城郭探訪

yamaziro

針氏城 近江国(甲賀郡・甲西)

2013年06月15日 | 平城

お城のデータ

所在地:湖南市(旧甲賀郡甲西町)針町     map:http://yahoo.jp/Ar8SMW

現 状:竹林

区 分:平城

築城期:

築城者:針和泉守

城 主:針和泉守

遺 構:土塁

目標地:タキイ研究農場社宅

訪城日:2013.6.13

お城の概要

針和泉守が築いた城であること以外、詳細不明。

国道1号線の旧甲西町中央近くの針の信号から山手に向かいます。

タキイ研究農場の手前の<飯道神社を越えて>道に左折します。

 左手の社宅の先、太留麻大明神(稲荷)の手前左手の竹薮が城跡。

 

タキイの社宅の裏手の竹林の中に高さ3~4mの土塁が残るが、どこまで城域か不明。

竹葉が落ちて滑りやすい、竹藪は荒れているが土塁ははっきり解ります。

針氏城遺跡は、湖南市針集落の南に位置し、『平成十三年度 滋賀県遺跡地図』(2002.3)では城跡と記されていますが、遺跡の詳細な内容はわかっていませんでした。

今回、県営経営体育成基盤整備事業(甲西南部地区ほ場整備事業)に伴い、西に針氏城遺跡、南に針城遺跡が立地している田圃部分で、平成19 年度に試掘調査を実施したところ、古代から中世の遺構・遺物の存在が確認されました。発掘調査は平成20 年4月から、約3,600 ㎡を対象に行っています。

 針氏城遺跡は、『江州佐々木南北諸氏帳』・『芥川氏正徳二年自記 甲賀古士之事』に針和泉守の名と針村住とあることから、針和泉守の城に比定されている中世城館跡です。これまで城の構造等、詳細は不明でしたが、今回の調査で堀跡を2 条検出し、新たな知見を加えることができました。

 針氏城遺跡は、野洲川左岸の平地、近世東海道に沿って展開する針集落の南側に位置します。その範囲は、東西を由良谷川と家棟川にはさまれ、南北は城山と呼ばれる丘の北裾から近世東海道までとなります。

  針氏城遺跡が所在する湖南市は、県南部を西流する野洲川の中流域にあり、琵琶湖からは約11km 離れています。野洲川がやや蛇行しているため、北岸の平地がほぼ中央で東西に分断されているのに対して、南岸は中央部が広いまとまった平地となっています。この南側の平地を丘陵側から近世東海道、JR 草津線、国道1 号が向きを揃えて通っており、県内でも交通基盤の整った地域であることから、宅地や京阪神や中京を流通圏とする工業団地として開発されてきました。 丘陵は北側が鈴鹿山地から延びる水口丘陵の西端にあたり、南側は湖南アルプスと称される山々が連なる山塊地です。山地は花崗岩でできているため風化が著しく、特に南側の山地から流れる小河川は多量の土砂を丘陵と低地に供給し、大沙川・由良谷川・家棟川などの天井川を形成しました。

 鳥居も手前に、左 藪への入り口

藪への入り口 

          

 針氏城遺跡の変遷

今回の調査結果から、この地域には縄文時代の中頃に人々が入り、晩期初頭になると河内地方とも盛んに交流していたことがわかりました。しかし、土石流によって集落が破壊され、以後は平安時代まで人間の活動は確認されません。

 平安時代になりますと人工的溝を掘削して豊富な水をコントロールしつつ、畑作を行っていることがわかりました。
鎌倉時代~室町時代になると、掘立柱建物が建てられ、15 世紀中ごろから針城・針氏城などの中世城館がつくられ、輸入陶器が見られることなどから考えて、当地に居住していたと伝えられている針氏に関わるものと見られます。その後、東海道の整備とともに石部宿などが栄えますが、当地は竹林や藪などとなり、明治時代の耕地整理や由良谷川の隧道設置などを経て、現在に至っています。

今後の調査で集落の広がりや性格を確認し、遺構や遺物の有無を検証することで、湖南市域、ひいては旧甲賀郡の歴史がより解明されることが期待されます。

 有孔円板や管玉などの滑石製品や手捏土器・小型土器などの祭祀遺物については、近年、水辺の祭祀の観点で語られることが多いですが、峠などの境界や交通の祭祀にも用いられるものです。今回は地形的には湧水や河川のない調査区からの出土したことを考えると、当地で交通に伴う祭祀が行われていたと考えることもできるでしょう。古代東海道は現集落よりも北側(野洲川寄り)に想定されていますが、この付近を通っていたことに変わりはなく、古代東海道が敷設される前提条件として、より古い交通路が当地を通っていたと考えることが可能です。
 籠目土器は、3 世紀後半から4 世紀前半に近畿地方を中心に分布し、5 世紀後半から6 世紀中頃にかけて三河・遠江地方を中心に茨城県から福岡県までごく一般的に見られるようになるといわれています註5。早い段階では祭祀遺構から出土することが多いことから祭祀用遺物としての機能が想定され、広く分布するようになる段階では住居跡からの出土が目立つようになります。今回出土したものは、器形が判別できない小片で詳細な時期も不明ですが、他に祭祀遺物が存在することからこれに関連付けることも可能です。さらに交通路の存在を前提に考えると、籠目土器の波及・拡散のルートを示すものともいえるでしょう。
 製塩土器についても同じように交通・交易のルート上の遺跡からの出土と考えると、無理なく理解できます。緑釉緑彩陶器註6 についても、東海と京都を結ぶルートでの出土例として、籠目土器の場合と同じように理解できるでしょう。
4. まとめ
 遺跡の名称でもある針氏城に関係する遺構としては、堀や溝が見つかりました。丘陵裾の落ち込みも、ある時期には手が加えられて堀としての性格・機能が与えられていた可能性を知ることができました。『江州佐々木南北諸氏帳』・『芥川氏正徳二年自記 甲賀古士之事』に記載のある五十三家のうち、湖南市域に住んでいたとされるのは、針氏の他に夏見氏・岩根氏・宮島氏・三雲氏で、下田氏・青木氏・谷氏・朝国氏・石部氏も当地域に住んでいたと想定されています。湖南市域には、針氏城や針城をあわせて23 か所の中世城郭が分布しており、これらは野洲川両岸の丘陵に、主要交通路である東海道・信楽越えや野洲川を眼下に見渡すことができる立地に築かれていることが特徴です。文献資料などから城主が比定されている城郭が多いな
かで、発掘調査で遺物が出土したのは夏見城註7 に次いで2 例目です。
 さらに、古墳時代の竪穴住居が見つかりましたが、これまで湖南市域の古墳時代集落遺跡は井戸遺跡が知られるのみでした。調査区の南に隣接する狐栗古墳群との関わりも解明すべき課題です。また、管玉・有孔円板・手捏土器などの祭祀遺物や

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、滋賀県発掘報告

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


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