お城のデータ
所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町竜法師2331 map:http://yahoo.jp/RAlUR7
現 状::個人宅
区 分:居館
築城期:江戸期(元禄年間)
築城者:望月出雲守
城 主:望月出雲守
遺 構:碑・説明板
目標地:現在は甲賀流忍術屋敷
駐車場:甲賀流忍術屋敷駐車城
訪城日:2014.10.2
お城の概要
現在は甲賀流忍術屋敷として整備されており、外見は普通の屋敷と何ら変わりないが、内部は侵入者から身を守る為のどんでん返しや落とし穴などの様々な仕掛けが当時の姿のまま残されている。
歴 史
築城年代は定かではないが、元禄年間に甲賀武士五十三家の筆頭である望月出雲守によって築かれたことから始まる。
甲賀流忍術屋敷とは http://www.kouka-ninjya.com/
甲賀忍者を世に知らしめた出来事が、長享元年(1487年)の鈎の陣です。
幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢し、山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、佐々木六角氏を助けた戦いです。
これを機に、望月出雲守を筆頭とする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになり、その後戦国時代には、各戦国大名を影から支えていきました。
望月出雲守邸の歴史
江戸時代元禄年間(1688~1704年)に建てられたものです。江戸時代に入り、世の中が安定を取り戻しつつありましたが、戦国時代から百年余りで乱世の記憶も覚めない当時、また甲賀ゆれ(豊臣秀吉による改易処分)等厳しい経験を重ねてきたこともあり、甲賀忍者として高度な資質、能力を有していた望月氏は、今後の不測の事態に備え、身を守るために自身の居宅に、多くのからくりを施したと考えられます。
奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、そのような中で培われた巧みな建築技術や、また非常に合理的な思考、深い洞察力を有していた忍者として、攻撃目的のからくりでなく、素早くその場を離れることを最優先にするというからくりの考案設計技術等、防御建築(防衛建築)としての観点からも、非常に見応えがあります。
九曜星に込められた意味
中央の星を八星が囲む九曜紋が満月の意味を持つ望月氏によって用いられました。
平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日8月15日に改められた。この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族として望月の姓が与えられました。そのあと、滋野氏が分家し、望月氏、海野氏、根津氏を起こし、滋野三家として継承されていきます。
この頃、家紋は望月氏は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用い、根津氏は丸に月、六連銭、丸に違い鷹の羽を、海野氏は洲浜や月輪七九曜、結び雁金、六連銭(六文銭)を用いられました。そのあと、平安時代の平将門の乱の武功のあった望月三郎兼家が、朝命により甲賀十六ケ村を贈られ赴任、甲賀望月を起こし、家紋として九曜紋(九曜星)を用いることになります。
甲賀忍者の歴史
甲賀忍者がその存在を大きく認められたのは、何といっても長享元年(1487)、「鈎(まがり)の陣」の戦いである。
当時、幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九代将軍義尚が六角氏を追って甲賀城を攻めた。六角氏は姿を隠し、甲賀山中でのゲリラ戦となったが、足利将軍の権威をかけたこの戦いは将軍義尚が鈎の陣屋で延徳元年(1489)に死ぬまでの約3年間続き、逆に甲賀武士(甲賀忍者軍団)の活躍ぶりを全国に知らしめる結果となったのである。(写真:甲賀流忍術屋敷望月家の祖甲賀三郎兼家を祭る社殿)
その5年後の明応元年(1492)にも、将軍職を継いだ足利義種が甲賀総攻撃を命じるが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びた。このように、佐々木氏にとって、甲賀忍者との結びつきはなくてはならないものとなっていた。
ところが永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのである。こうして近江の雄、佐々木氏の時代は去っていったのだが、この時、甲賀忍者集団が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもあった。
実はこの裏では、徳川家康が動いていた。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れていたという。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている。
もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。
今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。
「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。
しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。
このように先の見通しを早くから察知して、天下の成り行きを十分把握していたのが忍者の活躍の特徴である。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。
甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは寛永11年(1634)で、伊賀忍者たちの江戸移住よりおよそ50年程後になってからのことである。というのも、甲賀忍者は合議制の伝統が続いていたこともあって、先祖代々の土地を離れて江戸に移住することに反対するものも多かったためである。しかし将軍の度々の勧めを断り続けるわけにもいかず、ようやく大原氏以下数人の者が江戸移住を決意したことで、甲賀百人組もようやく江戸に舞台を移すことになった。
戦国の忍者たちは火術に長けていたことから鉄砲の名手も多く、江戸では鉄砲隊の職などで活躍していたようである。しかし、江戸幕府の身分制と世襲制の中で、忍術を伝える必要も学ぶ必要もなくなって、世代の交代と共に忍者は姿を消していく。鈴鹿の山間の地で生まれ、戦国の世に育った忍術は、太平の花のお江戸では消えざるをえなかったのだろう。
甲賀流 忍術屋敷
装束と変装
装束
忍者は普段家にいる時には一般の武士と同じ服装をしていたが、敵の状態を探りに忍びに出かけていく時は、テレビや映画に出てくるような黒装束であった。
情報を持って帰るのが役目の忍者は、できるだけ目立たない服装の方が良いと考えられ、表が茶染・柿染などの茶系統の色で、裏が黒かネズミ色の着物を着ていた。この上着の内側には物入れが作られていて、そこにはシコロ(小さな両刃の鋸)や三尺手拭などの細長い物を入れ、胸のところには銅製の鏡や渋紙・油紙・和紙などを入れ、防弾の役割もさせた。
身に付けているものは全てが敵の攻撃からの防御と、同時に攻撃の道具になるように、さまざまな工夫がなされていた。衣装一つを見ても合理性を追求した忍者の知恵が感じられる。
変装
忍者の衣装には黒装束の他にも、情報収集のために出掛けるときの「七方出(しちほうで)」という変装術用の衣装がある。この「七方出」のほかにも、連歌師や琵琶法師などにも変装していたし、ただ姿を変えるだけではなく、尺八を覚えたり、お経や呪術も学び、ときには方言までも習得するなど、怪しまれないためのいろいろな工夫や鍛錬にも努めていた。
商人
怪しまれることが少なく、品物を売り歩きながら
情報を収集できた。
ほうか師
現在の手品師のこと。
敵を油断させるのに都合がよかった。
虚無僧
編み笠をかぶっているので、顔を隠すことができた。
出家
お坊さんのことで、怪しまれにくく、
托鉢をしながら情報を集めた。
山伏
出家と同じように、人に怪しまれることが少なかった。
猿楽師
能役者のことで民衆に人気があった。
また猿楽の好きな大名に招かれることもあり、
敵城内を探ることもできた。
常型
普段の服装のこと。
今で言うリバーシブルの着物で、いざというときには
逆に着替えて敵の目をごまかした。
参考資料:甲賀忍者屋敷HP
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