさまですか?これは息子の携帯です。息子はどうしたんですか?」
「大丈夫です。私は同じ市内の神社の神主ですよ。息子さんは今一緒にいます。疲れて眠ってしまったようで。多分ご家族の方が心配されていると思って、勝手ながら息子さんの携帯から電話をかけた次第です。」
 男の言葉を完全に信じたわけではないが、それでも言葉の端々に感じる優しい息遣いに、今度は本当に力が抜けて、道路にへたり込んでしまった。
「こちらの場所は分かりますか?送り届けようとも思いますが、住所が分かるものをお持ちではないようなので・・・」
「いえ。今から私が行きます。すいません。」
「じゃあ、お待ちしてます。」
 美しい残響を残して、声は耳の中へと吸い込まれた。
 後には、小さな羽虫が蠢く音が残された。
 ああ、良かった。
 ともかく、大丈夫そうだ。
 私は大きく吐息を吐いた。
 ふと手の平に痛みを感じた。
 見ると、左手を無意識に握り締めすぎたようだ。爪が手の平に食い込み、薄く血が滴っていた。
 その鮮やかな紅が、まるで奇妙に現実感のない情景に目に映る。
 手のひらに、ぽつりと雫が落ちてきた。
 直ぐにぽつぽつと、焼けたアスファルトに降り始める。
 見る間に豪雨となって、佇む私を切りつける。
 垂れ込める暗雲に、私はなぜか憤りを感じた。
 いつだって人生は、こうなのだ。
 声なき声で、そう叫んでいた。 

「本当に申し訳ありません。」
 私は、思ったよりずっと若かった神主に頭を下げた。
 あちこち探し回った息子は、幸福そうに神社の中で寝息を立てている。
 安心したのと同時に、憎しみすら覚えるその笑顔。ピンク色の耳たぶを、思い切り引っ張ってやりたくなるのをかろうじて堪える。
「失礼ですが、手を怪我されているのでは?」
「あ、いえ。」
 私は慌てて左手を背後に隠した。
 神主の青年は、優しく微笑んで立ち上がり、部屋の隅から救急箱を取ってきた。
 多くを語らずとも、空気だけで全てを包み込むようなその雰囲気に、俯きながらも素直に手を差し出す。
 細い指先で奇麗に薬を塗り、彼は包帯を取り出した。
「息子さんですがね。」
 彼は悪戯っぽい目で私をちらりと見た。
「なぜ、この神社に来たのだと思いますか?」
「遊ぶため・・・じゃないんですか?」
 彼は口元に微笑みを浮かべた。
 それは、どきりとするほど慈愛に満ちた微笑だった。
「私が息子さんを見つけた時、彼はとても困っているようでした。」
「困っていた?」
「そうです。どうかしたのか、と声をかけたら、彼は『お金がなくても、神さまは願いごと聞いてくれるかな』と言ったんです。」
 彼は言いながら、手早く包帯を私の手に巻いてくれた。
 私はただ黙って、彼の言葉の続きを待った。
「私は『君が一生懸命お願いをしたら、お金がなくても神さまは聞き入れてくれるよ』と応えました。」
「・・・・。」
「彼は、安心したように頷くと、鈴を鳴らし両手を合わせました。」
「・・・・。」
「そして小さな声で『神さま、お父さんとお母さんが仲直りするようにして下さい』と言いました。」
 その瞬間。
 私は熱い鉄の塊で、心臓を射抜かれたような心地がした。
 思わず息子へと目を向ける。
 息子は、相変わらずすやすやと安らかな寝息を立てている。
「彼は何度も何度も、呟いていました。その背中は、まるで戦場に向かう兵士のように直向きで真摯で、私は声をかけることすら出来ませんでした。」
 私は息がつまって、思わず胸に手を置いた。
 遊んでいたのでは、なかった?
 友達とふざけていたのでは、なかった?
「私に出来ることは、ただ傍に立って彼を見守ることしか出来ませんでした。彼は彼なりに、神と交信をしようとしていました。なんであれその邪魔をすることは、彼の純真さを汚すことのように思いました。」
 夕暮れ迫るこの時間まで、彼は見知らぬ神に祈り続けていたのだろうか?
 境内が暗がりに沈むことすら気付かず。
 その目に爛々と光を燈して、祈り続けたのだろうか?
「彼が疲れて眠ってしまってから、こうしてお電話したので・・・それで遅くなってしまいました。ご心配されたでしょう・・・申し訳ございません。」
 私には、もう神主の言葉が耳に入ってなかった。
 まだ男女の仲など理解出来ない。男女の事情も分からないのに。
 それでも、息子は息子なりに、小さな頭で必死に考えたのだろう。
 雨上がりのぬかるみを跳ね上げ、息を切らすほど必死に走りながら家に辿り着く。
 空っぽの貯金箱に途方にくれ、それでも神社へと駆け出す息子の姿が、ありありと瞼に浮かんでくる。
 私は、そっと息子に歩み寄った。
 息子は、左手に何かを握り締めていた。
 手を添えて開くとそこには―――おもちゃのお金がしわくちゃになって握られていた。
 それは主人が、息子のために買った唯一のおもちゃだった。
 ああ。
 私は、屈み込みそっと息子を抱き締めた。
 ごめんね。
 息子の耳に囁く。
 駄目なお母さんでごめんね。
 心配させて、ごめんね。
 君の優しさに気付かなくて、ごめんね。
 一杯一杯傷つけて、ごめんね。
 沢山のごめんねを、その腕に込めて抱き締める。
 どんなに想っても、どんなに言葉を尽くしても、足りないと思った。
 彼の小さな両手の中にある「我慢」には、どこまで懺悔しても満たされないと思えた。
 息子は息苦しさに、う~んと寝ぼけた声をあげる。

 その日の雨は、あまりに優しくて。
 涙が溢れて止まらなかった――――。


カストラート(ショートショートショート)

2007-07-16 22:19:16 | ショートショートショート


 暁の空に響き渡る歌声。
 まだ薄蒼い空気の中を、冴え冴えとしたメロディが流れてゆく。
 その清らかさは、いつもどんな時も私の胸を振るわせる。
 喜んでいるのか。
 哀れんでいるのか。
 中性的な微笑みからは、うかがい知れない。
 幾千の時が流れても。
 きっとこの歌声だけは残されていくだろう。
 時と共に風化していく全てのものの中で。
 この歌声だけが。
 その美しさだけが。
 時を越えて語り継がれていくだろう。
 そんな風に思わせる調べだった。

 ノアールはその名のとおり「黒い」瞳の持ち主で、いつも不敵な微笑みを浮かべている。
 白磁器のような滑らかな肌は、太陽の光よりもむしろ月光の方が美しく映えた。
 宮廷という閉塞された空間にいて、ノアールは一筋の光を放つ。
 宮廷歌手として、宴の夜に現れた姿を私は鮮明に思い出すことが出来る。
 華奢な体を煌く砂金で装飾し、ベルベット地のマントをひるがせて、颯爽と登場した。
 仮面の奥から、深遠な何かを見つめるように虚空に目を凝らす。
 紅を塗ったように赤い唇から、最初の一声が漏れた時、宮廷は一瞬でノアールに魅了されていた。
 どこまでの伸び行く高音。
 それは晴れ渡った夏空のような涼やかさよりも寧ろ、荒廃した砂漠を渡る風のような。
 そんなどこか物悲しさを漂わせていた。
 私は圧倒されながら、ノアールに目を奪われていた。
 心を奪われていた。
 陶酔するような夢見心地で、歌声に抱かれながら、それでもどうしても分からなかった疑問を隣の将軍に問いかける。
「あの者は・・・男なのですか?女なのですか?」
 将軍はやはり目を奪われながら、意味深に微笑んだ。
「あれはノアール。男でもなく。女でもない。性を超えた存在なのだ。」
 その時の将軍の、まるで謎賭けような言葉が、実は真実だったと知ったのはそれから随分後だった。

 宴の後のほてった体を冷やそうと、バルコニーに降り立った時。
 そこにノアールがいた。
 ただそこに佇んでいるだけで異彩を放つノアールは、時折こんな風に気配を潜ませることがある。
 人ごみの中に、自分を埋没する術を知っているのだと思う。
 バルコニーに立つノアールに、そっと私は近づいた。
 ぶどう酒の杯を持ちながら、相変わらず挑戦的な瞳で私を見ていた。
「素敵な、歌声だったよ。」
 私はそう言うと、ノアールは上目使いに私を見て、小さく微笑んだ。
 軽くあしらわれているようにも見えるし、人見知りしているようにも見える。
 ノアールらしい、曖昧な微笑だった。
「私は戦で長らく宮殿に来ることはなかったのだけれど・・・君のような宮廷歌手がいるのだったら、もっと頻繁に足を運ぶべきだったな。」
「・・・・。」
「・・・・。」
 言葉が続かない。
 ノアールは聞いているのかいないのか、口元だけは変わらずに微笑んでいる。伏目がちな瞼の奥に見える、黒曜石の瞳が艶やかに光るのが見えた。
「王様に気に入られたのさ。」
 不意に鈴が鳴るような声がした。
 あまりに高く涼やかな声だったので、初め幻聴かと思った。しかし私を見据えるノアールの瞳を見て、それが彼の地声なのだと気付いた。
「召抱えられた。」
「そんな言い方はよせ。」
 私の言葉に、ノアールは悪戯っぽく肩を竦めた。
「いつの時代でもおんなじだろう。」
「でも。」
「いいんだ、気にしてない。歌えれば、それでいいんだ。」
 そう言ってノアールは、舞台を降りる時のような大袈裟な一礼をすると、黄金色の玉座の元へと歩いていった。玉座の肘掛に腰かけるノアールの顔は、ぞっとする程妖しく艶めいいる。先ほどの、まるで少女のような声の持ち主とは思えない。
 天使に愛されるような歌声を奏でながら、同時に悪魔のように強かに生きるノアール。
 私は呆然として、ただただ目が離せなかった。
 カストラート。
 女性でも男性でもなく。そして同時に女性でもあり男性でもある。
 それは一種のシャーマンのような存在なのではないか。
 だからこそ、人はノアールに惹かれるのではないだろうか。
 儚い恋心を抱くのではない。畏怖に近い思いを、歌うノアールに抱くのだ。
 その神々しさは、あまねく天地を支配していると言われても納得出来るような、そんな幻想を抱かせるのだ。

 今私は上空を見遣って、高い鉄塔に立つノアールの姿を見つけた。
 その胸に飛来するものは、どんな思いなのだろうか。
 民衆に掴みかかられ、引き倒され、無様に地を這うかつての王を、どんな瞳で見下ろしているのだろうか。
 哀れみか。
 憎しみか。
 悦楽か。
 それとも・・・無心か。
 でもどんなに目を凝らしても、ノアールの思いを見透かすことは出来ない。
 しかしそれは、いつもそうだった気がする。
 栄華の夜の中で、ただノアールは歌うだけ。何かを求めることもなく、何かに執着することもなく。誰かを愛することもなく、愛されることにも無頓着だったように思う。
 ノアールは、ただカストラートで在り続けた。
 暁の空に響き渡る歌声。
 まだ薄蒼い空気の中を、冴え冴えとしたメロディが流れてゆく。
 見晴るかす鉄塔の上で、ノアールは歌っていた。
 そしてそれは、滅び行く一つの王朝への弔いの歌だった。
 ギロチンへの道のりを歩みながら、王は一度だけ振り返った。
 歌うノアールを見遣る瞳には、哀しみよりも懐かしさよりも、むしろ畏敬の念が込められていた。
 そう。結局誰もノアールを手に入れることは出来なかった。
 蒼空の中に響き渡るソプラノと同じ、手を伸ばしても届かない遠い場所にいるのだ。露に満ちきらきらと光る雲間の中を、まるで思い出したかのように翼を広げたとしても、きっと私達は何の疑問も抱かずに信じられるだろう。
 カストラート。
 人でありながら、人でない。
 男でもなく女でもない。同時に男であり、女でもある。
 全ての性と条理と真理を、卓越した存在なのだ。

 ノアールはそっと手を伸ばし、虚空に薔薇の花びらを放った。
 紅い花びらがひらひらと風に靡き、一斉に紅い蝶になったように見えたのは幻覚か。
 少なくとも降りそそぐこの歌声が、我々の未来を祝福するものであることを、私は一心に願っていた。


不器用な彼女

2007-06-10 15:13:00 | ショートショートショート


 小さい頃は、世界を救うヒーローになりたかった。
 どこかに潜む悪の秘密結社をばったばったとやっつけ、世界に祝福される自分を想像してぼうっとりとしたものだった。
 もう少し大きくなって、今の社会のあり方に不満を持つようになった。
 そして、この社会を救う人間になろうと思った。
 大学を卒業して会社に入る時は、この会社を救う人材になろうと思った。
 未来への自分の道程を思い描き、熱い情熱を掻き立てたものだった。
 いつの頃からか。
 世界も、社会も、会社も。
 自分には救えないと悟った。
 自分の手があまりに無力で小さいと、打ちのめされた。
 そうして少しだけ僕は、大人になった。

「参った。」
 溜息をつきながら、彼女は開口一番にそう言った。
 地元のいつもの居酒屋で、そんな彼女を微笑みながら僕は迎える。
 仕事であれ恋愛であれ、ストレスでオーバーヒートすると、彼女は僕を飲みに誘う。
 地元の居酒屋で待ち合わせをし、僕らのささやかな宴が始まる。
「前からダメだダメだと思っていたけど、本当にあの上司ってば無能。全然ダメ。やってらんない。」
 そうそうにビールから日本酒に切り替え、ほんのり紅くなった頬で、彼女はいつものように自分の上司を切りつける。
「お客様からさあ、クレームがあったのよ。上司を出せってね。でさあ、上司にこういう人から電話が入ってますって言いにいったわけ。」
「うん」
「上司がさ、そのお客の名前聞いた途端にさ、『君に権限を与えてあげるから、対応してもらえる?』って言ってきてさ。」
「うん。」
「仕方なく電話に出てよくよく話を聞いたらさ、なんとその上司の態度がなてないっていうクレームだったのよ。」
「ああ、そりゃ最悪だねえ。」
「本当だよ。こっちはとにかく謝ってさ、納得してもらって電話が終わったのよ。2時間近くかかったわよ。そしたらさ、上司がやってきて『もっと対応は短めにね。仕事詰まっているんだからね。』だってさ。」
「ははは。」
「じゃあ、お前が出ろっつーの!こっちがケツ拭いてやってんのに、なんなのよあの態度は!」
 彼女は愚痴を吐くと、怒りがぶり返すのかどんどんヒートアップしてゆく。
 酒量もどんどん増えていく。
 気がついたら、既にお銚子が2本空になっている。
 でも彼女は僕なんかより遥かに酒に強い。僕はビールで酔ってしまうが、彼女はそれだけ飲んでいても、けろりとして上司の悪口を言っている。
 やがて、3本目のお銚子が空になった頃、いいかげん愚痴を吐いた彼女は小さく溜息をついた。
「あたしさあ、こうやってさあ、会社の中でさあ、あの上司の元でどんどん年をとっていくのかなあ。」
「うーん。」
「こんな風にさあ、結婚もせずにさあ、くだらない上司に仕えてさ。なんか物凄く時間を浪費しているような気がする。」
 愚痴を吐き出した後落ち込むのも、彼女のパターンだ。
 彼女はとても激しい性格をしている。
 口も悪いが、快活で明るい。
 だから皆騙されてしまう。彼女は口程に強くない。とても物事を気にする繊細な子なのだ。でも落ち込む前に牙をむいてしまう。傷つけられるより前に、相手を傷つけてしまう。
 彼女はとても感受性が鋭い。
 苦しむ彼女を見ていると、とてもかわいそうだと思う一方で、こんな風に心を吐露してもらえる相手はきっと僕だけだと思うと、まるで自分が自分を超えるような恍惚感に満たされる。
「確かに、くだらない上司だと思うけど、今の仕事好きなんだろ?」
 僕は優しく問いかけた。
「うん。」
「一緒に働いている同僚は、いい人ばかりなんだろ?」
「うん。」
「勉強できることはまだまだ沢山あるし、これからも成長出来る。そこじゃないどこかに行くことだって出来る。」
「うん。」
「今は少しだけ、疲れているだけだよ。ぐっすり寝たら、また頑張ろうって思えるさ。」
 そうなのかなあ・・・と呟いて、彼女は肩を落とし天井を見上げた。
 少しだけ目が紅くなっている。
 それが酔っているせいなのか、泣きそうになっているのか、僕には分からない。
 ただ、彼女の肩に漂う、彼女を押しつぶさんとする力の気配を、やんわりと感じるだけだ。
「そろそろ店を出ようか。」
 そういう僕に、彼女は素直に頷いた。

 外は夕焼けに包まれていた。
 随分日が長くなった。
 黄昏の町並みを吹き抜ける風が、彼女の髪を優しく撫でていく。
 彼女はそっと目を閉じて、その愛撫に身を任せる。
 白い肌が、夕日を浴びてつやつやと輝いていた。
 その輪郭を目でなぞりながら、僕は改めて彼女を愛しいと感じる。
 口の悪いところも。
 意地っぱりなところも。
 頑張りすぎてすぐにつぶれるところも。
 目の前の壁に対して、そのままぶつかるしか術を知らない不器用さも。
 いつでも昂然と顔を上げて歩く彼女の姿勢が好きだ。
 他人であれ自分であれ、真摯に見つめる眼差しが好きだ。
 彼女はいつも、自分に正直であろうと足掻いている。懸命に生きようともがいている。
 そしてそれが、彼女の彼女しかない輝きを放つのだ。

 小さい頃の僕は、世界を救おうと思っていた。
 自分は世界を救えると、何の疑いもなく純粋に信じていた。
 少し大きくなった僕は、社会を救おうと意気込んでいた。
 社会人になってからは、会社を救うという使命感に燃えていた。
 いつの頃からか。
 世界も、社会も、会社も。
 自分には救えないと悟った。
 自分の手があまりに無力で小さいと、打ちのめされた。
 でも無力で小さな僕だけど、彼女を救うことは出来るのかもしれない。
 今はまだ、ほんの少しだけ彼女がその翼を休めるだけの、場所でしかないけれど。
 それでも、彼女が彼女らしく笑っていられるよう、僕は僕にしか出来ないことをしていこうと思う。
 僕がいることで、彼女がありのままの姿で輝いていられることを願う。
 黄昏の町並みの中で、日差しを浴びる僕達の影が長く伸びるのが見えた。
 影は寄り添いながら、その輪郭を滲ませている。
 その肩に触れたい欲求と戦いながら。
 僕は心の中で彼女を強く抱き締めた――――。


三日月の寝台(ショートショートショート)

2007-05-20 01:02:16 | ショートショートショート

 三日月の寝台で、月の少女はそっと目を開きました。
 しんと冷えた静けさに満たされた夜。
 少女はふっと、溜息を吐きました。
 どうしてかしら。声にならない声で呟きます。
 きらきらと光る星達の囁きも、少女の心を満たしてはくれません。
 通りすぎる流星の、涼やかな眼差しにときめきを感じることもありません。
 瞳を上げるとそこに、紅く燃える光が見えました。
 こんなにも遥か遠くにいるというのに。
 その暖かさが美しさが気高さが、少女の胸を貫くのを感じました。
 少女はそう―――恋をしているのです。
 叶わない恋だと分かっていても・・・それでも少女の瞳は追いかけてしまうのです。
 ひまわりが見上げるように、うっとりと。
 誰にでも優しく抱き締めるような眼差しを向ける、光の少年。
 月の少女は、太陽に恋をしているのでした。

 真昼の空で、少女は寝台から伸ばした足をぶらぶらと揺らしました。
 地上では、小さな電気達が沢山、綱渡りをしています。
 黒い線の上を、一歩一歩踏みしめながら。
 それでも驚く程のすばやさで歩いていきます。
 一人の電気が、彼女の視線に気付いて顔を上げました。
「やあ。」
 彼は上手にバランスを取りながら、彼女に挨拶をしました。
「こんにちは。」
 彼女も笑顔で挨拶しました。
 でも、なんだか上手く笑えません。
 そんな彼女の様子に、敏感に彼は気付きました。
「どうしたの?元気ないみたいだけど。」
「うん・・・ちょっとね。」
 言いよどむ彼女の顔を見て、彼はふっと笑いました。
「好きな人が出来たんだろう?」
 少女は吃驚して声も出ません。
 彼はにっこりと笑いました。
「太陽に恋するものは多い。そんなに不思議なことじゃないさ。彼ほど雄大な存在はいないもの。」
「そう・・・そうなのよね。同じ空にいるのに、私は見つめるだけ。それが辛いの。」
 少女は重い溜息をつきました。
 そんな様子をじっと見ていた彼は、少しだけ悪戯っぽい微笑みを浮かべて言いました。
「大丈夫。近いうちに、彼に会えるよ。」
「本当!?いつ?」
「そう・・・多分数週間すれば・・・きっと。ニンゲン達が噂してた。真昼に夜が訪れる日が来るって。」
「真昼に夜?」
「うん。僕も、それ以上は分からないんだけどね。」
 電気の青年は照れたように笑いました。
 本当でしょうか?
 いつもただただ遠い存在だった太陽の少年に会える?
 何度も夢に見たことです。
 それが叶えられる・・・まるで不思議な御伽噺を聞いたような心地がしました。
 電気は笑って手を振って行ってしまいました。
 月の少女はそれを、ぼんやりと見送りました。

 ある日の夜。
 少女は、彼女を呼ぶ声で目が覚めました。
 見ると、あの電気の青年がいました。
「なあに?」
「あのね、いいことを教えてあげる。」
「いいこと?なんなの?」
「明日、彼に会えるよ。」
「明日?」
 途端に、少女の目がぱっちりと開きました。
「本当に?本当に彼に会えるの?」
「うん。間違いない。」
 少女は半信半疑でしたが、それでも嬉しさでぽーっとなりました。
 太陽の少年に会える。
 それは夢の中の人に会うような、とても現実感のないことでした。
 ああ、それでも。
 彼に会えるのであれば。
 月の少女の胸は、痛い程高鳴っていました。
 息をするのも苦しいほど、彼女は太陽の少年に恋をしていたのです。
「明日・・・。」
 少女は、噛み締めるように呟きました。

 待ちに待った朝が訪れ、少女はそっと空の軌道を歩いてゆきます。
 前方を見ると・・・軌道の先に・・・太陽の少年がいるではありませんか。
 少女の胸が躍りました。
 電気の青年の言葉は正しかったのです。
 とうとう少年と会えるのです。
 少女は嬉しさのあまり体が震えるのを、止めることが出来ません。
 ゆっくりとゆっくりと、踏みしめるように近づいていきます。
 段々と彼女の体は熱くなってきます。
 それもそのはず。少年は太陽です。
 近づくにつれ、その熱はどんどん強さを増していきます。
 それは熱いというより、痛みでした。
 眩しくて閉じようとする瞼を無理にこじ開け、彼女はそれでも進んでいきます。少年が優しい微笑みを浮かべているのが、微かに見えました。
 少女は、自分の体が焼けて溶けていくような気がしました。
 意識が霞み、視界がぼやけ、それでも足をなんとか前へ前へと進めます。
 やがて。
 少女は少年の前へとたどり着きました。
 何か言わなければ―――そう重いながらも、貫く痛みに声が出ません。
 震えながらも、そっと少女は手を差し伸べようとしました。焼ける手は重く、微かにしか上げることが出来ませんでした。
 それでも、少年には彼女の想いがしっかりと伝わってきました。
「やあ。」
 鈴を鳴らしたような、奇麗な声が聞こえました。
 幻でない証拠に、少年は微笑んで自ら手を伸ばし、少女の手を取りました。
「やっと会えたね。」
 ええ。そう言いたいのに、体が動きません。少女は微かに首を動かしました。
「ずっとずっと君に逢いたいと思ってた。遠くから・・・遥か遠くから、君を見てきたよ。」
 本当に?
「白く美しく光る君の姿が、この孤独な天空の中で唯一僕を慰めてくれる存在だった。」
 優しい少年の言葉に、少女は微笑みました。
 嬉しさで胸が一杯になり、耐え切れないような痛みや眩しさを忘れました。
「君が・・・。」
 その後の言葉は聞こえませんでした。
 少女は体に強い力を感じました。軌道が動いているのです。少女はなんとか踏みとどまろうとしました。でも、体力のない体ではどうにもなりません。
 少しずつ、少しずつ、少年から引き離されていきます。
 少女は懸命に少年を掴もうとしましたが、もう小指すら動かすことは出来ませんでした。
 その時少年の体がふっと動いて、少女に覆い被さりました。
 少女は眩しさのあまりに目を瞑りました。
 珊瑚色の少女の唇に、激しく燃えるような熱を感じました。
 でもそれは、一瞬のこと。
「大丈夫・・・また会える・・・。」
 囁くような、少年の声が聞こえます。
「何年・・・何十年・・・何億年の先に・・・僕達はまたここで、短い逢瀬を交わそう・・・。」
 子守唄のように波うちながら、少年の言葉が少女を包み込むのを感じました。
 少女は頷き、ぎりぎりに保っていた意識を手放しました―――。

 三日月の寝台に横たわりながら。
 少女は相変わらず、遠くの太陽を見つめています。
 それでも、その口元には微笑みが浮かんでいます。
 激しい火傷をおった少女の唇も、ようやく完治しました。
 でもそんなことは、ちっとも気になりません。
「約束があれば、会えると分かっているなら、辛くはないわ。」
 呟く少女の目が、きらりと光ました。
 そうして目を閉じて、暖かい眠りの中へと沈んでいきました――――。

世界の終わり(ショートショートショート)

2007-05-13 22:28:21 | ショートショートショート


 僕は肩に担いだ荷物を降ろして、ふっと吐息を吐いた。
 目を細めて、その先を見つめる。
 ここが、世界の果て。
 随分長く旅をしてきたように思うが、実際はもっと短かったのかもしれない。
 午前3時のデイリーニュース。
 キッチンに取り残されたコーヒーマグ。
 オレンジの電飾に彩られたダイナー。
 ひっそりと奏でられる都会の夜が、遠くにも近くにも感じる。
 白く伸びるハイウェイを見たのは昨日だったのか。テールランプの中で佇んでいたのは何年も前のことだったのか。
 そしてこんな風に、縹渺とした大地にいるのは本当に現実なのか。
 夢も現も、空も土も、風も光も。
 全てが曖昧で、形を成さない。
 ただ分かっていることは――――ここが世界の果てということ。
 それだけは、確かだった。

「明日で人類が滅亡するとしたら、何をする?」
 彼女はマニキュアを塗りながら、上目使いで僕を見た。
 エスティーローダーのマニキュアの、可愛らしいベリーフィズ。それは珊瑚色の彼女の爪に、とてもよく似合っている。
「そうだな。まずは仕事には行かない。」
 僕は寝転がったまま手を伸ばし、クラッカーを一つ摘み上げた。
 ブラックベリーのジャムをたっぷりと載せる。
「それから?」
「それから―――アブサンを飲む。」
「何でアブサン?」
「昔から憧れてた。どんな飲み物なのかなって。」
 僕は笑ってクラッカーを口にほうりこんだ。甘くて酸味のあるブラックベリーが、口いっぱいに広がってゆく。それは小さな黄金色の雫になって、僕の心に沁み渡っていく。
「陳腐ね。」
 彼女は爪に息を吹きかけながら、くすりと笑った?
「そう?案外そんなもんじゃないか?」
「私は違うわ。」
「そう?どうするの?」
「まずは世界の果てにゆく。」
 僕は噴出す。クラッカーが喉に詰まりそうになって、慌てて珈琲を飲む。
「世界の果てにたどり着いたら、音楽の出番。」
「なんだろう。世界の果てに似合う音楽。」
「シックで、でもキレイな音楽がいいわ。青空に吸い込まれるような。どこまでも伸びてゆくような。」
「ビリーホリディだったら、ベタかな。」
「陳腐よ。」
 彼女は肩を竦めた。
 僕は微笑んで手を伸ばし、彼女の腕を取った。滑らかな白い肌をなぞり、その指先をそっと口に含む。
 額を寄せて、僕らは見詰め合った。
「それで?音楽の次は?」
 僕は囁く。
 彼女の吐息が、僕の体を熱くする。
「そして・・・貴方と踊るの。」
「世界の果てでダンスか。それはいいな。」
「終焉のキスよ。」
「地球最後のアダムとイヴだね。」
 僕達はそうして、お互いの隙間を生めるように抱き合った。

 高い声がして、僕ははっと我に返った。
 見上げると、遥か上空で鳥が旋回している。
 荒い息をつきながら、額に滲んだ汗を拭った。
 日差しが眩しすぎて、空の色が分からない。
 光の粒子がそこら中に氾濫して、目が開けられない。
 ここは―――世界の果て。
 哀しみも苦しみも淋しさも、愛しさも喜びも幸福も、すべてが浄化され消えていく場所。
「そうだ・・・まずは・・・・まずは音楽だ。」
 僕は空ろに呟く。
 高く晴れ渡る空に、相応しいメロディーを。
 気高く崇高な旋律を。
 幽玄なるコーラスの響き。
 妙なるヴァイオリンの音色。
 ユーフォニアムとチューバの豊かな調べ。
 僕はそっと空を見上げた。
 確かに―――確かに聞こえてくる。
 花びらが降りそそぐように。
 幸せな音楽が、僕を優しく包み込んでくれるのを感じた。
「・・・よ・・・・人の・・・・・びよ・・・・。」
 僕はかすれた声で呟く。
 終焉の日。
 世界の果て。
 たった一人ぼっちの僕。
 メロディーは続いていく。
 真夏のパレードのように、暑く溶けた陽炎になって。華やかな優しい音楽が、僕を祝福してくれる。
 さあ。
 さあ、踊ろう。
 僕は手を差し伸べる―――薔薇色の亡霊に向かって。
 主よ、人の望みの喜びよ。
 今こそ、世界最後のダンスを踊る時だ。
 彼女は微笑みながら、芝居がかった仕草でお辞儀をする。
 ドレスもなく、靴もなく、アクセサリーもない。
 それでも日差しの中で笑う彼女は、何ものにも叶わぬほどに美しい。
 僕の手を取り、僕は彼女の腰に手を回し、そして二人音楽に体を預ける。
 くるくると僕の腕の中で彼女は回る。弾ける笑い。絡み合う視線。僕も笑って、軽やかにステップを踏む。彼女の髪がふわりと揺れる。指先で光るベリーフィズ。そして時折からだを寄せ合って、小鳥のように軽いキスを交わそう。
 いつか、この光の中に僕達、溶けていくだろう。
 だって今日は、終焉の日だから。
 この場所は、世界の果てだから。
 でも本当は―――。
 世界の果てなんてどこにでもあるのだ。
 薄暗いアパルトメントの片隅にも。
 汚れたダイニングキッチンにも。
 泡が消えたバスタブの中にも。
 どこでもいい。38口径を口に咥え、静かに瞳を閉じればいい。
 誰もが、世界の果てへと隠遁出来る。
 そうさ、やっぱりビリーホリディは似合わない。
 たゆまなく優しいメロディーの中で、言葉もなく愛を語りあう一時には。
 主よ、人の望みの喜びよ。
 彼女は笑っている。
 それが幻でも、構わない。

 淡くぼやける視界の中で、僕は自分の汚れた両手を見た。
 紅く染まる両手が、微かに震えるのが見えた。
 音楽は続いている。
 世界はもう直ぐ、終わりを迎える―――。