曖昧な時間の流れに漂いながら。
風化しそうな思い出を手繰り寄せる。
私の手を包んでくれた、優しい温もり。
撫ぜるように触れた、唇の熱さ。
砕ける程抱きしめてくれた、腕の力強さ。
ともすれば夢だったのかと思える程、それは遠い記憶となってしまっているけれど。
それでも耳を澄ませば、あの時の言葉が鮮明に蘇る。
「再見。」
はにかんだ笑顔。
背後に広がる空の、瑞々しい蒼さまでも。
そしてあの人は旅立った。
私を思い出の中に置き去りにして。
唄を歌うようになったのは何時頃だろうか。
唄を歌い、舞を踊り、人々の喝采の中に生きる舞踊手になりたいと、そんなはっきりとした夢を描いていたわけではないけれど。
小さい頃から、気付くと私は音楽の中にいた。
メロディーはそこかしこに溢れていて、いつも私に寄り添ってくれていた。
しかしこの国では、唄が歌えるということは何程のものでもない。
春を歌い、春を売り、女達は懸命に生きていく。
そんな街だから。
私は今日も、白い舞台の上で唄を歌う。
見つめる男達は唄に耳を傾けるフリをして、じっくりと品定めをする。
しんと光る瞳は、今宵の褥にふさわしい温もりを探している。
一時の享楽に溺れて、ひたひたと迫る現実から逃亡する為に。
ではその享楽こそ現実である私達は、どうすればいい。
ただ目を瞑り、耳を塞ぎ、体をいいようにされながら、暗闇の中でじっとしているしかない。
私は暗闇の中で、あの時の言葉を思い出す。
美しい青い空が胸いっぱいに広がれば、このやるせなさを少しでも拭いとってくれるのではないか。
瞼に広がる空に手を伸ばし、爪先まで蒼く染めようと試みる。
「阿片はやめな。」
番頭は、眉を上げて私を見た。
煙管に火を点けたまま、私は彼を見下げる。
小さい頃虚勢されたという噂の番頭は、少年のようにか細い体で、声も心なしか高い。
とても用心棒には出来ない風体だが、その分頭はいい。
時折ぞくっとするような、怜悧な目をする。
「阿片は、すぐに体を悪くする。」
「いいの。」
私はちりちりと焦げる煙草と、それを覆う甘ったるい桃の香りを思い切り吸い込む。
煙は体に沁みこみ、くらくらとした陶酔感が私を襲う。
なぜ、生きているのかとか。
なぜ、ここにいるのかとか。
どうして、こんなになってしまったのかとか。
答えの出ない疑問符が、遠く遠く霞んでいく。
番頭は肩を竦めて、売り上げの計算を続ける。
「何日君再来。」
小さく、口ずさむ。
口に出した途端に、涙が零れた。
あの頃は―――――。
そう、あの頃はまだこんな風になるとは思っていなかった。
黄金色に揺れる麦畑の中で、いついつもでも愛や夢を語っていけると信じていた。
山の頂に雲がかかる時、その黎明な風情に心を震わせ、雨が降れば沸き立つ土の香に酔いしれる。
ただ自分が自分であることを、信じて疑わなかったあの日々。
それが今は、こんなにも遠い場所に来てしまった。
物理的にも、倫理的にも。
再び会いたくても、もう彼には会えない。
会うことは出来ない。
あの頃と同じ笑顔は出来ない。私の笑顔は、ただただ男達を誘う為の笑顔に堕落してしまった。
膝を抱えてぽろぽろと涙を流す私を、番頭は何も言わずに見守っていた。
事情も聞かず、言葉もかけず、ただ見つめていてくれる彼の優しさが嬉しかった。
「夜香華!」
その時、奥から私を呼ぶ声がした。
きっと、客が来たのだろう。
客がきたと分かるやいなや、嘘のように涙がひいていく。
哀しみも苦しみも、艶やかな微笑みさえ、生きる為には使い分けなければいけない。
阿片でふらつく足を踏みしめながら、私は立ち上がり身づくろいをした。
夜はまだまだ、これから。
これから、始まるのだ。
せめて昂然と顔を上げて、歩いていかなければ。
崩れた化粧を手早く直し、私は魔窟へと身を浸していく。
「再見。」
ふと鈴が鳴るような声がして、私ははっと振り返った。
偽者の絹のベールの向こうに、涼やかな眼差が私を見つめている。
小さな机に座った彼の姿が、私の心にずしりと響いた。
壊れたレコードの音が消える。
女達の嬌声が消える。
男達のドラ声が消える。
霞む視界の中で、どうしてこんなにも彼だけがくっきりとして見えるのか。
棚引く絹布の奥に鎮座する、少年の体を持つ彼。
蒼く澄み渡った空のように、瑞々しい彼の眼差し。
そんなはずはない。
そんなはずはない。
そんなはずはないのに。
私は息をするのも忘れて、彼と見詰め合っていた。
遠くで、私の名を呼ぶ声がする。
行かなければいけないと思いながら、私の体は金縛りにあったように動けなかった。
私達は、ただただ見詰め合っていた。
極彩色の布の波に漂いながら。
儚く苦い、昔の夢に酔いしれながら。
ただただ、見詰め合うことしか出来なかった。