鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。
永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず。
本丸城址碑。背後の高台が本丸跡。
『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」
『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類少き所とす。
元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
鯰江城(なまずえ・滋賀県東近江市鯰江町)は、鯰江氏、森氏によって自然地形である「河岸段丘」を利用して築城された中世の城郭。
旧鯰江郷の豪族であった鯰江氏が、荘園時代に興福寺領の被官となってこの地を治めていた。
戦国時代になり、佐々木六角氏の家臣として佐々木六角義弼を奉じて、織田信長の近江平定に対抗したが、天正元年(1573)落城した。
この時に空堀を増設し、遠見櫓を増築するなどの城の規模拡大をしたと考えられる(『現地案内板』)。
落城後、鯰江氏は全国各地に分散し、各大名に仕えたという。
特に鯰江定春は、秀吉に仕えて大阪に土地を与えられ、その地を「鯰江」と呼んだそうで、現在も大阪市城東区にその呼称が残っている(『現地案内板』)。
本丸跡(民家)周囲に土塁が残るのみで、その他は住宅や水田となっている。
鯰江氏
鯰江氏(なまずえし)は、日本の氏族。藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流。
概略
荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えたが、永禄11年(1568年)鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて天正元年(1573年)9月鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住し森を姓とし毛利氏となった。
なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源を今日に残している。
このほか豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
三井乗定 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
鯰江(三井)高久 | 定条 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
尚昌 | 実忠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
義尭 | 女 | 三条為季 | 三井安隆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
為定 | 為定 | 三井財閥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
定秀 | 氏秀 | 貞治 | 貞種 | 貞豊 | |||||||||||||||||||||||||||||||
定春 | 定景 | 秀国 | 定興 | 森政次 | 森高次 | ||||||||||||||||||||||||||||||
森政次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
高次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
毛利重政 | 毛利高政 | 毛利吉安 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
藤姓毛利氏 |
吉房 | 吉隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
- 六角満綱の子。
参考
- 日本の名字七千傑「三井氏/藤堂氏」
- 武家家伝「毛利(森)氏」
信長公記―――5、遭難行路 千草峠にて鉄砲打ち申すの事
5月19日、浅井長政は鯰江城①に軍勢を入れ、同時に市原②に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑③の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え④に変更した。
そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離⑤まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。
備考:①現東近江市鯰江町 ②現東近江市市原野町 ③現近江市市甲津畑町 ④前出。近江から伊勢へ抜ける経路。 ⑤約22~24mほど
今でこそたいした遺構もなく、その規模を伺いしることはできませんが、この鯰江城最後の城主、鯰江満介貞景は肝の坐った武将。
主城である観音寺城の落城の永禄十一(1568)後に再度信長に一矢報わんとし、土塁を高く築き、堀を深く掘って対抗しています。
しかしそんな抵抗空しく信長は、佐久間・蒲生・丹羽・柴田の4将に命じ周辺に砦を築かせ攻撃し、天正元年(1573)九月、落城してしまいます。
八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。
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