goo blog サービス終了のお知らせ 

城郭探訪

yamaziro

安孫子北城 近江国(愛知群)

2014年05月10日 | 館跡

 

所在地:愛知郡愛荘町安孫子 西出  map:http://yahoo.jp/j3LAG6                                                                                   (旧愛知郡秦荘町)

遺 構:石碑、土塁

区 分:平城

築城者:安孫子氏

築城期:平安期

訪城日;2014.5.9

安孫子城は、滋賀県中世城郭分布調査では南北2城あったとされ、南北城ともに約100m四方の単郭であった。往時の岩倉川は北城の150m北側から西側に直角に屈曲して流れていたとされる。

 これは湖東地方の国人領主によく見られる手法で、比較的大きな河川を外堀として改良したものと見られる。河川を外堀とし南北城を持っているのは、近くの島川城と性質が類似している。

 北城は「西出の大門」
 

歴 史

安孫子城は、平安末期に開発領主として土着した安孫子氏が領主制を展開し築城したとされる。安孫子氏は『今昔物語集』で著名な矢取地蔵の門前を守護していた。

西出集落に残された土塁の名残り

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


杉谷屋敷カ 近江国(甲賀・甲南)

2014年05月02日 | 館跡

所在地:甲賀市甲南町杉谷 map:http://yahoo.jp/mNdufR

初城主:杉谷氏

訪城日:2014.5.1

集落内

杉谷神社

神社の裏の壇丘・竹林

杉谷集落の杉谷集落の「杉谷神社」一体が杉谷屋敷・・・・。「杉谷善住坊の屋敷だ」が!


 ここ甲南町一帯は丘陵地帯であり、畑地などもほとんどが階段状に作られていて、土塁や削平地などがある。

 この杉谷屋敷跡の周りの畑や宅地化されており遺構との区別がつき難い。南側竹林には7~8mの段差のある削平地があり、この辺りが杉谷屋敷の跡ではないかと思われるのだが・・・・・。

『日本城郭体系 11』によりますと、

所在地は「甲賀郡甲南町杉谷」、創築年代は「天正二年(一五七四)」、形式は「山城」です。

城の歴史は「杉谷屋敷は、甲南町大字杉谷の西方の山腹にある。採土のため半壊しているが、西面土塁(高さ四m)と、南北土塁が一部残存し、西面土塁は山麓を削り、城郭を独立させるために空堀がある。また、北面には、平坦地が確認でき、西側中央に井戸がある。

杉谷屋敷は、天正二年に近江国守護六角氏が築いた最後の陣であり、甲賀武士杉谷氏の城を整備して利用している。

元亀二年(一五七一)、織田信長は、六角氏・甲賀武士の守る鈴鹿峠を通れず、千種(ちぐさ)峠(蒲生郡)を越える。

その時、六角承禎の命を受けた杉谷善住房は、信長を討とうとするが失敗して、翌年捕えられ、立ちながらにして地に埋められ、七日間竹鋸で首を引き切られる。

代々杉谷氏は鉄砲の名手で、善住房も甲賀随一の名手といわれ、その鉄砲も「甲賀張り」を使用したといわれる。」とあります。なお、甲賀郡甲南町杉谷は現在甲賀市甲南町杉谷になっています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


 


山上館 近江国(甲賀・水口)

2014年04月27日 | 館跡

 

所在地:甲賀市水口町山上字下り苗代・岩ノ谷  map:http://yahoo.jp/XEdkNO

現 状:グラウンド

遺構:土壇

形式 :居館

築城者:山上氏

訪城日:2014.4.25

上館は、飯道山をピークとする山塊の南東麓の台地上に営まれる山上集落内にあった。

山上公民館南側の町民グラウンドは、周辺とは1段高い位置にあり、旧来「城山」「殿山」と呼ばれ、土塁囲みの曲輪に石組みの井戸があったと伝えられている。
現在遺構は見られないが、東側山中に所在する山上城との間には大堀切があったといい、その名残りが路地として残っている。
山上の地は、信楽との境界付近に位置し、杣川を見下ろす台地上に所在することから、戦略上重要視されていたと考えられ、山上城・山上館をはじめ、さらに南方には山上Ⅰ・Ⅱ城も築かれていた。
山上城主は山上氏の居館とされるが詳細不明。

 

⇒へ「山上城」虎口

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


内貴殿屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年04月24日 | 館跡

住所 :甲賀市水口町貴生川字東村 map:http://yahoo.jp/zjVpqp

現在の状態 :雑木林・民家・畑地

遺構 :土塁・堀跡

形式 :居館

築城者 :内貴氏

訪城日:2014.4.23

 
 

内貴殿屋敷は、東内貴集落の南外れで、尾山丘陵のすぐ南西麓に所在する。

現在は「殿屋敷」と呼ばれる一画の東半分に竹木林が残り、その北東隅付近に畑地として利用された堀跡と思われる窪地が明瞭に残っている。薮の中には堀跡に沿って南北約30mの土塁が確認でき、堀底からの高低差は約6mにおよぶ。
竹林の西側は現在1軒の民家と畑地等になっているが、畑地西側には小さな土盛りが残る。これが屋敷西端の土塁痕跡と考えると、約50m四方の方形館の姿が浮かび上がる。

屋敷の北東、尾山頂部には内貴尾山城が所在したとされ、詰城に対する居館という立地である。

歴 史

内貴尾山城主、内貴伊賀守の屋敷跡と考えられるが、詳細は不明

福照寺参道の横に駐車加(内貴殿屋敷の土塁の隣)

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


内貴川田殿屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年04月23日 | 館跡

 内貴川田殿屋敷は、川田山南麓にある竹藪に土塁と空堀の遺構が残っている。 この遺構が殿屋敷で、ほぼ50m四方の単郭居館であったと推定される。

 東側の尾山には畑地となって遺構消滅したが内貴川田山城があり、この殿屋敷が平素の居館で詰の城が内貴川田山城であろうと考えられる。

 内貴川田殿屋敷は、築城年代は定かでないが内貴氏によって築かれた。 内貴氏の居館と考えられている館。

所在地滋賀県甲賀市水口町北内貴 map:http://yahoo.jp/wf42Np

遺 構:土塁、空堀

形 式:居館

築城者:内貴氏

訪城日:2014.4.23

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


鮎河館 近江国(甲賀・土山)

2014年04月15日 | 館跡
鮎河館・鷹尾山城・(仮称)中ノ尾山城・鮎河山城  現地見学会(南北朝の山城探索)                                                                          
 
鮎河館、★1   平地城館の址「石碑が残る」                                                                                    高尾山城★★★3 戦国期の遺構「奇妙な畝堀」                                                                                     中ノ尾城★★2  南北朝の遺構「古式の城郭」か?                                                                               鮎河山城★★★3 戦国期の遺構「横堀が見事」                                                                                  総合★★★★★★★★★9

付録【新城発見踏査に同行】見学

日 時 413() 414() 両日同内容                                                                               定 員 約20名(不定) 少雨決行                                                                                                                                                                講師 長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会)                                                                                                                                                内容 鮎河館、高尾山城、中ノ尾城、鮎河山城見学                                                                              集合 土山歴史民俗資料館(丘陵上駐車場/トイレ有)                                                                                          時間 10時〜16時 各自弁当水筒持参
主催 米原市文化協会 教養部 城歩会                                                                                                    Eメールwwmy29831@maia.eonet.ne.jp 長谷川氏

集合場所で事前「座講」

鮎河館へ   

鮎河館虎口(城館の址)に石碑が残る

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/c6J-_q

遺構等:土塁、碑、説明板

現状:鮎川小学校の裏手丘陵地

築城年:建武年間(1334-38)

築城者:頓宮弥九郎

歴代城主:頓宮氏

区分:居館

訪城日:2014.2.24 2014.4.13

 現地駒札説明板には【鮎河城】

 南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

鮎河城の北にある鷲尾城は当時の砦跡と伝えられる。(現地説明板より)

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所以上といわれていますが、特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。     これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

  城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。

 鮎河の東端の山すそにあります。南北朝の頃、南朝に属していた頓宮肥後弥九郎が反撃の拠点として築いた要塞跡で、ここで二度にわたり北朝側と戦いましたが、いずれも武運つたなく敗れ去ったそうです。現在は有志の方が小公園として整備されています。

鮎河館の北にある鷹尾山にも砦があり、鷹尾城と呼ばれた。

甲賀の城より

虎口・・・行き止り(郭跡は現状、水田)   (民家の上に)大河原氏城が (民家の上に)大河原氏城が   (ウグイ川の桜の上に)黒川氏城が!

県道9号沿い「鮎川小学校」から300m程山の麓が館跡です。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


高山館 近江国(甲賀・水口)

2014年03月30日 | 館跡

所在地:甲賀市水口町高山字沢山  map:http://yahoo.jp/Q9oEYr

現在の状態 :山林・宅地

遺構:曲輪・土塁・空堀

区 分::居館

築城者:高山氏

築城時期室町期

有名城主:高山氏

訪城日:2014.3.28

高山集落の北西に接した山中には、中世城郭が点在している。その中では最も南方で、集落に接する山林裾部に所在するのが高山屋敷である。


高山屋敷は大まかには空堀と土塁で四方を廻らせた甲賀に特徴的な方形単郭プランである。特に西から北にかけた山側に接するところでの空堀は深く、土塁との高低差は5mを越え、一番の見どころだ。南東隅に虎口が開口している。

高山屋敷は、高山集落の一部のような位置にある。「甲賀郡志」によると、現在の光照寺である一学殿屋敷跡も高山屋敷の範囲との記述があり、付近の集落を見渡すと、他にも標高が近い高台に建つ宅地が目につく。そのため、かつての高山屋敷は、周辺の宅地を含む範囲であった可能性もある。

北方の山中には5つの単郭があり、これを総称して御姫屋敷城と呼ぶが、御姫屋敷城の最も南方にある曲輪は、高山屋敷の東に隣接する宅地に付属した格好になっている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


一学殿屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年03月28日 | 館跡

所在地:甲賀市水口町高山字栗ヶ谷 map:http://yahoo.jp/mQNCrJ

現 状:光照寺

区 分::陣屋

遺 構:曲輪

築城者:美濃部一学氏

築城時期:江戸初期カ

駐車場:光照寺

訪城日:2014.3.28

歴 史

一学殿屋敷は、現在は高山集落の西方の最も高い位置に建つ光照寺にあったとされている。江戸前期作成とされる「高山村絵図」には、現在光照寺が建つ敷地上に「一学殿屋敷」と記載されている。

この地は元々土豪高山氏の屋敷地であった一部に美濃部氏が陣屋を置いたと考えられる。

現在見られる遺構は切岸程度であるが、江戸期の陣屋ならば特に防御施設は必要ない。

 

甲賀二十一家は、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

美濃部氏は、甲賀二十一家の一家、美濃部氏は、水口城域にも屋敷跡が残る

一学殿屋敷は、柘植家とともに江戸期を通して高山村を知行した美濃部一学殿家の陣屋跡だとされる。
一学殿家は中世は美濃部同名中の一員の土豪であったが、江戸初期に幕府から旗本に取り立てられ、江戸に出府していた。

また光照寺は天文5年(1536)開基と伝えるが、一学殿家が江戸へ移住したのち、その跡地に移築されたもの。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 
 
 

西出館(にしでやかた) 近江国(甲賀・水口)

2014年03月11日 | 館跡


・住所:甲賀市水口町宇田 
    旧:甲賀郡水口町
・目標地点:国中神社

・形式:平城  ⑤比高:3m 
・現況:雑木林

・遺構等:土塁
・時代/人物: --期/--氏 
・最寄(国中神社)の駐車位置からの主郭までの所要時間:1分

土壇状の土塁とその北側に見方によっては堀かなと思える窪みが東西に走ります

土塁上の祠と堀(現状灌漑水路)

土塁北側

土塁の反対側の竹林

左手に茂みと土壇のような盛り上がりがあり上に登れる道があります。土壇上には祠が奉られていますがこの周辺が館跡です。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました。


秀次居館 近江国(近江八幡)

2014年01月25日 | 館跡

秀次居館

八幡山城の特徴として山城部分とは別に築かれた南山麓の居館部分である。谷地形の中央部分、標高約130mの地点より雛壇状に曲輪が配されており、最上部に位置するのが秀次居館跡で、巨大な内枡形の食い違い虎口があり、その西側には二段、東側には四段の高石垣を構えている。秀次居館跡の石垣も隅部分は算木積みで積まれており、直接的に傾斜する。この部分の築石は部分的ではあるが、鏡石積みで八幡山城の石垣石材の中で、非常に大きな石が使われており、権威の象徴的に使用されている。居館曲輪の平坦地は、東西300m×南北100m余りの大平坦地となっており、山斜面を切り土と盛り土から造成されていることが発掘調査から判明した。下部の家臣屋敷曲輪は誰が居を構えていたかは史料が残っていないため判明しておらず、また近世の改変をうけている部分もある。居館曲輪には大型の礎石建物跡と考えられる礎石列、それに伴う溝、建物に葺かれていた金箔瓦が出土しており、柱間が約2mになるもので、ここには書院造の御殿が建っていたと推定されている。また居館には一直線にのびる大手道があり、安土城の2倍に達する約270mの距離がある。

山城部分と居館部分は共に、総石垣作り、礎石立ち建物、瓦葺き建物など近世的な構造を持っている。しかし縄張り構造や石垣技法から山城の方がやや新しいとの指摘がある。『図説近畿中世城郭事典』によると「「雉城」状の突出部や矢穴石垣は、天正期の他の織豊系城郭に見られず、文禄・慶長の役の倭城やその後の国内城郭に多く見られる手法である。このことから山城部分は京極段階に改修された可能性が考えられる」としており、山城部分は倭城城郭の特徴と類似点があり、京極高次の改修が考えられるとしている。

八幡山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
logo
八幡山城
(滋賀県)
本丸櫓の石垣
本丸櫓の石垣
別名 八幡城、近江八幡城
城郭構造 放射状式連郭山城と居館
天守構造 不明(天守台あり:現存せず)
築城主 豊臣秀吉、豊臣秀次
築城年 1585年(天正13年)
主な改修者 京極高次
主な城主 羽柴秀次、京極高次
廃城年 1595年(文禄4年)
遺構 曲輪、石垣、空堀、犬走り、居館、
指定文化財 なし
再建造物 なし
マップ http://yahoo.jp/w_vggH

八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市宮内町周辺(近江国蒲生郡)に存在した山城。羽柴秀次の居城として知られる。別名近江八幡城とも呼ばれている。

概要

近江八幡駅より北西へ約2.5kmにある、独立丘鶴翼山、通称八幡山(標高283m、比高100m)の南半分山上に築城された。急峻な山城である。現在の八幡山は独立丘となっているが、築城当時は東西に内湖があり、南の平野部に城下町を配した構造は、安土城と類似した占地に築城している。城下町は安土城下町を移住させて形成された。かつての城下町の一部は日牟禮八幡宮境内地、八幡堀とともに近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区の名称で重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。八幡堀は琵琶湖の水を引いて作られた堀で戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。1970年代には埋め立てて公園と駐車場にする計画が立てられたが「よみがえる近江八幡の会」「八幡堀を守る会」などの住民運動によって蘇り、時代劇の撮影に使われるなど名所の一つとなっている。

沿革

豊臣秀次像/瑞泉寺蔵

1582年(天正10年)の本能寺の変により灰燼に帰した安土城は、山崎の戦いの後の清洲会議によって織田秀信を城主に、織田信雄を後見人として再興することとなった。しかし翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉の天下へ移行する中で、1585年(天正13年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は8月23日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。

軒丸瓦(八幡山城出土遺物)/近江八幡市立図書館所蔵

豊臣秀吉は安土城に替わる近江国の国城として、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城郭と麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注いだ。しかし、八幡山は安土山と違い険しい山で、山の斜面を十分活用できず麓の居館が城の中心となった。(ここから多数の桐紋の金箔瓦が出土している。金箔瓦には安土城、大坂城とよく似た形状の巴紋瓦もある。)

豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。

豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年(天正18年)に尾張国清洲城へ移封。代わって京極高次が2万8千石で入城したが、1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次は切腹、聚楽第と同時期に八幡山城が廃城となると京極高次は大津城へ移った。築城から10年で廃城となった。

本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年(昭和38年)に移転されている。

城郭

八幡山城と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

城跡は大きく分けて2つから成り立っている。一つは山頂部の山城と、2本の尾根に挟まれた谷筋の空間に居館を配置する。このように防衛空間としての山城部分と、居住空間の居館を分離する構造は、戦国期の城郭に数多く見られるが、近世城郭では珍しく、時代に逆行した二次元分離形態をとっている。これは築城時が小牧・長久手の戦いの翌年で、しかも徳川家康との講和以前の段階となっており、東国に対して臨戦態勢の緊張下にあり、防衛線として八幡山城が機能したことに起因する。

1967年(昭和42年)に山頂の本丸から山麓の居館部分に集中豪雨によって大規模な土砂崩れが発生している。近江八幡市では土砂工事に対応し 史跡指定も視野にいれた遺構の残存状態の確認のため発掘調査が行われている。

山城

枡形虎口の例

山城部分は総石垣作りで、本丸、二の丸、北の丸、西の丸、出丸がY字形に延びる放射状に配置され、それぞれに高石垣で構築されている。1963年(昭和38年)に京都より移築された瑞龍寺の門が八幡山城の本丸虎口となっている。また瑞龍寺の移築に伴い事前の発掘調査が行われ、建物礎石、鬼板、軒丸瓦などの多くの遺物が検出された。また礎石の中には五輪塔や宝篋印塔、層塔などの流用礎石を用いたものがあり、石垣の中にも含まれていることから、短期間で築城を目指したと考えられている。

埋門の例(松山城)

本丸と西の丸に接する西北隅に、15m四方の天守台があり天守がそびえていたと推定されている。本丸の西側の2ヵ所は1953年(昭和28年)の台風13号の影響で石垣が崩壊してしまい、現在はコンクリートで固められている。この部分は西の丸方向に埋門があり、通称「弁慶橋」といわれている埋門の上をかかる櫓の土台石があったと言われているが、これらも崩壊し全く跡をとどめていない。

本丸の虎口は、方形の空間を設け右に折れ内枡形となっている。本丸虎口より90度曲がり、そこから下り二ノ丸に至り、さらに90度に曲がると二ノ丸と平虎口に到っている。この平虎口から本丸に向う導線には、横矢がかかる仕掛けとなっており、鉄砲や弓矢が撃てるようになり防御性を高めている。二の丸には八幡山ロープウェーの八幡城址駅があり、展望館も建設されている。

各曲輪の石垣の隅部分は算木積みになっており、加工された石材が使われている。隅部分の石垣以外は粗割石か自然石が積まれており、本丸の石垣は比較的大きめの石材を使用している。石垣の傾斜も直線的で積まれ反りが見られない。本丸を取り巻くように帯曲輪があり、これは本丸を通らず各曲輪を往来できるバイパスの機能を兼ねている。西の丸、北の丸の地表面には建物礎石跡が露出しており、この曲輪にもなんらかの建物が建っていたと思われている。山城の大手は不明だが、二の丸にあるロープウェー八幡城址駅付近の石垣が大きく崩れており、この付近に存在していた可能性が指摘されている。

この城の石垣は『岩倉石工文章』によると、南方約4kmの地にある岩倉山より石材を運んだという記載がある。

本丸への虎口跡
本丸西側の石垣
二の丸下の算木積み石垣
西の丸下の石垣
瑞龍寺の中庭(本丸跡)
北の丸跡
ニの丸から城下町方向の眺望
西の丸から琵琶湖方向の眺望
近江八幡惣絵図/近江八幡市立資料館蔵

秀次居館

八幡山城の特徴として山城部分とは別に築かれた南山麓の居館部分である。谷地形の中央部分、標高約130mの地点より雛壇状に曲輪が配されており、最上部に位置するのが秀次居館跡で、巨大な内枡形の食い違い虎口があり、その西側には二段、東側には四段の高石垣を構えている。秀次居館跡の石垣も隅部分は算木積みで積まれており、直接的に傾斜する。この部分の築石は部分的ではあるが、鏡石積みで八幡山城の石垣石材の中で、非常に大きな石が使われており、権威の象徴的に使用されている。居館曲輪の平坦地は、東西300m×南北100m余りの大平坦地となっており、山斜面を切り土と盛り土から造成されていることが発掘調査から判明した。下部の家臣屋敷曲輪は誰が居を構えていたかは史料が残っていないため判明しておらず、また近世の改変をうけている部分もある。居館曲輪には大型の礎石建物跡と考えられる礎石列、それに伴う溝、建物に葺かれていた金箔瓦が出土しており、柱間が約2mになるもので、ここには書院造の御殿が建っていたと推定されている。また居館には一直線にのびる大手道があり、安土城の2倍に達する約270mの距離がある。

山城部分と居館部分は共に、総石垣作り、礎石立ち建物、瓦葺き建物など近世的な構造を持っている。しかし縄張り構造や石垣技法から山城の方がやや新しいとの指摘がある。『図説近畿中世城郭事典』によると「「雉城」状の突出部や矢穴石垣は、天正期の他の織豊系城郭に見られず、文禄・慶長の役の倭城やその後の国内城郭に多く見られる手法である。このことから山城部分は京極段階に改修された可能性が考えられる」としており、山城部分は倭城城郭の特徴と類似点があり、京極高次の改修が考えられるとしている。

 

居館下の高石垣
秀次居館曲輪跡
隅部分の算木積み
東側の四段高石垣
家臣曲輪跡と石垣
居館への大手

遺物

瓦質の香炉/近江八幡市立図書館所蔵

  • 天目茶碗/近江八幡市立図書館所蔵

古瀬戸の瓶子/近江八幡市立図書館所蔵

    • 軒平瓦/近江八幡市立図書館所蔵

    • 軒平瓦/近江八幡市立図書館所蔵

    • 唐草紋入りの軒平瓦/近江八幡市立図書館所蔵

城下町

城下町は、安土城の城下町の町民を移して町づくりを始め、近隣の町村からも移住を促した。町並みは横筋4通り、縦筋12通りを中心に基盤目状に作った。他の城下町は町筋をジグザグにし防備能力を高めるのに対して、八幡山城下町は、商業振興第一主義に切り替えた平和的な政策であったと考えられている。東からニ筋を大工町、鍛冶屋町、畳屋町、鉄砲町などの職人の居住区でしめ、三筋目から西へ十筋を、仲屋町筋、為心町筋、魚屋町筋、新町筋、小幡町などの商人とした。これら町名も安土城下町との共通町名が多い。

またこれも安土城同様中世の特権商人組織であった、座、市を外し八幡楽市楽座とした。これは羽柴秀次が築城した翌年天正14年(1586年)6月に掟書を発布した。八幡楽市楽座令は、13条からの条文で成り立っており、安土楽市楽座令と酷似している。両条文は細かな違いはあるが、それは歴史的条件の違い、織田信長と羽柴秀次の権力の違いによると考えられている。後日この地より近江商人が出て全国に発展することになり、この時の八幡楽市楽座令が基礎を築いた。

八幡城下町(新町筋)
八幡城下町(新町筋)
八幡城下町(新町筋)

八幡堀

八幡堀は琵琶湖から引いた八幡町の外に巡らし、八幡山の麓を八幡堀と塁で囲み、その中に羽柴秀次居館や武家屋敷を配し、防御と同時に運河として重視した。長さ6kmに及ぶ八幡掘は廃城後も明治時代、大正時代まで商工業の動脈として役割を果たしていた。堀幅11-18m、深さ1.4mの規模を持っている。琵琶湖から直接舟入できるようにし、羽柴秀次時代には往来する舟は八幡に立ち寄らなければならない決まりを出した。八幡浦は回船業を営むことができる親浦の一つで、琵琶湖では他に大津浦と堅田浦の三ヵ所だけであった。物流の拠点の一つであったが、北前船の開設により急速に減退していった。

八幡堀
明治橋
八幡堀
八幡公園の駐車場http://yahoo.jp/kPMPBY

本日も訪問、ありがとうございました。


赤尾氏館  近江国(木之本)

2013年12月11日 | 館跡

お城のデータ 

所在地 : 伊香郡木之本町赤尾 マップ:http://yahoo.jp/2q4EkR

築城年 : 不詳

形  式 : 平城(居舘)・・・現状;個人宅

遺  構 : 土塁、横堀、池

訪城日 : 2013.12.7

土塁

 

赤尾氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 

赤尾氏(あかおし、あかおうじ)

家紋は四つ柏。本姓は源氏を称する(『赤尾家譜』より)。しかし、近江国伊香郡発祥の伊香氏、並びに正親町三条家(嵯峨家)の支族(姓氏類別大観)の系統にも名が見えその出自は定かではない。

古くより近江国伊香郡赤尾(現滋賀県長浜市木之本町赤尾)を本貫地とし、土豪・国人領主として赤尾の地を治めた。

近江国湖北四家(赤尾氏、雨森氏、磯野氏、井口氏)の一つとされ、戦国時代にあらわれた赤尾清綱はもっとも知られている。また、北近江の戦国大名浅井氏にあって、清綱は海北綱親、雨森清貞とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。

京極氏家臣時代

赤尾氏は代々近江国の守護大名京極氏譜代の家臣で、『江北記』には京極氏の「根本当方被官之事」として今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・小野八郎・河瀬九郎・二階堂ら12氏のうちの一つとして記されている。 また後に家臣になったものとして「一乱初刻御被官参人衆」が文明二年(1470年)であることから、少なくともそれ以前より京極氏に仕えたものと考えられる。 京極氏の源流である佐々木氏(近江源氏)が、平安時代中期より近江にある事を考えると、かなり古くから京極氏に仕えたものと考える事が出来る。

浅井氏家臣時代

戦国大名浅井氏の台頭により京極氏が衰退すると、同じく京極氏根本被官であった浅井氏に従う。 『寛政重修諸家譜』には浅井亮政の生母に赤尾教政女(むすめ)とあり、『姓氏類別大観』では赤尾教政は 浅井亮政の兄とされている。 尚 『赤尾家譜』によると浅井氏庶流である浅井賢政の長子、教政(二男に亮政)が母方の赤尾新次郎の後を継いだと記されている。 戦国大名浅井氏内での赤尾氏の重要性を考えると、浅井氏と赤尾氏は何らかの血縁があったものかと思われる。

赤尾清綱は初め孫三郎、後に美作守と称す。諱を清綱とする。戦国大名浅井氏初代浅井亮政の頃から浅井家に仕  え、浅井家の宿老として浅井氏三代に仕えた。小谷城内の防衛の要所、本丸横下に赤尾屋敷と呼ばれる袖曲輪をもちそこに在番していた。通常、家臣は城下に屋敷を持ちそこを居館とするものだが、城内に自身名の付いた曲輪を任せられていた事をからも、浅井氏に於いて赤尾氏の重要性が窺われる。

信長公記(第六巻阿閉謀叛の事)では小谷城落城で、『浅井備前(長政)・赤生(赤尾)美作生害させ』の記述があり最後まで命運を共にしたことが窺える。 尚 清綱の子供らの命は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて織田信長直々に助命したといわれている。

浅井氏の滅亡により赤尾氏も本貫地の赤尾を追われ、新たな主家の地に移り住むようになる。

赤尾山城

堀跡(現在:用水路)

本日も訪問、ありがとうございました。


大原氏館 近江国(山東)

2013年12月06日 | 館跡

三島池より 

 

所在地:米原市本市場  マップ:http://yahoo.jp/FJFl0f
初城主:大原重綱
区 分 :平城(館)
遺 構 :堀,土塁
城 域 :80m×60m

 

大原氏の館は初代・重綱から始まった大原氏の代々の居館である。館跡は竹林の中に東西約60m、南北約80mにわたって掘と小高く築かれた土塁が残る。


 それにしても、二男高信(高島氏)の清水山城、三男泰信(六角氏)の観音寺城
、四男氏信(京極氏)の柏原城など比べると、この大原氏の館はいかにも小さい。
 佐々木信綱の嫡男でありながら、大原庄しか相続できなかった重綱の無念さが伝わってくるようである。
 なお、この館の地は現在も小字堀の内と呼ばれ、周辺には堀の西、堀の南、中屋敷などの城館に関連した小字名が残っている。

城郭の歴史 

平治元年(1159)平治の乱では平清盛が勝利し、源義朝は嫡男・義平と共に鎌倉へ落ち延びる途中に捕らえられ殺害さた。
当時13歳だった義朝の三男・頼朝は伊豆の蛭が小島に流されたが、治承4年(1180)8月北条時政の力を借りて挙兵した。
 この時佐々木秀義は定綱,教高,盛綱,高綱,義清の五人の子を率いて頼朝のもとにはせ参じ、平家討伐の貢献により、嫡男定綱は佐々木家の旧領であった近江国を領した。


 その後、佐々木氏12代目の佐々木信綱は4人の子に近江を分割して与えた。長男・重綱には大原庄を与えて大原氏を名乗らせ、二男高信には高島郡を与え高島氏とし、三男・泰綱には愛知川以南六郡(志賀,甲賀,栗田,野洲,蒲生,神崎)を与え六角氏とし佐々木宗家を継がせた。四男・氏信には愛知川以北の六郡(愛知,犬上,坂田,浅井,高島)を与えて京極氏とした。

 大原氏は名門佐々木氏の流れを汲むことから室町時代には将軍の奉公衆に列していたが、11代政重で大原氏の血脈は絶えた。12代,13代と六角氏から入嗣し大原氏の存続を図ったが、骨肉相食む戦国期になると、大原氏の領地は京極氏、浅井氏の領地に次第に組み込まれ、大原氏は滅亡した。

 遠景

 

本日も訪問、ありがとうございました。


三上館中屋敷 近江国(野洲) 

2013年11月24日 | 館跡

三上城(妙光寺山頂に)

 『日本城郭大系』によれば、三上政実によって永享年間(1429~41)に築かれたとされる。

ただし、三上氏は近江国三上郷に発する氏族であるが、政実は因幡国に所領をもつ人物である。

また、政実は長享元年(1487)の鈎の陣に参加している。六角氏征伐の親征である鈎の陣に、六角氏家臣とされる三上館三上氏が参加していたとは考えにくい。また、永享年間とは年代的にやや離れすぎていることからも、政実が三上館を本拠としていたかどうかは疑わしい。三上館が三上氏の居城、政実と三上館三上氏はどちらかが本流でどちらかが分流であると考えるのが妥当と思われる。

三上館の三上氏は、六角氏家臣としてはたらいたとされるが、その後の動向は不明である。

元和元年(1615)時点で、三上季正が三上館にあったことが確認されている。季正は、寛永十七年(1640)の人吉藩での「お下の乱」において幕府の上使として派遣されたことが、細川家史料にみられる。三上館は、旗本三上氏の屋敷として存続したものと思われる。

三上館は三上山ではなく、その北隣の妙光寺山の麓にあります。妙光寺山には三上氏の詰の城があったとみられていますが、明確な遺構は見つかっていないようです。『近畿地方の中世城館』では、三上城と三上館を峻別していますが、『大系』では三上城に統一しているようです。

 三上館周辺には、東から上屋敷・中屋敷・下屋敷の3つの小字があり、それぞれに館があったものとみられています。

所在地:滋賀県野洲市妙光寺

遺 構:三上館 土塁、堀

形 式:居館

築城者:三上政実

築城年代:永享年間

訪城日:2013.11.22

中屋敷

裏の土塁と堀切(U字溝)

現在は、このうち中と下の2つの屋敷跡に、今も三上氏のご子孫が住んでおられる。
  両屋敷とも民家の敷地であるため、外側から眺めるだけですが、より見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷の方と思われます。

おそらく近世まで旗本屋敷として使用されていたのだと思いますが、明瞭に遺構が見られる貴重な史跡。

 

 本日も訪問、ありがとうございました。


三上館下屋敷 近江国(野洲)

2013年11月22日 | 館跡

 三上城(妙光寺山頂に)

 

  『日本城郭大系』によれば、三上政実によって享年間(1429~41)に築かれたとされる

 ただし、三上氏は近江国三上郷に発する氏族であるが、政実は因幡国に所領をもつ人物である

 また、政実は長享元年(1487)の鈎の陣に参加している六角氏征伐の親征である鈎の陣に、六角氏家臣とされる三上館三上氏が参加していたとは考えにくいまた、享年間とは年代的にやや離れすぎていることからも、政実が三上館を本拠としていたかどうかは疑わしい三上館が三上氏の居城、政実と三上館三上氏はどちらかが本流でどちらかが分流であると考えるのが妥当と思われる

 三上館の三上氏は、六角氏家臣としてはたらいたとされるが、その後の動向は不明である

元和元年(1615)時点で、三上季正が三上館にあったことが確認されている季正は、寛十七年(1640)の人吉藩での「お下の乱」において幕府の上使として派遣されたことが、細川家史料にみられる三上館は、旗本三上氏の屋敷として存続したものと思われる

 三上館は三上山ではなく、その北隣の妙光寺山の麓にあります妙光寺山には三上氏の詰の城があったとみられていますが、明確な遺構は見つかっていないようです『近畿地方の中世城館』では、三上城と三上館を峻別していますが、『大系』では三上城に統一しているようです

 

  三上館周辺には、東から上屋敷・中屋敷・下屋敷の3つの小字があり、それぞれに館があったものとみられています

所在地滋賀県野洲市妙光寺

遺 構三上館 土塁、堀

形 式居館

築城者三上政実

築城年代享年間

訪城日:2013.11.22

下屋敷

見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷

虎口は南に、石垣・土塁と水濠には(蒲カ?)が巡っている下屋敷

 

現在は、このうち中と下の2つの屋敷跡に、今も三上氏のご子孫が住んでおられる
  両屋敷とも民家の敷地であるため、外側から眺めるだけですが、より見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷の方と思われます

おそらく近世まで旗本屋敷として使用されていたのだと思いますが、明瞭に遺構が見られる貴重な史跡

 

下屋敷遠望

三上城出城遠望

 

 本日も訪問、ありがとうございました

 


三上館上屋敷 近江国(野洲)

2013年11月22日 | 館跡

三上城(妙光寺山頂に)

 『日本城郭大系』によれば、三上政実によって享年間(1429~41)に築かれたとされる

ただし、三上氏は近江国三上郷に発する氏族であるが、政実は因幡国に所領をもつ人物である

また、政実は長享元年(1487)の鈎の陣に参加している六角氏征伐の親征である鈎の陣に、六角氏家臣とされる三上館三上氏が参加していたとは考えにくいまた、享年間とは年代的にやや離れすぎていることからも、政実が三上館を本拠としていたかどうかは疑わしい三上館が三上氏の居城、政実と三上館三上氏はどちらかが本流でどちらかが分流であると考えるのが妥当と思われる

三上館の三上氏は、六角氏家臣としてはたらいたとされるが、その後の動向は不明である

元和元年(1615)時点で、三上季正が三上館にあったことが確認されている季正は、寛十七年(1640)の人吉藩での「お下の乱」において幕府の上使として派遣されたことが、細川家史料にみられる三上館は、旗本三上氏の屋敷として存続したものと思われる

三上館は三上山ではなく、その北隣の妙光寺山の麓にあります妙光寺山には三上氏の詰の城があったとみられていますが、明確な遺構は見つかっていないようです『近畿地方の中世城館』では、三上城と三上館を峻別していますが、『大系』では三上城に統一しているようです

 三上館周辺には、東から上屋敷・中屋敷・下屋敷の3つの小字があり、それぞれに館があったものとみられています

上屋敷

西側の土塁

虎口?カ・・右側は西土塁

上屋敷の南側

上屋敷は南側は、土塁は無く圃場に開墾れたのでしょう

所在地滋賀県野洲市妙光寺

遺 構三上館 土塁、堀

形 式居館

築城者三上政実

築城年代享年間

訪城日:2013.11.22

上屋敷 遠望

現在は、このうち中と下の2つの屋敷跡に、今も三上氏のご子孫が住んでおられる
  両屋敷とも民家の敷地であるため、外側から眺めるだけですが、より見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷の方と思われます

おそらく近世まで旗本屋敷として使用されていたのだと思いますが、明瞭に遺構が見られる貴重な史跡

 

 本日も訪問、ありがとうございました