上岸本城(かみきしもとじょう)
お城のデータ
所在地:東近江市上岸本町(旧:愛知郡愛東町上岸本) map:http://yahoo.jp/F7wVX4
区 分:段丘城
築城者:高岸四郎範高、岸本左馬允
改城者:柴田勝家
築城期:室町期
改築期:織豊期…天正元年頃(鱠江城攻撃時) 永禄11年頃
標 高:149m 比高差:5m
現 状:雑木林
遺 構:郭・土塁・竪堀
駐車場:農道に路上駐車
訪城日:2013.3.19
お城に概要
鯰江城攻略の為の付け城として築かれた上岸本城は、鯰江城と目と鼻の近さに築かれていた。
上岸本集落の東側(国道229号線沿い)の南北に延びる雑木林と竹藪が上岸本城があったところだ。
東側は、水田となり圃場整備で地形も変わっているが、雑木林と竹藪の中には、南北に三つの曲輪が連郭式に構築され、それぞれの間に空堀が設けられていた。 北側の空堀は竪堀状に残っていて、現在は通路としても利用されているようだ.
上岸本城は愛知川左岸の河岸段丘上に築かれている。
この周辺には上岸本城と同様に愛知川の河岸段丘に高野城、小倉城、曽根城、青山城、中戸城、鯰江城などが築かれている。
これらは城砦は、南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、およびその支族達によって築城されたのもである。
上岸本集落の北側の農道脇の段丘雑木林の中に上岸本城は残る。農道からも竪堀が認められる。
この竪堀を境に西側の林にも土塁や空堀の遺構が認められるが、遺構は幅20mほどの林の中だけで、大部分は開墾され畑地となっている。
名神高速道八日市インタより、直進愛知川の「東近江大橋」を渡り、橋の次の信号で左折して県道217号線に入り。約200m先で右折し県道229号線に入り約400m先の三叉路の河川段丘上の左上が城址。
・段丘の為か、郭・土塁・竪堀の遺構は残存している。(農道整備等で北側は農道で峡削の可能性も)
目印の県道229号線の三叉路(この手前に路肩駐車)の河川段丘上の左上が城址。
ここを左に!
この左が城址(下から)
この一角にL字に土塁が残っているが案内板はありません。
坂道を登った角から攻め込みました(城址裏手)
西方向
南方向(愛知川)の土塁(河川段差を利用した)丘上
南方側(愛知川)の土塁(河川段差を利用した)
上段の郭址10m×10m(鯰江城側)に祠?石仏?
虎口カ・・南西下から、南側は自然の地形を利用した切岸カ?
下段の郭址10m×10m(西側)に祠
下段の郭址
城址裏手
車を駐車した所か振り向いて、南東の土塁(櫓台)
お城の歴史
上岸本城は高岸四郎範高、岸本左馬允らの拠った所という。
永禄11年(1568)、観音寺城を織田信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門ら佐々木旧臣と共々鯰江城を改修して籠城した。
この鯰江城を攻略するにあたって、信長はこの上岸本城を“付城”としたともいわれている。
天正元年(1573)9月、鯰江城は信長軍の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。
天正元年(1573年)の織田信長の鱠江城攻撃の付け城のひとつと伝わります。
上岸本城は、永禄11年頃に織田信長軍によって改築された。
・織田信長の鱠江城攻撃に際して、西側の抑えとしで「櫓台を設けた小砦」カ?
近くには鯰江城があり、この鯰江城を天正元年(1573)に織田方の柴田勝家が攻めた際に、近くに付城を築いたとされているが、この青山城の構造を見ていると、まさにここがその付城として使われた。
守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。
このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----
ーーーー小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。
9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、
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