柳ケ瀬から刀根坂(久々坂)峠へ
今はわずかに石垣を残す疋壇城
お城のデータ
所在地:余呉町大字柳ケ瀬 map:
\\\\信長公記 巻六 元亀四年 13刀根山合戦 刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事\\\\\\
信長公に先を越されて叱責を受けた諸将は、滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉をはじめとして口々に信長公へ詫び言を申し上げた。しかしその中で佐久間信盛だけは、目に涙を浮かべつつ「左様に仰せられども、われらほどの家臣は中々持たれませぬぞ」と自讃混じりに抗弁した。信長公はこれを聞いてさらに怒り、「そのほう男の器量を自慢いたすが、何をもってそのように言う。片腹痛いわ」といって益々機嫌を悪くした。
信長公の読み通り、織田勢は退却する朝倉勢を追撃して多大な戦果を得ていた。信長公のもとへは追撃で得た首を持参する侍があとを絶たず、また信長公みずからも騎乗して敵勢を追った。
敵勢は、中野河内口①と刀根山口②の二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
すると、案のごとくであった。朝倉勢は中野河内口からは雑兵を退かせ、朝倉義景以下主だった者達は刀根山から敦賀をさして退却していた。これを追尾した織田勢は刀根山の嶺で朝倉勢に追いつき、大波が浜の砂をさらうように次々と朝倉勢の首を斬獲していった。朝倉勢の中からも忠義の志厚い者たちが返しては踏みとどまって支えようとしたが、かなわずに一人二人と姿を消していった。敦賀までの十一里に及ぶ追撃戦で、討ち取られた朝倉勢の首数は三千余にのぼった。
討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興③や印牧弥六左衛門など多数に及んだ。
このうち印牧弥六左衛門は不破光治配下の原野賀左衛門という者に捕らえられ、信長公の御前に引き出されてきた。そしてその場で信長公の尋ねに答えてこれまでの働きを正直に話したところ、信長公はその武功と神妙な態度とに打たれ、「向後信長に忠節を誓うならば、一命は助けよう」と言った。しかし印牧は、「朝倉に対し、日頃より遺恨はあり申した。しかし歴々が討死して勝敗あきらかとなった今になって敵方へそのような不満を申し立て、それで命を助けられたところで、もし将来織田殿へ忠節かなわなかった時にはその不満の言葉さえも命惜しさのでまかせであったかと思われましょう。そうなれば御扶持もままならず、実情も外聞もまことに見苦しき次第になり果て申す。されば、この上は仕官の儀は結構仕り、腹を仕るべし」と乞い、許されて自害した。前代未聞の見事なる最期であった。
この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。
ところで、信長公は普段から腰に足半の草履④を下げておくのが常であった。今回の戦で兼松又四郎は、敵の武者を追って刀根山山中を駈けまわり、これを討ち取ったものの、首を持って信長公の御前に参上したときには足は素足で紅に染まってしまっていた。それを見た信長公は日頃携行していた足半を腰から外し、「今こそこれが役立つ時ぞ」といって兼松に与えた。冥加の至りであり、光栄これに過ぎたるものはなかった。
信長公の武徳両輪の力により織田勢は大勝を収め、14日・15日・16日と敦賀まで進出して駐留した。そして諸所から人質をとり固めたのち、17日になって木目峠を越えて越前国内へ乱入した。そして18日には府中竜門寺⑤まで進んだ。
織田勢の進撃をみた朝倉義景は、居館の一乗谷を捨てて大野郡山田庄の六坊賢松寺⑥に逃れた。落去の際には、高貴な女房たちでさえ輿車も満足に用意できず、徒歩はだしとなって取るものも取りあえず我先に義景の後を追って落ちていった。誠に目も当てられず、申すも耐えない有様であった。
信長公は柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らの将兵を平泉口に派遣して義景を追尾させるとともに、諸卒を手分けして山中に分け入らせ、各所に逃れた朝倉の党類を捜し出させた。その結果、竜門寺の陣所には毎日百人二百人もの人数が数珠繋ぎとなって引き立ててこられ、信長公の命を受けた小姓衆の手により際限なく討ち果たされていった。
その有様は正視に耐えなかった。ある女房などは下女もつれずにただ一人逃げていたところを下々の者に捕まり、数日にわたって捕らえ置かれていたが、あるとき硯を借りて鼻紙の端に書置きを残してから隙を見て逃げ、井戸に身を投げて死んだ。あとから人がその書置きを開くと、そこにはありをればよしなき雲も立ちかかるいざや入りなむ山のはの月と辞世が書かれていた。これを見た者は、哀れさにみな涙した。
ほどなくして平泉寺⑦の僧衆が信長公へ忠節を誓い、織田勢にあわせて人数を出してきた。これにより、義景の進退は極まった。
①現余呉村から栃ノ木峠を越え越前へ入る道筋 ②現木之本町から刀根山を越え敦賀に抜ける道筋(刀根山は敦賀市刀根) ③斎藤龍興は美濃を追われてからは各地の反信長勢力の間を転々とし、このときは朝倉勢のうちにいた。 ④かかと部分のない半草履 ⑤現福井県武生市内 ⑥現大野市内 ⑦現勝山市平泉寺
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織田信長は世に言う元亀元年(1570)の『金ヶ崎の退き口』)後、その年の中に「姉川の合戦」で浅井、朝倉連合軍を撃破した。そして、元亀3年(1572)に入って信長は本格的に浅井長政の小谷城孤立化の態勢を強めた。3月、信長は小谷城近くの横山城に入り、木之本方面を焼き払い、7月湖北の阿閉貞征が守る山本城と小谷城を分断、小谷城前の虎御前山に砦を築き攻撃態勢をとった。攻防急を告げるに至って、朝倉義景は2万の軍勢で来援、木之本田上山に本陣を置き、小谷城に連なる大嶽に後詰した。8月12日近畿を襲った暴風雨の中、信長は大嶽砦、丁野城を奇襲し、陥れた。
朝倉軍はここで乾坤一擲浅井軍と共に戦うことをしなかった。戦闘員数の劣勢、度重なる近江への軍事行動による兵員の疲弊から、野戦の不利を認めざるを得なかった。また、元亀元年の姉川の戦いの敗北が判断に去来したであろう。朝倉軍は領国の居城、敦賀の疋壇城を目指して退却し、防衛の態勢を固めようと画した。しかし、織田信長はこの機を逃さず、逃げ足の朝倉軍を猛迫した。信長自ら先頭に立って追う。機動力に勝る織田軍は北国街道を追撃し、刀根坂の麓「柳ケ瀬」で追付き、逃げる朝倉軍を攻めたてた。 道幅は一気に狭くなる。200mほどの道のりだが、つづら折りを過ぎると切り通しに着く。そしてそこが刀根坂峠。峠を越えると近江の国である。。元亀3年(1572)この峠で越前朝倉軍は織田信長軍に殲滅された。(刀根坂の戦い)