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城郭探訪

yamaziro

上平寺城(桐ヶ城・霧ヶ城・刈安尾城)  近江国(伊吹)

2011年11月22日 | 山城

 

 お城のデータ

所在地:米原市(旧・坂田郡伊吹町)上平寺町 map:http://yahoo.jp/fSb_JK

別 称:桐ヶ城・霧ヶ城・刈安尾城

現 状:山林

区 分:山城

築城期:鎌倉期 永正年間(1468~1521)

築城者:京極高清

遺 構:曲廓・土塁・虎口・竪堀・堀切・土橋・案内板

標 高:666m  比高差:380m

城 域:300m×50m

目標地:伊吹神社

国指定史跡

訪城日:2011.11.23

戦い

大永4年(1524) 〇浅井亮政 VS ●京極高清・高慶・上坂信光

元亀元年(1570) 〇織田信長 VS ●堀秀村・樋口直房

お城の概要

上平寺城は伊吹山の南側の山腹、弥高山の刈安尾の尾根、標高666mの地点にあり、 上平寺地区の上平寺館にある伊吹神社横から登るルートと、弥高地区の平野神社から弥高百坊(刈安尾城)を経て、上平寺城に至るルートがある。

 上平寺地区の伊吹神社からは約45分で尾根筋の城郭群に出る。道の両側になだらかな斜面を利用して、広さ20m×20m程度の削平地が第一曲輪群に7つ、堀切を挟んで第二曲輪群には削平地が5つ確認できる。

 第二曲輪群から、一段高い尾根に本丸を設けている。本丸と第二曲輪群の間には竪堀を、本丸の背後(北)には堀切を配している。

 二の丸虎口は「2折れ」で空間こそ無いが,高度な築城技術といえる。また、周囲に土塁を巡らせた二の丸の曲輪、および深い竪堀は、京極氏時代のものではなく、元亀元年(1570)に対織田戦に備えて浅井氏、若しくは朝倉氏が改修したと考えるのが妥当であろう。

 なお、京極氏の菩提寺である清滝寺高源院
には、京極道誉をはじめ京極家歴代当主の墓がある。

お城の歴史

上平寺という名は、伊吹山4か寺の一つ上平寺(上平護国寺)の寺域にあることに由来している。

 上平寺は大永4年(1524)に京極氏の内紛によって焼失したが、元亀元年(1570)朝倉氏の疋田城、手筒山城
を落とし、金ケ崎城を攻める織田信長に叛旗を翻した浅井長政は、江濃国境を固めるために中山道を押さえる長比城、および北国脇往還道(現国道365号線)を押さえる苅安尾城と上平寺城を改修したことが信長公記にみえる。

-----------たけくらべ、かりやす取出の事-----------
 さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
------------------------------------------------

 「たけくらべ」は長比城のことであり、「かりやす」とは刈安尾城、および上平寺城のことである。また、堀とは門根城城主で浅井氏の重臣・堀次郎、樋口とは堀氏の家老・樋口三郎兵衛直房のことである。

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


上平寺館(京極氏館)      近江国(伊吹)

2011年11月22日 | 居館

上平寺城絵図

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡伊吹町)上平寺町 map:

現 状:山林

区 分:居館

築城期:鎌倉期

築城者:京極高清

焼 失:大永三年(1523)に焼失

遺 構:屋形・庭園・石垣・土塁・削平地

標 高:    比高差:10m

訪城日:2011.11.23

 

お城の概要

京極高清の湖北統一後の本城。 上平寺城に対する平時の居館。

 伊吹の上平寺区内に伊吹神社があり、その裏一帯が居館跡。

 「御屋形」「弾正屋敷」「蔵屋敷」「隠岐屋敷」「厩」と記された方形区画が数多く認められる。「御屋形」は言うまでも無く京極氏の居館を指すもので、この背後には「御自愛泉石」と記された部分がある。これは庭園のことで、今も瓢形の池や立石が残ります。

 非常に整備された屋敷跡が数多く、当時の賑わいを感じます。

大永三年(1523)には焼失したと思われる。

 伊吹町上平寺の集落を少し上がると「京極氏庭園跡」という看板が立てられ、昔、岩や池が配置されていたことをうかがい知る事ができます。この庭園は、1500~1523年頃、京極高清が作らせたといわれています。

お城の歴史 

 宇多天皇の降孫、雅信が源の姓を賜り臣籍に降下してより五代目の信綱(1220年頃)には、重綱、高信、泰綱、氏信の四人の子どもがあったが、上二人は佐々木を継がず、重綱は近江大原に住み大原氏を、高信は近江高島郡に住み高島氏を名乗ったが、あまり名声は挙がらなかった。三男の泰綱は京都六角館と南近江六郡をもらい、観音寺城を築いたので佐々木六角氏と呼んだ。四男氏信は京都京極館と北近江六郡をもらい柏原の館に入ったので佐々木京極氏と呼んだ。

 京極を名乗った氏信は、伊吹山に住む山賊「伊吹弥三郎」を高月町井口まで追い詰め、ここで討ち取ったので、幕府から柏原庄を与えられ、伊吹山上平寺に城を築き、柏原館に住んでいた。

 政経についていた老臣、浅井、三田村、河毛らも今度は高清についたので、政経が逆に湖北を追われることになった。長い間、伯父政経に苦しめられてきた高清もしばらく湖北に安住することができ、坂田郡伊吹町に上平寺城(上平寺館、苅安尾城)を改城してここに入った。京極家庭園は、この頃高清によって作られたと考えられる。

上平寺城04屋形の一角には庭園があり、今でも庭石が残されています。

日も訪問して頂きまして、ありがとうございました