陣屋橋を渡ると勤節館が伊庭城跡とされる陣屋跡
お城のデータ
所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)伊庭町 map:http://yahoo.jp/8Wj4jK
区 分:平城(環濠集落=水城)
築城期:室町期 建久年間
築城者:伊庭高実
陣屋主:三枝氏(江戸期)
遺 構:石垣、堀、説明版
目標地:勤節館
駐車場:勤節館
訪城日:2015.11.6
ぢんやばし
お城の概要
城跡とされる伊庭集落、現在でも豊富な水量を誇る水路が縦横にめぐっており、当時は堅固な水城であったことを窺い知る事が出来る。
伊庭城址は、明治時代に伊庭小学校に、昭和23年小学校後に現在勤節館が建てられて保存されています。城址の四囲には石垣護岸(江戸期の石垣)の水路で囲い環濠集落・水城が残り、水堀の風情が残されている。
近年までは、伊庭川の水路(堀)は田舟で行き来し、田・農作業の水路にもは活用されいた、伊庭の集落の中心部にある。
歴 史
保元元年(1156)に崇徳上皇から源為義が伊庭荘を賜ったと「平家物語」に見え、鎌倉時代(1185頃~1333)には九条家の荘園であった。
伊庭城は、佐々木氏宗家である佐々木経方の子・行実の四男・高実が建久年間(1190~ 1199)に伊庭の地を領し、築いたとされる城郭である。
南北朝(1336~1392)の動乱期を迎えると伊庭氏は佐々木六角氏に属して活躍し、守護代に任じられるとともに、伊庭内湖周辺に広がる水田地帯の豊かな生産力や琵琶湖の湖上交通の掌握などを背景に強大な権力を持つようになっていった。
特に、佐々木六角氏による寺社や将軍奉公衆の領地の押領に対し、長享元年(1487)の将軍・足利義尚による第一次六角征伐および延徳3年(1491)の足利義材による第二次六角征伐を受け、山内・伊庭両氏を中心に家臣団が団結してこの難局を乗り越えるが、第二次六角征伐において六角氏一方の旗頭である山内政綱が戦死したことで、伊庭氏に権力が集中することになり、六角氏にとって伊庭氏は危険な存在となっていった。
伊庭氏の勢力拡大を恐れた佐々木六角氏は、文亀2年(1502)六角高頼が伊庭貞隆の排除を企て、伊庭の乱が勃発した。貞隆は一旦湖西へ逃れるが管領細川政元の援助を得て攻勢に転じ、高頼を蒲生氏の音羽城に追い詰め、地位を高めつつ室町幕府の仲介で和睦している。
永承4年(1507)管領細川氏の内紛から将軍職を巡る争いへと発展し、これに伴い六角氏と伊庭氏の対立も再燃し、永正11年(1514)に水茎岡山城主・九里信隆が高頼によって謀殺されると、伊庭貞隆・貞説父子は信隆の子・浄椿と組んで六角氏に抗した。
伊庭氏らは江北の戦国大名浅井亮政の支援を受け、永正13年(1516)には観音寺城を攻めたが失敗し、永正17(1520)高頼の子・定頼の軍勢に攻められた伊庭父子は九里氏とともに水茎岡山城に立て籠もったが敗れて没落した。
江戸末期の能登川知行図(彦根藩 井伊家・旗本 三枝家・郡上藩 柳沢家・山上藩(種))
所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)伊庭町 map:http://yahoo.jp/KTL_8p
現 状:伊庭地区事務所・宅地
区 分:平城 比高:ーーm
築城期:室町期 築城者:伊庭氏
遺 構:堀・石垣・説明板
目標地:伊庭地区事務所
駐車場:伊庭地区事務所
訪城日;2015.11.9
お城の概要
現在は集会所として使用される勤節館のある一帯であったとされ、方形状の居館跡が残ります。周囲の石垣が残り堀跡と思われる小川が城址を巡ります。小字名を「西殿」と呼ぶ。その広さは100m四方である。東隣には小字「東殿」が、さらに東に「古城」なる小字が残っており、伊庭氏時代の伊庭城の正確な位置は分かっていない。
お城の歴史
建久年間(1189年~1198年<建久三年(1192年)鎌倉幕府成立>)に佐々木行実の四男高実が伊庭氏を名乗りこの地を領しました。
元禄十一年(1698年)に旗本三枝氏が領主となりここに陣屋を構えました。 <現地案内板より>
伊庭城は、江戸時代に永禄11年(1697)旗本三枝氏が伊庭領主となって陣屋を構え、現在は集会所として使用される勤節館のある一帯であったとされ、小字名を「西殿」と呼ぶ。その広さは100m四方である。東隣には小字「東殿」が、さらに東に「古城」なる小字が残っており、伊庭氏時代の伊庭城の正確な位置は分かっていない。
歌碑勤節館の前に室町時代の有名な連歌師宗祇の生誕碑
能登川・林中央公園の連歌師宗祇の銅像(旅好きな連歌師)。……東北の白河、北九州の太宰府、それに越後へは7回訪れ、最後は旅先の箱根(湯本)で亡くなった。)
伊庭城と宗祇、案内板によると連歌師宗祇は伊庭氏の出身で出生の地。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、東近江市史能登川の歴史、現地説明板
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!