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碓氷峠に「お城」跡 豊臣側の小田原合戦拠点か

2017年06月16日 | 陣城

碓氷峠に「お城」跡 豊臣側の小田原合戦拠点か

京都新聞 更新日時:2017年6月16日(土) AM 06:00
 群馬県側に侵攻することを想定した構造などから、合戦で中山道から関東に侵攻した豊臣側の前田利家、上杉景勝、真田昌幸の北国勢が、約10キロ南東の同市の松井田城を攻めた際、食料の供給や野営に使った可能性が高いとみられる。

 城跡は長野県軽井沢町教委の職員が2015年に見つけ、中世の城館を専門とする飯森さんが調査を進めて、未発見の城跡と確認した。

 小田原合戦は、北条氏が真田氏ゆかりの名胡桃(なぐるみ)城(みなかみ町)を攻めたことを契機に始まった。県内では松井田城が最初の戦場となり、同城が1カ月の攻防の末に落ちると、北条氏の手にあった箕輪、厩橋(まやはし)、沼田などの城も次々に陥落した。

 飯森さんは「小田原合戦で使われた陣城の発見は県内で初めてだろう。当時は北条氏にも力があり、豊臣側が松井田城攻めの準備を慎重にしていた様子がうかがえる」と分析。調査に同行した東京都江戸東京博物館学芸員の斎藤慎一さん(55)は「戦乱の時代に大名がどのようにして守り、攻めようとしたのかを具体的に物語る重要な遺跡だ」と指摘している。
「1590年の豊臣秀が北条氏を責め立て「小田原合戦」で真田昌幸、前田利家、上杉景勝らが築いた可能性が高いという」
飯森さんよると当時、北条氏の家臣が群馬県安中市松井田城に籠城。豊臣側の真田昌幸ら北國勢が1カ月以上かけて攻略したされる。城址は現在登山道となっている旧中山道添いで、松井田城まで直線で10km余り。中山道を進んだ北国勢が、食料の補給や野営に使ったとみられる。
城址は東西200m、南北100mで、土塁や堀切がり城内への入り口を狭くして敵の侵入を防ぐ「桝形虎口」など、当時としては高度な技術が用いられている。
 碓氷峠周辺の地域振興に取り組む碓氷関所保存会の佐藤健一会長(81)は「本当であれば極めて貴重な発見。地元としては観光や整備に期待したい」と話した。
安中市の碓氷峠で見つかった城跡の一部とみられる土塁
 
 

 


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