城郭探訪

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太平寺城(霧ガ城)   近江国(伊吹)

2016年01月07日 | 山城

お城のデータ

所在地:米原市太平寺(旧坂田郡伊吹町太平寺)map:http://yahoo.jp/GR3qxP

別 称:霧ガ城

区 分:山城 

創築年:鎌倉中期

築城者:京極氏信

城 主:京極氏信・京極道誉・・・

遺 構:土塁・空堀・郭

標 高:450m

訪城日:・・・訪城不可(瀬田の窪田城と同じく、社有地で許可取れず)

※太平寺集落跡は伊吹鉱山の管理下にあり、許可なく出入りすることは出来ません

 

 

お城の概要

『日本城郭体系 11』によりますと、

太平寺の住民は以前に春照に集団移住したため、行政上の表記はなくなっています。

伊吹山(標高1377m)の西側の山腹にあった伊吹山四か寺の一つ、太平寺(太平護国寺)の寺域に、その居城として築いたものである。

この城は、江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清までの居城としてあったが、永正年間(1504~21)に、高清が上平寺城に移り廃城となった。(後略)」とあります。太平寺の住民は以前に春照に集団移住したため、行政上の表記はなくなっています。

 

現在、伊吹町太平寺の集落は、当時セメントの原石採集場に接近することから春照に集落移住して、人は住んでない。

 

 太平寺城址の主郭は太平神社の辺りと思われ、神社の石段最下から北向きには深さ5m幅6mの空掘りと土塁が築かれている。太平寺集落の南端伝いには東西土塁と堀が30mに渡って築かれ、太平神社の背後は数段の削平地になっている。

 

太平寺集落は、伊吹山中腹(詳しくは)太平寺.滋賀県坂田郡伊吹村(現・滋賀県米原市)にあった廃村集落

太平寺のくらし

 千古の歴史を秘める古刹の面影はおろか、懐かしい村跡さえももはや判然としない。今はただ荒涼の山肌の起伏に、呆然とたたずむ。
 おおいかぶさってくる伊吹の険阻な山肌に生きた村人達。かつてはソバの白い花があたりを埋め、階段のような畑にゴボウやニンジンが作られていた。太平ニンジン、太平ソバの名が長浜近郷に知られていたのは遠い昔のことではない。

 

  明治2年の戸籍には「坂田郡太平寺村  家15戸 坊2軒 人62人 男28人 女34人 田1町7反 畑131ヵ所 ソバ畑298ヵ所 林163ヵ所 牛7頭」とある。厳しい自然環境を克服して余すところなく耕地を広げ、ソバや野菜の栽培に取り組んでいたかを知る事ができる。伊吹山8合目までソバ畑があり、集落上部の傾斜地は夏になると白いソバの花に埋まったと古老は語る。長浜あたりからも山が白く見えたと言い伝えられている。 (伊吹山資料館資料より)

そば畑

日本そば発祥の地・・・・伊吹そばの歴史

 そばは北方大陸から朝鮮半島を経て渡来したのは8世紀の頃と推定される。もっぱら備荒食糧として奈良・平安の二朝に歓種された。わが国最初の栽培地は近江の伊吹山下で、その後美濃・信濃・甲斐の山国に発達し、さらに関東・東北・北海道まで普及した。寛文8年(1668年)の伊吹山絵図によると、伊吹山8合目付近まで山畑の分布が記載されている。明治の物産誌によると、太平寺では耕地の半分がソバ畑で24石4斗5升を産出しており、近世に比し減少を報じている。本朝文選(1706年)によると、彦根藩士森川許六は「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む。酒々の風流物、誰か是を崇敬せぬものなし・・・・」と述べている。(からみ大根とは、この地域で取れる「伊吹大根」のこと)(伊吹町史 通史編より抜粋) 

 

歴 史
 

太平寺城は伊吹山の南西斜面、標高450m付近の太平寺の跡を利用して、佐々木定綱の四男・氏信が愛知川以北の、愛知、犬上、坂田、浅井、伊香、高島の六郡を与えられた後に築いた京極氏の居城である。

 城の背後を伊吹山の急斜面に守られ、東側は大富沢に落ち込む要害の地にあり、地形的には兵法で云う「後ろ堅固の城」である。また、北陸と東海を結ぶ北国脇往還道(現国道365号線)を押さえる要衝の地にある。


「坂田郡誌」によると、伊吹山で修行した僧三修(さんしゅう)が寺院を建ててから霊地となり、御醍醐天皇(1218~1330年)の頃、亀山天皇の皇子守良(もりよし)親王が同寺に身を寄せ、1333年には京都六波羅の戦火を逃れたあと伏見、花園両上皇、康仁親王らがかくまわれるなど皇室との縁が深かった。のちに湖北の領主となった京極道誉が北陸の要路である北国街道を守るためこの地に砦を築き、太平寺の館(やかた)を建てたという。
 京極氏は拠点・居城を太平寺城・上平寺城・柏原城・勝楽寺城および河内城と、その時々に変えていたとされ、この太平寺城がいつ頃まで城として使われていたのか明確ではないが、京極高清が明応年間(1492~1499)までは太平寺城を使っていたのではないかとされている。

 佐々木定綱の子、四男氏信は愛知川町以北の、「愛知」「犬上」「坂田」「浅井」「伊香」「高島」の六郡を与えられ、江北六郡の本拠としては、地理的に見て幾分よかった感がするここ伊吹山の西面麓「太平寺」に築城した。

 太平寺の名が示すように、寺院と城が一体化がうかがわれる。太平寺は太平護国寺とも呼ばれ、宝亀年間(770-780)に光仁天皇の勅願で建立された伊吹四大寺の一つである。

 このお城は江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清間での居城としていたが、永正年間(1504-1521)に、高清が上平寺城に移り廃城となった。

 

 『近江国坂田郡誌』には、「太平寺城址は標高1000の地に有り・・」と記されているが、1000m地点には遺構が確認できず、地形的に見ても急斜面で、冬季の積雪量は5~6mもあることから、城域は太平寺集落跡 標高450m(右下写真の中腹の台地)と考えられる。

 

太平神社脇の空掘

昭和28年に撮影された伊吹山と太平寺の村落(下中央の高台)住友大阪セメント(株)のカタログより抜粋

 

参考資料:・・・滋賀県米原市の名所・旧跡・観光スポット、HP太平寺、近江の城郭

訪城不可のため、転載・・感謝!

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


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