城郭探訪

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秘話探訪 ふるさと報知随想 東近江“狛犬ものがたり”

2016年05月03日 | 文化財

滋賀報知新聞■平成25年1月6日(日) 第16467号

=江戸末期の作品は3例「供出」された狛犬も 中島 伸男=

(写真1)天神社(東近江市佐野町)

■狛犬の原型は「獅子」
 狛犬は「高麗から渡って来た犬」という意味でその名があるが、原型は獅子である。百獣の王・獅子が霊獣として造形化され、はるばる西方からシルクロードを経て日本に渡ってきた。 
 昔は宮中の帷(かたびら=隔ての布)や御簾(みす=竹の「すだれ」)が風で揺れるのを押さえるために使われていたという。
 やがて狛犬は、霊力をもつ神宝として神社本殿の奥に納められるようになり、時代を経るにしたがい魔除けの役割を担って内陣から外陣へ、さらに社殿前へと進出していった。
 風雨に晒されることから石造の狛犬があらわれ、形態も大型化した。江戸時代には「魔除け」「招福」を祈願する庶民が、狛犬を寄進するようになった。これら神社境内に寄進された狛犬を、一般的に「参道狛犬」とよんでいる。
■江戸末期の作品三例
 東近江市内でもっとも古い参道狛犬は、佐野町・天神社の本殿前一対(写真1)である。その台座には「弘化四歳丁未十一月」(西暦一八四七年)と刻まれてあり、いまから一六六年前に奉納されたことが判明する。たて髪を長く彫った雄渾な作品で、歳月を経たにもかかわらず風化が少ない。台座には「奉納・朝日講」、「功徳者」として戸田久右ヱ門ら十一名の名前が読み取れる。同社・氏子総代を長くつとめておられる大澤勇さん(佐野町)に、「朝日講」についてお尋ねしたが、このような名称の講は現存せず狛犬の由緒は不明である。阿形・吽形ともに、右足を少し前に出したポーズが珍しい。


(写真2)日吉神社(東近江市今崎町)

 御代参街道に面した今崎町・日吉神社二ノ鳥居前の狛犬一対も古い(写真2)。「文久三亥年正月吉日」(一八六三)の銘がある。願主は「向善五良」。向かって右の台座には「初老厄除」、左の台座には「海陸安全」と彫っている。願主・向善五良は、「万善」向井一生さん(八日市金屋一丁目)の五代前に当たる人物で、薬種商として北海道松前に渡った経歴をもつ。狛犬はずんぐりした体型で、全体に細工が少ない。尻尾が短いが、これは江戸期につくられた狛犬の一つの特色である。
 江戸末期の狛犬が、東近江市にはもう一対ある。大浜神社(伊庭町)本殿前のものである。狛犬の高さは五十四センチと小振りで、石灰角礫岩(地元では美濃赤坂産大理石とも)が使われている。阿形・吽形ともに右足を上げているが傷みが激しく、阿形の右足は根元から折れている。台座の銘から「文久四年甲子年正月吉日」(一八六四)「寄進かねいち中村氏」と読み取れる。地元の歴史に詳しい村田恒治郎さんは、伊庭の有力者であった中村金一郎(中村博さんの曽祖父・嘉永元年生れ)によるものであろうと推定される。
 東近江市内の狛犬で江戸期製作と判明しているのは、現段階では以上の三例である。
 明治期に入ると、参道狛犬の寄進が増えてくる。中野神社(東中野町)鳥居前の一対が明治八年(一八七五)、野々宮神社(八日市金屋一丁目)本殿前の一対が明治九年(一八七六)、松尾神社(八日市松尾町)本殿前の一対が明治十一年(一八七八)とつづき、その後も明治期の作例は多い。
■「供出」された狛犬
 台座と、台座の上の狛犬の製作年代が異なっているケースもある。
 中野神社社頭の狛犬は、台座に「明治四十四年亥十月建之」と刻まれ、東京・灰谷儀助、大阪・灰谷善太郎ら灰谷家一族の名前が彫っている。
 しかし台座の上の狛犬の台には「昭和三十二年二月」として初老を記念した小梶正二郎ら十名の氏名が彫り込まれている。狛犬と台座に年代・寄進者の食いちがいが生じているのである。


(写真3)大森神社(東近江大森町)

 神社近くで理髪店を営む藤井季夫さんに、その理由を尋ねた。藤井さんは「子どものころ、狛犬に乗って遊んでいたが…」と記憶を辿られた結果、「狛犬に乗ったときの冷たかった感触」から、もとは青銅製の狛犬であったことを思い出された。太平洋戦争が激化した昭和十七年前後、金属類供出命令により撤去され、台座のみが残った。
 戦後十二年、当時、初老を迎えた人たちが再建されたものが現在の石造狛犬である。
 竹田神社(鋳物師町)本殿前狛犬の台座には、「昭和四十三年十二月再建」と彫られている。同社の場合は元の石造狛犬が風化し傾きがひどくなったので、「初代狛犬」寄進者の孫たちが再建されたものだという(外池文次さんのお話)。
■可愛い仔狛犬の姿
 向かって右側が阿形(口を開ける)、左が吽形(口を閉じる)であることは、すべての狛犬に共通する。しかし、どちらが雄でどちらが雌か、あるいは雌雄があるのかどうかについては「諸説」がある。
 狛犬とともに、玉石と仔犬(子獅子)を彫った作例がある。その多くは、右の阿形が玉石を押さえ、左の吽形側に仔犬が彫っている(五個荘奥町・奥村神社、八日市松尾町・松尾神社、八日市金屋一丁目・野々宮神社など)。そのことから、阿形が雄で吽形が「雌」とも考えられる。


(写真4)春日神社(東近江市妹町)

 しかし、右側の阿形狛犬に仔犬を彫った例もある。
 大森神社(大森町)鳥居前の狛犬(昭和十年三月)は、阿形側の足元に仔犬(子獅子)を彫っている。この仔犬は、首をひねった形でじつに愛らしい姿をしている(写真3)。高さが三〇センチもあり、親狛犬(九〇センチ)の三分の一である。親狛犬製作と同じ集中力を仔狛犬にも感じさせる。
 さらに、左側・吽形狛犬が押さえている玉石の細工も珍しい。手鞠型になっていて中にさらに小さな玉石が入っている。残念ながら石工の名が彫られていない。
■白布を巻いた狛犬
 春日神社(妹町)の鳥居前狛犬は、北海道有数の木材商として成功した中戸町出身の奥村徳蔵が、大正十一年、郷里の氏神さまに寄進したものである。この狛犬は大きな玉石に両の前足を載せ、腰を上げている(写真4)。このようなスタイルは尾道の石工が製作したもので、「尾道型狛犬」とよばれる。台座には「石工尾道市向島・恵谷喜一」の銘がある。
 筒井神社(蛭谷町)の一対(大正十三年、親王講および茨川・筒井円次郎奉納)は、狛犬が円形の台座に座している。木地師発祥の地として、轆轤挽きを意識した台座が製作されたのであろう。
 河桁御河辺神社(神田町)の狛犬(大正九年奉納)は、立派な石の玉垣に囲まれて鎮座している。
 兵主神社(野洲市五条)の本殿前狛犬(昭和三年奉納)は、阿形・吽形ともに細い白布でぐるぐる巻きになっている(写真5)。宮司さんに尋ねると、身体に不具合を抱えた人たちがその治癒を祈願し、患部にあたる場所に氏名を書いた布を巻いてゆくのだそうである。狛犬の頭や肩にも布が巻かれているが、やはり膝や腰に巻いた白布が目立つ。
■狛犬はいまも手造り
 狛犬台座に製作者名(石工名)が彫られている場合がある。
 布施神社(布施町)の狛犬(昭和三年八月)には「南五個荘・石寅作」とあり、昭和初期までこの地域に狛犬を彫る石工が存在したことを伺わせる。

(写真5)兵主神社(野洲市五条)

 多賀大社境内にある摂社・日向神社の狛犬(昭和六十年)には、長浜市・竹原石材店の銘がある。同石材店に照会してみると、狛犬製作は岡崎に発注し総仕上げを竹原石材店が行ったとのことである。狛犬製作には特別の技術が必要で、近年はほとんどが岡崎産になっている。
 岡崎石工団地共同組合・和出秀巳さんのお話によると、岡崎で切り出される花崗岩(三州御影石)に墨で狛犬の輪郭を描き、ベテランがいまも鑿と鎚で刻んでいくのだという。一対製作にふつう一ヶ月から二ヶ月を要するという。
■庶民の文化財―狛犬
 国や地方自治体が「文化財」に指定していなくても、私たちの周囲には、地域住民の暮らしや集落のちいさな歴史を物語るさまざまな石造品・建造物が存在している。それら「庶民の文化財」こそが、地域の雰囲気を醸し出しているといって過言でない。
 参道狛犬には、庶民のさまざまな祈願・祈念が秘められている。私は今後も神社参拝をかね、狛犬との愉しい出会いをつづけたいと願っている。
(注)上杉千郷著『狛犬辞典』・小寺慶昭著『京都狛犬巡り』を参照しました。
(野々宮神社宮司、八日市郷土文化研究会会長)


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