城郭探訪

yamaziro

瓶割山城(長光寺城) 近江国(近江八幡)

2010年12月26日 | 戦国山城

2010年12月18日「近江の城郭 六角vs織田」の探訪戦国最前線 瓶割山城

お城のデータ

所在地:近江八幡市長光寺町 map:http://yahoo.jp/q1w0Vw

別 称:長光寺城

区 分:山城

築城期:鎌倉中期

築城者:佐々木四朗政尭

廃 城:天正4年(1576)の安土城築城の頃

遺 構:主格、二の丸、米蔵、井戸、石垣、堀切、土橋、虎口、説明板

城 域:150m×150m

標 高:234.5m  比高差120m

戦 い:応仁二年(1468) ◯佐々木六角高頼(西軍) vs ●佐々木六角四朗政尭(東軍)

    元亀元年(1570) ◯織田信長 vs ● 佐々木六角承禎

訪城日:2010.12.18

お城の概要

長光寺城は標高234mの瓶割山の山頂付近に築かれ、北側眼下をはしる中山道が八風街道と交わる武佐までは直線距離にして約1km。東近江における要衝の地にある。

登り口は妙経寺横の不二滝、若しくは長福寺町の公民館前にある。どちらも山頂までは約25分程度。道はハイキングコースとなっており、案内板が立てられ判りやすくなっている。

不二滝から登ると主曲輪西側の堀切に出る。堀切横の石垣は、高さ6mを越え城内最大のものである。長光寺城は15世紀中期に佐々木四郎政堯によって築かれたのを創築とし、その後は六角氏が入り、元亀年間には織田信長の家臣・柴田勝家が入っているが、この石垣は斜度をもたせて積んでいることから、後年の柴田勝家時代のものではないかと思われる。

堀切の左(東)は主曲輪、右(西)は二の曲輪で、堀切に渡した土橋が非常に状態良く残っている。主曲輪は東西50~60m、南北30mほどで、東尾根に三の曲輪を配置した連郭式の曲輪配置である。二の曲輪は主曲輪と同程度の広さと推定されるが、雑木が生い茂り広さを読み切れない。曲輪西側の尾根筋は堀切で処理し、虎口部は石垣が積まれている。主曲輪東側の三の曲輪は南側斜面に3~4段の帯曲輪を配している。東尾根は堀切で処理されておらず、城域ラインは不明。この長光寺城は主曲輪以外の二の曲輪、三の曲輪にも石垣、石積みが見られる。特に主曲輪と三の曲輪の境界部分(井戸跡下)には一辺が50~60cm、大きなものは一辺が1mを越える石が散乱しており、主曲輪の西虎口に見られるような石積みがされていたことを予感させるが、現地では確証がとれなかった。おそらく廃城の際に徹底して破壊されたのではないだろうか。信長公記には信長が安土城を築城する際、観音寺山(繖山),長命寺山,長光寺山,伊場山から石を集めたと記述されており、長光寺城の破城が暗示されている。

 大石垣も笹で見えません。

歴 史

 瓶割(かめわり)山城は、古くは長光寺城とよばれ、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468)、 近江守護佐々木六角高頼と対立した佐々木四郎政尭が、当城の北北東約5kmにある六角氏の本城である観音寺城に対抗する城として築いたとされる。

 そして、織田信長が観音寺城を攻略したあとには、 その支城として周辺地域の抑えの役割を果たしたが、天正4年(1576)の安土城築城の頃には廃城になったと考えられる。

尚、「瓶割山」の名前は、元亀元年(1570)に柴田勝家がこの城に籠って、六角承禎(義賢)と戦った際に、城の水を絶たれ、 城中に残った水瓶を割って城を出て戦って勝利を得たことから「瓶割り柴田」の異名をとったという武勇伝に由来している。瓶割山 

 

いつも車で通っている道路に「瓶割山城址山頂まで1Km」と・・・。

信長の家臣 柴田勝家が近江守護佐々木氏の合戦に

城中の水瓶を割って城兵の士気を上げ「瓶割り柴田」の異名をとった・・・。

歴婆・歴爺はお勉強熱心に!メモ・・?

    歴婆・歴爺はお勉強熱心なのです・・・!

    

探訪 織田の戦国最前線「瓶割山城」の 隊長さんの案内で

下山後、座学・・・終了証を頂きました

 瓶割山城(長光寺城)は湖東平野に存在する独立丘陵である瓶割山(長光寺山)に位置する城郭遺跡です。山の名は元亀元年の六角勢の攻勢の折、この城に立て篭もった織田家の家臣、柴田勝家が城の中に備えた水瓶を割って士気を鼓舞し城を出て、戦いに勝利を収めたという故事に由来しています。勝家はこの戦いの後、「瓶割柴田」の異名をとったと言われていますが、実際にこのような戦いが起こったどうかは記録に残っていません。ただし、『信長公記』には「長光寺に柴田修理亮在城。」という記述があるので、実際に布陣はしていたと考えられます。

 発掘調査が行われていないため詳しい状況は判明していませんが、現在のところ山上部には、帯郭が周囲に構築された最大規模の郭(『蒲生郡誌』の図で本丸と命名)を中心として大小多くの郭が残存しています。「本丸」から北および東に延びる尾根上には郭が連接して郭が構築されています。北側の尾根上には縁辺に土塁が構築されている郭があります。東側に延びる尾根にも本丸よりも少し規模の小さい郭が北側尾根と同様に連接して構築されています

 瓶割山城縄張図(振角卓哉氏作成)

 一方、南西へ伸びる尾根上では2箇所大規模な郭が構築されています。これらの郭は大規模な堀切によって区画されており、本丸と隣接する郭の間(『蒲生郡誌』では「二ノ丸」)は土橋で連絡されています。また、山上部の郭の各所には竪堀が配されています。山上部の郭には複数の石垣が構築されています。最も大規模なものは、本丸南西部に位置するもので比高差約6mを測ります。城内に見られる石垣は埋もれている部分が多く、『蒲生郡誌』に掲載された平面図には現在では確認できない石垣が書き込まれていることから、実際には石垣が他にも存在しているものと考えられます。この山上部に残る遺構以外に瓶割山山中には郭と考えられる遺構が残存しています。山麓東側には根小屋とされる土塁で区画された遺構が残ることから、瓶割山全体が城郭として使用されたものと考えられます。

 二ノ丸南側の堀切

 本丸南西部の高石垣

 応仁の乱の際に「長光寺」に城を築いたという記録があることから、この時期に瓶割山城の歴史は始まったと考えられていますが、現在山上部に残る遺構は郭に高石垣が構築されていること、本丸、二ノ丸の南西部に枡形虎口とも解釈できる部分を持つことから柴田勝家の布陣によって構築されたものではないかと考えられます。もともとの長光寺城の遺構も取り込まれているかもしれませんが、はっきりしません。また、東に延びる尾根の南斜面には連続して小規模な郭が構築されている部分があり、城郭としては珍しい構造となっています。この付近には石仏・一石五輪塔が散在していること、山や麓の集落の「長光寺」という地名から、寺院に関連した遺構の可能性もあります。

 瓶割山城へは麓の近江八幡市長福寺町、東近江市上平木町から山頂に向かう山道があります。自動車利用の場合、近江八幡市長福寺町の登山口へは国道8号線六枚橋交差点から県道14号線を八日市方面に向かい、コンビニエンスストアのある交差点を左折し登山口の日吉神社へ向かいます。ただし、登山口付近に駐車場はありません。東近江市側へは県道41号線から左折し、山麓へ向かうと鳴谷団地北側、御澤神社近くにある草の根広場付近に登山口があり、説明板が設置されています。草の根広場横に数台駐車可能な場所があります。山内には林道が通じていますが、一般車両は進入できません。

 公共交通機関の場合、近江鉄道平田駅からは約20分で東近江市側の登山口、JR近江八幡駅からのバスを利用すると、長福寺停留所で近江八幡市側の、鳴谷、平木の各停留所からは東近江市側の登山口にそれぞれ徒歩20分程度で向かえます。

 瓶割山城では、平成20年度に東近江市側で里山森林と遺跡整備を兼ねた事業が実施され、山麓から山上部の遺構へ向かう通路・案内看板が整えられました。また、山上部での周囲の見通しがきくようになり、郭の形状や石垣も捉えやすくなり、見学し易くなりました。平成21年度は近江八幡市域で同様の事業が実施される予定です。(上垣)

注)山および城の名称は「長光寺「瓶割」の両方が用いられていますが、今回は行政上用いられる名称に拠りました。

参考資料:淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


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