僕は肩に担いだ荷物を降ろして、ふっと吐息を吐いた。
目を細めて、その先を見つめる。
ここが、世界の果て。
随分長く旅をしてきたように思うが、実際はもっと短かったのかもしれない。
午前3時のデイリーニュース。
キッチンに取り残されたコーヒーマグ。
オレンジの電飾に彩られたダイナー。
ひっそりと奏でられる都会の夜が、遠くにも近くにも感じる。
白く伸びるハイウェイを見たのは昨日だったのか。テールランプの中で佇んでいたのは何年も前のことだったのか。
そしてこんな風に、縹渺とした大地にいるのは本当に現実なのか。
夢も現も、空も土も、風も光も。
全てが曖昧で、形を成さない。
ただ分かっていることは――――ここが世界の果てということ。
それだけは、確かだった。
「明日で人類が滅亡するとしたら、何をする?」
彼女はマニキュアを塗りながら、上目使いで僕を見た。
エスティーローダーのマニキュアの、可愛らしいベリーフィズ。それは珊瑚色の彼女の爪に、とてもよく似合っている。
「そうだな。まずは仕事には行かない。」
僕は寝転がったまま手を伸ばし、クラッカーを一つ摘み上げた。
ブラックベリーのジャムをたっぷりと載せる。
「それから?」
「それから―――アブサンを飲む。」
「何でアブサン?」
「昔から憧れてた。どんな飲み物なのかなって。」
僕は笑ってクラッカーを口にほうりこんだ。甘くて酸味のあるブラックベリーが、口いっぱいに広がってゆく。それは小さな黄金色の雫になって、僕の心に沁み渡っていく。
「陳腐ね。」
彼女は爪に息を吹きかけながら、くすりと笑った?
「そう?案外そんなもんじゃないか?」
「私は違うわ。」
「そう?どうするの?」
「まずは世界の果てにゆく。」
僕は噴出す。クラッカーが喉に詰まりそうになって、慌てて珈琲を飲む。
「世界の果てにたどり着いたら、音楽の出番。」
「なんだろう。世界の果てに似合う音楽。」
「シックで、でもキレイな音楽がいいわ。青空に吸い込まれるような。どこまでも伸びてゆくような。」
「ビリーホリディだったら、ベタかな。」
「陳腐よ。」
彼女は肩を竦めた。
僕は微笑んで手を伸ばし、彼女の腕を取った。滑らかな白い肌をなぞり、その指先をそっと口に含む。
額を寄せて、僕らは見詰め合った。
「それで?音楽の次は?」
僕は囁く。
彼女の吐息が、僕の体を熱くする。
「そして・・・貴方と踊るの。」
「世界の果てでダンスか。それはいいな。」
「終焉のキスよ。」
「地球最後のアダムとイヴだね。」
僕達はそうして、お互いの隙間を生めるように抱き合った。
高い声がして、僕ははっと我に返った。
見上げると、遥か上空で鳥が旋回している。
荒い息をつきながら、額に滲んだ汗を拭った。
日差しが眩しすぎて、空の色が分からない。
光の粒子がそこら中に氾濫して、目が開けられない。
ここは―――世界の果て。
哀しみも苦しみも淋しさも、愛しさも喜びも幸福も、すべてが浄化され消えていく場所。
「そうだ・・・まずは・・・・まずは音楽だ。」
僕は空ろに呟く。
高く晴れ渡る空に、相応しいメロディーを。
気高く崇高な旋律を。
幽玄なるコーラスの響き。
妙なるヴァイオリンの音色。
ユーフォニアムとチューバの豊かな調べ。
僕はそっと空を見上げた。
確かに―――確かに聞こえてくる。
花びらが降りそそぐように。
幸せな音楽が、僕を優しく包み込んでくれるのを感じた。
「・・・よ・・・・人の・・・・・びよ・・・・。」
僕はかすれた声で呟く。
終焉の日。
世界の果て。
たった一人ぼっちの僕。
メロディーは続いていく。
真夏のパレードのように、暑く溶けた陽炎になって。華やかな優しい音楽が、僕を祝福してくれる。
さあ。
さあ、踊ろう。
僕は手を差し伸べる―――薔薇色の亡霊に向かって。
主よ、人の望みの喜びよ。
今こそ、世界最後のダンスを踊る時だ。
彼女は微笑みながら、芝居がかった仕草でお辞儀をする。
ドレスもなく、靴もなく、アクセサリーもない。
それでも日差しの中で笑う彼女は、何ものにも叶わぬほどに美しい。
僕の手を取り、僕は彼女の腰に手を回し、そして二人音楽に体を預ける。
くるくると僕の腕の中で彼女は回る。弾ける笑い。絡み合う視線。僕も笑って、軽やかにステップを踏む。彼女の髪がふわりと揺れる。指先で光るベリーフィズ。そして時折からだを寄せ合って、小鳥のように軽いキスを交わそう。
いつか、この光の中に僕達、溶けていくだろう。
だって今日は、終焉の日だから。
この場所は、世界の果てだから。
でも本当は―――。
世界の果てなんてどこにでもあるのだ。
薄暗いアパルトメントの片隅にも。
汚れたダイニングキッチンにも。
泡が消えたバスタブの中にも。
どこでもいい。38口径を口に咥え、静かに瞳を閉じればいい。
誰もが、世界の果てへと隠遁出来る。
そうさ、やっぱりビリーホリディは似合わない。
たゆまなく優しいメロディーの中で、言葉もなく愛を語りあう一時には。
主よ、人の望みの喜びよ。
彼女は笑っている。
それが幻でも、構わない。
淡くぼやける視界の中で、僕は自分の汚れた両手を見た。
紅く染まる両手が、微かに震えるのが見えた。
音楽は続いている。
世界はもう直ぐ、終わりを迎える―――。
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この登場者の様に 他人と自分の為の行動が出来たらいいよねww
自分と他人の為じゃ なくてね
なるほど、似ているようで違いますね。
黯彡さんはいつも絶妙なラインを突いて下さる。
なにがしかの物語が生まれてきそうな・・・主題となる命題が生まれてきそうな予感がしてきました。
これはちょっとじっくり自分の中で、色々考えてみます。
わーい。ネタもらっちゃったwww