城郭探訪

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【講座】近江一向一揆の拠点~金森城・三宅城・中仙道守山宿  2013.2.23

2013年02月23日 | 歴史講座・フォーラム

金森城(かねがもりじょう)(滋賀県守山市金森町)

 金森は、寛正6年(1465)山門が東山大谷御堂を破壊した「寛正の破却」により、京都を逐われた本願寺第八世宗主蓮如が拠ったところです。それ以前から当地には金森惣道場があり、江南地域における真宗の拠点として知られていました。金森は東山道と琵琶湖とを結ぶ志那街道沿いの要地であり、戦国期にはこの道場を中心として寺内町が形成されていました。

 元亀元年(1570)に始まる石山合戦では、大坂本願寺の宗主顕如の檄文に呼応するように、金森・三宅(守山市)を中心として一向一揆勢が蜂起します。本願寺からは坊官の川那辺秀政が送り込まれ、各地の門徒・武士たちが金森・三宅の両城に集まりました。元亀2年、織田信長軍の攻撃が開始されると一揆勢は籠城して戦いますが、同年9月遂に人質を出して降伏します。しかし翌元亀3年正月再び一向一揆勢が蜂起します。これに対し、信長は湖南周辺の村々から一揆に参加しない旨の起請文を取り、懐柔を図ります。元亀の起請文と呼ばれるこの起請文の徴集によって一向一揆は解体し、同年9月には金森宛の楽市楽座の織田信長朱印状が出されます。金森は織田政権下の都市として再生することになるのです。

 金森寺内町については資料が少なく、また現地も大きく改変されているため、その構造は不明です。しかしながら、天保7年(1836)の村絵図が残されており、この絵図をもとに寺内町の構造を推測することは可能です。それによると、「善立寺」「因宗寺」「御坊」の三つの寺院を中心とし、町の中央を街道が通り、周囲が堀と土塁に囲まれていたことがうかがえます。善立寺・因宗寺は現在も当地に残り、御坊は現在金森懸所として知られています。

 
金森村絵図(『滋賀県中世城郭分布調査報告書3(旧野洲郡・栗太郡の城)』滋賀県教育委員会 1985)

 金森城は、寺院を中心とした集落を囲う堀の南側に「城ノ下」という小字名があり、そこが城の伝承地ではないかと考えられています。現在は住宅地になっており、城の痕跡はまったく残っていません。しかしながら、集落の中を水路が何本か通っており、堀の痕跡ではないかと考えられます。

 金森の集落内を通る水路

 金森城については、構造だけでなくその歴史についても明らかではありません。寺内町に隣接することから見て、おそらく善立寺の開基と伝えられる川那辺道西の一族が居住していたものと思われます。

 金森城へはJR守山駅から近江鉄道バス下物線または杉江循環線に乗り、金ヶ森のバス停下車です。そこから西の路地に入っていくと善立寺・因宗寺・金森懸所に至ります。その西に広がる住宅地、「城ノ下団地」と呼ばれるところが金森城の伝承地です。(松下)

 金森寺内町の中核 善立寺


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