城郭探訪

yamaziro

塩野城と詰め城 近江国(甲南)

2014年10月01日 | 居城

望月家墓所 詰城へ

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町塩野字下塩野  (旧甲賀郡甲南町塩野字下塩野)   map:http://yahoo.jp/qYvKly

 現 状:森林・田畑・溜池

 区 分:居城・詰め城

 築城期:戦国期

 築城者:望月弥平太

 城 主:望月弥平太

 遺 構:曲輪・空堀・土壇・詰め城

 目標地:塩野温泉・草の根ハウス

 駐車場:路上駐車

 訪城日:2014.9.30

塩野城(下屋敷)

の服部」「甲

お城の概要

塩野城は、塩野集落の南方山裾にあり、北方の集落より望むと、付近よりも高台になった位置なのがよく分かる。

現在は田畑や溜池となり、遺構は確認できないが、かつて北側には土塁が残っていたという。

比定地の南西山裾には「望月家累代之墓地」という石碑が建ち、中には五輪塔もあるが、城主の墓なのか、後世の望月さんの墓地なのかは確認できなかった。
北方約100m先には陣屋跡がある。

歴 史

塩野城は、地元では望月弥平太の屋敷であったと伝承されている。

望月氏は甲賀忍者の祖とも言われ、甲賀五十三家の筆頭格であった。望月城(甲南町杉谷)などを築き、「伊賀賀の望月」と称されたという。望月出雲守屋敷跡は現在、甲賀流忍術屋敷となっている。

甲賀流の歴史

 戦国期の甲賀は小領主達が同名中という一族集団を形成していた。独立性が高ったために六角氏の支配が十分に及ばなかった。

織田信長が台頭して来るとそれら甲賀の侍衆たちは甲賀郡を単位とした連合体を結成する。それが甲賀郡中惣である。

室町時代後期、観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、室町幕府の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、1487年に将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われた。これを「鈎の陣」という。 

 

義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角久頼・高頼父子は直接対決を避けて甲賀の城に移動した。そこで義尚は本陣を栗太郡の鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させるのだが、脱出した六角父子は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。

甲賀武士達は山中でその地の利を生かしてさまざまな奇襲をかけ、また時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、さんざん幕府軍を苦しめたという。

 

そのためなかなか決着はつかず、1489年には義尚が陣中に没したため、足かけ3年にわたった戦いは終結、六角氏は生き残った。この時の神出鬼没のゲリラ戦やその高い戦闘力の印象が、甲賀武士達を全国に知らしめることになったのである。そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼び(さらに五十三家の中で六角氏より感状を貰い重きを置かれた家を「甲賀二十一家」と称した)、甲賀の地が織田信長に席巻されるまでの間、六角氏の下で諜報に戦闘にと活躍していった。

 

甲賀ゆれ

 

天正13年羽柴秀吉によって甲賀の侍衆は改易処分となった。甲賀は秀吉の家臣中村一氏の支配となる。これにより甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していく

 

望月家累代之墓所

堀痕(右前方に路上駐車可)

詰め城へ(墓所の背後の頂部)

 獣害柵の中へ 東側へ直登

城道にでました!

頂部の「曲郭」 削平地・土塁

頂部の祠 頂部の祠背後から土塁削平地を低土塁が囲む

 

頂部の南側 「曲郭群」・・・「甲南町水道施設」と二宮尊徳像?・・・公園化か?

改変が激しいが、「詰め城の主部の削平地は残存」している。のが、流石甲賀の山城、と感涙!

頂部の祠整備され、左右に土塁。

 

曲郭の土壇南側へ下城(登城口)

鉄塔の西が頂部削平地「詰め城の主郭」詰め城への入城口前の駐車可

塩野温泉からの遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系

              本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!



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