城郭探訪

yamaziro

飯道寺城 近江国(甲賀・信楽)

2014年10月12日 | 陣城

 山頂虎口

お城のデータ

所在地:山頂虎口甲賀市信楽町宮町(旧甲賀郡信楽町宮町) map:http://yahoo.jp/4WtQBr

区 分:砦

現 状:飯道山寺跡

築城期:南北朝期

築城者:佐々木義秀・應碁上人

城 主:佐々木義秀・應碁上人

遺 構:曲輪・土塁・堀切・石垣

標 高:598m  比高差:300m

  664m(飯道山頂)南側直下 -66m     

城 域:400m×300m

目標地:飯道山頂

訪城日:2014.10.11

お城の概要

「飯道山」は湖南市・甲賀市水口町・信楽町の境にあり、標高は664メートル。金勝山・太神山ともに修験道を修める信仰の山で、山岳信仰の拠点です。甲賀忍者の修練場であったといわれています。山頂には、奈良時代建立の飯道寺跡があり、付近にはのぞき岩、不動明分け岩、蟻の塔渡し胎内くぐりなどとよばれる奇石・怪石が散在します。山頂に立つと、信楽の山々を隔てて金勝・田上、遠くは京都の鷲峰山や湖水のかなたの比叡・比良の山々を望むことができます。この景勝の地。

飯道山寺 絵図

歴 史

『甲賀郡志』のよると、南北朝の争乱の際、延元2年に柏木源蔵人が南朝方として「飯道寺城」に籠ったとある。(山中文書)

『甲賀の城』に、・・・当国於飯道寺城柏木源蔵人相共致軍忠候了、同日信楽調子(現:勅旨)郷内於岩倉城数尅合戦仕候処・・・(山中道敏文書)

南北朝の動乱

 元弘の変に際して、上洛してきた幕府軍は鈴鹿を避けて美濃を通って京に入っている。このことから、山中氏が反幕府的であったことをうかがわれ、建武の新政がなると後醍醐天皇から鈴鹿警固役を沙汰する旨の綸旨を賜っている。しかし、足利尊氏の謀反によって新政が崩壊すると、山中氏は美濃部氏、小佐治氏らとともに守護佐々木氏に属して尊氏に味方した。
 建武四年(1337)、甲賀の南朝方頓宮氏が五辻宮を奉じて信楽で挙兵、飯道寺城と勅使の岩倉城に立て籠った。

これに対して中山四郎右衛門尉、小佐治基氏らが、信楽に攻め込み、夜を徹して激戦がおこなわれた。翌年、五辻宮を奉じた南朝軍が蜂起、北朝方の山中道俊・頼俊および小佐治基氏は激戦のすえに南朝方を伊勢に奔らせている。
 その後、山中氏は観応の擾乱に際して南朝方に転じたこともあったが、南北朝の動乱期を北朝方として行動した。やがて動乱は北朝方の優勢となり、明徳三年(1392)、足利義満によって南北朝の合一がなった。かくして、足利将軍を頂点とする中央集権体制=足利(室町)幕府が確立されたのである。そして、近江国の北守護は佐々木京極氏、南守護は佐々木六角氏が任じられた。
 足利義満は室町幕府全盛時代を現出したが、義満の死後、幕府政治は次第に衰退兆候をみせるようになった。嘉吉元年(1441)、足利義教が赤松満祐に殺害されると、幕府の権威を大きく揺らいだ。以後、幕府政治は混乱の度を深め、将軍家、有力守護家の家督争いが引き金となって、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。乱に際して、江北の京極氏は東軍に、江南の六角氏は西軍に属して対立した。文明年間になると六角と京極の抗争が激化し、文明二年(1470)、蒲生郡黒橋で激戦が行われ甲賀武士は六角方として奮戦した。

『信長公記』 天正九年 11、伊賀下向  伊賀国信長御発向の事

 10月9日、信長公は中将信忠殿と織田信澄を同道させ、伊賀国の検分に向かった。そしてその日は飯道寺(現:甲賀市信楽町/水口町)の山に上り、そこから国内の様子を一望したのち同地に宿泊した。

 織田信長が国見をしたと伝えられています。

 

 飯道山山頂到着:標高664m

絶景 湖南・・・三上山・比叡山まで、湖東・・・水口・鈴鹿まで

三角点でmy poleの登頂記念写真

下ります、飯道山寺遺跡へ

飯道山城・・・・(飯道山遺跡)

木道階段をおります

参考資料:甲賀郡志、甲賀市観光ガイド、新視点・山寺」から山城へー近江の戦国時代ー

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


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