城郭探訪

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揖斐城 美濃国(揖斐)

2016年08月29日 | 山城

揖斐川歴史民俗資料館(岐阜県揖斐郡揖斐川町上南方901-5)

お城のデータ

所在地:岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪 map:http://yahoo.jp/e3URLX
区 分:山城

現 状:山林

築城期:南北朝期

築城者:揖斐氏  

標高:230m 比高:180m

城 域:主要曲郡長さ384m 南北333m×東西275m
遺 構:曲廓群・堀切・竪堀・切岸・井戸・石碑・説明板
目標地:三輪神社・城台山公園

駐車場:三輪神社に駐車
訪城日:2016.8.27

美濃 揖斐城見学会2016.8.27

お城の概要

 三輪神社から一心寺を経由して尾根道を進み、一心寺にも小さな城址碑があります。城址は草刈され夏場でも見やすい。城址は南の丸ー主郭ー二の丸ー三の丸ー出丸と連郭に山頂部に鶴翼の構(L字状)に続きます。各郭には土塁(一部に低土塁)は無く、主要箇所に竪堀が入ります。主郭には不明瞭ですが桝形虎口になっています。出丸の切岸の高さで搦め手側の最高地でありいかにも防御。二の丸下にある井戸は今も水が!

お城の歴史

揖斐城(いびじょう)は美濃国揖斐郡にあった中世の山城 。標高220m、比高180mの城台山頂上に本丸があり、土岐氏の支族である揖斐氏が約200年にわたって居城とした。敷地は南北に約54m、東西に約14m。現在は城台山公園として整備されている。

『土岐累代記』によれば土岐頼靖が、また『新撰美濃志』によればその弟の土岐頼雄が1343年(康永2年)に築城したという。いずれにしても頼雄が城主となって揖斐氏を名乗り、子孫が代々後を継いだ。頼雄直系の基信は土岐政房の子・土岐光親を養子としたが、1547年(天文16年)の斎藤道三による攻撃で落城した。その後は揖斐氏の家臣・堀池氏が居城としたが、織田信長の美濃国侵攻に伴い、稲葉両通によって城は陥落した。天正年間の半ばには良通の子・稲葉貞通が城主となっている。

後に破却され、跡地には揖斐陣屋が建てられた。(Wikipediaより)

三輪神社 (揖斐川町)(Wikipediaより)

創建時期は不詳だが、鎮座地は、奈良時代には大野郡大神郷(おおみわごう)として存在し、氏子区内には口分田跡が広く確認できることから、古代より三輪氏がこの地で大きな力を持っていたと考えられる。

社伝によると、神武天皇の代、諏訪大社のご祭神、部御名方富命(諏訪大社の祭神)が当地に三輪明神を祀ったのが最初という。創建当時は播隆山の中腹にあった。 

803年(延暦22年)、最澄が自作の薬師如来像(比叡山延暦寺の薬師如来像と同じ霊木で造られた像)を背負いながら諸国を旅をしていたとき、三輪の地で三和次郎大夫藤原助基と出会い、横倉寺を建立したという。このことから、江戸時代までは西国三十三所観音霊場第三十三札所の花厳寺を参拝する前に、三輪神社に般若心経を拝読していたという。

本殿は1315年(正和4年)再建後、1577年(天正5年)に斉藤道三の旧家臣である堀池千代壽丸により現在の地に移された。その後、1602年(慶長7年)に揖斐城城主西尾光教、1672年(寛文12年)に揖斐陣屋旗本岡田善正により修復が行われた。

ウッデイパル余呉 城郭フォーラム  揖斐城城址見学会

集合場所:滋賀県長浜市中之郷260番地 森林文化センター

集合場所:余呉駅10:05

時 間:10時〜16時 

予約電話 0749-86-4145ウッデイパル城郭フォーラム係

  FAX 0749−86−4545 城郭フォーラム係

参加費2700円(特製弁当 研修バス レジュメ資料)

講 師:愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

内 容:現地城郭見学会(城郭遺跡現地解説見学会)

此処から揖斐城へ

四等三角点左の白山神社へ立ち寄って 

 (1343年)に土岐頼清の子の頼雄によって築城され、頼雄は揖斐氏を名乗り、五代続き五代の基信は美濃守護土岐政房の子の光親を養子としますが、天文十六年(1547年)に斉藤道三は大桑城の土岐氏を攻めた後、揖斐城も攻撃し落城。

三輪神社へ下山します。

参考資料:揖斐川歴史資料館、城郭フォーラムレジュメ(講師の現地説明)、現地説明板、Wikipedia

本日の訪問ありがとうございす!!


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