城郭探訪

yamaziro

四十九院陣所     近江国(豊郷)

2015年12月10日 | 陣所

お城のデータ

所在地:滋賀県犬上郡豊郷町四十九院  map:http://yahoo.jp/-B3FD9

区 分:陣所

現 状:唯念寺

標 高:ーm   比交差:-m

築城年:鎌倉期 永正3年(1506)

築城者: 本願寺実如

城 主:

遺 構:

目標地:唯念寺

訪城日:2015.12.6

お城のデータ

豊郷は、中世には安食荘・甲良(かわら)荘・日枝荘・吉田荘に属した。東山道に沿う四十九院村と枝村に市座と関所ができ、商業が活発化する。枝村商人は紙座の特権を持ち、主に美濃で仕入れた和紙を京都へ運ぶことで利益を上げた。鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢や尾張へも行商したが、峠の通行権などを巡って蒲生郡の保内商人としばしば争論を起こした。

中世東海中世東海道(東近江市「能登川の歴史2巻53頁」より)

交通の要衝であるために南北朝以降戦乱に巻き込まれることが多く文和年間(1352-56年)には足利義詮が後光厳天皇を奉じて四十九院に下向している。

城砦としては那須城(石畑)・吉田城(吉田)・高野瀬城(高野瀬)・赤田城(八町)があった。那須城は那須与一の次男と伝わる那須宗信の居館(現在の八幡神社)で宗信はのちに仏門に入り、称名寺(石畑)の開祖となった。吉田城は近江源氏六角氏の一族である吉田氏の居館で、現在も跡地は「吉田屋敷」や「城屋敷」と称される。吉田氏は応永年間(1394-1428年)に上洛し、1496年(明応5年)から京極氏が入城した。上洛後の吉田氏の子孫に角倉了以がいる。高野瀬城は六角氏の部将である高野瀬氏の、(現在の古河AS豊郷工場)居館。赤田城は永正年間(1504-21年)に赤田源隆が多賀荘(現在の多賀町)から移り住んだ居館で、現在の白山神社。源隆はのちに仏門に入り、常禅寺(八町)の開祖となった。

 

歴 史

  • 〔太平記  三十一〕
  • 八幡合戰事附官軍夜討事 宰相中將殿〈◯足利義詮〉ハ、〈◯中略〉三月〈◯文和元年〉十一日、四十九院ヲ立テ、三萬餘騎、先伊祇寸三大寺ニシテヲ分ツ、或ハ漫々タル湖上ニ、山田矢早瀬ヤマダヤバセノ渡舟ノ棹サス人モアリ、或ハ渺々タル沙頭ニ、堅田高島ヲ經テ駒ニ鞭ウツ勢モアリ
  • 文和元年(1352)閏2月、義詮京都の戦いに破れ近江国四十九院に逃れ、道誉父子随従す。6月、芝宮弥仁王擁立のため、武家使者として執奏勧修寺経顕と交渉す。8月、義詮、道誉に命じ、禅林寺聖衆来迎院雑掌に出雲国淀新荘地頭職を渡付せしむ。
  • 唯念寺は、はじめは法相宗であったが、その後天台宗をあわせ、永正3年(1506)に本願寺実如が照光坊と称する道場にした。
     元亀元(1570)、唯念寺二十七世であった巧空は、摂津の石山本願寺が織田信長の攻めにあうと聞き、門徒200人とともに救援に出発観音寺山(安土)付近で信長勢に囲まれて討ち死にし、門徒の多くも戦士した。
     このため本願寺顕如は、巧空の十七回忌に際し、唯念寺二十八世の巧寂宛に弔状を送り、当寺に永く本山直門の寺格を許すとし、さらに照光坊の名を改め「唯念寺」の名を与えた。
  • 元和元年(1615)、彦根藩主井伊直孝は大阪夏の陣に際して、当寺など真宗四カ寺に対して、大坂方の後方撹乱と隣国の一揆に対する警戒を依頼した。
 
唯念寺は

天平年中に行基が聖武天皇の勅を受けて当地に一宗を建立したことに始まる。
本尊は行基自らが彫ったとされる弥勒菩薩と弥勒菩薩像を安置し、他に山号を兜卒山、寺号を四十九院と名づけられた。
これは弥勒菩薩経の四十九重摩尼宝殿によるもので兜卒内影を顕すために、当院と奥の院であった奥山寺(荒神山)との間に点在して多くの堂舎が建立された。現在、これらの堂舎の名称は地名として残っている。
当地の地名も、弥勒菩薩の本院である兜卒山四十九院のある邑(むら)として世に知られ、その寺名が村の呼び名になったとされる。

芙蓉閣(書院)
この寺で最も古い建物で室町期に建立の書院建築。建築当時の七堂伽藍の一つにあたる。
当初の三階建は歳月とともに階下のみとなったが、床柱などから昔の趣が忍べるとされる。
また、書院の前庭は「皇苑」と称された。建立当時、後光厳天皇の行在所があったことによる。芙蓉の名も授けられとされる。
寛永年中徳川家康の工匠甲良宗広が江戸城、二条城の修・改築、日光東照宮造営を終わって唯念寺に身を寄せた当時、唯念寺本堂再建に奉仕したもので、様式は本山同様に設計され、内部は日光東照宮不要の絵具を用いて光彩を加えたとされる。
襖戸には、現在もその絵具の残存している箇所がある。
現在は非公開のようである。

芙蓉庭園
蓬莱式枯山水として知られ、北条時頼もこの庭を愛好したといわれる。「行基の庭」とも呼ばれた。
庭は蓬莱式枯山水で、築山が滝石組を基点として東方南に走り、中ほど大岬石、島々州崎が護岸石組、中央鶴亀の二島、築山に椎の大樹など、築山、枯泉池、泉石の景色もよいとされる。
最近は荒廃が進み、公開中止となっている。

  • 後光厳天皇と将軍足利尊氏
    嘉暦年中(1326)将軍尊氏は、しばしば当院に逗留し、その際、法堂を再建した。文和3年(1354)義詮(よしあき 尊氏の子)は、後光厳天皇を奉じて当院を行在所とし難を避けた。南北朝時代は常に将軍の逗留地となっていた。その時、天皇より兜卒山四十九院の勅額を拝した。
  • 甲良豊後守宗廣との関係
    宗廣が故郷に帰ったのは日光東照宮の大事業も終わり、大棟梁職を長子の宗次に譲ってからが通説になっている。
    寛永16年(1639)の寛永寺の五重塔を創建した後とされる。宗廣68才頃と推定されている。32才で出府し、68才に故郷へ、この30数年間に江戸・日光その他において幾多の大功績を残し、一人で帰ってきたとされる。宗廣は壇那寺であった唯念寺に身をおいた。そこから思い出のある京都に度々往復などして余生を送った。この間唯念寺に残る資料には「宗廣在世中に浄財を寄付して寺院を起立した」とある。
    唯念寺で安心立命仏道修行の静かな余生を送っていた時に、自分の肖像彫刻「木像」を残した。今も唯念寺の秘宝として大切に保管されている。宗廣は正保3年(1646)病を得て京都で没した。ときに年74才であった。

唯念寺の秘宝である自刻の像
彫刻像は法体の姿で、阿弥陀如来に向かって静かに合掌されている姿という。
木像は総高約43.6cm、その頭、耳の大きさが宗廣の人並み優れた明晰な頭脳の持ち主であったことを表し、目元のおだやかさ引き締まった口元に如何にも意思の強固な人柄であったことをこの像が物語っているとされる。
 

 

春日神社

御由緒
天平3年僧行基が四十九院建立の時、伽藍鎮護の神として祭神を院内庭園に勧請したのが創祀で、康安元年後光厳天皇の行在所であった時「春日大明神」の宸翰を賜わる。永正3年同院が真宗に転じた時、現今の地に遷座し現在に至る。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、古事類苑データベース、ウィキペディア(Wikipedia)、淡海の城、豊郷の昔ばなし、甲良豊後守宗廣、東近江市「能登川の歴史2巻」、

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