増田長盛出生之跡と記された碑 山門
お城のデータ
所在地:長浜市益田町 (旧東浅井郡びわ町益田) map:http://yahoo.jp/Ijn65X
区 分:平城
現 状:寺・田畑・宅地
遺構等:石碑・堀?
築城期:織豊期
築城者:増田氏
目標地:真宗寺・益田農村集落センタ-
訪問日:2015.4.25
駐車場:益田農村集落センタ-
お城の概要
益田城は、現在は真宗寺境内。城の遺構はないが、寺の山門脇に『増田長盛出生之跡』と記された石碑が立てられている。
この碑のところから寺を巡るように堀らしき水路があるが、遺構か?。益田集落は湧水が
歴 史
益田城は、豊臣政権五奉行の一人増田長盛の出生の城。
長盛は、真宗寺9世祐愍の次男増田右衛門尉照澄(お寺の次男坊)であった。
(出身地は近江説の他に、尾張中島郡増田村との説もあり、増田長盛は愛知の出身ともされ、稲沢市に増田屋敷の跡もある)
増田長盛は、天正元年に羽柴秀吉に召し出され、天正18年に水口岡山城主、文禄4年には大和郡山城主となった。 関ヶ原の戦いには西軍に組みし、戦後改易となった。
増田 長盛(ました ながもり)・・・秀吉近臣時代
天正元年(1573年)、織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され300石で仕える。このとき28歳であったという。この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉麾下にあっては中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。
天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げる。翌年3月の紀州攻めでは、『根来寺焼討太田責細記』によると大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功も記されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見氏担当の申次となり、里見義康が臣従する際の条件について助言を与えた。後北条氏が滅亡すると長盛は下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった。 この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江水口を拝領する。
太閤検地では石田三成と共に中心的な役割を担い美濃国・越後国といった要地の検地奉行を務めた。三条大橋・五条大橋の改修工事など作事も担当し、三条大橋には今も長盛の名が刻まれている。
文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し奉行として占領地統治や兵站に携わり、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
秀次事件では長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。
長盛屋敷跡
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia
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