お城のデータ
所在地 :長浜市(旧東浅井郡浅井町)内保1264 map:http://yahoo.jp/iRW7xa
築城年 : 戦国期
築城者:
区 分:城郭寺院
現 状:寺院・集落
遺 構 : 土塁、堀
目標地:内保バス停・誓願寺
駐車場:農政会館
訪城日 : 2015.6.19
お城の概要
内保集落西部の小字西出にある城郭化された寺城が誓願寺で、戦国期の江北一向宗の中心寺院の一つである。寺の三方に土塁が残り、北と南の外側には川が流れている。
東南部の土塁は幅7~8m、高さ2.4mもあり保存状態が良い。南側の土塁に平虎口を設け、幅は3~4m、高さ1m弱でかなり削られている。北西部にある庭園の築山は延長線上に位置し、土塁の一部を兼用して設けられた可能性が高い。南と西側の土塁内側には、幅1m程の堀が見られ、北側の川水が引き込まれていたらしく、一部は庭水にも利用されている。敷地の南東部にある鐘楼は四方16mの台上に建っており、その周辺には幅1mの堀も巡らされ、石垣の周辺には立石や五輪塔等も見られる。
内保は湯次保の中心をなした地域と考えられ「大安寺三綱紀」に当地に8つの僧坊を有した連乗寺があったとし、誓願寺の北東の八幡神社が同寺の鎮守と伝わる。また、誓願寺のある小字西出は笠屋敷・西屋敷・旧屋敷と称す孫字があり、八幡神社のある小字八幡には長泉寺・旧屋敷・城戸の名が残っており、蓮乗寺を氏寺とする在地豪族の存在が想定でき、現在の誓願寺周辺には僧坊や屋敷が建ち並んでいたらしい。
特に、南東部から南側の遺構がよく残っており、城塞化した寺院の構造を垣間見ることができる。
歴史
天文年間頃には江北一向宗の組織化が進み、江北十ケ寺の1寺として誓願寺は一揆の指導的役割を果たしており、この頃には寺城として防備を整えたと思われ、浅井久政から要請のあった軍資金の借用や近江中郡での一揆蜂起を断るなどしているが、元亀元年(1570)三好三人衆が信長打倒を掲げ、浅井久政・長政父子が信長と離反するに及び、顕如は浅井氏の再起を望んで江北一向宗の指揮を任せたらしい。
湖北十ヶ寺
蓮如が寂した年があけると十六世紀。日本史の上で最大の内乱時代「戦国の世紀」の幕が開く。この乱世に本願寺は、信長の天下制覇をさえぎる巨大な法城にまで発展していく。 そして、福田寺は本願寺十一世顕如の時代に、石山本願寺を支える軍事力の重要な柱石となり、このころ福田寺は「長浜御坊」と称される小法寺を形成していく。 やがて、慶長元年(1596)、長浜御坊大通寺が建立されるが、このとき、福田寺をはじめ十ヶ寺は御坊建立の肝煎役をつとめている。 本願寺と福田寺に隆昌をもたらした力は何処にあったのか、それを知るためには、信長の覇権阻止に死闘を続けた湖北一向一揆をかえりみなければならない。 湖国の一揆は、湖東、湖西、湖北の三つの地域で燃え上がった。湖北三郡を中心として、浅井・朝倉の勢力と連携して信長と対決した江北一向一揆は、湖北の有力寺院十ヶ寺が結束した。その筆頭に立ったのが、福田寺十一世覚世であった。
湖北における一向一揆の中心となる真宗寺院を湖北十ヶ寺と呼び、さらにその中心となったのが福田寺(米原市長沢)である。福田寺は771年に建てられた坊舎布施山息長寺が起源である。蓮如と親交があったことから福田寺は本願寺の湖北の中心となり、福田寺俊は蓮如共に越前吉崎へ布教に向かっている。
顕如が本願寺法主となると全国の門徒衆は武装化して領主と対立するようになった。それに伴い寺は城塞化し福田寺も「長浜御坊」と呼ばれ一揆の拠点となった。
姉川の合戦後、湖北へ信長の勢力が伸びてくると寺院への矢銭の要求があり、これに不満を持った門徒は照光房という僧のもと一揆が出来た。
元亀2年正月信長は横山城の秀吉に北陸から大坂へ向かう通行人への取締りを強化し逆らえば成敗せよと命じた。
これは越前・湖北の本願寺門徒と大坂本願寺とを分断するためであった。この動きに福田寺覚世は福勝寺覚乗、順慶寺珍乗(長浜市西上坂町)、金光寺教通、淨願寺勝理(長浜市榎町)、箕浦誓願寺超宗(米原市箕浦)、眞宗寺裕乗(長浜市益田)、稱名寺性慶、内保誓願寺了乗、中道場(授法寺 長浜市下上坂町)の願心と猶宗らに呼びかけ浅井氏と同盟して信長と戦う事を決定した。
箕浦の戦い
押し寄せる浅井軍・一揆勢は5千余りだがそのほとんどは農民で鋤や鍬を持っての参加だったのでその十分の一とはいえ武装した堀・羽柴軍の前には余りにも非力すぎた。白兵戦を挑む前に矢や鉄砲の餌食となった。
それでも勇猛に羽柴軍・堀軍に挑んだ一揆軍だったが形勢は悪くなり北へ押し返されていった。退却に転じた一揆軍を羽柴・堀軍が追撃する。一揆軍は逃げ場を失い琵琶湖岸のさいかち浜へ追い詰められた。それでも羽柴・堀軍は降伏を許さず一揆勢を湖中へ追い立て多くの人々を溺死させた。
このように一方的な結果となった戦いで終わったが方々で一揆軍の奮闘があった。緒戦では広福寺覚裕は敵渡り合って、順慶寺珍乗は果敢にも討ってでて戦死した。顔戸山砦を守っていた秀村の家老樋口直房の家臣で浅井軍の騎馬武者を数十人討取った多羅尾相模守、土川平左衛門が戦死している。湖北町八日市にあった眞福寺の西空法師もこの戦いに加わり奮戦したが討取られた。法師に従っていた近藤久兵衛は憤然と敵陣へ飛び込みその首を取り返した。門徒衆はその首を首桶に入れ寺へ持ち帰った。しかし寺は天明の頃焼失し首桶もその時失われた。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城
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