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城郭探訪

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【近江水の宝】瀬田川流域をゆく-唐橋から旧南郷洗堰へ- INDEX

2013年10月03日 | INDEX

瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川として有名です。瀬田唐橋と旧南郷洗堰は、この川と琵琶湖と人々とのかかわりを雄弁に物語る二大モニュメントです。

旧南郷洗堰は明治38 年(1905)に竣工し、史上はじめて琵琶湖の水位コントロールを可能にしました。湖岸域や下流域の洪水を防ぎ、発電などの利水ができるうようになったのも、すべて旧南郷洗堰の恵みといってよいでしょう。

瀬田唐橋は『日本書紀』にも登場する有名な橋です。古来、琵琶湖・瀬田川の東西を結ぶ唯一の橋であったことから、瀬田地域には古代近江国の政治の中心が営まれる一方、壬申の乱(672 年)や源平合戦(1180 ~ 85年)、また本能寺の変(1582 年)の後の攻防など、しばしば日本史の表舞台となりました。

・京阪石山寺駅周辺

・大津放水路(湖都は水害対策が出来ていた)

   

・石山寺門前へ

・石山の貝塚・石山観光会館

・石山港~

・関西電力宇治発電所 【南郷呑口】

・旧南郷洗堰

・瀬田川洗堰

・アクア琵琶

・南郷水産センター

・オランダ堰堤

・瀬田高橋川と建部大社

 

・門前 瀬田名物「たにし飴」

・明治29年洪水碑 西光寺・・・

・瀬田の唐橋

              本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


・瀬田の唐橋

2013年10月03日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている

昭和30年代の瀬田の唐橋

『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。

 西詰名盤

龍王神社

本殿

龍光山 秀郷院 雲住寺  平成6年に建立された「百足供養堂」

 

雲住寺(うんじゅうじ)

民話『三上山のムカデたいじ』ゆかりのお寺と神社が瀬田の唐橋のたもとに並んであります。雲住寺は、ムカデ退治に活躍した藤原秀郷(俵藤太・たわらとうた)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっており、瀬田の夕照が眺められる部屋もあります。そのすぐ隣にあるのが、俵藤太と乙姫を祭神とする龍王宮秀郷社。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったといいます。ちなみに藤原秀郷は実在の人物で、平将門の反乱に際し、秀郷が将門の左目を射抜いて見事に征討。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、という由来から、ムカデ退治の伝説が生まれたと考えられています。

 

 百足供養堂のある寺
 近江八景・瀬田の夕照で知られ、日本三大名橋の一つでもある瀬田の唐橋は欄干の美しい橋だ。都への要衡としてたびたび歴史の舞台に登場するこの橋の東詰めに、雲住寺はある。
 雲住寺が開かれたのは応永15年(1408)。初めは天台宗だったが、16世紀中頃に浄土宗となっている。
 山門を入ると正面に本堂、そしてその左手に「百足(むかで)供養堂」と書かれた小さな六角堂が目にとまる。実はこれ、寺を開いた時の城主・蒲生高秀から逆上ること14代前の藤原秀郷(俵藤太=たわらとうた)により退治されたむかでの供養堂

 醍醐天皇の時代、俵藤太は勇名をとどろかした武将だった。あるとき勢多(瀬田)の橋に大蛇が出て往来をさまたげた。狩りの途中、橋を通った秀郷はこれをものともせずにその背中を渡って行く。すると突然、翁が秀郷の前に現れ、「私は橋の下にすむ龍神です。三上山を七巻半もする大むかでが出て、苦しめられています。ぜひ退治していただきたい」と言った。さて、秀郷は三本の矢を用意し、むかで退治に出た。二本の矢は次々に跳ね返された。そこで三本目には自分の唾をつけ、キリリと射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、むかでは退治された。

 蒲生高秀はこの地に寺を建立したわけで、以来、寺は瀬田の唐橋の守り寺となっている。寺にはむかで退治の縁起を刻んだ版木、また藤太ゆかりの太刀の鍔(つば)や、蕪矢(かぶらや)、鎗鉾先。また近江八景の版木などが残されている。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

唐橋東詰め・・下流側

唐崎中の島「唐崎ギャラリー前」

 

歴史と伝説

琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

古代

最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。

神功皇后の摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)の最後の決戦場となった。

大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀』 淳仁天皇 天平宝字八年九月)。

平安時代

  • 870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。
  • 871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。
  • 『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれ、同国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われ、朝廷への報告義務もあった。
  • 藤原秀郷の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。
  • 970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母が明け方に船で勢多橋を渡河(『蜻蛉日記』)。
  • 治承・寿永の内乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家、1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた義仲と合流し、粟津で敗死(『平家物語』)。

鎌倉・室町時代

  • 承久の乱 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 建武の戦い 1336年(建武4年)、足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 本能寺の変~天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたという。明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった。

江戸時代以降

膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。

木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。

文学

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋

東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。

松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。

五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋

橋桁の 忍は月の名 残り哉

 

2013.10.19の東西綱引き合戦の用の陣笠

大津歴史埋蔵物文化センターの玄関正面に!

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

発掘調査写真


・明治29年洪水碑 西光寺・・・

2013年10月03日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

琵琶湖大水害(明治29年(1896)9月12日

未曾有の大豪雨により、湖水位は3.76mに達し、浸水面積は約14800ha、浸水日数は237日に及んだ。

瀬田川東詰(橋下に)

瀬田川中の島西詰に

琵琶湖へ直接流入する一級河川は118本ありますが、琵琶湖から流出する河川は、瀬田川の1本だけです。しかし、昔の瀬田川は川幅が狭く、田上山からの土砂が流出して川底にたまり疎通能力を小さくし、琵琶湖周辺では洪水による大きな被害を受けていました。
また、琵琶湖の洪水は、河川の場合と異なり、水位上昇、低下ともに時間がかかり、洪水は長期間に及びました。

■明治以降の琵琶湖の記録的な大洪水
年月日気象状況被 害 状 況
明治18年
(1885)
7月4日
台風 明治大洪水
6月の強雨や台風による豪雨のため、湖水位が2.71mに達し、田畑約11800haが浸水。浸水日数は140日に及んだ。下流の淀川でも各所で堤防が決壊。
明治29年
(1896)
9月12日
台風
前線
琵琶湖大水害
未曾有の大豪雨により、湖水位は3.76mに達し、浸水面積は約14800ha、浸水日数は237日に及んだ。
大正6年
(1917)
10月29日
台風 大正大洪水
台風による豪雨のため、湖水位は1.43mに上昇し、浸水家屋約3500戸、浸水日数は50日に及んだ。
昭和28年
(1953)
9月27日
台風 台風13号
台風により湖水位は1mに上昇し、浸水面積は約6000haに及ぶ。琵琶湖下流では、宇治川左岸堤が決壊し、約2800haが浸水した。
昭和34年
(1959)
8月13日~14日
台風
前線
台風7号(5907)・土佐沖低気圧
台風による豪雨により、湖水位は1mに達し、浸水家屋は19515戸に及んだ。
昭和34年
(1959)
9月26日
台風 台風15号(5915)(伊勢湾台風)
台風による豪雨により、湖水位は0.87mに達し、浸水家屋は25736戸、浸水日数は40日に及んだ。
昭和36年
(1961)
6月26日
前線
台風
梅雨前線・台風6号(6106)
梅雨前線及び台風の豪雨により、湖水位は1.1mに達し、浸水家屋は2668戸、浸水面積は4688.8ha、浸水日水は15日に及んだ。
昭和36年
(1961)
10月26日~28日
低気圧 低気圧
低気圧の豪雨により、湖水位は0.43mに達し、琵琶湖周辺の各河川で堤防の決壊被害が発生した。
昭和40年
(1965)
9月17日~18日
前線
台風
秋雨前線・台風24号(6524)
秋雨前線及び台風24号の豪雨により、湖水位は1.02mに達し、浸水家屋は13944戸、浸水面積3100ha、浸水日数10日に及んだ。
昭和47年
(1972)
7月12日~16日
台風 豪雨・台風6号
台風による豪雨により、湖水位は0.92mに達し、浸水家屋は755戸に及んだ。
昭和47年
(1972)
9月16日~17日
台風 台風20号
台風による豪雨により、湖水位は0.74mに達し、浸水家屋は6995戸に及んだ。
昭和57年
(1982)
8月1日~2日
台風 台風10号
台風の豪雨により、湖水位は0.68mに達し、浸水家屋は1221戸に及んだ。
平成2年
(1990)
9月15日~20日
前線
台風
秋雨前線・台風19号
秋雨前線及び台風の豪雨により、湖水位は0.7mに達し、浸水家屋は1608戸、田畑浸水面積は3160haに及んだ。
平成7年
(1995)
5月11日~15日
大雨 大雨
大雨により、湖水位は0.95mに達し、浸水家屋は39戸、湖岸の浸食崩壊の被害も発生した。