城郭探訪

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三成に過ぎたるもの、「内堀は安土城に匹敵する大きな規模」

2012年01月21日 | 平山城
三成の居城で内堀跡など見つかる
彦根市・佐和山城遺跡
 
 関ケ原の合戦で西軍の指揮をとった武将、石田三成の居城だ・た彦根市の佐和山城遺跡で内堀跡が見つかった。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、安土城に匹敵する大きな規模だという。付近では城下町の町屋区画とみられる溝跡もあった=彦根市・佐和山城遺跡

 豊臣秀吉の重臣、石田三成(1560~1600年)の居城だった佐和山城遺跡(彦根市佐和山町)の発掘調査で、内堀跡や、城下町の町屋区画跡が見つかったと、滋賀県教育委員会が18日発表した。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、「内堀は安土城に匹敵する大きな規模だ。『三成に過ぎたるもの』と称された城の姿がうかがえる」という。

 調査は2回目で、前回に武家屋敷跡が見つかった佐和山の東北の山すそで約550平方メートルを発掘した。

 発掘された内堀跡は幅が東西10メートル、南北4メートル、深さ約0・5メートル。西側に内堀の一部と伝わる小野川や土塁跡があり、土塁跡から測ると内堀の幅は約22メートルだった。発掘した県文化財保護協会は「土塁は廃城後に削られたが、現存部でも1・5メートルの高さがある。当時はさらに高い土塁と幅広い内堀で城と城下町を隔てた」とみる。

 付近では約2メートルの道跡や幅3メートル、長さ約30メートルの溝跡も見つかった。また、鋳物で使うスズを一時保管する入れ物「とりべ」、炉に風を送る「ふいご」の一部、鉄かすも近くで出土し、鉄砲などを作る鍛冶職人が居住したとみられる。協会は「道は城下町の主要道だった可能性が高く、溝は町屋区画の仕切りだった」とみている。

 佐和山城は鎌倉初期に造られ、彦根城築城開始(1604年)前後に廃城になったとされる。今回の調査地では大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、瀬戸美濃焼の天目碗(わん)など16世紀後半の遺物が多く出土し、三成の居城だった時期にも使われた遺構とみられる。