平重衡の焼き討ちによって焼亡した東大寺の再建のため、全国を勧進してまわった重源ゆかりの寺社、多賀大社と敏満寺を探訪します。
多賀大社は戦国武将の信仰が厚い神社で、豊臣秀吉の寄進米によって造られた太閤橋(県指定文化財)や浅井猿夜叉(後の長政)が寄進者に名を連ねる梵鐘などが境内に残ります。
多賀道(高宮道とも)道標。中仙道高宮宿から多賀大社へ(高宮~小幡まで中山道、小幡~八日市~日野~土山まで御代参街道、土山」~東海道)・・・伊勢神宮と多賀大社を(東海道と中仙道の近道)結ぶ「親子街道」とし参詣者に利用されました。
敏満寺城跡(現在は名神高速多賀SA)
敏満寺は現在胡宮神社が建つあたりにかつて存在した大寺院で、織田信長によって焼かれたといわれています。名神高速道路多賀サービスエリア上り線北端の公園付近からは、虎口や土塁、石垣などの城郭遺構が発見されました。枡形状の虎口は戦国末期のものと思われ、織田信長あるいはその前の浅井長政との戦いに備えて築かれたものともいわれています。敏満寺についてはこちら
・銅製五輪塔(どうせいごりんとう)(国指定重要文化財)多賀町敏満寺
重源上人が、東大寺修復に感謝して敏満寺に贈った銅製五輪塔(鎌倉建久九年)
附紙本墨書寄進状(国指定重要文化財)
平重衡の焼き討ちによって焼亡した東大寺の再建のため、全国を勧進してまわった重源ゆかりの寺社。
・太閤橋(たいこうばし)
太閤秀吉が寄進した米一万石により築造。祭礼の折、神輿が渡る。
高くなっているのは、表通りから拝殿が見えないように目隠しのためである。
この探訪ではこうした戦国武将たちともゆかりの深い寺社とその周辺の文化財を地元ボランティアガイドの案内で探訪します。
1.日時 平成25年6月2日(日) A班 9:30~15:00 B班 10:30~16:00
近江鉄道多賀大社前駅集合・解散
2.行程
多賀大社前駅集合→(敏満寺集落)→敏満寺遺跡・胡宮神社→エクサパーサ多賀(昼食)→多賀大社→真如寺→延命地蔵尊→多賀大社前駅解散
歩行距離 約5km(平地 一部坂道あり)
協力
多賀町教育委員会 多賀町産業環境課 多賀観光協会 多賀観光ボランティアガイド 敏満寺史跡文化保存会
近江敏満寺跡(近江胡宮明神)
参考文献:「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006:(当ページの大部は左記参考文献による。) ★近江敏満寺塔婆の概要 古代・中世には敏満寺三重塔(五重塔)、南谷西福院多宝塔、西谷西迎院多宝塔の3塔があったことが文献で確認できる。 ★敏満寺の創建 聖徳太子、あるいは慈証上人、あるいは敏満童子などと云われるが、東大寺水沼荘と関係する敏満童子説が有力と云う。 ★中世の敏満寺 ●「平等院坊下史」
上記の「坊政所下文案」に敏満寺の四至が示されている。 ●東大寺・俊乗坊重源
金銅一尺三寸五輪塔:重文・胡宮神社蔵 ●白河院舎利 ●「敏満寺堂塔鎮守目録」(「敏満寺縁起」<元徳3年(1132)と云われる。>所収)
●多賀社参詣曼荼羅
「参詣曼荼羅2」
上掲:多賀社参詣曼荼羅2・・・モノクロ図(全図)、多賀社参詣曼荼羅2・・・色彩図(右部分図) ※参詣曼荼羅:多賀参詣曼荼羅は多賀明神及び中世敏満寺を描いた貴重な絵図で、 ★中世末期の敏満寺 ●「福寿院由来記」
⇒その後、敏満寺の兵火による荒廃を記し、その直後の再興の状況を記す。
⇒「新谷氏伝譜系図」では永禄5年(1562)の淺井長政による兵火があったとする。
★近世以降の敏満寺 永禄5年の戦火で本尊大日如来は西麓の宝寿院に遷座、慶長年中には礎石が彦根城普請のため運び去られると云う。
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