中井均県立大学教授の講話
中井教授の講演に耳を傾けた。
「観音寺城は、人工的に割った石を積んだ石垣で最古例で、日本の城のルーツ。
こんな素晴らしい石垣は地域の誇り守ってほしい」と呼びかけた。
その後、石垣の詳細を説明、砕石の矢穴の写真を自ら撮影しながら、参加者の質問に丁寧に答え説明された。
中井教授の歴史講話が開かれ、石垣城郭の先例として知られる観音寺城について知識を深めた。
御屋形の石垣は、(信長以前の重ね積)石垣のルーツ!
天満宮が御屋形跡。
日吉神社の鳥居の前から西へ進み、突き当たったら右手の石段を上ると天満宮。
お城のデータ
所在地:近江八幡市安土町石寺 (旧蒲生郡安土町石寺)
区 分:居館
遺 構:曲郭・土塁・土橋・堀切・石垣
築城期:南北朝時代 建武2年(1335年)
築城者:佐々木六角氏頼
目標地:観音正寺参道の日吉神社
訪城日:2013.3.15
お城の概要
近江八幡市が里山整備に立ち上げた「豊かな杜づくり隊」が2014年10月から地元の人々、一般市民の参加も募って整備作業を進めた。
御屋形したの石垣下も整備され、素晴らしい石垣出現!
信長以前に「高石垣の御屋形」が安土に存在した。
御屋形跡の遺構には、曲郭・土塁・土橋・堀切・石垣が残るが、未整備
御屋形(天満宮)の右手背後から追手道があり、北北西に山を登っていくと大石垣に着きますが、ほとんど道なき道を行き、途中林道に出す。
歴 史
正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。
ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。
廃 城
戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。
永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。
詳細は「観音寺城の戦い」を参照
その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ず、そのまま廃城になったと思われている。
矢穴の石矢穴の石
御屋形跡
遺構には、曲郭・土塁・土橋・堀切・石垣が残るが、未整備
土塁土橋土塁廓堀切
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