城郭探訪

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堀之内館/堀之内城   近江国(五箇荘)

2016年04月11日 | 居城

堀之内館跡/堀之内城

お城のデータ
所在地:東近江市(旧神崎郡)五個荘伊野部町堀の内 
堀ノ内館map:http://yahoo.jp/zSjGRk  
     旧、神崎郡五個荘町大字伊野部    
堀之内城map:http://yahoo.jp/ZSej18
現 状:山麓・水田
区 分:城館
築城期:織豊期
築城者:山本氏
遺 構:廓・土塁・堀
目標地:瓦屋寺口バス停・伊野部集落
駐車場:農道に路上駐車
訪城日:2016.4.10
お城の概要
箕作山魂の箕作山頂より東に伸びる舌状先端部の山麓に「堀之内城」は位置する。

五箇荘:滋賀県東部、近江盆地(湖東平野)に位置する。町域の東部を愛知川、西部を繖山(主峰は観音寺山)、南部を箕作山、北東部を和田山によって画され、中央部は平地が広がる。平地では東部に大同川(だいどうがわ)、西部に天保川(てんぽうがわ)、北西部に瓜生川(うりゅうがわ)が流れる。東地区[五箇荘町南部]旭村を構成していた山本・新堂・木流・平阪・伊野部・奥・三俣・北町屋・石塚と旧安土町の清水鼻からなる。中心集落は山本で、旧村時代には役場や小学校が置かれていた。隣接する八日市市建部地区とつながりが深く、春には両地区合同で祭礼(建部まつり)を行う。

お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』に、「蒲生郡(神崎郡?) 伊野部 佐々木義輝公隋兵 山本將監」の名が見える。『佐々木義輝公は足利義輝か?
五箇荘は、中世には大きく分けて、建部荘(日吉社領→建部社領)・山前荘(日吉社領→延暦寺領→皇室領)・小幡荘(藤原氏領)の三つの荘園があり、六角氏が守護大名として支配した。六角氏の本拠地に隣接するため町域各地に城砦が築かれ、のちに織田信長との観音寺城の戦い【箕作城(清水山城)の戦い】では町域全域が戦場となった

 室町時代には東山道に近い小幡三郷(現在の小幡・中・簗瀬)から商人が起こり、伊勢方面で活動する四本商人(保内・石塔・沓掛・小幡)と若狭方面で活動する五箇商人(八坂・薩摩・田中江・高島南市・小幡)の二つの商業集団に属した。商業利権を巡って保内商人との争いが絶えず、小幡商人は徐々に衰退する。

 江戸時代には、初期は幕府と彦根藩、貞享2年(1685)以降は彦根藩と郡山藩が領有した。彦根藩の商業自由化政策もあって、享保以降、金堂・川並・山本・宮荘など町域各地から多くの商人が発生した。

室町幕府第13代征夷大将軍『足利義輝』
 出生から将軍まで
第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれるが、「後法成寺関白記」によると誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となる。この頃の幕府では父・義晴と管領・細川晴元が対立し、義晴はその度に敗れて近江坂本に逃れ、それに義輝も度々従った。その後も父とともに京への復帰と近江・坂本(現・滋賀県大津市坂本)や朽木(現・滋賀県高島市朽木)への脱出を繰り返している。 
 義輝は天文15年(1546)12月、父・義晴から将軍職を譲られ、僅か11歳にして征夷大将軍になる(但し、将軍就任式は京都ではなく、亡命先の近江・坂本の日吉神社(現日吉大社)で、祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服。またその時、「義輝」ではなく、「義藤」と名乗った)。・・・・天文22年(1553)に長慶と対立していた細川晴元と協力して長慶との戦いを始めたものの、敗北して近江・朽木に逃れ、以降5年間をこの地で過ごした(しかし、これもまた長慶と対立していた細川晴元の傀儡にされてしまったと言えなくもない)。なお、亡命中の天文23年(1554年)2月12日に名を義輝に改めている
近江幕府(桑実寺など)

大永6年(1526)・・・・義晴は細川高国や武田元盛をない伴近江にれた。

 享禄元年(1528)には朽木稙綱を頼って朽木:興聖寺に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。しかし享禄4年(1531)、細川高国は中島の戦い及び大物崩れで敗れて自害する。

戦後、今度は晴元と元長が対立、天文元年(1532)に元長が晴元と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、京都より近江の観音寺城の山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移す。それは朽木の時とは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。

天文3年(1534)中には六角定頼・義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。しかし、その後も晴元と対立して敗れた後、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542)には京都へ帰還。天文12年(1543)には近江に再び逃れるなどしている。

堀之内城



北に箕作城(清水山城)・・・山上の鉄塔下が本丸

堀ノ内館の比定地(地頭尊)
県道沿いの地蔵尊
県道から・・・堀ノ内城遠景
瓦屋寺口の地蔵尊目標地のバス停・・・山麓添い農道を西へT字路が『堀ノ内城』の比定地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、後法成寺関白記 、Wikipedia
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