城郭探訪

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磯城  近江国(米原)

2015年10月08日 | 居館

お城のデータ

所在地:米原市磯  map:http://yahoo.jp/BoYl59

区 分:居館

現状:畑地、宅地、県道

築城期:室町期

築城者:磯崎氏

遺 構:堀痕(水路)、石垣・石材

 高:90m  比高差:0m 

目標地:磯崎神社 

駐車場:磯崎神社 

訪城日:2015.10.4

県道2号線のバイパスの南側の畑地が残る。

石材石垣微高地

県道2号線のバイパスの北側は集落・畑地。

社か?石仏か?

お城の概要

磯山城・磯碕神社の北、県道2号線のバイパスで分断された比定地。

磯村に「小字大小屋」地名が残る。明治期に地籍図には微高地と思われる畑地が描かれいる。

 現状は、県道2号線のバイパスの南側の畑地が残る、北側は集落・畑地。

米原市磯2484

磯崎神社

 伊吹の荒ぶる神の毒気に当たった日本武尊が、醒井の居醒の清水で正気を取り戻し、都へ帰る途中に千々の松原にて崩御され、ここ磯山に葬られたと伝えられています。

 崩御された日本武尊は白鳥になって飛び立ったとも伝わっています。 日本武尊を厚く守護神として祭るため、この神社が建立されました。毎年5月3日の例祭では「磯武者行列」がおこなわれ、日本武尊にあやかって男児は武者姿、女児は稚児姿で巡行します。

歴 史

『江州佐々木南北諸士帳』に 「坂田郡 磯 宮士 磯崎金七」 とあり

『淡海木簡攫』には、「往古磯崎金七ト云武士住居ス、邸宅跡猶在ス、後裔伊賀国上野ノ家士ノアリト云」

信長公記 三巻 志賀の陣  志賀御陣の事

信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷(現滋賀県米原町)へ宿陣し、翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。

『近江百人一首』に、和歌の全文は「さざれなみ 磯越路(いそこしぢ)なる 能登瀬川(のとせがは) 音のさやけさ たぎつ瀬(そ)ごとに」で、歌の意味は「さざ波が磯を越すといふ、その越すではないが、越(こし)の国へ通う路にある能登瀬川の音のさやかなことよ、はげしく流れる川の瀬ごとに。」であると記されています。また同資料には、作者は「波多小足」で、略歴は「万葉集第三期の歌人。続日本紀に見える足人・広足・百足らと同族かという説があり、また武内宿禰の子孫かという説もある。万葉集にはこの一首のみが載っている。」とあります。収録されている歌集は「万葉集 巻第三」と記されています。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』『江州佐々木南北諸氏帳』『淡海国木間攫』『信長公記』ウィキペディア

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若宮城(若宮氏館) 近江国(近江町)

2015年10月08日 | 居館

石版碑(若宮公園内)

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡近江町)飯 map:http://yahoo.jp/murS2g

区 分:居館(平城)

築城期:鎌倉期~

築城者:若宮氏

現 状:若宮公園・宅地

遺 構:説明石盤、説明板

 高:90m  比高差:0m 

目標地:徳善寺・八幡神社 

駐車場:若宮公園

訪城日:2015.10.4

石版碑(若宮公園内)

若宮氏顕著碑(若宮公園内)

(若宮公園内)山内一豊の妻「千代」 <見性院>

山内一豊の妻の千代は若宮喜助友興の子として弘治三年(1557年)にここで生まれと言う説があります。一説には郡上八幡の遠藤氏の子という説もあります。永禄九年(1566年)に父友興が戦死し、叔母の夫の不破氏に養われたが、長じて飯村に戻りましたが、隣村の宇賀野村の長野家に身を寄せていた山内一豊母子と出合い、一豊の妻になったされます。夫の出世を助け、内助の功を発揮し、妻の鑑とされました。晩年は京都に住み元和三年(1617年)に没しました。墓は妙心寺大通寺にあります。 <現地案内板より>

(若宮公園内) 当地は、若宮氏館跡の西北部に臨接し、若宮氏の歓進した八幡神社の元宮があった所とされている。応永7年(1400年)頃の創建で、祭神は応神天皇である。

長く武をもって知られた若宮氏は、出陣の度に武運の長久をこの宮に祈願し、日常も崇敬の念を怠らなかった。
永禄年間(1558年から1570年)、社地が狭くなったため、若宮氏はこの地より約百メートル西方に社領を寄進し、そこに社殿を造営して移転した。以来約四百年間、現在の八幡神社が存続してきた。
この元宮跡を「どじょ野」と呼び、聖地として不浄の物を近づけぬよう村民は心がけてきた。
なお、当地の言い伝えによると、この地内に不遠慮に入るとにわかに腹痛が起こるとか、また、地中に黄金の鶏が埋まっていて、元旦には向かって声高らかに時をつくったとか言われている。 

 滋賀県中世城郭分布調査滋賀県中世城郭分布調査

お城の概要

飯村の西部に若宮氏の居館若宮城がある。若宮公園として整備され、周辺の水路は堀跡とも伝わりますが、明瞭な遺構はありません。

北側は上屋敷、南側は下屋敷、堀(水路)は

2006年大河ドラマは功名が辻で、千代の出生地説のある。千代さんの出生地は『郡上八幡』とも言われています。

目標地:徳善寺の西(JR北陸線のガードを潜る直ぐ

歴 史

 山内一豊の妻「千代」は、近江浅井家の家臣「若宮喜助友興」の娘として生まれました。
大正3年に刊行された『坂田郡志』によると、若宮左馬助の娘「お松」が一豊に嫁いで「千代」と改名された。

平成4年に近江町飯の牛尾田家において、土佐よりの書状(「牛尾田文書」)が発見され、「若宮お松」の嫁ぎ先が「五藤内蔵助」であると判り、「お松」と「千代」が別人であると判明しました。

しかしながら、千代の出自が近江の若宮家であることは依然かわるものではありません。
また現在の飯村には、「若宮外記仲間」といって19軒(昔は22軒)の仲間組織があり、牛尾田・伊部・吉田・宮崎・日比・吉用の各家が、若宮家遺領の田6反1畝・畑2反4畝・宅地3反7畝・山林1反を共同管理し、その年貢によって若宮家代々の法要が営まれています。

 幼くして両親を亡くした千代は、隣の宇賀野という集落に裁縫と行儀見習いに行っていた。
その人物こそが、一豊の母・法秀院だった。法秀尼は戦で夫を亡くし、織田信長に追われて、宇賀野の長野家に身を寄せていた。利発な千代を見初めた法秀院が、息子(一豊)の妻に推したと言われている。

 
山内一豊母『法秀院』の墓

宇賀野に山内一豊の母は、夫盛豊が亡くなった後、法秀院として出家し、次男・一豊らを連れて居を転々としたのち、永禄末年(1569)頃、4人の子どもを連れて宇賀野の長野家に身を寄せたと考えられています。法秀院はつつましく穏やかな性格で、村の子ども達から慕われていたと伝えられています。近所の子どもに裁縫や行儀見習いを教えていましたが、その中に後に一豊の妻となる千代の姿がありました。
一豊が長浜城主となった際、一時この地を離れたこともありましたが、生活の基盤は親しい知人が多い宇賀野におかれていたと言われています。その後生涯をこの地で過ごしたとされます。
なお、千代が名馬を買わせ一豊を出世させた逸話は有名ですが、金十両を持たせたのはこの母とも言われています

一豊と千代像(坂田駅前)。地元の彫刻家作品。

 NHKの大河ドラマ「巧妙が辻」(司馬遼太郎さん原作)の放送に際して作られたものだという。
一豊と千代が二人並んでいる像は、全国でもここだけだという話だった。

坂田駅前

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板・ウィキペディア

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飯村城(嶋氏館) 近江国(近江町)

2015年10月08日 | 居館

お城のデータ

別 称:嶋氏館

所在地:米原市(旧坂田郡)近江町飯 map:http://yahoo.jp/wWUCef

区 分:平城

現 状:春日神社・飯集落

築城期:戦国期

築城者:嶋若狭守秀安

城 主:嶋若狭守秀安

遺 構:石盤・堀跡

標 高:90m    比高差:0m

城 域:集落

目標地:徳善寺

駐車場:若宮公園に駐車(集落内は、道路も狭い)

訪城日:2015.10.4

お城の概要

飯村集落の東部に位置した城で、京極氏の根本被官今井氏の家老として嶋氏がこの館に住した。

JRで分断された飯村集落の東部に位置し、周囲を水路の巡る。北側水路は明治中期まで”通船川”として荷物の運搬用水路として機能していた。

一方集落の東側は北国街道が通るが、街道を横切る天野川は、この地を”渡し場”として機能して嶋氏は”渡し番”も担っていた。

天野川の上流には、今井氏の居城「箕浦城」「能登瀬城」の要路要壕であった。

ここ(消防ポンプ庫)路地から、春日神社へ

集落内の水路

徳善寺http://yahoo.jp/7Tayjy

歴 史 

江州佐々木南北諸士帳に、坂田郡飯村 住 佐々木浅井隋兵堀一族 島若狭守成久、島角左衛門、島四朗左衛門、島忠左衛門、島七左衛門、宮崎左近の名が残る

 京極氏の被官で近江坂田郡飯村城主・嶋若狭守秀安(入道朴底)の孫秀親・秀季(二男秀淳の子)または一族の新六郎が左近ではないかとするもので、『関ヶ原軍記大成』などに見える「嶋左近は浪人してから近江国に下り、高宮の里のそばに庵を作ってこもっていた。石田三成は天正の末に近江国の水口を領地に賜り、そこに住んでいたが、同じ近江に住む左近を石田は無理に招き、賓客のようにして自分の所においた」という記述から、左近は同郷人である三成に親近感を抱き、その家臣となって活躍したとするもののようである。

画像は飯村の嶋氏館跡(現滋賀県坂田郡近江町飯 春日神社)にある説明板で、嶋左近は当地の出自であるとされている。

嶋氏『島記録』に詳しいが、昔から嶋仲間が四組(角左衛門、新六、仁左衛門、十郎右衛門)があり、遺領の土地や位牌を守り毎年法要を行っている。

『近江坂田郡志』(中巻)によると、嶋若狭守は田那部氏とともに京極氏の譜代家臣・今井氏の臣下にあってこれを支えてきたが、姉川の戦いの際に田那部氏が寝返って信長方に付いた。やがて浅井氏が滅びたため田那部氏の栄達に反して嶋氏は没落、老いた父母を飯村に残して一族は他国へ散っていったという。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板・ウィキペディア 

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垣見氏館  近江国(長浜)

2015年07月02日 | 居館

 

お城のデータ

所在地 : 長浜市宮司町   map:http://yahoo.jp/v5ZoP0

築城年 : 室町期

区 分:平城(居舘)

遺  構 : 堀、土塁

訪城日:2015.6.27

お城の概要

垣見氏館は、南北100m、東西50mの長方形で、南東部の隣りが宮川陣屋となっている。

舘の西側と北側に土塁、南側と西側に堀が残っている。南側の川(堀に利用)に面して門があり、ここが虎口とされている。
明治初期には、舘の四囲に堀が巡り、土塁も南東部を除きほぼ一周していた。

東部の土塁は、元禄11年(1698)に宮川藩(堀田氏)の陣屋が設けられた時に、破壊されたと考えられている。

現在も子孫がお住まいで、10点あまりの中世文書を相伝され、虎口付近には門も構えられ、さすが旧家と思わせる雰囲気が漂うのが嬉しい。

歴 史

垣見氏は、京極氏被官で永享10年(1438)に本拠であった神崎郡垣見(東近江市)からこの地に分住して来た。
文明3年(1471)には、比叡山から山門領坂田荘の公文に任ぜられている。
、宮司町内の元宮川村に属する当字には垣見氏屋敷が知られている。

元宮川山王と称した楞厳院荘の総社日枝神社があり、地名を姓にもつ宮川氏の屋敷が有ったものと思われる。

永享10年には京極持高が同社の領地を安堵し、京極被官の神崎郡に本拠を持っていた垣見氏が分住してきて、文明3年垣見源次が坂田荘公文職の美作入道の押領を訴えて同職についたとする。

戦国期は、浅井氏に仕え忠実な家臣で、特に小谷城落城12日前にあたる元亀4年(1573)8月18日の浅井長政からの感状の存在は有名である。

館前で分流する十一川・中島川の両川は、下流の村々にとって重要な用水となるもので、その流れを堀として使う垣見氏は、用水管理者の役割をも担っていたと考えられ、土豪と村々の関係を知る貴重な資料とされる。

浅井氏の家臣である垣見助左衛門の屋敷があったという記録が残されている。また垣見氏は坂田荘の公文という立場でもあった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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世継館 近江国(近江)

2015年06月26日 | 居館
お城のデータ
 
所在地:米原市(旧坂田郡近江町)世継   map:http://yahoo.jp/nQ5mYb
区 分:居館
現 状:集落
築城期:鎌倉期
築城者:世継氏
廃城期:室町期
標 高:90m 比高差0m
遺 構:城址説明碑
目標地:春日幡神社
駐車場:世継公民館
訪城日:2015.6.19
 
お城の概要
 世継は旧近江町の西端に位置し、琵琶湖に面している。湖岸には浜堤が形成され、その上に集落が営まれている。この集落の東側一帯に広がる水田地帯である。この地は、町内を東西に流れる天野川が形成する沖積低地である。浜堤と水田との比高差は約1.3mを測り、比高差が0cmとなる地点は、東へ約750mと緩やかな傾斜となっている。
集落の南側には、浜堤を断ち切って天野川が流れ、さらにその南にはかつての入江内湖がみられる。
また、北側には浜堤と沖積低地が続き、小さいながら沼地が残っている。
このような地形をみると、水田化されてはいるけれど、かつでは浜堤のすぐ東側に後背湿地帯が、あるいは広く内湖がみられたものと思われる。
 
 
米原市(旧近江町)の世継にある春日神社 石田三成お手植えの藤
石田三成お手植えの藤が伝わる春日神社。
春日神社には石田三成がお手植えした伝わる藤があります。
また、石田三成の家紋である「下り藤」もここからのものか!
 

 

歴 史 

「淡海国木間録」に世継村 昔「代継三左衛門」ト云う武士住居トニ栽ス、浅井家に属す人ナリ・・・とある。

また、島記録に窪氏居住ろ見える。

世継の歴史を考えるうえで見過ごせないのは、その地名の由来である。『坂田郡志』は、「古く四大樹ありしより四ツ木の名を得た」との伝承をのせている。それに対して林屋辰三郎氏は、世継の地名をそのままに解し、世継の物語を伝える集団の居住するところと考えている。つまり世継とは、世々のことを継々に語ることであり、その語られた物語とは、古代より坂田郡に勢力を張っていた息長氏の伝承ではないかとのべられている。息長氏は天武八姓の主位である真人姓をうけ、奈良時代にひき続き郡の大領をつとめ、平安時代には正暦のはじめごろより長保2年にかけて(990~1000)、旧米原町に所在する筑摩御厨の長を任じられるなど、当地域との関係はけっして薄いものではない。

歴史的背景からみれば、旧朝妻郷内に属する世継は、古代においては天野川をはさんで朝妻湊と対をなす古津としてとらえる必要があろう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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源満仲(みつなか)館  近江国(大津)

2015年04月30日 | 居館

お城のデータ

所在地:大津市仰木町4-2-50 map:http://yahoo.jp/IFjb-2

区 分:居館

居 館:紫雲山来迎院満慶寺(現・真迎寺)

築城期:平安期

築城者:源満仲

遺 構:「多田満仲公頌徳碑」。遺構はない。

目標地:仰木太鼓館(滋賀県大津市仰木4丁目2−50)

城 主:源満仲(多田満仲)

訪城日:2015.4.30

駐車場:仰木太鼓会館

仰木太鼓会館

 

お城の概要

源満仲館は仰木小学校の西側にある「御所の山」と呼ばれる丘陵にき築かれていた。

現在は公園となって「多田満仲公頌徳碑」などが建てられているだけで遺構などはない。

歴 史

平安時代中期に活躍した源満仲(多田満仲)の館と伝えられる。

満仲は天禄2年(971年)に摂津国多田から仰木に来住し、十年余りを過ごしたという。

満仲は比叡山横川の恵心僧都に帰依して満慶と号し、居館を紫雲山来迎院満慶寺と称して善政を敷いたという。

居館:紫雲山来迎院満慶寺

(滋賀県大津市仰木2丁目7-10)http://yahoo.jp/hnkvc0

 日本浄土教の始祖である恵心僧都によって開基されました。本尊は恵心僧都の御作と伝えられている阿弥陀如来です。

 北東にある「御所の山」は、多田源氏の源満仲が天禄2年(971)に摂津多田から来往して10余年間に亘り、居館を構えた跡とされ、満仲の遺跡を示す石碑が今も残されています。満仲は恵心僧都と信仰が深く、僧都を戒師として出家し、法名を満慶と号し、居館を紫雲山来迎院満慶寺と称したと伝えられています。
 寺域内には、満仲の念持仏とされる薬師如来をお祀りしている薬師堂や「横川のお大師さん」に対して「辻のお大師さん」とか「仰木のお大師さん」と呼ばれている元三大師堂があります。
 又、飛地境内には、国の重要文化財に指定されている延命地蔵をお祀りしている地蔵堂があり、毎年、自治会の協力のもと、地蔵盆法要が奉修されています。

元三大師堂バス停前

満仲の生涯

当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基がそれぞれ主犯と共犯であったという。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許された。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない。

二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。長徳3年(997年)8月27日に卒去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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八木浜城(中村氏屋敷) 近江国(びわ町)

2015年04月28日 | 居館

 

お城のデータ

所在地 : 長浜市八木浜頂(旧東浅井郡びわ町八木浜)     map:http://yahoo.jp/3m8zXt

別  名 : 中村氏屋敷・市右衛門・代官屋敷

区 分 : 平城(居舘) 

築城年 :織豊期期

築城者:中村市右衛門

城 主:中村氏

遺 構:江戸期の屋敷跡(石垣・門・館・堀)重厚な茅葺の母屋・水路になっている堀・船着場の石段

目標地:八木浜漁港・八木浜会館

訪城日:2015.4.25

駐車場:八木浜会館

江戸期の建物(重要文化財)と石垣が現存

主屋中庭

お城の概要

北側に堀川とそれに沿っての石積み、中央に船着場の石段、西側に石積みの土居と門、東側に堀と石積みが残る。南側の屋敷境の遺構は、認められない。
主屋の南に展開する4反余りの空地は、「馬場」と呼ばれ(現在は新築の末裔宅)ている。また、北西隅の小屋は、「馬小屋」と伝えられている。
葦葺きの主屋は風格があり、旧家。

船着き場

歴 史

「淡海小間攫」には、「八木浜村、当村ニ中村市右衛門ト云人アリ、元祖ハ幸野市右衛門ト云シ由、志津ケ嶽一戦ノ時、秀吉ヨリ感状玉ハリシト云、後孫帯刀ト云人有ト云」と記されている。

八木浜の土豪中村氏の屋敷跡である。中村氏屋敷との別名がある事や中村氏が豊臣秀吉からの書状を保有されていることなどからして、長浜城主時代の豊臣秀吉からなんらかの代官に任じられていた。

家伝によれば伊予河野氏の出で、初め越智姓を名のっていた。当地に来てからは、浅井氏に仕えたと云われ、

江戸時代には井伊家(彦根藩)の代官をしていた。現在も地元では、当家を屋号で「市右衛門」と呼ぶ。他に「代官屋敷」と称するのは、この歴史的背景によるとされる。

駐車場:八木浜会館

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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観音寺城 御屋形跡 近江国(安土)

2015年03月18日 | 居館
 
中井均県立大学教授の講話

 中井教授の講演に耳を傾けた。
「観音寺城は、人工的に割った石を積んだ石垣で最古例で、日本の城のルーツ。
こんな素晴らしい石垣は地域の誇り守ってほしい」と呼びかけた。
 
その後、石垣の詳細を説明、砕石の矢穴の写真を自ら撮影しながら、参加者の質問に丁寧に答え説明された。
中井教授の歴史講話が開かれ、石垣城郭の先例として知られる観音寺城について知識を深めた。
 
 
御屋形の石垣は、(信長以前の重ね積)石垣のルーツ!
 
天満宮が御屋形跡。
日吉神社の鳥居の前から西へ進み、突き当たったら右手の石段を上ると天満宮。
「観音寺城 御屋形地形図」 
 
お城のデータ
 
所在地:近江八幡市安土町石寺 (旧蒲生郡安土町石寺)
 
区 分:居館
 
遺 構:曲郭・土塁・土橋・堀切・石垣
 
築城期:南北朝時代 建武2年(1335年)
 
築城者:佐々木六角氏頼
 
目標地:観音正寺参道の日吉神社
 
訪城日:2013.3.15
 
お城の概要
 
 近江八幡市が里山整備に立ち上げた「豊かな杜づくり隊」が2014年10月から地元の人々、一般市民の参加も募って整備作業を進めた。
御屋形したの石垣下も整備され、素晴らしい石垣出現!
 
信長以前に「高石垣の御屋形」が安土に存在した。
 
御屋形跡の遺構には、曲郭・土塁・土橋・堀切・石垣が残るが、未整備
 
御屋形(天満宮)の右手背後から追手道があり、北北西に山を登っていくと大石垣に着きますが、ほとんど道なき道を行き、途中林道に出す。
 
 
歴 史

 正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。

ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

廃 城

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。

永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ず、そのまま廃城になったと思われている。

矢穴の石矢穴の石
 
御屋形跡
 
遺構には、曲郭・土塁・土橋・堀切・石垣が残るが、未整備
 
 土塁土橋土塁堀切
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布施野城    近江国(守山)

2014年12月17日 | 居館

お城のデータ

所在地:守山市播磨田町字堂の内   maphttp://yahoo.jp/FfNogq

現 状:畑地・集落

区 分:居

標 高:84m 比高差:0m

遺 構:曲郭跡(微高地)

築城期: 

築城者:

城 主:

目 標:播磨田町の北西端の布施野集落

駐車場:路上駐車場

訪城日:2014.11.27・2014.12.13


お城の概要

布施野城は、布施野集落の西側付近にあったとされる。小字を「堂の内」という微高地の畑が存在し、城館があったと考えられている。また北西に隣接する田地も城関連の地名小字「条ノ越」という。

 小字「堂の内」と「条ノ越」・・・「城ノ内」・・・「城ノ越(腰)」の転訛され、城跡との関連が考えられる。「堂の内」は、周囲に対して一段高い微高地となっている。

布施野城址とされる小字堂の内一帯の田畑は、西の小字条ノ越に対して一段高くなっています。さらに、堂の内のなかにさらに一段高い畑地があり、城の中心部と推測されます。在地領主の居館カ?。

歴 史

伝承や史料はなく、詳細は不明である。が小字「堂の内」と「条ノ越」・・・「城ノ内」・・・「城ノ越(腰)」の転訛され、城跡との関連が考えられる。「堂の内」は、周囲に対して一段高い微高地となっている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、守山城物語  

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葛木(かつらぎ)館   近江国(甲南)

2014年10月03日 | 居館

お城のデータ 

所在地:甲賀市 (旧甲賀群)甲南町葛木字御手洗      map:http://yahoo.jp/E15wr7

現 状:水田・県道

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:葛木氏

城 主:葛木氏

遺 構:圃場整備で消失

目標地:西川ローズ工場

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.10.9

お城の概要

 葛木居館は、甲南町葛木のうち、集落の北方に広がる田園地帯にあったとされる。
甲賀市史によると、明治初期に作成された絵図には、すでに水田地帯ではあるものの、堀の名残りと思われる帯状の田地に取り囲まれた東西約65m×南北約40mの区画(堀を含む)が描かれており、この地に城館を推定している。

ただ比定地は、北側に広がる丘陵地の麓に位置し、近世以前に築く単独城館の立地とは考えづらく、丘陵上にあった詰城に対する居館なのではないかと想像する。

歴 史

 在地土豪である葛木氏の居館だとされる。
『太平記』にみえる、正平15年(1360)近江佐々木勢に対抗するため、伊勢・伊賀勢の仁木義任が陣取った「葛木山」がこの一帯にあったとする説もある。

甲賀五十三家の一つに、葛木丹後守名が見える。葛城家 甲賀市甲南町葛木 字が異なりますが同義語。

 近江の地誌『近江淡海温故録』によると、甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並みの家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云うは、釣の陣に神妙の動あり。日本国十の大軍眼前に見及び故、其以来名高く誉れを伝えたり。元来此の忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし故なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し、甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず伝々。

 甲賀は都に近く情報が入りやすわりには、山間部にあり、そして常に合戦に関ってきた経験は、後の世に「甲賀者」呼ばれる、「忍者」に発展する素地を備えていたものと思われます

居館城の詰めカ(居館比定地の背後の山)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系  

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望月屋敷 近江国(甲南)

2014年10月03日 | 居館

お城のデータ 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町竜法師2331      map:http://yahoo.jp/RAlUR7

現 状::個人宅

区 分:居館

築城期:江戸期(元禄年間)

築城者:望月出雲守

城 主:望月出雲守

遺 構:碑・説明板

目標地:現在は甲賀流忍術屋敷

駐車場:甲賀流忍術屋敷駐車城

訪城日:2014.10.2

お城の概要

 現在は甲賀流忍術屋敷として整備されており、外見は普通の屋敷と何ら変わりないが、内部は侵入者から身を守る為のどんでん返しや落とし穴などの様々な仕掛けが当時の姿のまま残されている。

歴 史

築城年代は定かではないが、元禄年間に甲賀武士五十三家の筆頭である望月出雲守によって築かれたことから始まる。

甲賀流忍術屋敷とは http://www.kouka-ninjya.com/

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甲賀忍者を世に知らしめた出来事が、長享元年(1487年)の鈎の陣です。
幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢し、山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、佐々木六角氏を助けた戦いです。
これを機に、望月出雲守を筆頭とする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになり、その後戦国時代には、各戦国大名を影から支えていきました。

望月出雲守邸の歴史

江戸時代元禄年間(1688~1704年)に建てられたものです。江戸時代に入り、世の中が安定を取り戻しつつありましたが、戦国時代から百年余りで乱世の記憶も覚めない当時、また甲賀ゆれ(豊臣秀吉による改易処分)等厳しい経験を重ねてきたこともあり、甲賀忍者として高度な資質、能力を有していた望月氏は、今後の不測の事態に備え、身を守るために自身の居宅に、多くのからくりを施したと考えられます。
奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、そのような中で培われた巧みな建築技術や、また非常に合理的な思考、深い洞察力を有していた忍者として、攻撃目的のからくりでなく、素早くその場を離れることを最優先にするというからくりの考案設計技術等、防御建築(防衛建築)としての観点からも、非常に見応えがあります。

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九曜星に込められた意味

 中央の星を八星が囲む九曜紋が満月の意味を持つ望月氏によって用いられました。

 平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日8月15日に改められた。この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族として望月の姓が与えられました。そのあと、滋野氏が分家し、望月氏、海野氏、根津氏を起こし、滋野三家として継承されていきます。
 この頃、家紋は望月氏は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用い、根津氏は丸に月、六連銭、丸に違い鷹の羽を、海野氏は洲浜や月輪七九曜、結び雁金、六連銭(六文銭)を用いられました。そのあと、平安時代の平将門の乱の武功のあった望月三郎兼家が、朝命により甲賀十六ケ村を贈られ赴任、甲賀望月を起こし、家紋として九曜紋(九曜星)を用いることになります
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甲賀忍者の歴史

甲賀忍者がその存在を大きく認められたのは、何といっても長享元年(1487)、「鈎(まがり)の陣」の戦いである

 当時、幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九代将軍義尚が六角氏を追って甲賀城を攻めた。六角氏は姿を隠し、甲賀山中でのゲリラ戦となったが、足利将軍の権威をかけたこの戦いは将軍義尚が鈎の陣屋で延徳元年(1489)に死ぬまでの約3年間続き、逆に甲賀武士(甲賀忍者軍団)の活躍ぶりを全国に知らしめる結果となったのである。(写真:甲賀流忍術屋敷望月家の祖甲賀三郎兼家を祭る社殿)

その5年後の明応元年(1492)にも、将軍職を継いだ足利義種が甲賀総攻撃を命じるが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びた。このように、佐々木氏にとって、甲賀忍者との結びつきはなくてはならないものとなっていた。

ところが永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのである。こうして近江の雄、佐々木氏の時代は去っていったのだが、この時、甲賀忍者集団が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもあった。

 実はこの裏では、徳川家康が動いていた。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れていたという。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている

 もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。

 今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。

「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。

 しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。

このように先の見通しを早くから察知して、天下の成り行きを十分把握していたのが忍者の活躍の特徴である。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。

 甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは寛永11年(1634)で、伊賀忍者たちの江戸移住よりおよそ50年程後になってからのことである。というのも、甲賀忍者は合議制の伝統が続いていたこともあって、先祖代々の土地を離れて江戸に移住することに反対するものも多かったためである。しかし将軍の度々の勧めを断り続けるわけにもいかず、ようやく大原氏以下数人の者が江戸移住を決意したことで、甲賀百人組もようやく江戸に舞台を移すことになった。

戦国の忍者たちは火術に長けていたことから鉄砲の名手も多く、江戸では鉄砲隊の職などで活躍していたようである。しかし、江戸幕府の身分制と世襲制の中で、忍術を伝える必要も学ぶ必要もなくなって、世代の交代と共に忍者は姿を消していく。鈴鹿の山間の地で生まれ、戦国の世に育った忍術は、太平の花のお江戸では消えざるをえなかったのだろう。 

 
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甲賀流 忍術屋敷
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装束と変装

装束

忍者は普段家にいる時には一般の武士と同じ服装をしていたが、敵の状態を探りに忍びに出かけていく時は、テレビや映画に出てくるような黒装束であった。

情報を持って帰るのが役目の忍者は、できるだけ目立たない服装の方が良いと考えられ、表が茶染・柿染などの茶系統の色で、裏が黒かネズミ色の着物を着ていた。この上着の内側には物入れが作られていて、そこにはシコロ(小さな両刃の鋸)や三尺手拭などの細長い物を入れ、胸のところには銅製の鏡や渋紙・油紙・和紙などを入れ、防弾の役割もさせた。

身に付けているものは全てが敵の攻撃からの防御と、同時に攻撃の道具になるように、さまざまな工夫がなされていた。衣装一つを見ても合理性を追求した忍者の知恵が感じられる。

変装

忍者の衣装には黒装束の他にも、情報収集のために出掛けるときの「七方出(しちほうで)」という変装術用の衣装がある。この「七方出」のほかにも、連歌師や琵琶法師などにも変装していたし、ただ姿を変えるだけではなく、尺八を覚えたり、お経や呪術も学び、ときには方言までも習得するなど、怪しまれないためのいろいろな工夫や鍛錬にも努めていた。
 
商人
怪しまれることが少なく、品物を売り歩きながら
情報を収集できた。

ほうか師
現在の手品師のこと。
敵を油断させるのに都合がよかった。

虚無僧
編み笠をかぶっているので、顔を隠すことができた。

出家
お坊さんのことで、怪しまれにくく、
托鉢をしながら情報を集めた。

山伏
出家と同じように、人に怪しまれることが少なかった。

猿楽師
能役者のことで民衆に人気があった。
また猿楽の好きな大名に招かれることもあり、
敵城内を探ることもできた。

常型
普段の服装のこと。
今で言うリバーシブルの着物で、いざというときには
逆に着替えて敵の目をごまかした。

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参考資料:甲賀忍者屋敷HP

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古屋敷館    近江国(甲南)

2014年09月28日 | 居館

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町市原字城  (旧甲賀郡市甲南町市原字城)   map:http://yahoo.jp/a-3hNJ

別 名:市原城

現 状:竹林

区 分:居館

築城期:鎌倉期

築城者:

城 主:

遺 構:曲輪・土塁・横堀

目標地:西願寺・美須美神社

駐車場:杣川に注ぐ滝川の川岸

訪城日:2014.9.27

水田の中にポツンと竹林があります。竹林の中は藪状態ですが、土塁がコの字状に残り、外側に堀跡らしい窪みが残存。

お城の概要

古屋敷館は、市原集落の北はずれ、杣川に注ぐ滝川が西辺で接している。すぐ北方では滝川を挟んで目と鼻の先に杣中城が対峙する。
「甲賀郡志」では、ここが「市原城址」としている。

現在残る遺構は、概ね北半分だけと推測され、竹林に覆われている。

縄張は大半を占める主郭Ⅰは南側を除き25mの土塁で三方囲み幅9m・高さ2mが残存、土塁で区画され一段低い曲輪Ⅱは三角形が設けられ、それぞれが土塁に囲まれている。土塁の外側にはの横堀が幅8m、深さ2~3mにもおよぶ、さらにその外周には土塁がめぐり守備している。

南側は田地として開削・消滅しているため、垣根がされている。

 

「太平記」には、正平15年(1360)仁木義任率いる伊勢・伊賀の軍勢が、佐々木高頼の籠もる市原城を攻撃したことが見える。ただこの市原城が、市原地区に所在する市原Ⅱ城や市原城の可能性もある。

曲郭Ⅱ

竹林の外、北隣に井戸(危険)

東側土塁

南側から曲郭Ⅰへ

駐車スペース川岸

北は滝川を挟んで目と鼻の先に杣中城。 市原集落の北はずれ、杣川に注ぐ滝川が西辺で接している。

古屋敷館遠景

西願寺(東・・・直線150m)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、日本城郭体系

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一円館 近江国(多賀)

2014年09月09日 | 居館

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町一円    map:http://yahoo.jp/wmqG_9

現 状:山林・橿原神社

遺 構:曲輪・土塁

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:

城 主 

目標地:橿原神社

駐車場:一円公民館駐車場

訪城日:2014.9.8

居館と推定される「橿原神社」には、平安庭園が残存する。

多賀町埋蔵物センターのHPでは、一円館は城館・中世・山頂・森林としている。

 

お城の概要

一円館は、一円集落北側背後の山稜部一帯にあったとされる。

県の分布図では集落最北に鎮座する橿原神社付近から北方のダム湖までの山林が城域になっている。
山林であるため「館」ではなく「丘陵城」でもよい立地だが、館という表現なので山麓の集落内に居館を構え、詰城が山中に築かれていたのかも。

山麓の橿原神社の南側は削平地が残存するが後世のものかも。また城域の山麓付近と山頂付近探索した。

一円公民館駐車場~徒歩で「野鳥の森(ビジターセンターは近年閉館)・芹川ダムへ向かいビジターセンター北東の山に入山が?

山麓の橿原神社の南側は削平地が残存する

頂部の削平地

歴 史

『近江の顔 近江の城と古戦場』に収録されているが、詳細不明

淡海の城では、一円廃寺院跡カ?。伝承地で、現況は山林山腹。 

 

多賀氏について

 

多賀氏は、古代より多賀地方および近接の甲良地方に土着の豪族であり、多賀社を氏神にしていたと考えられる。しかし、家系図の上では公家の中原氏と結び付けられ、天武天皇皇子・舎人親王の末裔である中原真人長谷に始まる江州中原氏が、多賀社の神官を務め、多賀氏を名乗ったのが始まりであるとされている(旧説では、江州中原氏は崇峻天皇皇子・定世親王の後裔と見なされていたが、今では仮冒[他人の名を語る偽称]と判じられている)。

 

いずれにしても、多賀氏は鎌倉初期から中期にかけて多賀と甲良に勢力を張る氏族であり、室町時代には犬上郡および坂田郡にて同族間で争いながらも隆盛であった。戦国期には、甲良の下之郷城に居城した多賀高忠を始めとする幾人かの著名な武将の名が見え、織田政権下・豊臣政権下でも為政者に直仕する、堀氏と縁戚関係になるなどして有利に活動していたが、関ヶ原の戦いの際、敗軍となる石田三成方についたことが禍し、戦後、所領を没収されて没落した。

 

集落内に赤ノ井が流れる。

野鳥の森閉鎖で通行止めに。

淨厳寺跡に親鸞上人像

一円公民館きぬがさ地蔵尊 Z形の路地江戸期の屋敷が残存する

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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磯部館 近江国(愛知川)

2014年09月08日 | 居館

磯部館跡

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町石橋 (旧愛知郡愛知川町石橋)    map:http://yahoo.jp/ju-3DA

現 状:田地

遺 構:

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:磯部 時基

城 主:磯部 時基

目標地:石部神社

駐車場:路上駐車場

石橋「石部神社の東側」

圃場整備後の比定地

お城の概要

石部神社の背後(東)、近江鉄道との間の畑地が磯部館跡とされるが、遺構らしきものは残されていない。

中仙道の鳥居

歴  史

磯部   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

磯部氏(いそべし)。佐々木盛綱を祖とする佐々木党であり、加地氏の庶流。建仁元年(1201年)五月十四日の「吾妻鏡」の条にみえる。
 
 加地信実の六男・左衛門尉時基は、もともとは加地氏を名乗っていたが、近江国甲賀郡石部(現・滋賀県湖南市)を賜り、石部と名乗らず磯部を名乗った。現在はいしべと発音するがいそべとも発音したためである。

磯部 時基(いそべ ときもと、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の佐々木氏一族の武将。加地信実の六男。佐々木 時基とも記される。左衛門尉。通称は六郎左衛門。子に基氏がいる。

 系図    加地信実
      ┃
      時基(六郎左衛門尉)
      ┣━━━┳━━━┳━━━┓
      基氏  二郎  四郎  五郎
      ┃
      二郎

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系、近江の城郭、ウィキペディア(Wikipedia)』

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香庄館(香庄城)   近江国(安土)

2014年09月05日 | 居館

 現地住宅案内板に、香庄城(館)跡とありました。雲雀が飛んでます。

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町香庄 (蒲生郡安土町香庄)  map:http://yahoo.jp/F47VWk

別 名:香庄城

現 状:田畑

区 分:居館 

遺 構:堀痕、現地住宅案内板に、香庄城(館)跡

築城者:香庄佐渡守頼輔

築城期:室町期

城 主:香庄佐渡守頼輔・香庄源左衛門賢輔(佐々木六角氏の臣)

目標地:香庄会議所・熊野神社

駐車場:香庄会議所 路上駐車場

訪城日:2014.9.3

 

お城の概要

近年、圃場整備や河川改修で地形は往時大きく変わり、東に

香庄館(香庄城)は、下街道沿いに位置し、街道警備の役割か?。

香庄集落は下街道より北150mで、南端の熊野神社を含む範囲が香庄城郭だったか?

山本川と蛇砂川の間であるが、防御性は非常に低い。

熊野神社の東側の神社土塁熊野神社 熊野神社古墳群とありました。

歴 史

香庄氏の代々の居館で、香庄佐渡守頼輔・香庄源左衛門賢輔(佐々木六角氏の臣)の在館が「近江奥地誌略」に記さている。

土塁・空堀。熊野神社境内の土塁 熊野神社境内南側

熊野神社南東端から城址方向。

 土塁痕熊野神社から城跡方向堀痕城址から熊野神社

長田町大町の下街道・常夜灯長田町大町集会所

 近江八幡の城マップ
近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江八幡の城、日本城郭体系11

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