城郭探訪

yamaziro

下坂氏館(下坂館)  近江国(長浜)

2012年09月30日 | 居城

現地見学:史跡北近江城館群下坂氏館跡(末裔の下坂氏は敷地内現在も居住)                                                               解説:長浜市文化財保護センター専門職員

下坂氏館跡平面図

下坂氏の菩提寺 不断光院の茅葺門(フェンスの横から中へ) 下坂氏の菩提寺 不断光院の茅葺門(内側から鍵が架けてます・・・フェンスで外から入れません)菩提寺不断光院菩提寺不断光院の裏の墓地・土塁

下坂宅の裏を抜けて、主屋へ秋です彼岸花は満開です。母屋の茅葺門茅葺門の内側から 江戸時代築で18世紀前半、屋根の茅?・麦わら?は50年位に補修が必要だと思います。

主家の裏側

廁のようです

お城のデータ

城 名:下坂氏館
別 称:下坂館
所在地:滋賀県長浜市下坂中町 map:http://yahoo.jp/pRdd42

現 状:下坂クリニック・民家 ・不断光院
築城期:鎌倉期
築城者:下坂氏
区 分:居館
遺 構:表門・堀・土塁 、現地説明板
城 域:東西約89m×南北約87m

目標地:下坂クリニック

駐車場:クリニックの駐車場
文化財: 国指定史跡 『北近江城館跡群』 下坂氏館跡・三田村氏館跡
訪城日:2012.9.30

お城の概要

下坂氏館跡は、滋賀県北部の長浜平野の南西部に位置し、東に伊吹山麓、西に琵琶湖を望む。館跡の北側に姉川を源とする五井戸川が流れ、自然堤防上の微高地で周辺を森に囲まれた小高い場所に位置している。

遺構は、東西約89m、南北約87mの範囲において、高さ約1~2m、幅約2~5mの2重の土塁で囲み、幅約5~13m、深さ約1~3mの堀が現存している。南側で土塁、堀が失われているが復原が十分可能である。主郭は東西約55m、南北約42mの内側土塁によって囲まれ、その北東側と南西側の2つの副郭により構成され、南西側の副郭は一段高くなっており、武者たまりと考えられる。下坂家の伝承では、その副郭に有事の際に立籠もり、防戦につとめたと言う。内側土塁の東側に高さ約2m、幅約7mの虎口を設けており、東側平坦部の東西約75m、南北約45mの腰郭へと続く。また、下坂家の菩提寺である不断光院の東側に幅約5m、長さ約30mの土塁が現存しており、さらに南東部に土塁、堀が設けられていたと思われる。

 館内南東に下坂氏の菩提寺で木造入母屋造茅葺の不断光院の本堂と切妻造茅葺の門がある。古くは天台宗に属して西福寺と称していたが、後鳥羽上皇の皇子が当寺で薙髪して高雲山不断光院と称したのを機に寺名を改めた。観応年間(1350~1351)に再興され、浄土宗に転じ現在に至る。館中央に切妻造茅葺の門と木造入母屋造茅葺の主屋と主屋の北東と南西に屋敷社が祀られている。不断光院及び主屋の建築時期は18世紀前期と考えられ、門も同時期と考えられる。
 下坂氏館跡は室町時代の土塁、堀、主郭、副郭、腰郭の遺構が残っており、滋賀県下においても屈指の平地城館遺構である。下坂氏は京極氏との関係や浅井氏との関係上重要な存在であり、遺構の残りもきわめて良好で貴重である。

歴 史
 下坂氏は近江国坂田郡下坂庄の国人領主である。下坂庄は下坂中、大戌亥、高橋、下坂浜の四ヵ村からなっている。
 下坂氏は建武3年(1336)7月の足利直義からの感状を始め、佐々木氏・京極氏・浅井氏との関係を示す史料が存在する。特に天文11年(1541)頃から、京極氏や浅井氏との関係を示す文書が数多く出現し、天正元年(1573)浅井氏滅亡までの下坂氏との関係がよく分かる。これらの文献は697点に及び、下坂家文書として市の指定文化財となっている。
 下坂氏館跡の現在の遺構が室町時代に完成していたことが史料から分かるとともに地理的条件、占地、城郭の構造からみて、典型的な中世の平地城館遺構である。
 浅井氏滅亡以後は下坂氏は帰農するが、現在も館跡に居住し当主は下坂氏の子孫である。

曲綸跡(郭跡)屋敷兵・武者は何人?郭跡・奥は土塁空堀土塁お屋敷の鬼門の方向?に祠が。

屋敷の前の駐車場に案内・説明板

足利直義の感謝状屋敷の前の駐車場に案内・説明板

         

館跡を道路から

外堀か?・・・現「五井戸川」。

 

案内添付資料:

下坂氏館(しもさかしやかた)(滋賀県長浜市下坂中町)
 下坂氏館は、長浜平野の南西部を姉川から分かれて流れる五井戸川に沿った、自然堤防となっている微高地に位置しています。館跡からは、東に伊吹山、西には琵琶湖を望むことができます。
下坂氏館跡空撮写真

下坂氏は坂田郡にあった下坂庄の国人領主でした。その出自については諸説ありますが、南北朝の騒乱期には足利方として活躍していたことがわかっています。その後応仁の乱から戦国期にかけては、京極氏や浅井氏の家臣として活躍したことが多数の文書に残されています。浅井氏滅亡後、下坂氏は織田氏の誘いを断って武士であることをやめ帰農しますが、江戸時代には彦根藩と郷士として関わりを持ちました。現在も館跡には下坂氏のご子孫の方が居住し、土地、建物の管理をしておられます。下坂氏館(しもさかしやかた)平面図

下坂氏館跡平面図
 館跡は、東西約89m、南北約87mのほぼ正方形の範囲を東西約55m、南北約42mの土塁によって囲まれる主郭、その北東側と南西側にある4つの副郭によって構成されており、その周囲を土塁、堀が囲んでいます。土塁は高さ約1mから2m、幅約2~5m、周囲の堀は幅約5mから13m、深さ約1~3mの規模があります。副郭のうち、南西側のものは一段高くなっており、伝承では有事の際にここに立て籠もり防戦したとされます。主郭を囲む土塁の東側には高さ約2m、幅約7mの虎口を設けてあります。また、館内東南部には下坂家の菩提寺である不断光院が所在し、その東側には幅約5mの土塁が、現状で約30m残存しています。館跡内部には、18世紀前期に建築されたと考えられる主屋と門、不断光院の本堂などが所在し、往時の景観を維持しています。長浜市教育委員会が平成16・17年度に実施した時期等を確認するための調査では、土師皿や輸入陶磁器など14~16世紀の遺物の出土とともに建物跡・土塁跡・排水路跡・階段状遺構等が検出され、その成果から14世紀から館跡が存在したものと想定されています。

現在も遺構・景観を保っている、南北朝から戦国期にかけて活躍した下坂氏の館跡は、周辺に良好な形態で残る平地に築かれた居館群と併せて、我が国の中世から近世にかけての地域支配のあり方を考える上で貴重なものとなっています。

堀と土塁土塁
 下坂氏館跡へは公共交通機関の場合、田村駅からは徒歩20分程度、また、長浜駅からはバスを利用し、高橋停留所で下車後、館跡まで徒歩10分で向かうことができます。

 下坂氏館跡では、平成23年度に長浜市が実施した里山森林と文化財整備を兼ねた事業により、内部に繁茂した竹が間伐され、案内板等が整えられました。土塁の形状も捉えやすく、見学し易くなりました。


 なお、館跡内には個人の住居・医院があるため、見学の際にはご配慮をお願いします。 


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、「淡海の城」友の会より、淡海の城

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


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