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城郭探訪

yamaziro

光秀の坂本城、軍港備え威容誇る 大津に江戸期の絵地図

2015年05月27日 | 館跡

光秀の坂本城、軍港備え威容誇る 大津に江戸期の絵地図・・・京都新聞

 「字城屋敷」と書かれた江戸時代の絵地図。東南寺も屋根が描かれている(叡山文庫所蔵)

 戦国武将明智光秀が湖岸に築いた坂本城について、大津市の郷土史家が、発掘調査では分かっていない城主の住まいや軍港の位置、内堀の長さなどについて、独自の研究結果を冊子にまとめた。

調査のなかで、坂本城の本丸跡一帯が江戸時代に「城屋敷」と呼ばれたことを示す絵地図を発見した。・・・・大津市教委文化財保護課は「貴重な資料となりうる」と話している。

 大津市唐崎3丁目の松野孝一さん(74)。坂本城は、戦国時代に各地を見聞した宣教師ルイス・フロイスが「豪壮華麗」と書き残しており、たびたび茶会が催されるなど風光明媚(めいび)な城だったことが文献で分かっている。

 しかし短命だった上、発掘調査も進んでいないため、本丸や内堀の一部が部分的に分かっているだけで、多くは謎に包まれている。松野さんは、大津市坂本の叡山文庫所蔵の資料や地元住民が保管していた古地図、神社の由緒書など幅広く資料を集め、現在の地名や地形と照らし合わせて、城造営の歴史や光秀の事業を検証した。

 調査中に松野さんが発見したのが、叡山文庫所蔵の絵地図「東南寺付近城屋敷領地域図」。

廃城後の江戸時代に書かれた地図で、本丸跡から西に約60メートルの東南寺までの「字(あざ)城屋敷」の土地所有者が書かれている。

日吉大社の関係者の名前が見られるのが、「山王(日吉大社の意)の土地に新城普請なり」と書かれた1572(元亀3)年の文献とも合致するため、松野さんは「ここに光秀の屋敷もあったのでは」と考えた。

 また、松野さんは、現在は山王祭の船渡御が出る七本柳の浜(下阪本1丁目)が築城当時もあったことを確認。光秀は浜を軍港として活用、二の丸と三の丸を分ける内堀は総延長約780メートルに及んだと結論づけた。

 坂本城発掘に携わった同文化財保護課の吉水眞彦さんは「字城と書かれた明治時代の地図はあるが、字城屋敷の表記は初めて見た」と話した。

松野さんは「光秀の屋敷や軍港が分かってきたので、坂本城の威容が色づいて見えてきた」と話している。

 調査を機に、松野さんのガイドで周辺を歩くイベント「明智光秀の屋敷跡を歩く」が5月30日に開かれた。松野さんTEL077(579)5464へ。

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝


東野館 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 館跡
東野山館
お城のデータ
 
所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町東野  map:http://yahoo.jp/20J4bD
区 分:居館
現 状:寺院・神社・森林
築城期:鎌倉期
築城者:東野氏
廃城期:織豊期
標 高:
遺 構:法照寺には東野豊前守の墓・説明板
目標地:法照寺・八幡神社
駐車場:八幡神社
訪城日:2015.5.23 
 
お城の概要

東野館は東野山城の西麓、法照寺・八幡神社の南西側付近にあったと云われる。 ちょうどこの辺りから東野山城への登山道もある。 館の遺構はないが、法照寺には東野豊前守の墓が残されている。

歴史

東野氏の居館と云われる。

東野の読みは「とうの」あるいは「ひがしの」ではっきりとしないが、東野山城に合わせてここでは「とうの」とする。(旧東浅井郡浅井町にも東野館があり、こちらは「ひがしの」と)

東野氏は常陸国佐竹氏の一族佐竹行重が伊香郡東野村に封ぜられて、東野豊前守と称したことに始まるという。また一説に東野周防守行一が祖ともいう。

東野氏は浅井氏に従い、滅亡後はその一族が山内一豊に召し出されて土佐へと移った

東野豊前守の墓東野豊前守の墓東野豊前守の墓八幡神社八幡神社
参道法照寺法照寺
 
武家としての東野氏

近江は鎌倉時代より代々佐々木氏が守護職を世襲し、室町時代には佐々木氏信を祖とする京極氏が北近江を、佐々木泰綱を祖とする六角氏が南近江を守護として治めていた。1467年に応仁の乱が始まると、京極持清と六角高頼はそれぞれ東軍と西軍に分かれて互いに争うようになる。この時東野氏は京極氏の配下として、他の北近江の小領主と供に出陣した。東野氏は東野の東方東野山に居城を築き本拠地とした。

 行重の嫡男・周防守行信は、京極氏から余呉庄の地頭に任じられる。1510年、行信は鳥居本での京極高清と六角氏綱の戦いにおいて、磯野員吉・井口宮内らとともに京極方として出陣し戦功を挙げる。その後も京極氏に従い転戦するが、一族から多くの戦死者を出すことになる。

 京極家の実権が浅井亮政に握られると、浅井氏に仕えるようになる。三代目浅井長政が織田信長に敗北する寸前まで浅井を支えたが、1573年に浅井氏が滅亡した後には、東野に戻り閉居した。 『東浅井郡史』によると、東野左馬助政行、千田采女正・西山旦右衛門らは防戦し、浅井久政の自害を助けている。

 東野山にあった居城は、1583年の賤ヶ岳の戦いの際に堀秀政が砦として再構築し、実戦で使用された。現存する遺構も、その当時のものと考えられている。

  行信の長男、左京進秀行は武士をあきらめ、曲直瀬道三に医学を学び余呉中之郷で医業を始める。秀行の長男左京進行是は、一旦は丹羽氏に仕え千二百石を与えられるが、後に浪人すると中之郷に帰り医業を継いだ。

 秀行の次男左馬助行信は、1585年近江国長浜城主となった山内一豊に召抱えられ、三百石を得て再び武士となる。小田原征伐、関ヶ原の戦いに出陣し功をなす。関ヶ原の戦いの後、徳川家康から土佐国一国を与えられた一豊に従い、土佐に移る。そのため、土佐東野と近江東野と、系譜が別れる事になる。行信は七千石を与えられ、伊予守を名乗る。山内氏の重臣のひとりとなり、明治に至るまで代々高知城主の家臣として仕えた。行信の子、幸政は千四百石を与えられ、江戸城や丹波篠山城の普請に関わった。大坂冬の陣には中備えの大将として従軍し功をあげた

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

            本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


箕浦氏館 近江国(山東・柏原)

2015年05月14日 | 館跡

お城のデータ

所在地 : 米原市(旧・坂田郡山東町)柏原字今川    map:http://yahoo.jp/PuM5Kl

別 名:柏原代官所

区 分:居館

築城期:室町時代初期

築城者:箕浦次郎左衛門

城 主:箕浦次郎左衛門・箕浦次郎左衛門

遺 構:井戸・説明板

目標地:柏原宿歴史館

駐車場:柏原宿歴史館の駐車場

訪城日 :2105.5.14

お城の概要

  箕浦氏館は、街道警備が役割とされ、中山道沿いの柏原宿歴史館と向かいあった位置に存し、間口、奥行きとも約100mで四囲に堀、土塁、石垣をめぐらし、本丸、二の丸の構えがあったとされる。
昭和33年まで跡地には柏原小学校があり、四囲に石垣が残っていたようであるが、現在は消失し古井戸が残るのみとなっている。

 箕浦氏館は、街道警備が役割とされ、中山道沿いの柏原宿歴史館と向かいあった位置に存し、間口、奥行きとも約100mで四囲に堀、土塁、石垣をめぐらし、本丸、二の丸の構えがあったとされる。
昭和33年まで跡地には柏原小学校があり、四囲に石垣が残っていたようであるが、現在は消失し古井戸が残るのみとなっている。

お城の歴史

 箕浦氏館は、京極道誉が中山道監視のために、その将である箕浦次郎左衛門を置いた所である。

箕浦氏は、京極氏の重臣で、近江源氏山本判官義定の孫・義明が東山道と北陸道の分岐する要衝の地である箕浦庄に移り、箕浦冠者義明と称したことに始まる。

箕浦次郎左衛門は、その子孫で、爾来、江戸期の慶安年間(1648~52)に安芸国・浅野家に仕え当地を離れるまで、柏原に在住した。

『江源武鑑』に・・・

元亀元年(庚午) 永禄十三年を改めて元亀と号す

三月」十日 浅井下野守祐政と箕浦次郎左衛門が知行地の境界について争論を起こし、本日両者が観音寺城にて対決する。箕浦の方に非が認められ、争論の山五ヶ所が浅井に与えられる。箕浦は父祖の忠功を申し上げて非を利に変えようと荒言したため屋形の思し召しが悪くなり勘気を蒙る。・・・・

『太平記巻第三十八』に・・・・

和田楠与箕浦次郎左衛門軍事 
此比摂津国の守護をば、佐々木佐渡判官入道々誉が持たりければ、其身は京都に有乍ら、箕浦次郎左衛門に勢百四五十騎付て、国の守護代にぞ置たりける。催促の国人取合て、其勢僅に五百余騎、神崎の橋二三間焼落て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃を汰て待懸たり。和田・楠態敵を忻ん為に、神崎の橋爪と株瀬と二箇所に打向て引へたれば、此を渡させじと、箕浦弥次郎・同四郎左衛門・塩冶六郎左衛門・多賀将監・後藤木村兵庫允泰則以下五十余騎は株瀬へ馳向ふ。守護代箕浦次郎左衛門・伊丹大和守・河原林弾正左衛門・芥河右馬允・中白一揆三百余騎は神崎橋爪へ打臨む。橋桁は元来焼落したり、株瀬は水深し。・・・・云々

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・現地説明板

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


和田館  近江国(甲賀)

2015年05月02日 | 館跡

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町和田 (旧甲賀群甲賀町和田)  map:http://yahoo.jp/XVSc8v                                           

現 状::山林

遺 構:単曲輪・土塁・虎口・案内板

区 分:居館

標 高:210m 比高差:5m

築城期:室町期

築城者:和田惟政

目標地:善福寺 

城 主: 和田氏

駐車場:説明板前の空地に駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.11

お城の概要

和田支城Ⅲの北側に位置し、郭の背後(北側)は自然の地形を削り残し高土塁状に、曲郭は三段の基壇を残す。

現状は民家の背後で、甲賀市史(甲賀の城)にも記載がない。平成22年の整備事業の現地説明板で知る。

 

南側・曲郭基壇30m×30m

東側・曲郭基壇10m×20m(民家に削平か)

奥の曲郭虎口主郭・背後の高土塁

歴 史  

 和田谷には、和田城を本城に和田支城I・和田支城II・和田支城III・和田館・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を残存する。 

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 築城年代は定かではないが和田氏によって築かれたと云われる。 和田氏は源満政を祖とするとされるが、一説には佐々木六角氏の一族ともされ、後の15代将軍足利義昭を領内に匿った時の当主和田惟政は十八代という。

足利義昭を匿った和田惟政は、その功によって芥川城主となり、その後高槻城主となった。

惟政死後、子の和田惟長は没落して和田領も取り上げられたが、後に徳川家康に仕え旗本として旧領を回復し治めたという。

参考資料:甲賀市史(甲賀の城)にも記載がない。平成22年の整備事業の現地説明板・Wikipedia・信長公記

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


岩脇(いわぎ)館 近江国(米原)

2015年05月01日 | 館跡

岩脇館説明碑

お城のデータ

所在地:米原市岩脇町 (旧坂田郡近江町岩脇)  map:http://yahoo.jp/-HVq0n

区 分:平城

現 状:岩脇公民館

遺 構:碑・土塁・堀痕・岩脇山の西麓に「岩脇氏」墓石が残る。

築城期:室町期

築城者:岩脇氏

目標地:岩脇公民館

駐車場:岩脇公民館

訪城日:2015.4.25

お城の概要

かつての館跡も、今は公民館。集落周りに水路があり、堀跡か寒害・生活水路か。

公民館側、稲荷神社の敷地端に説明碑があります。

公民館周辺が館であったようですが今は遺構は無い。岩脇山の稲荷神社・善光寺岩屋善光堂周辺には土塁っぽいところもあります。岩脇山から顔戸山城が近くに見えます。

岩脇山の西麓に「岩脇氏」墓石がポツリと残る。


歴 史
朝妻街道(箕浦~朝妻湊)を抑える、豪族・岩脇氏の居館。東山道と北國街道の中間にも位置するため、室町時代には要衝の地だった。

今井氏の一族の岩脇氏の館とされます。

浅井氏家臣団の構成

浅井長政書状 下坂四郎三郎宛 (長浜市長浜城歴史博物館蔵)

小和田哲男氏によれば、戦国大名浅井氏の家臣団は、旧国人領主である上層家臣と、土豪である下層家臣に分かれていたと指摘されている。

上層家臣としては、磯野氏・上坂氏・赤尾氏・堀氏・今井氏・安養寺氏・三田村氏・雨森氏・海北氏・大野木氏が上げられている。彼らは京極氏家臣から、そのまま浅井氏家臣になった者が多い。

下層家臣に当たる地侍層は、村落領主であり土豪とも言われた。彼らは上層家臣に属する形で、いわゆる陪臣(ばいしん、家来の家来)として浅井氏に仕える形をとったと考えられている。 小和田氏は下層家臣の例として、坂田郡南部の天野川流域の土豪たち、岩脇氏・井戸村氏・嶋氏を上げている。彼らは上層家臣に当たる坂田郡箕浦(米原市箕浦)の今井氏に属する形で浅井氏に仕えた。

しかし、浅井氏家臣団の全体を見渡すと、上層と下層を明確に区分することは不可能であるとの見解もある。 それは、下層家臣である地侍が、浅井氏当主から直接、安堵(あんど)や宛行(あてがい)などの領地関係書状をもらい、感状(合戦参陣への感謝状)も得ている例も多いからである。

岩脇館跡


岩脇山の戦争遺産 (機関車壕) 

米原市岩脇の岩脇山は、戦争遺跡「列車壕(ごう)」が、太平洋戦争末期に二本の輸送の大動脈である東海道線及び北陸線の列車を引っ張る蒸気機関車を連合軍の空爆から守るために掘られた防空壕です。

 この岩脇山は岩盤が固く、その上当時は物量が乏しく、火薬、スコップ、ツルハシ、トロッコなどの手作業にため難工事であったことがうかがえます。

米原の列車壕

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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公方屋敷・公方屋敷城  近江国(甲賀)

2015年04月13日 | 館跡

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田   map:http://yahoo.jp/X56gqA

別 名:足利義昭屋敷

区 分:居館・詰め城

現 状:屋敷跡・山林

遺 構:曲郭・堀・土塁・井戸・石碑/説明板

築城期:室町期--天正2年(1574)

築城者:和田惟政

城 主:足利義昭

目標地:善福寺

駐車場:善福寺下の駐車場これの前

訪城日:2015.4.11

お城の概要

 公方屋敷は和田川の西、和田惟政の居城・和田城の北方約800mにあり、三方を丘状尾根に囲まれた東西100m×南北150mほどの一帯としており、ほぼ中央部に大きな杉の木の下に案内板が建てられている。

滋賀県教育委員会が公方屋敷跡は三方を丘状尾根に囲まれた東西100m×南北150mほどの小さな谷をのこと。東側の丘陵が公方屋敷城である。

 いずれも削平がなされ曲輪跡であったことが確認できる。東の尾根上の曲輪一帯は竹藪の中に櫓台も確認できる

 この地形は六角氏の初期の居館であったとされる小脇館とよく似ており、中世における居館選地に共通性を見ることができる。
また、この屋敷跡の西側約300mに川を挟んで、公方屋敷支城と称される砦がある

公方屋敷 東西100m×南北150m

 

公方屋敷の東側・・・公方屋敷城(遠景)

公方屋敷城(東側曲郭)へ

東の尾根上の曲輪一帯は竹藪の中に櫓台  空堀土塁

公方屋敷城(東に伸びる曲郭)へ

井戸土塁

歴 史

 公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。

 永禄8年(1565年)5月第13代将軍・足利義輝が三好、松永氏等によって二条御所で殺害された。永興福寺一乗院の門主足利覚慶(義輝の弟)は身の危険を感じ、細川藤孝、和田伊賀守惟政の助けを借りて奈良し、甲賀に亡命した。

 その後、和田氏の所領である野洲矢島(矢島御所)に移り、若狭の武田義統、越前一乗谷の朝倉義景を頼って流浪するが、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、美濃岐阜城にあった織田信長を頼って美濃へ移り、永禄11年(1568年)9月織田信長に擁立されて上洛。
10月18日、将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。

 

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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 その後、義昭は信長と対立することが多く、天正4年(1576年)毛利氏を頼って備後の鞆に亡命したが、室町幕府を再興することはできず、慶長2年(1597年)大坂で死去した(享年61歳)。

参考資料:日本城郭大系11・滋賀県中世城郭分布調査・甲賀市史(甲賀の城)、Wikipedia

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


生津(なまづ)城弾正館 近江国(伊香立)

2015年03月31日 | 館跡

伊香立小学校のグランド奥の遺構は弾正館跡

お城のデータ

所在地:大津市伊香立下在地町  map:http://yahoo.jp/Z0UPns

区 分:弾正館跡比 高:約30m

現 状:森林・竹林・小学校のグランド

遺 構:曲輪・基壇・切岸

築城期:織豊期

初城主:林宗林坊

目標地:伊香立小学校

訪城日:2015.3.31

伊香立小学校のグランド奥の遺構は弾正館跡

下段の曲郭・切岸・基壇

春休み中なので、許可を得てグランドのネットの破れ穴から、曲郭へ

上段の竹藪とグランド

伊香立小学校

現地の状況 

生津城は、近江と京と繋ぐ途中越の起点である途中から坂本へ抜ける街道沿い、伊屋ヶ谷の通称城山といわれる小丘上に築かれている。城跡は、伊香立小学校の立つ丘陵の台地の両側に「伊屋が谷」の小字名が残り、地元では「城山」を称さてる小丘だある。乗馬川に突き出た半島状の先端に南北に2段の郭を連ね、乗馬川を堀に見立てる地形である。
【伊家ヶ谷(いやがだに)】を挟んだ東側の丘陵には「弾正(武家が名乗る役職名)」の地名が残り、伊香立小学校付近の台地上に生津城主の居館が存在したと推測される。
上段の曲輪(竹藪)は小学校のグランドも一部城域と考えられる。下段の曲輪は広さは30m×40mほどで削平状で、乗馬川は、切岸状に落ち込み堀の地形である。極めて防御性に良い。民家側の斜面に腰郭なのかの段郭状に平坦地があり、城道のようになってます。折り返す箇所には(虎口形状)土塁のような高まりもあります。畑地の跡か?

香の里資料館

伊香立イラストまっぷ

歴 史

生津城は「近江與地志略」のは「城山」を記す。林宋林坊(はやしそうりんぼう)と言う者の居城として紹介されている。

参考資料:大津の城郭・ 伊香立イラストまっぷ・滋賀県文化財保護協会資料・長谷川博美氏踏査図・滋賀県中世城郭分布調査9  

       今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


佐々木神社遺構(杉谷館) 近江国(甲南)

2014年10月01日 | 館跡

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町杉谷  (旧甲賀郡甲南町杉谷)   map:http://yahoo.jp/MG3qFS

別 名:平

現 状:佐々木神社

区 分:平城

築城期:鎌倉期

築城者:

城 主:杉谷氏

遺 構:曲輪・土塁・空堀

城 域:15m×15m

目標地:

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.9.30

お城の概要

甲南町杉谷地区を流れる杉谷川の東50mほどの所に小さな林がある。
この林が杉谷館か、広さは15m×15m程度で周囲には、高さ60~70cmの土塁を巡らせている。

 現在の杉谷川は、この砦跡から離れているが、つい最近の河川改修工事で川筋が東に移されたといい、当時は杉谷川を堀として利用していたと推定される。

 曲輪内には社があり、石灯籠や社の中には六角氏の家紋である四つ目結が彫られている。
周囲には尋ねる人もなく、誰が祀られているのか不明。

佐々木神社曲輪周囲に廻らされた土塁

歴 史

詳細不明

遠景

    本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


土田館  近江国(多賀)

2014年08月27日 | 館跡

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町土田 map:http://yahoo.jp/gl05x3

現 状:集落・田畑

遺 構:曲輪

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:土田縫殿助

城 主:土田縫殿助

目標地:土田公民館・正福寺

駐車場:正福寺無料駐車城

訪城日:2014.8.27

集落の北部・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存・・・http://yahoo.jp/gl05x3

集落の北部・・・北土田の東端

微高地1.5mの石垣50mと畑地

北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残るhttp://yahoo.jp/rVeZg5

 お城の概要

土田館は、芹川南岸の土田集落の北方の一画にあったとされる。

周辺は田園が広がるが、集落の北部の中央に・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存・・・http://yahoo.jp/gl05x3

北側から集落を眺めると宅地は見事に微高地なのが判る。

集落北側の微高地は円形に張り出し、北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残る。また集落内の路地は「くい違い」「どんつき」の城館特有の通路が雰囲気を留めている。

また、200m北は芹川、集落内は堀川(現在は用水路)、集落全体が微高地の【土塁と曲郭】城館、中央付近の食い違い路、往時が残る。

 

集落中央付近の食い違い道路
長屋門の住宅

歴 史

 「大洞弁天当国古城主名札」に、土田縫殿助の名がみえる。

土田公民館横

専光寺

正福寺駐車地

集落西出入口に

 土田氏は近江国の出身で

宇多源氏の流れを汲む名門・佐々木六角氏の旗本を務め、土田氏(近江佐々木氏庶流建部氏)は代々「近江守」を称していた。

 4代目の近江守秀定の頃、文明年間(1469年~1486年)に近江国蒲生郡より東美濃木曽川河畔の土田村に移り住んだ。渡り田の大井戸渡しを支配して土田村や下畑や川原田を拓き、開墾領主として当地の土豪へと生長した。

 近江佐々木義詮の末裔が、この地来て明智氏に属して土田に築城し土田と名乗ったのが始まりである。弘治2年(1556年)3代城主土田源太夫の時に明智城が斎藤義龍の命を受けた関城主長井道利に攻められ落城時討死し土田氏の直系は絶えてしまった。

 2代城主泰久の2男勘助は母方の尾張丹羽郡小折城主生駒家広に嫡子がなかったので養子となっていたが、親重と改名し土田・小折城を領した。生駒親重は初め犬山城主織田信清に属していたが信長と信清が手切となり犬山城は落城し親重は土田城で謹慎し後信長に仕えた

 親重の嫡男親正は信長・秀吉に仕え、戦功を重ね天正13年赤穂6万石の大名となり15年には17万石を拝領し四国丸亀目城主となり土田城は廃城となった

美濃・土田城は、標高181mの城山にある規模270m×100mの城。この城はあの織田信長の母、土田御前の出生地である

中世の武士団  東山道近江

  三河伴氏の富永兼網を女婿とし、その子吉弘が頼弘の後 ... 馬杉-中井の諸氏となっており、さらに、頼男の子孫は、代々もと伴氏の庶流ないしは伴部の裔であって、善男との関係は後世の付会に過ぎないであろう。 ... 遺胤が、三河伴氏となったという伝承については前述したつた生駒親正の父親重は、土田氏から出て、生駒氏を継いだのである。 ... 光基の弟澄覚のの子光助は建部大夫に復し、承久の乱で京方に属したため誅殺された

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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上西川館  近江国(彦根)

2014年08月23日 | 館跡

  

 お城のデータ

所在地:彦根市上西川町・下岡部町   map:http://yahoo.jp/mFEjuu

現 状:空地・田畑

遺 構:宅地や田畑に改変で消失か

区 分:居館

築城期:南北期

築城者:西川氏

城 主:西川氏

廃 城:佐々木氏が信長に攻略され、西川氏も敗れて出家し金前坊

目標地:稲枝北小学校

駐車場:下西川町自治会館無料駐車場

訪城日:2014.8.18

お城の概要 

上西川館は、中世城郭分布調査によると、稲枝北小学校の道を挟んで西側の民家・空地・田畑付近に比定されている。ここは上西川町と下岡部町の境にあたる。

城館らしき名残りは水路や畑地などに雰囲気が無くはないが、往時からの地形なのか?。

旧愛知川流路は町内を通っていたため、この地が要衝であったことは間違いない。

ここより約200m北西には下西川館、北方約300m先には中川館が比定されている。

大蔵寺(無住の寺)と大きな竹藪残存

歴 史

伝承

 彦根市上西川町に金前坊という名の小字があり、かっては雑木竹林であった。

金前坊とは、昔、佐々木氏の四天王の一人、西川氏の居住跡で、佐々木氏が織田信長に攻略され、西川氏も敗れて出家したのである。

その西川氏の奥方は堀に身を投げ大蛇となったが、この大蛇は、愛知川に大洪水があって堤防が決壊した時川に入って上流に上り、永源寺の奥に住みかを変えたという。そして、毎年六月の末になると更に上流をめざして、実った枇杷を食べると言われている。

上西川町の北東び大蔵寺・・無住の寺と大きな竹藪残存、城址かも(未整備のため)明確ではないが、土塁痕・堀痕が残存する、

移転のJAの支所裏の大蔵寺(無住)大きな竹藪残存

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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彦根館  近江国(彦根)

2014年08月22日 | 館跡

お城のデータ

所在地:彦根市元町   map:http://yahoo.jp/N9TGyJ

現 状:宅地・駐車場

遺 構:Ζ(鍵)字形路地・水路(堀痕)彦根城下町地割で消失カ

区 分:居館

築城期:南北期

築城者:彦根氏

城 主:彦根口郎兵衛

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

目標地:彦根市役所

駐車場:彦根市立図書館前無料駐車場、彦根市役所無料駐車場

訪城日:2014.8.20

お城の概要

彦根館は、現彦根市役所の北側付近に所在したとされる中世城館である。現在は市街地化され、駐車場等となっているため城館であった雰囲気は微塵もない。彦根館の立地は、江戸期の彦根城下では彦根道と呼ばれる佐和山を切通し道で山越えし、中山道鳥居本宿へ至る脇街道に面しているが、中世にこの街道があったのかは判らない。

歴 史

「佐々木南北諸士帳」には、彦根口郎兵衛なるものの居館があったとされているが、詳細は不明である。

彦根館は彦根口郎兵衛という武士の居館と伝わる。近江源氏佐々木氏に仕えた武士である。

 の比定地は東側一帯

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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水口古御殿 近江国(水口)

2014年08月14日 | 館跡

徳川和子入内のために幕府が築いた御茶屋御殿。

 

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字御茶後(旧甲賀郡水口町水口字御茶後)    map:

現 状:旧甲賀病院

遺 構:

区 分:御茶屋御殿(宿館)

築城期:江戸期(元和6年)

築城者:徳川幕府

目標地:旧甲賀病院、水口神社

駐車場:旧甲賀病院前の路上駐車場

訪城日:2014.8.13

水口御殿概要図・・・は古城御殿

お城の概要

 水口古御殿は、旧甲賀病院敷地に築かれていた。 遺構は何も残っていないが、単郭方形で周囲に堀を廻らし、東に外枡形を設けた縄張りで、水口城本丸の縄張りとほぼ同じで、ただ規模が一回り小さな御茶屋であったとか。

水口神社参道

歴 史

 水口古御殿は、元和6年に徳川幕府によって築かれた。 徳川和子が上洛・入内する時に築かれてた宿泊施設「御茶屋」で、寛永3年には和子の父徳川秀忠も宿泊している。 寛永11年、三代将軍家光の上洛時に水口城が宿館として築かれ、古御殿は廃城となった。

(徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。

慶長12年(1607年)10月4日、徳川家康より将軍職を譲られた徳川秀忠と正室・江夫妻の間に7番目の子(5女)として江戸城大奥で誕生する。最初の名は松姫(まつひめ)(和姫(かずひめ)とする説もある)。慶長17年(1612年)には後水尾天皇が即位するが、大御所・家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。

元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子(お与津御寮人)が皇子賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。翌元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意した(およつ御寮人事件)。

元和6年(1620年)入内に先立ち、6月2日に従三位に除せられ、同月18日に後水尾天皇の女御として入内する。入内にあたっては主上に袷百と銀千枚、中和門院に袷五十と銀五百枚、近衛信尋と一条昭良(どちらも後水尾天皇の同母弟で、近衛家・一条家に養子に入っている)に、それぞれ帷子及び単物二十と銀百枚ずつの幕府からの献上があったが、土御門泰重はその量が少ないと日記に記している。入内の様子は二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』に描かれている。元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石を寄進される。同年11月19日には皇女 女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。

寛永元年(1624年)11月28日には冊立され中宮となり、同2年(1625年)9月には女二宮が誕生する。寛永3年(1626年)には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われ、和子は同年11月13日には高仁親王を出産した。

しかし寛永4年(1627年)、高仁親王は夭折。この年生まれた男二宮も誕生直後に没した。寛永6年(1629年)には朝幕間で紫衣事件が発生し、同年10月8日に後水尾天皇は突然譲位し、女一宮に内親王宣下が下され、践祚する。同年11月9日には院号宣下があり、東福門院の号を賜る。翌寛永7年(1630年)9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。

寛永11年(1634年)には新将軍となった兄の家光が上洛し、姪にあたる明正天皇に拝謁し東福門院の御所も訪れている。延宝6年(1678年)6月15日、崩御、72歳。京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。

寛永11年、三代将軍家光の上洛時に水口城が宿館として築かれ、古御殿は廃城となった。 

旧甲賀病院前に



 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀市誌7巻甲賀の城

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布施館 近江国(八日市)

2014年07月07日 | 館跡

布施神社参道

布施公民館殿屋敷・・・布施館跡

所在地:八日市市布施町 map:http://yahoo.jp/sCnd3f

現 状:水田

築城期:室町期

築城者:布施氏本家 布施三河守

城 主:布施三河守

区 分:居館

目 標:布施公民館

駐車場:布施公民館

訪城日:2014.7.6 

お城の概要

現在の布施公民館の東側一帯が館跡といわれており、現在では遺構はない。が、南西約1kmに詰め城の布施山城が現存する。
布施公民館の近くで古老の話によると、公民館の裏は下屋敷跡と云われていたと云う。また、近くには"的場"という地名も残る。

 

 歴 史

大洞弁財天本地蔵「当国古城主名札」に布施三河守の戒名は【大雲院 殿餐山清倫大居士】と記されている。

布施氏は佐々木六角氏の家臣で、本家筋と見られる三河守家と分家筋の淡路守家に分かれていた。布施山城の城主は三河守家で、淡路守家の城は東方5kmにある大森城とされている。

永禄6年(1563)六角氏被官の後藤氏が観音寺城内で六角義弼に誅殺されると、これに反発した家臣が自領へ引き上げる「観音寺騒動」が起き、布施氏は永禄9年(1566)浅井氏と呼応して布施山城に拠って六角氏に反旗を翻した。甲賀の三雲新左衛門らに攻撃させた。

この騒動は、蒲生氏の調停によって収拾されたが、六角氏の権限を大幅に規制する「六角氏式目」が結ばれた。


布施氏は、永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻に対し、この城に籠ったが敗れ、廃城となった。
なお、分家筋の布施淡路守の子・藤九郎は上大森に住み、織田信長に仕えた。

なお、布施町に布施の名のる家は無い

しかし布施氏末裔の田原さん宅には反六角の旗頭であった布施氏三河守の位牌が伝えられている。

高さ40cm、位牌の黒塗りはすでに光沢を失い生地がが現れている。

【大雲院 殿餐山清倫大居士】裏には【布施三河守定行】と俗名がが書かれている。(郷土史家 中島氏・・末裔の田原氏からの聞き取り)

布施氏邸  

布施氏は市邊村布施を本據とすれども一族繁茂して後は瓜生津に住めしものあり、佐々木南北諸士帳に瓜生津城主布施九朗 布施九郎左衛門 布施新藏人等名を記す、大字布施にも城屋敷と偁する所あり、布施氏在住の邸と傳ふ。・・・蒲生郡誌八巻三八八頁

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、蒲生郡誌、ウィキペディア

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岩坂屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年06月09日 | 館跡

岩坂屋敷は、杣川南西の丘陵地に営まれる岩坂集落内に存在したとされる。

元禄8年(1695)に作成された絵図によると、約60m四方に土塁が描かれている。

現在は宅地化によって全く遺構を確認することができないが、南南東見出し画像の撮影位置付近に虎口が開口していた。

住所 :甲賀市水口町岩坂字屋敷  map:http://yahoo.jp/DS6vqa

現在の状態 :集落・田地

遺構 :なし

形式 :居館

築城者 :山中岩坂氏

築城期:室町期

訪城日:2014.3.14。2014.4.14

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

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百々屋敷 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 館跡

名神高速をくぐる「彦根25」のトンネルから登ると間違えることはない。


途中に「百々某」の骨塔が建っている。 

 

【城郭の概要】

所在地:彦根市小野町

築 城:

初城主:百々氏

区 分:居館

遺 構 :横堀・曲輪・土塁・堀・

現 状:竹林(筍林)

訪城日2014.5.13

百々家代々の骨塔、他墓碑2基あり

主郭の上には、土塁で止められた池(堀:横堀)が!

 南北に曲輪を連ね、北の曲輪には土橋や削平された郭跡が4段は完全である。正面には、当然のことであるが佐和山を望む。

歴 史

~~~島記録(浅井氏の被管の今井氏の被管島氏の家記、戦国期の秀安が筆録)~~~

百々館(彦根市小野) 沢山籠城付あけのく事 「百々屋敷にハ丹羽五郎左衛門尉」…云々

この百々屋敷の詰め城が丸山砦!


 

---------以下、信長公記の抜粋--------
夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘え候へき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取手仰せつけらる。丹羽五郎左衛門置かれ、北の山(物生山)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山)に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通行をとめ、同七月六日、御馬廻ばかり召し列れられ、御上洛。
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 信長公記に百々屋敷とされているのは、丸山城より1kmほど北の鳥居本町本町にあったとされる。

信長公記にも「百々屋敷」と出てくる百々(どど)氏のものであろう。ここが百々屋敷かは定かでないが、この池は天然ではなく、南側は土塁で取り囲まれていて堀跡のようにも見える。とにかく骨塔付近から東背後の百々山(丸山砦)へ向かって登城路ある。

 小野町の大人たちは、名神東側の山々には人喰い蛇が出るから、決して行ってはならないと子供たちに言い聞かせていたようである。特にこの沼池あたりは危険であり、推測するに、もしかすると過去に命を落とした人がいたのかも知れない。

主郭の上には、土塁で止められた池(堀:横堀)が!

名神高速の「彦根25」のトンネルの西の空き地に駐車(私有地)

参考資料:島記録、信長公記、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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