城郭探訪

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八仏手城    近江国(能登川)

2016年05月11日 | 平城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧・神崎郡野登川町)種町  map:http://yahoo.jp/dGG-f5

現 状:児童公園・新興住宅

区 分:平城 

築城期:

築城者:種村氏

遺 構:宅地開発で消失か

目標地:緑ヶ丘草の根ハウス

駐車場:児童公園の横に路上駐車

訪城日: 2016.5.1

お城の概要

 旧種集落の南西の大規模新興住宅開発が進んで、遺構も消失したようだが、児童公園に地蔵(石仏)が、祀られている。比定地と少しはずれているかも知れないが、城域内であろう。神郷団地と能登川第一幼稚園の直線での中間に児童公園は位置する。

八仏手城は、種村城の支城とされる。

 種村城は、種村氏の居城であり、後裔大橋宅付近が遺構である。西側を大同川が流れ、古図(大橋家文書)によれば、約一町四方の範囲で川と堀で囲まれている。集落を貫き白鳥神社に至る「大道」に面して門があったとされる、又大橋氏宅裏から、礎石かと思われる集石遺構が出土している。『蒲生文武記』には、種村三河守居城と八仏手城が見えており、小字「屋堂(やんど)」にあった言われている。(参照・・近江の城)

お城の歴史

『淡海国木間攫』には、「神崎郡 種村 往古此所ニ種村三河守ト云人住居セシ由記ニ出ル、後孫僧トナリ犬上郡堀村妙徳寺ノ住持トナレリ、其後孫当所ニ残レリ、一人は彦根藩ニ仕官、種村千右衛門ト云、今ハ絶ヘタリ。」と記す。

又、『守山城物語』(守山市公文書館発行)には、9頁「・・・永禄五年(1511)種村八仏平城で、蒲生定秀(信長軍)に攻められ降伏する・・・・。」種村大蔵大輔道成か箕作城主佐々木義治の厳命で建部采女正と共に永禄六年(1563)観音寺城で後藤但馬守と嫡子壱岐守を謀殺する大事件(観音寺騒動)がおき、その罪をとがめられ道成は処刑されたと遂電して行方をくらませ、のち蒲生家に属したと。・・・種村一族は、大蔵大輔の罪が及んで勢威を失い、種村城は没落しました。この以後もなお種村に居住した家系は、世をはばかって大橋と改姓しました。現在、能登川町種に居住される大橋氏は種村城主の末裔と伝えられる旧家・・・(「近江源氏佐々木氏の支流・分流」より)

 六角政頼の次男伊豆守高成が、種に所領を得て種村氏を称したとされる。政頼については、六角高頼の子で定頼の父とする説があるが、六角氏の系譜上の位置ははっきりしていない。高成は、後に和田山城を築いて移り、和田氏を称したものとみられている。高成の子は、種村氏と和田氏に分かれたものとみられ、種村氏には高盛や高安といった名が見受けられる。

永禄十一年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛の軍を興し、観音寺城の六角父子と対立した。織田勢が観音寺城の支城箕作城(清水山城)を一晩で落とすと、和田山城や観音寺城の将兵は逃散した。このとき、種村城も織田勢に占拠され、そのまま廃城となったものと考えられる。

種村氏最後の当主大蔵大夫道成は、観音寺城落城後も守山城に拠って抵抗し、討ち死にしたとされる。

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧・蒲生郡・神崎郡の城)、守山城物語

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