城郭探訪

yamaziro

横山半喜長隆の墓(余呉)

2013年05月12日 | 武将

 【横山半喜長隆の墓】

高月町横山出身で前田利家の家臣。前田軍が戦わずして戦線離脱した際、殿をつとめ、敵に包囲されて吉祥院の境内で自害した。

名称:横山半喜長隆の墓

所在地:長浜市余呉町中ノ郷  map:http://yahoo.jp/yUtuxG

区 分:墓

時 代:天正11年(1583年)3月~4月

訪城日:2013.5.9

 

天文8年(1539年)美濃国多芸郡の豪族横山時隆の子として生まれる。多芸郡直江郷の杉弥左衛門の婿養子となる。清水城主稲葉良通(通朝)に仕えるも、同僚と争い、相手を殺害して越前に逃れる。大野城主金森長近に仕えた後、金森家を退き、越前府中で閑居して半喜と号す。

 

天正10年(1582年前田利長出仕し旗奉行となる。

 

天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いに出陣し殿軍を務めて戦死した。享年45。

 

  前田利家が、賤ヶ岳ノ合戦の折りに戦わずして戦線を離脱した時に、その殿を勤めていた武将です。

 

 利家達とは一緒に退く事ができず、敵の秀吉軍に包囲されて自害してしまいました。
 自害した余呉町の長谷山山麓にある吉祥院で、遺骸は丁重に葬られ供養されたそうです。このお寺が菩提寺となりました。 後に加賀藩主となった前田家により、半喜の子長知は重臣となり、加賀八家・横山家三万石の祖となりました。 数年前に余呉町教委の方々に吉祥院に案内して頂き、山の斜面にある半喜長隆のお墓にお参りさせて頂きました。遠く金沢で作られて持って来られたものだそうです。 その横には、維新後に男爵となった十二代目の御子孫が同時に建てた石碑もあります。

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


三好(織田)信孝の家臣団

2013年05月08日 | 武将

三好(織田)信孝の家臣団

<六角(近江守家)譜代家老衆>

<南近江国衆> 鏡・大原・青地・山内・馬淵ほか。

(青地)

青地道徹 (*)(佐々木)・入道。南近江国衆。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<養子の蒲生(青地)茂綱、母方の馬淵家の血を引き継いでいるのなら、蒲生でも佐々木氏一門ということで青地氏も継承できるということでしょうか。>

⇔青地茂綱 (*1530~1570)蒲生・駿河守・式部少輔。南近江国衆。蒲生定秀の息、蒲生賢秀の弟。青地(入道・道徹)長綱の娘と婚姻し養子となる。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。蒲生家とともに織田信長に臣従。宇佐山城主、森可成とともに朝倉軍との戦闘に討死。

青地元珍 (1560~1633)千世寿・四郎左衛門・内匠助。南近江国衆。蒲生氏縁戚。六角氏旧臣。織田家に臣従する。父・茂綱は森可成の与力で1570年朝倉氏と戦い森可成と共に討死した。佐久間信盛の与力。粟太郡の土豪。

 

(永田)

永田賢弘 (*)佐々木・備中守・入道。南近江国衆。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔永田景弘 (*~1582)長田・佐々木・刑部少輔・正貞。高島郡佐々木氏の庶流、高島七頭の永田氏の分流の系統。南近江国衆。蒲生郡の土豪。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年5月に信長から中島郡、中郡の所領を安堵される。織田家に臣従し、中川重政の与力に配属される。<舎弟・九里氏の跡領を信長から保証されるというので、弟は戦死したか。永田氏は琵琶湖の水運に関係していたという。>

 

(平井)

平井高好 (*)(佐々木)。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。息に定武。

平井定武 (*)(佐々木)・加賀守。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。高好の息。六角定頼・義賢の家老。粟田郡平井領主。1537(天文6)年本願寺への使者。娘婿に浅井賢政を迎えるが破談。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

平井高明 (*)(佐々木)・弥太郎。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。粟田郡平井領主。六角家家臣。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。

 

(三上) 幕府奉公衆に三上近江入道あり、独立性強し。

三上士忠 (*)栖雲軒。定頼の代の奉行人。布施・宮木氏と共に奉行衆。<三上頼安の入道名とも。>

三上頼安 (*)越後守。幕府奉公衆兼、定頼の代の奉行人。<高頼の代に三井右兵衛大夫・高就が北近江高島郡の知行を与えられる。子孫か。>

三上恒安 (*)越後守。南近江国衆。幕府奉公人・越後守頼安の息。六角家家臣。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

 

* (*)加賀美・各務。南近江国衆。六角家家臣。<六角分家。>

大原* (*)南近江国衆。六角家家臣。<六角義賢の次男・義定が相続か。>

山内* (*)南近江国衆。六角家家臣。<守護代山内家は建部氏に改姓。>

 

佐久間信盛・原田(塙)直政の軍団

<六角譜代家老衆>

<南近江国衆>

永原重隆 (*~1550)太郎左衛門・越前守。重泰の息。六角定頼の側近。1532年六角定頼の「山科本願寺攻略」に旗頭。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治とともに鎮圧軍として上洛。1539年浅井亮政との対陣にも従軍。1540年細川晴元の後詰として進藤貞治とともに上洛軍。芥川城受け取りの奉行。

永原重興 (*~1562)越前守。重隆の息。弟に久重。六角義賢の侍大将。1562年三好軍との「久米田の合戦」に先陣。松永軍に敗北戦死。

永原重虎 (*)越前守。重興の息。六角家家臣。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1568年織田家の侵攻に隠居。

⇔永原重康 (*)越前守。野州郡の土豪。六角家家臣。のち織田家に臣従する。佐久間信盛与力。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。><永原遠江守の件で誅殺されるか。>

↓永原* (*~1570)遠江守。六角家家臣。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に参加。

 

進藤長久 (*)山城守。野洲郡の豪族。六角高頼の臣。

進藤貞治 (1497~1551)山城守。野洲郡の豪族。進藤長久の息。六角定頼の側近。12代将軍・足利義晴と細川晴元の和睦の取次ぎ。1537年「法華一揆の乱」に永原重隆とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰として永原重隆とともに上洛軍。野洲木浜城主。息に賢盛。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔進藤賢盛 (*~*1583)山城守。六角の両藤と讃えられる重臣。進藤貞治の息。観音寺奉行衆。親後藤派。粟太郡の土豪。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。佐久間信盛与力。反明智派。木浜城主。<織田家のなかでは初期に佐久間与力として、信長様直参でなかったぶん、後藤家のほうが信長様に重用されるようになっていたのかもしれません。>

 

後藤* (*)左衛門。六角定頼の家老。1525年伊庭貞説の観音寺城攻撃を撃退。

後藤高雄 (*)六角定頼の臣。観音寺奉行衆。後藤氏一門。被官に杉山藤三郎。1525年「黒橋口の合戦」に九里・西川氏を討つ。1531年浅井家との「箕浦の合戦」に軍功。

後藤賢豊 (*~1563)重左衛門尉・但馬守。羽田荘の領主。義賢の筆頭家老。六角の両藤と讃えられる重臣。観音寺奉行衆。1562年六角義賢とともに上洛。大徳寺の警固等京都に治安を維持。1563年専横が過ぎると新当主・義治に観音寺城で討たれる。娘婿に蒲生賢秀。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

後藤* (*~1563)又三郎・壱岐守。後藤賢豊の嫡男。1563年専横が過ぎると当主・義治により、父・賢豊とともに観音寺城で討たれる。義兄弟に蒲生賢秀。

⇔▽後藤高治 (*~1589)喜三郎・高安・定豊・戸賀十兵衛。1563年「観音寺騒動」により壱岐守の跡職。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。親明智派。蒲生家に出仕する。<父・兄を亡くした後、よくぞここまで家を再興したとおもいます。><たぶん若いと思います。>

 

 

 六角氏に六奉行なるものがあったとすれば、斎藤家もそれを真似ていたとうことでしょうか。信長も五奉行=六奉行みたいな側近衆を形成していますいし、当時の戦国大名の政治スタイルなのかもしれませんね。

斎藤道三、義龍の家臣団

<六角(弾正忠家)譜代家老衆> 永禄10年三上・後藤・進藤・蒲生ら重臣14氏20名が「式目」起草、六角当主に承認させる。

<六角弾正忠内衆> 永原・池田・布施・狛・山中・三雲・望月・黒川・三井・神崎・新村・瓦薗・河井・横山。

 

(三雲氏)

三雲定持 (*~1570)三郎左衛門・対馬守。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に討死。<1525年六角定頼の動因に従う譜代家。>

三雲賢持 (*~1566)新左衛門尉。三雲定持の息、1566年浅井長政に破れ討死。

三雲成持 (*~1603)豊左衛門尉。1566年兄・賢持の討死し家督。三雲城主。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。六角家滅亡後は浪人。1584年北畠信雄に出仕。

 

(三井氏)

三井将鶴 (*)離相庵。親後藤派。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

三井治秀 (*)新五郎。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。

 

(山中氏)

⇔↓山中俊好 (*)春好。山中貞俊の息。甲賀郡中惣の伴・美濃部とともに柏木三家と称される旗頭。1549年兄・大和守久俊の死後、家督。1574年頃には織田家に臣従。甲賀衆。

⇔↓山中長俊 (1547~1607)吉内・橘内・山城守。山中為俊の息。六角氏旧臣。長光寺城主の柴田勝家与力となり、のち柴田家の家老職。丹羽長秀、堀秀政に歴仕。秀吉に祐筆として迎えられる。

 

(布施氏)

布施公雄 (*)淡路守・淡路入道。親後藤派。1566年、義治に不信を抱き篭城。寄せ手の大将・三雲賢持と抗戦する。親後藤派。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署受取人。息に公保。

布施公保 (*)藤九郎・忠兵衛。六角氏旧臣。蒲生賢秀の娘婿。1570年旧主六角義賢との「落窪の合戦」に参陣。伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1578年8月安土相撲に奉行、相撲披露。のち蒲生家の与力から、信長直参馬廻衆。親明智派。<蒲生勢力、侮れませんねえ。>

 

(池田氏)

池田景世 (*)真光寺周揚。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔池田景雄 (1528~1597)池田秀雄・弥次郎・孫次郎・伊予守。親後藤派。蒲生郡の土豪。小井城主。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。1573年「槙島城攻囲戦」に従軍。1575年明智光秀の与力として「越前一揆平定」に従軍。天正3年まで柴田勝家与力、以降佐久間信盛与力。親明智派。朝鮮に陣没。<1572年武田信玄の上洛に旧主・六角義治と連絡をとっていたようです。>

池田高祐 (*)池田秀氏・孫二郎・伊予守・。蒲生郡桐原村池田の土豪。池田景雄(秀雄)の息。のち藤堂家に出仕。

 

(狛氏)コマ

狛 * (*)駒・丹後守。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署受取人。<「駒殿」の呼称からすれば朽木系佐々木氏?。>

 

(望月氏)

⇔↓望月吉棟 (*)義治に親しく、病気の見舞いを受ける。甲賀中惣衆。1569年織田家と三好三人衆との戦況を義治に報告している。のち織田家に臣従。信長から宿の手配を依頼される。

 朝倉義景の家臣団  浅井長政(賢政)の家臣団

南近江国人領主

(建部氏)

建部賢文 (1522~1590)建部秀昌の息、兄は秀治。箕作城主。のちに書家として大成する。

建部秀明 (*~*1568)源八郎。1568年織田信長の上洛軍に対して、六角義治に忠節を尽くし徹底抗戦し落城。観音寺城の前衛・箕作城主。

⇔建部寿徳 (1536~1607)与八郎・内匠頭・高光・秀栄。蒲生郡の土豪。織田家に臣従する。中川重政の与力。・丹羽与力。守山にて500石を与えられる。変後、秀吉に出仕。<じいさんっぽい名前ですが、丹羽・羽柴世代。>

 

(宮木氏)

宮木重祐 (*)対馬守。六角氏家臣。

宮木賢祐 (*)右衛門尉。六角氏家臣。観音寺奉行衆。1551年浅井攻略に太尾城に留守居。1557年義賢の伊勢征伐に軍備を整える。のち織田家、豊臣家に出仕。<秀吉家臣の堅甫とは別人とも。>

宮木堅甫 (*)右兵衛。六角氏家臣。息に正重、文利、豊盛。<賢祐とは別人らしい。>

宮木豊盛 (1554~1620)長次郎・丹波守。賢祐の養子。豊臣家の直轄地代官、朝鮮に渡航。徳川家に出仕。秀忠の伽衆。

 

(山崎氏)

⇔山崎片家 (1547~1591)堅家。六角氏家臣。後藤賢豊の嫡男が娘婿。親後藤派。織田家に臣従する。安土城二の丸在番衆。本能寺の変ののち惟任勢でありながら、秀吉のもとでも「秀」字を与えられ、世渡り上手です。><想像してたよりも以外に若い。>

⇔山崎家盛 (1567~1614)与市・左馬介。

⇔山崎頼久 (1570~1609)右京進・長俊・忠頼。山崎片家の息。宮木豊盛の養子となる。秀吉に仕え1587年北野大茶会の奉行。

 

(山岡氏) 佐久間信盛・原田(塙)直政の軍団

山岡景之 (*)息に景隆、景佐、景猶、景友。

⇔山岡景隆 (1525~1584)美作守。山岡景之の嫡男。六角氏家臣。山岡氏惣領、瀬田(勢多)城主。江南の旗頭。粟太郡の豪族。1569年頃から織田家に臣従し、伊勢北畠氏「大河内城攻囲」に従軍。柴田勝家の与力。1571年12月より粟太郡を支配する佐久間信盛の与力。信長の宿泊宿。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1573年7月足利義昭の与力(実弟)山岡景友を撃破。1577年紀州「雑賀・根来征伐」に従軍。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。反明智派。柴田勝家と懇意。瀬田城主。

山岡景宗 (*)孫太郎・修理亮・景昌・景広。山岡景隆の嫡男。信長に父と別行動で一隊を統率することが許された織田家中の若手将校。山岡隊の副将。1576年摂津「石山本願寺攻囲」に従軍し天王寺砦を守備。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。のち徳川家に出仕。

山岡景友 (*)三井寺・道阿弥・光浄院・暹慶。景之の息(4男)。

 

(高野瀬氏)

高野瀬頼定 (*)頼貞。愛知郡の豪族。光頼の息。弟に定季。六角義賢に従い、畿内の合戦に戦死。肥田城主。息に秀隆。

高野瀬秀隆 (*~1574)修理大夫・備前守。頼定の息。六角氏家臣。犬上郡の豪族。1560年浅井長政に離反。織田家に降伏臣従。1574年「越前一向一揆」討伐に戦死。息に秀澄、隆景、定隆、隆英。肥田城主。

↓↑高野瀬秀澄 (*~1570)美作守。犬上郡の豪族。高野瀬秀隆の息。1560年浅井方として肥田籠城。六角義賢の軍勢25000に包囲される。後詰に出動した浅井長政が「野良田の合戦」で義賢を撃破。六角家は斎藤家と再度同盟。のち六角家に帰参。1569年織田家の上洛軍に抵抗するが敗走。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に討死。肥田城主。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。高野瀬秀隆は浅井に降る。><実は定季の子孫とかで、秀隆とは分家の別流か。>

 

(吉田氏) 戦国なのに御長寿の家系です。

吉田重賢 (1463~1543)(佐々木)・太郎左衛門・上野介・出雲守・重長。六角氏家臣。日置流弓術を相伝する。これに改良を加え吉田流弓術を興した。81歳。息に重政。川守城主。

吉田重政 (1484~1569)(佐々木)・出雲守。重賢の嫡子。吉田流弓術を相伝する。84歳。息に重高、重勝。川守城主。

 

(小倉氏) 分家が乱立していたようです。信長と縁があるのは八尾山城主の小倉氏。

小倉実秀 (*~1564)小倉・右近大夫・右京大夫・賢治。東近江の蒲生郡佐久良庄の豪族。蒲生氏と抗争。1564年主・六角義賢と対立し自害。息に実治。

小倉実澄 (*~1570?)右京亮・実房。神崎郡御園庄の豪族。1570年越前から撤退する織田信長を先導する。六角家と抗争し蒲生定秀軍に攻略され戦死。八尾山城主。息に甚五郎、松寿。<室は奥政景の仲介で「お鍋の方」として織田信長の側室に迎えられる。>

小倉松寿 (*~1582)準織田一門。信長室、鍋ノ方の連れ子。近江六角氏の旧臣、小倉実澄(信長に内通したため討たれた)の息。本能寺に駆けつけ奮戦し討死する。直参御番衆。<運命の不思議/鍋の方は、自分を一度は追った蒲生氏に、変の際は加護される。

 

(多羅尾氏)

多羅尾光俊 (1514~1609)四郎兵衛・四郎右衛門・道賀。近江甲賀信楽の豪族。六角氏旧臣。1574年多聞山城城番をつとめる。変事、徳川家康の伊賀越えに協力する。<伊賀・甲賀が滅ぼされたといいますが、果たしてそうなのでしょうか。信仰や旧縁で相容れなかった、反抗的な土豪が滅んだ、または追放されただけかと思います。><河内の多羅尾常陸とは別系統。>

⇔▽多羅尾光太 (1552~1647)彦一・彦市・久右衛門・左京進。近江甲賀の豪族、多羅尾光俊の息。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。多羅尾隊の副将。変事、徳川家康の伊賀越えに協力する。<河内の多羅尾常陸とは別系統のようです。>

 

 

 

南近江国人領主

小川祐忠 (*~1601)孫一郎・土佐守。六角氏旧臣。近江神崎郡小川の豪族。1571年織田軍に小川城を攻撃され降服。柴田勝家の与力となる。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。親明智派。のち柴田勝豊家臣。1583年4月勝豊死後、秀吉家臣。小牧長久手に兵250動員。のち伊予今治に7万石を領する。関ヶ原に失領。<本能寺の変ののち惟任勢でありながら、秀吉のもとでも出世し世渡り上手です。><ひょっとして若いかもしれません。>

青木* (*)玄蕃允。六角氏旧臣。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。<青木所右衛門・一重が渥美一族と因縁が深いことから、渥美玄蕃允とも呼べるような気がします・・(妄想)。>

平野* (*)土佐守。元・六角家臣。1573年4~7月京都「足利義昭征伐」に従軍。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。近江福島城主「近江輿地志略」。<平野姓といえば秀吉配下の平野長泰(彼の父は船橋枝賢の息子で、後北条氏家臣・平野万作の養子となった平野長治)と関連する一族か?>

 

木村* (*)筑後守。六角義治の側近。1568年足利義昭・織田信長の上洛に、協力要請の使者の取次。

高畠* (*)源十郎。近江野洲郡北里の土豪。六角家家臣。娘婿に小倉実澄。<織田信長と縁が繋がります。>

種村貞和 (*)近江の豪族。六角家家臣。義弼の側近。観音寺奉行衆。後藤・平井・布施と奉行を務める。

和田* (*)嘉助。近江の豪族。六角家家臣。織田軍の上洛軍を6000の軍兵にて迎え撃つ。和田山城主。

黒川* (*)近江の豪族。六角家家臣。1573年の一揆に参陣。

新村* (*)近江の豪族。六角家家臣。1570年の野洲一揆に参陣。

河井* (*)近江の豪族。六角家家臣。1570年の野洲一揆に参陣。

横山* (*)近江の豪族。六角家家臣。

瓦薗* (*)近江の豪族。六角家家臣。

神崎* (*)近江の豪族。六角家家臣。

 

 

六角氏残党

<1568年以降の反 織田信長勢力>

1570年4月落窪「野洲川の合戦」六角氏再興をかけて、柴田・佐久間軍との合戦。 (六角側:三雲・高野瀬・永原・乾) 1572年「金森の合戦」に一揆勢力は鎮圧される。

↑永原* (*~1570)遠江守。六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。1570年六角義治に味方し「野洲川の合戦」に参加。織田軍との「野洲川の合戦」に先陣の将。<織田政権下では、永原一族は佐久間信盛の与力を経て、直参として迎えられず没落していく様子です。反抗したことが尾をひいたのでしょうか。>

↑高野瀬秀澄 (*~1570)美作守。六角氏家臣。犬上郡の豪族。高野瀬秀隆の息。1560年浅井方として肥田籠城。六角義賢の軍勢25000に包囲される。後詰に出動した浅井長政が「野良田の合戦」で義賢を撃破。六角家は斎藤家と再度同盟。のち六角家に帰参。1569年織田家の上洛軍に抵抗するが敗走。1570年六角義治に味方し「野洲川の合戦」に先陣の将。討死。肥田城主。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。高野瀬秀隆は浅井に降る。>

乾 * (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に先陣。

新村* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。<譜代の臣。>

種村* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。

河井* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。<譜代の臣。>

↓美濃部* (*)義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。義賢とともに落ちる。<甲賀衆?>

三上* (*)伊予守。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に本軍。合戦中に離反し織田方に転ずる。

望月* (*)義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。義賢とともに落ちる。<甲賀衆?><望月吉棟の一門か。>

三雲* (*~1570)三郎左衛門。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。戦死(義賢とともに落ちるとも)。<甲賀衆?>

1571年「近江一向一揆」。<本願寺から派遣された軍事指導者。>

⇔↑小川祐忠 (*)孫一郎・孫市。一向一揆と結び反乱。志村落城を見て降伏し織田家に臣従。小川城主。

志村資則 (*)筑後守。一向一揆と結び反乱。織田軍の総攻撃を受け逃亡。志村城主。

川那辺秀政 (*)一向一揆と結び反乱。金ケ森城、安土常楽寺城主。<石山本願寺から派遣された侍大将とも。一向宗の在地の豪族のような気もしますが。>

1573年近江志賀郡、高嶋郡、西近江「木戸・田中城攻防戦」。南近江「百済寺・鯰江城攻防戦」。「甲賀石部城攻防戦」。

 

鯰江貞景 (*~1573)三井。貞秀の息。兄弟に貞春、貞興、秀国、政次、高次。1568年観音寺城から落ちた六角義賢を迎える。元亀争乱に六角氏勢力として「百済寺・鯰江城攻防戦」。六角義治を擁して一揆とともに蜂起する。

鯰江貞春 (*)森・毛利・定春。貞秀の息。貞景とともに1568年観音寺城から落ちた六角義賢を迎える。元亀争乱に六角氏勢力として「百済寺・鯰江城攻防戦」。六角義治を擁して一揆とともに蜂起する。のち秀吉に出仕し毛利に改姓。

黒川* (*~1573)修理進。甲賀郡黒川の豪族。六角義治の家臣。甲賀郡中惣衆。元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。伊勢国境の豪族。

倉垣* (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。

木村* (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。

石部家清 (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。

三雲成持 (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。

山中長俊 (*~1573)甲賀衆。元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。1574年頃には織田家に臣従。

山中氏俊 (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。

 

 これだけ度々一揆がおこせるとは、けっこう忠臣達がいた感じですね。里見八犬伝なみの六角氏再興物語があったりして。

尼子の山中幸隆といい、六角残党といい、復活した京極氏といい、佐々木系はしぶといですね(汗。

織田が尼子残党に手を貸したように、上杉家や武田家、毛利家も手を貸していたりするかもですね。

 

  

 


伊賀国衆(六角家の同盟者) 国人一揆、伊賀平楽寺を本拠。

2013年05月08日 | 武将

 伊賀国衆(六角家の同盟者) 国人一揆、伊賀平楽寺を本拠。

(北伊賀)北朝幕府方。1487年北伊賀衆六角氏と同盟。

(南伊賀)南朝方。1428年南朝・北畠満雅と関氏同盟。

北畠(織田)信雄の家臣団

 

 

<伊賀守護>

仁木義視 (*)長政・入道友梅。伊賀守護家。1571年伊賀復帰。織田家に従属。1578年北畠信雄の敗退後に国衆の一揆により追放される。

下山* (*~1578)甲斐守。北畠家臣。伊賀旗頭家。親織田派。丸山城を修理改築。第1次「伊賀侵攻」に呼応。

福地定成 (*~1582)伊予守・宗隆。先祖は柘植三方衆。伊賀四大将家のひとつ。1581年9月織田家に第2次「伊賀侵攻」に呼応。1582年「本能寺の変」後の伊賀一揆で襲撃される。一門に北畠信雄の家老となる柘植三郎左衛門・保重。<松尾芭蕉の先祖らしいです。>

耳須具明 (*~1581)弥次郎。伊賀地頭家。河合郷の豪族。1581年9月織田家の第2次「伊賀侵攻」に呼応。織田家に内通したことにより、他の伊賀衆の復讐の標的となる。反撃にあい討死。

 

 

(柘植)

日置* (*)北伊賀の豪族。柘植三方衆。1428年南朝方・関家と抗争。1487年六角高頼と同盟。

福地* (*)北伊賀の豪族。柘植三方衆。1428年南朝方・関家と抗争。1487年六角高頼と同盟。

北村* (*)北伊賀の豪族。柘植三方衆。1428年南朝方・関家と抗争。1487年六角高頼と同盟。

 

 

(服部党) 藤林・百地も同祖。

藤林保豊 (*)(服部)・長門守・正保。伊賀上忍三家のひとつ。東湯舟郷の豪族。今川義元に出仕。のち織田家に通じる。<1581年の「伊賀征伐」に協力するとも。>

百地泰光 (1512~1581)(服部)・丹波守・正西。清右衛門の息。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀南部・東部の友生の豪族。<三太夫は孫らしい。滝野氏に裏切られた感じです。>

服部保長 (*)千賀地・半三・石見守。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀中部予野の豪(阿拝郡の豪族とも)。足利義晴に出仕。息に家康に出仕した服部半蔵・正成。<家康に出仕した服部氏は三河在住の分家のようです。><1560年に今川義元に呼応して海から尾張沿岸を攻撃した服部党との関係が気になります。>

 

 

(親北畠・反織田)

小波多* (*~1581)おばた・小幡。1581年「伊賀征伐」に親子ともに戦死。

高畠* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に兄弟ともに戦死。東田原城主。

高畠* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。西田原城主。

吉原* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。吉原城主。1577年北畠具親を支援し戦争の発端をつくる。

多気* (*~1581)瀧。小倭七人衆。1577年北畠具親を擁立して挙兵。

川俣* (*~1581)小倭七人衆。1577年北畠具親を擁立して挙兵。

三瀬* (*~1581)小倭七人衆。1577年北畠具親を擁立して挙兵。

 

 

(伊賀国衆)

植田光次 (*)伊賀12人衆のひとり。「伊賀征伐」に柘植三郎左衛門を討つ軍功。1582年以降は秀吉に出仕するとも。

田屋* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。河合城主。

岡本* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。

高屋* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。国府城主。

糟屋* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。壬生野城主。上服部党。

竹野谷* (*~1581)荒木・左近。1581年「伊賀征伐」に戦死。木興城主。下服部党。

滝野吉政 (*~1602)十郎。滝野貞清の息。1581年「伊賀征伐」に総大将。柏原城にて降伏し赦免され北畠信雄に出仕。1582年変後は一揆に追われ伊勢に逃れる。柏原城主。

 

 

服部党がやはり気になります。伊勢桑名周辺で服部友貞率いる海賊が尾張沿岸を荒らしまわりますが、何か縁があるんじゃないのでしょうか。徳川への仕官は、「本能寺の変」以降なんじゃないのかなあ~。

 もしくは柘植三郎左衛門達の柘植党や、瀧川一益に繋がる伴党が織田家の中では優勢で、駄目だとおもって三河に移ったとか・・。

北畠具教の家臣団   六角義賢の家臣団

 

<1550年代? 近江流出の人材>

<親 織田信長勢力>

村井貞勝 (*~1582)織田信長の家宰。京都所司代。

瀧川一益 (*)織田信長家臣。関東御番役。

服部正成 (*)半蔵。

岩室重休 (*)長門守。

高畠*

堀部宗氏 (*)佐々木・六角。六角分家。尾張国の春日井郡比良郷に移住。織田信秀に出仕。息に(森川)氏俊。

<反 織田信長勢力>

河田長親 (*1545~1581)豊前守・貞政。近江守山出身。越後衆。上杉謙信家臣。上杉家の侍大将として織田家との前線へ。

河田重親 (*~1578)伯耆守。近江国出身。河田長親の叔父。越後衆。上杉謙信家臣。

吉江景堅 (*~1582)喜四郎・信景・資堅。越後衆。近江国出身。上杉家の侍大将として織田家との前線へ。

五十公野信宗 (*~1587)長沢・甚五郎・道如斎・三条信宗。元、能登の湯山城・長沢筑前守の家臣。上杉輝虎に召しだされ、揚北衆・新発田重家の妹婿。<結局は織田方に傾いたのに「本能寺の変」で立場が危うくなりました。>

小川元政 (*)右衛門・兵衛尉。近江出身。毛利家家臣。毛利家の侍大将として織田家との前線へ。<信長様の側近まで上り詰めた一揆の指導者、小川祐忠との関係が凄く気になる武将です。本能寺とも関わりがあったりして・・。>


六角(近江守)家の家臣団 (転載)

2013年05月08日 | 武将

六角(近江守)家の家臣団

<六角家 歴代当主>

六角久頼 (*~1456*57)近江守。六角満綱の息。1445年守護・持綱が弟の時綱により討たれ、1447年久頼は還俗し、久頼が時綱を討伐。京極持清・政高親子と近江守護職を争う。1456年10月京極高清の圧力により自害。8代将軍・足利義政の命で一門の政堯が家督。息に高頼。

六角政堯 (*)佐々木・四郎・(政高)。時綱の息。1458年幕府が高頼を追討し家督継承。1460年逆に家督を廃止される。<同時代の京極政経が同名の「政高」を名乗る為、佐々木政高の事績が重複したりややこしい事になってるかもしれませんね。それに高頼と名乗る一門のライバルが正統となるために敗者の政高の名を「尭」に変えたりするかもしれません。「高」は当時加冠の際に与えられた意味のある偏諱の名なのでしょう。>1467年「応仁・文明の乱」に京極氏と結び東軍。1492年政堯の養子・虎千代が守護補任される。

六角政信 (*)佐々木・四郎・雅延。持綱の息。叔父・時綱は父の仇。政堯追放後は高頼が家督を相続し、その後見。将軍・義政に重用される。「応仁の乱」に最初西軍。のち東軍。六角高頼と抗争。

 

(第2世代)

六角高頼 (*~1520)亀寿丸・四郎・大膳大夫・行高。久頼の息(政頼の息とも)。鎌倉・古河公方足利成氏の娘婿。1456年元守護家・持綱の息・政信、持綱弟・時綱の息・政尭と家督を争う。8代将軍・義政により擁立された政堯と家督争い。1458年幕府から追討される。1460年政堯の家督が廃止され、相続。1467年「応仁・文明の乱」に西軍。1478年前将軍・足利義政が家督相続を許可。京極持清の死により一国支配。1487年六角高頼部下の幕府領横領に9代将軍・足利義尚「六角征伐」、「観音寺城落城」。甲賀谷潜伏、のち一時和睦。1491年第10代・足利義稙(義材・義尹)の追討を受ける。甲賀谷潜伏。1492年各守護内衆連合軍、織田・浦上・逸見氏に「愛知河原の合戦」に敗北。1492年政堯の養子・虎千代が守護補任される。1493年管領・細川政元が山内就綱を守護に補任。美濃斎藤家の後援で山内軍を撃破。1494年土岐家の内紛に介入。越前の朝倉貞景、京極高清、斎藤利国と抗争。1497年美濃土岐家の内紛に介入し京極高清と対立。京極軍を撃破。細川政元と和睦、1498年北陸からの足利義稙軍を近江坂本で撃破。1502年反乱した重臣・伊庭貞隆を攻撃するが幕府管領・細川政元の介入により敗北。1508年足利義高(義澄)を(伊庭氏が?)保護。1511年伊庭氏を破り細川高国を後援。高国、大内義興が擁する足利義稙に従う。1516年守護代・伊庭氏の反乱。1518年隠居。息に氏綱、定頼、(大原)高保、(梅戸)高実。59歳。

↓▽山内政綱 (*~1491)宮内大輔。六角家一門衆。山内勝綱の息。当主・六角高頼を補佐。1467年「応仁の乱」に軍功。当主・高頼に代わり「御名代」として軍事指揮権。1487年第9代将軍・足利義尚の「六角高頼征伐」に対しても旗頭として六角軍を率い幕府軍と敢闘。1491年足利義稙(義材)の第二次「六角征伐」に、大津園城寺に呼び出されて将軍・義稙(義材)に謀殺される。

↓▽山内就綱 (*~1506*)六角・小三郎・宮内大輔。政綱の息。1491年父の死により家督。幕府軍の攻撃により近江から脱出。1493年幕府管領・細川政元により近江守護に補任されるが、斎藤家の後援を得た旧主・六角高頼に敗北し失領。1502年伊庭貞隆の反乱に参加。のち高頼と和睦し復帰。

 

(第3世代)

六角氏綱 (1492~1518)(鎌倉足利)・亀寿丸・四郎・近江守。高頼の嫡男。将軍・足利義澄の妹婿。足利政知の娘婿。1502年伊庭貞隆を攻撃するが幕府管領・細川政元の介入により敗北。1506年細川政元の跡職争い澄之、澄元の対立に上洛。細川家との抗争に戦傷。1516年「伊庭貞説の乱」。弟・定頼が鎮圧。病気の為、27歳で死去。息に六角義実、定頼、(義久?)。娘婿に二条晴良、京極材宗。

六角定頼 (1495~1552)慈照院承亀・四郎・吉侍者・弾正忠・弾正少弼・管領代。高頼の息(次男or三男)。氏綱の弟。1499年京都相国寺・慈照院に出家。1506年父の隠居と兄・氏綱の戦傷により家督。1511年伊庭氏を破り細川高国を支持。1516年「伊庭貞隆の乱」鎮圧に軍功。1518年兄・氏綱に替わり家督を継承し六角氏惣領。1520年細川澄元に敗北した高国を後援し上洛「江口の合戦」に軍功。10代将軍・足利義稙に近侍。細川政賢を討つ。細川高国とともに12代将軍・足利義晴を保護。1522年蒲生秀紀の音羽城を攻撃。

 1525年京極高清の家老・浅井亮政と合戦。小谷城攻囲中に伊庭貞説の反乱。1527年細川晴元・足利義維の上洛により、細川高国・足利義晴を近江に保護。1530年播磨で挙兵した細川高国に呼応。高国派の内藤彦七を後援。晴元方の木沢長政と抗争。1531年同盟者・細川高国が切腹。1532年堺公方政権が崩壊。足利義晴、細川晴元と結び、山科本願寺焼き討ち。1534年浅井亮政が江北の盟主に。「箕浦河原の合戦」に浅井軍を撃破。1537年足利義晴により近江守護。1537年「法華一揆征伐」に上洛。

 京極家の高広、高吉(高慶)の家督争いに浅井亮政の擁立する京極高広を破り、1538年佐和山城を攻略。1542年北近江・浅井久政の家督相続。浅井家を後援。細川晴元と三好長慶の対立に和睦を仲介。1546年義晴により管領代(準管領職)任命。若狭武田氏と京極家との関係改善の縁組を仲介。将軍・足利義晴を後見。「細川氏綱の乱」に足利義晴・義輝(義藤)親子を保護。細川晴元を後援。1549年観音寺城下で楽市。1552年に死去するまで35年間六角家を纏める。娘婿に細川晴元、土岐頼芸、北畠具教、武田信豊。

梅戸高実 (1502~1561)六角高頼の息。定頼の弟。北伊勢の「北方一揆」の有力者・梅戸氏に養子入り。息に実秀。<北伊勢を巡り、守護・土岐(世保)家、一色家との抗争。>

 

 

<六角(佐々木)近江守家一門衆>

六角義秀 (1532~1569)修理大夫。六角嫡流家。六角氏綱の息。叔父・定頼が家督継承。1553年足利義輝と三好長慶の合戦に負傷し隠居。従兄弟の義賢が惣領職。のち織田信広の娘婿(丹羽長秀とは義兄弟ということに)。息に六角義郷。<六角家を倒した織田信長様に再び擁立され、六角嫡流か。細川昭元、畠山昭高等と同様の貴種コレクト扱いか。名族が織田家に従うことで天道は我にということを証明したのでしょうか。>

六角義郷 (*~1623)近江守・左兵衛佐・義康。母は織田信広の娘。足利義昭の養子となる。

矢島* (*)越中守。六角家家臣。近江野洲郡の豪族。1566年甲賀の和田維政館から矢島少林寺に足利義秋(義昭)を迎える。のち義昭は西近江に侵攻した三好長逸の圧力で越前に移る。<足利義昭の庶子が矢島秀行と名乗るそうですが・・、なにか恋物語があったんでしょうか。><源義朝と関係の深かったの近江源氏・八島氏と何か縁があって将軍を迎えることとなったのでしょうか。>

 

 六角家が嫡流・近江守家、分家・弾正家で分かれていたというのは、予想してなかったので新鮮です。ありえなくないですよね。京極・六角で分かれているし、それが更に細かくなっても。要はその時期の実力者は誰?ってことで。

 織田信秀も器量で国を束ねてましたし。

六角家の崩壊が早かったのも、近江の国人領主の独立的な感じを束ねるのが至難の業だったからでしょう。

織田信長も、近江国人からなる「安土衆」を束ねる事が容易でなくて、本能寺の兵力不足となってしまったのでしょうか・・。

 

 

<「応仁の乱」東軍・西軍>

 

足利義政   伊勢貞親  細川勝元  今川範忠  山名宗全  大内政弘  足利政知   足利政氏

足利義視  北畠教具  渋川義廉  土岐成頼  斎藤妙椿  一色義直

 

足利義尚 伊勢貞親  細川勝元・斯波義敏    山名宗全    一色義遠

                 細川成之・斯波義良・吉良義真・東条国氏

                         甲斐敏光

                         今川義忠

                              京極持清  六角高頼

                     一色時家

 

足利義視・義材 

             波多野時成 牧野古白

足利義材(義稙)

               

                細川政元          山内就綱

                      京極政経・材宗

                  朝倉貞景・京極高清・斎藤利国

                                     <伊豆堀越政変>

足利義澄:政知の息            今川氏親・伊勢長氏  →→→→   足利茶々丸

                                               伊勢長氏(早雲)

                                六角定頼 vs 伊庭貞隆

                   松平長親 ←←←←

1508年覇者・大内義興の上洛。足利義材、管領・細川高国の時代。

斯波(一色)義達、遠江守護職罷免。今川氏親、遠江守護。

       細川高国    

足利義稙(義材)                              大内義興

                   斯波義達・大河内貞綱

                         今川氏親

1518年大内義興、中国山口に帰還。

      

足利義晴:義澄の息   細川高国           六角定頼          北条氏綱

                     京極高清・高慶

                         京極高峯・浅井亮政

1530~31年細川高国、畿内奪還戦。赤松政祐の裏切りにより敗北。

               

足利義維:義晴の弟   細川晴元・細川持隆・三好元長

                                六角義賢

                            三好長慶

足利義輝:義晴の息   細川晴元

                                六角義治  後藤賢豊

 

<近江守、旧守護代家 佐々木一門衆> 目賀田・井河・楢崎・蒲生・伊庭ほか。

目賀田* (*)(佐々木)。南北朝期。南近江守護代。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。分家に三井氏。>

目加田清綱 (*)(佐々木)・摂津守。比牟礼八幡宮神職。六角義賢の代の当主。事績不明。<後藤氏の被官・杉山藤八に追われ比牟礼八幡宮神職を奪われる。>

義峨* (*)(佐々木)。南近江守護代。<メガとかギガとか・・。><のちの蒲生家臣に儀峨忠兵衛あり。>

 

 

山内信詮 (*)(佐々木)・五郎左衛門尉・備中大夫判官・定詮。南北朝期。六角時信の息。近江守護。息に義重。<子孫は建部氏。><「判官」、丹羽長秀と同じ五郎左衛門尉。先例を踏襲していたのか・・。>

山内政綱 (*~1491)(佐々木)・宮内大輔。六角家一門衆。山内勝綱の息。当主・六角高頼を補佐。1467年「応仁の乱」に軍功。当主・高頼に代わり「御名代」として軍事指揮権。1487年第9代将軍・足利義尚の「六角征伐」に対しても旗頭として六角軍を率いる。1491年足利義稙の第二次「六角征伐」に、大津園城寺に呼び出されて将軍に謀殺される。

山内就綱 (*)(佐々木)・宮内大輔。政綱の息。1491年父の死により家督。幕府軍の攻撃により近江から脱出。1493年幕府管領・細川政元により近江守護に補任されるが、斎藤家の後援を得た旧主・六角高頼に敗北し失領。

 

 

馬淵公綱 (*)(佐々木)。南北朝期。南近江守護代。

馬淵義綱 (*)(佐々木)。南北朝期。南近江守護代。

馬渕宗綱 (*)(佐々木)・山城守・山城入道。佐々木一族。馬淵氏は元守護代家。蒲生郡馬淵庄(現・近江八幡市)を領する。宗綱の娘婿は蒲生定秀。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。小堤城山城主。

↓▽馬淵建綱 (*)(佐々木)・兵部少輔。馬淵氏は元守護代家。蒲生賢秀は従兄弟。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。小堤城山城主。<織田家の侵攻に滅亡とも。>

 

 

伊庭満隆 (*)(佐々木)。六角久頼・政堯の家老。近江守護代。高頼、政堯の家督争いを誘発し六角家の実権を握る。1460年嫡男を主・六角政堯により殺害される。幕府の裁定で当主は高頼に代わる。跡職は行隆が継承。息に貞隆。

伊庭行隆 (*~1468?)(佐々木)。六角高頼の家老。「応仁の乱」に東軍。観音寺城留守居。京極持清・勝秀親子と抗争。1468年落城。<行隆に代わり貞隆か。>

伊庭貞隆 (*)(佐々木)・六郎・出羽守。南近江守護代。神崎郡伊庭の領主。伊庭満隆の息。六角高頼を補佐。1465年8代・足利義政の息「義尚の誕生祝い」に上洛し挨拶。1467年「応仁・文明の乱」に西軍。1487年第9代将軍・足利義尚の「六角征伐」撃退に軍功。1491年足利義稙の第二次「六角征伐」撃退に軍功。1495年六角家の旗頭として美濃に遠征。1502年宗家・六角高頼が伊庭領を攻撃。細川政元の後援で赤沢軍とともに六角高頼を攻撃。1507年細川政元の死により、将軍・足利義澄が伊庭家を頼る。1514年「伊庭の乱」。義澄の死後に六角惣領家からの圧迫。1516年六角氏綱に反乱。度々主家に謀反する。息に貞説。岡山城を失う。

伊庭貞説 (*)(佐々木)。伊庭貞隆の息。1514年九里信隆の息・清椿と結んで反乱。近江岡山城に籠城。北近江の浅井家と結び六角氏と抗争。1520年岡山城落城。1525年六角定頼に反乱し「岡山城奪取」。

 

 

楢崎賢道 (*)(佐々木)・太郎左衛門尉。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

能寺忠広 (*)野寺。六角定頼の臣。観音寺奉行衆。後藤高雄とともに奉行。跡職に忠行。

▽能寺忠行 (*)野寺。六角定頼の臣。観音寺奉行衆。忠広の跡職を継承。後藤高雄とともに奉行。

 

 

九里信隆 (*~1514)備前守。将軍・足利義澄を岡山城に保護。足利義稙の追討令で管領・細川高国、京極高清、六角氏綱に攻囲されるも、伊庭貞隆が救援。将軍・義晴は岡山城で誕生した。<将軍が逃げ込む家柄・・・。>

九里浄椿 (*~1514)信隆の息。伊庭貞隆、貞説親子と結んで反乱。高頼に暗殺される。水茎岡山城主。

九里宗恩 (*~1525)伊賀入道・宗忍。後藤氏の被官・杉山藤三郎に討たれる。与力に西川又次郎。

足利義澄を保護する九里氏。和田惟政のところに逃げ込んだ足利義昭みたいなものでしょうか。しかし、管領・細川氏の軍勢を一土豪がしのげるとは思えません・・。守護代・伊庭じゃなくて何故、九里。九里氏って、マイナーすぎますけど実は近江で伊庭氏以上の実力者なのでは。

 伊庭と九里、山中と仁木、六角嫡流に逆らう反抗勢力のようです。

 

 

<1525年 軍代・六角定頼の軍事編成> 1525(大永5)年、対浅井亮政戦 守=佐々木一門、殿=朽木氏。守護代家

先陣 佐々木五郎

右翼軍 進藤・高野瀬・山崎・永田(刑部)・目賀田・池田・後藤・三雲・上城

左翼軍 三井・平井・下笠・楢崎・三上・永原

後詰 田中・横山・山崎・馬淵

    堀(佐々木能登守)・永田(佐々木伊豆守)・永田(佐々木能登守)

 

 

1525年「小谷城攻略」浅井亮政を美濃に落とす。

1531年「湖北出陣」浅井家を攻撃。

1538年「湖北出陣」浅井家を攻撃。

1559年三好・六角の和平。足利義輝の入京。信長上洛。  織田信長の旗本衆(近衛軍) TOP

<軍代・六角弾正忠家(義賢、義治)の家臣団>

(第4世代) 近江南半国の戦国大名(1550~1568頃) 1560年浅井長政の独立。

六角義賢 (1521~1598)左京大夫・入道承禎。定頼の息。能登守護・畠山義総(義綱の娘?)の娘婿。土岐頼芸の娘婿。1540年伊勢千草城攻略に初陣。1549年管領・細川晴元に従い上洛。三好長慶と戦う。山城北白河、山城五条に出征。将軍・義輝、三好長慶の和睦を仲介。1552年定頼没後、家督継承。浅井久政の攻撃を「太尾山の合戦」に撃退。浅井方の地頭山城を攻略し、浅井久政に勝利。家老・平井定武の娘婿に浅井賢政(長政)を迎える。将軍・足利義輝を保護。三好家と抗争。1556年斎藤義龍と同盟。1556・57年伊勢柿城の沼木氏を討伐。家督を嫡子・義弼(義治)に譲渡。1558年三好長慶を圧倒し和睦を結び、細川晴元・足利義輝を上洛させる。

1559・60年浅井長政(賢政)の独立。斎藤義龍娘と六角義治との縁組に反対し斎藤家との同盟破棄。浅井方の高野瀬秀澄の「肥田城攻略」に、後詰の浅井長政に「野良田の合戦」で大敗。美濃斎藤家と同盟を復活。佐和山城を奪取するが磯野員昌に攻略される。1561年紀伊国の畠山高政と同盟し細川晴之を擁立し上洛。1562年に反三好同盟者の畠山高政・湯川直光・根来衆と泉州「久米田の合戦」に三好義賢を討つ。義賢(実休)の死後出家し入道承禎。1562年42歳で隠居。三好長慶により細川晴元が摂津富田普門寺に幽閉される。紀伊の畠山高政と結び三好長慶と抗争。京都を占拠するも、足利義輝は八幡に避難。1563年重臣・後藤賢豊誅殺の「観音寺騒動」で国衆と抗争、三雲城に退去。1566年浅井長政の南進に「蒲生野の合戦」に敗北。1567(永禄10)年重臣から提出された六角「式目」を承認。当主の独断専行を制約される。1568年足利義昭の上洛に甲賀に逃れる。1570年信長に降伏。息に義治(義弼)、義定、娘婿に畠山義綱。

姉妹の婿、義兄弟に細川晴元、土岐頼芸、北畠具教、武田信豊。<土岐家との同盟重視。>

 

 

1562年三好義賢を討ち、六角氏全盛期。

(第5世代)

六角義治 (1545~1612)四郎・右衛門尉・義弼・義堯。六角義賢の息(嫡男)。1557年家督。1560年足利義輝の意向で伊勢貞良が仲介し、斎藤義龍娘との縁組を進めるが父・義賢の反対で破談。浅井家との「野良田の合戦」に敗北のち義龍娘と婚姻し同盟。1562年父の隠居により正式に惣領相続18歳。1563年「観音寺騒動」に後藤賢豊・又三郎親子を誅殺する。蒲生氏の日野城に退去。1566年浅井長政の南進に「蒲生野の合戦」に敗北。1567(永禄10)年重臣から提出された六角「式目」を承認。当主の独断専行を制約される。1568年織田信長の上洛軍に攻撃され、「観音寺城退散」により拠点を失う。甲州に落ちる。1582年武田家滅亡に逃亡。秀吉に出仕。<斎藤家との同盟重視。>

六角義定 (1547~1620)佐々木・大原・次郎・義貞。六角義賢の息(次男)。大原高保の養子。息に高賢、高和。<高和は江戸幕府旗本。>

⇔六角* (*)若狭守。六角義賢の長男(庶子?)。柴田勝家に出仕。<義賢の庶長子か。北庄留守居の小島若狭守と同一人物なのでしょうか?(出身地が違う・・)><事績もよくわかりません。>

 

<六角家守護代 蒲生氏>

(第3世代)

蒲生秀紀 (*~1522*1525)太郎・藤兵衛・刑部大輔。蒲生秀行の息。貞秀の跡職。弟・高郷と家督を巡り対立。1522年当主・六角定頼は高郷を擁立。日野音羽城主。

蒲生高郷 (*)1522年六角定頼の後援で、惣領家の蒲生秀紀と抗争。1525年音羽城から退去した秀紀を鎌掛城にて暗殺。中野城主。

 

 

(第4世代)

蒲生定秀 (1508~1579)藤十郎・左兵衛大夫・下野守・入道。蒲生高郷の息。馬淵宗綱の娘婿。1522年叔父・蒲生秀紀を毒殺し家督を継承。六角定頼に従い各地を転戦。1531年浅井亮政と「箕浦河原の合戦」に武功。浅井亮政を撃退する。1539年定頼に従い上洛。1540年三好長慶との合戦に活躍。1558年に出家。1559年浅井久政を攻撃。1561・62年六角義賢を補佐して上洛。京都の治安維持に務める。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。息に賢秀。

 

 

(第5世代)

⇔蒲生賢秀 (1534~*)(馬淵)・右兵衛大夫・左兵衛大夫。蒲生定秀の息。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1568年の織田軍の上洛に抵抗。のち降服し織田家に臣従する。伊勢亀山の関氏、伊勢岩出の田丸氏と同盟。柴田勝家与力。

▽岡清長 (*)蒲生家譜代家臣。

▽岡重政 (*)蒲生家譜代家臣。

▽町野繁仍 (*)蒲生家譜代家臣。秀長の息(次男)。室は蒲生氏郷の乳母。息に幸和。

▽町野幸知 (*)蒲生家譜代家臣。<幸和とは別人のようです。>

▽福西宗長 (*)吉左衛門。

 

▽蒲生郷安 (*~1600)赤坂・赤佐・赤座・隼人・四郎兵衛。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。蒲生氏郷の側近。切支丹。<赤座といえば越前の。>

▽蒲生郷貞 (*~1614)上野田・主計助。六角氏家臣。1568年日野中野城主。のち蒲生家家臣。

▽蒲生* (*)儀峨・忠兵衛。三河守の息。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。<元、守護代家の儀我氏?>

▽蒲生頼郷 (*~1600)横山・喜内・真令。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。

▽小倉* (*~1614)作左衛門。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。蒲生賢秀の娘婿。娘婿に南部利直。<信長室「鍋の方」の小倉の分家でしょうか。>

▽結解* (*)湯気・十郎兵衛。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。浅井家との抗争に百々内蔵介を討つ軍功。のち蒲生家家臣。<尼子家臣にも湯とかいますし・・。>

▽種村* (*)伝左衛門。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。

 

 

 第二の佐々木道誉となって、同じ年生まれの織田信長の良きパートナーになってほしい感じの蒲生賢秀さんでした。

二代目世代では、足利義詮を守って死んだ道誉の息子のように、織田信忠と蒲生氏郷の仲も信頼で結ばれた姿をみたかったものです。

なんとなく、歴史は踏襲されているようでおもしろいです。


賤ヶ岳 毛受兄弟  (2013年4月22日 読売新聞) ...

2013年05月07日 | 武将

相伝「棒の手」で毛受兄弟しのび(2013年4月22日 読売新聞) ...

豊臣秀吉が柴田勝家を破った「賤ヶ岳の戦い」(1583年)で戦死した勝家の家臣、毛受(めんじゅ)茂左衛門、勝助の兄弟の霊を慰める法要が21日、長浜市余呉町新堂の墓前で関係者によって営まれた。

毛受兄弟の法要の後、全長寺で奉納された「棒の手」(長浜市余呉町で)

 この日は兄弟の命日で、430回忌にあたった。参加したのは、新堂地区の住民による「毛受兄弟史跡保存会」(是洞(これとう)尚武会長)と、兄弟の出生地である愛知県尾張旭市の住民らで作る「尾張旭市毛受勝助保存交流会」(水野洋三代表)の人たち。

 毛受兄弟は、余呉町一帯で繰り広げられた賤ヶ岳の戦いで勝家の身代わりとなって戦死。その忠義心の厚さに、敵であった秀吉もたいへん感銘を受けたと伝えられている。

 新堂の保存会は10年ごとに法要を営んでおり、今回初めて尾張旭市の保存交流会も合同で参加した。

 法要後、関係者らは墓所の程近くにある兄弟の菩提(ぼだい)寺・全長寺に移動。兄弟の子孫が継承に関わってきたとされ、愛知県無形民俗文化財に指定されている武術「棒の手」が、「尾張旭市棒の手保存会・検藤流」のメンバーによって奉納された。


来年のNHK大河「軍師官兵衛」

2013年02月19日 | 武将

=長浜市 発祥の地、全国PRで集客=

黒田氏の始祖「黒田判官」を祭る黒田廟所(長浜市木之本町黒田)

 来年二〇一四年のNHK大河は、秀吉の軍師、黒田官兵衛(注)を描いた「軍師官兵衛」。黒田氏は伊香郡黒田村(長浜市木之本町黒田)が発祥の地とされる。戦国大河の聖地を歩きながら、集客に向けた長浜市の取り組みを聞いた。

市内に廟所や古戦場など史跡点在
観光パンフ、イベント館で紹介


 黒田氏の祖は、近江国伊香郡黒田村の荘園領主で黒田判官と呼ばれた。JR木ノ本駅から徒歩十五分の邸宅跡(長浜市木之本町黒田)には、黒田判官を祭る黒田廟所や先祖の地を顕彰する石碑がある。
 ゆかりの地はこのほか、羽柴秀吉が柴田勝家との信長後継者争いで勝利し、天下人への足掛かりとなった賤ヶ岳古戦場(長浜市木之本町大音)がある。官兵衛は勝家方の勇将、佐久間盛政の猛攻に遭うも、奮闘し守り抜いた。
 長浜市から少し足を伸ばせば、天下分け目の関ヶ原古戦場(岐阜県関ヶ原町)。官兵衛の息子・長政が、東軍の主力として参戦する一方で、隠居の官兵衛も東軍として居城の豊前中津城(大分県)を拠点に次々と西軍方の城を落とした。

 

黒田官兵衛をアニメ風にデザインした観光パンフレット

 長浜市は、このように点在する史跡をPRし、大河ドラマをきっかけに観光客を呼び込もうと、のぼり旗を市内観光施設に掲げ、観光パンフレット=写真=を県内外で配布している。
 また、戦国大河ふるさと博の閉幕に伴って昨年十二月閉館予定だった「きのもと館」(同市木之本町木之本)については、官兵衛関連資料の追加展示を行い、今年三月末まで期間延長している。
 同市観光振興課は「まだイベントは具体化していないが、まずは全国へPRしていきたい」と、今後の盛り上がりを期待している。
 黒田官兵衛(一五四六年~一六〇四年)秀吉の軍師として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、九州攻め、小田原攻めなど幾多の戦いで天下統一に貢献したが、その後は優れた軍才を疎まれた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、九州で挙兵して四方を攻め取った。晩年は表舞台から遠ざかり、風流を愛し京に没した。

 

http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012006

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


◆蒲生氏郷の生い立ち◆

2013年02月12日 | 武将
  ◆蒲生氏郷の生い立ち◆
 室町幕府は応仁の乱後、現地に新たな支配を固めつつあった戦国大名や国人に、指導権を奪われて
有名無実となり、世はまさに戦国動乱の坩堝と化していた。蒲生氏郷はこうした戦国期の弘治二年
(一五五六)、近江商人発祥の地として知られる近江国(滋賀県)の日野城において生まれた。城主は
祖父の定秀で四十九歳。父はその嫡男賢秀で二十二歳。母は近江守護職佐々木氏の重臣後藤賢豊
の娘であった。祖父定秀は日野城を築き、日野の城下町をつくった人であったから、蒲生様の御孫に男子
誕生ということで城下の喜びに沸き返るなか、幼名を鶴千代と命名された。
 蒲生家は大職冠・藤原鎌足より出、百足(むかで)退治伝説で有名な俵藤太秀郷を遠祖に持ち、父の
右兵衛太夫賢秀は近江の守護大名佐々木六角氏に仕えていた。
 その頃、織田信長は岐阜城にあって、時の風雲児として天下覇者への道を驀進し始めていた。
 永禄十一年(一五六八)六月、越前朝倉氏のもとに身をよせていた将軍足利義昭は、岐阜の信長を頼り、
一方信長は、これを幸いとして美濃西庄立政寺に迎え入れ、七月になると将軍上洛という大義名分を掲げて
京都への道を進み始めた。これを迎え討とうとしたのが近江の守護職佐々木六角氏である。佐々木氏は
本城の観音寺城に依っていたが、有力配下の武士たちの間では主家に離反する者相次ぎ、一支城が
信長軍の猛攻の前にあえなく落城するや、佐々木氏自身恐れをなして逃げ落ち、観音寺城は戦わずして
落城してしまった。その翌日、信長の軍門に降った蒲生賢秀は、観音寺城に入った信長にまみえて、
本領安堵の教書を受け、人質として嫡子鶴千代(氏郷)が差し出されたのである。このとき鶴千代十三歳、
町野左近を附人として岐阜城へと送られたのである。
 その頃の岐阜城には、信長の軍門に降った諸国の武将から送られてきた多くの人質たちがいた。信長は
岐阜城で鶴千代をひとめ見たとき、その目付き、物腰、受け答えなどに感じ入り、「この少年ただ者ならず」
と思うようになった。人質の身分ではあったが近習に取り立て、自分の一翼を担わせるに足る人物として
自分の娘と娶わせることを約束した。
 ある夜岐阜の城内で、信長を主座として、夜の更けるのも忘れ軍談に花を咲かせたことがあった。その頃
美濃三人衆の随一とうたわれた軍学者の稲葉伊予守一徹(貞通)がふと見ると、信長の近習である十三歳
の少年鶴千代が目を輝かせ、大人たちの語る軍談を一語も聞き洩らすまいと身を乗り出して耳を傾けている。
他の少年ならば眠気を催す時刻なのに、この少年の態度は全く異なっている。その姿を見た一徹は、「蒲生
の子は稀な器量人だ。やがて大軍を率いる武勇の将になるだろう」と予言したという。
 こうして信長の目にとまった鶴千代は、岐阜の名刹瑞竜寺の禅僧南化和尚(玄興)に師事させることになり、
儒・釈の道を学ぶのであるが、この南化和尚のはからいで谷宗養・里村紹巴からは連歌・茶道を学んだほか、
斎藤利三の奨めによって武芸をみがくなど、文武両道の武将となる素地は、少年の頃からすでに磨かれていた
のであった。こうして鶴千代十四歳のとき、信長は自ら烏帽子親となって元服させ、弾正忠信長の「忠」の
一字を与えて「忠三郎賦秀」と名乗らせ、天下布武の大業の一翼を担わせることになるのである。
※ 藤原秀郷
 俵藤太秀郷と言った方がよく知られた平安朝時代の武将である。“俵”とも“田原”とも書かれている。
 近江の瀬田の唐橋で、大蛇に身を変えていた琵琶湖の竜神に頼まれ、三上山を七廻り半もする大百足を
退治したという“三上山伝説”の主人公として知られる。この百足退治の伝説は『俵藤太絵巻』に出てくる話
だが、実際には天慶三年(九四〇)、ときの朝廷に刃向かって乱を起こした平将門の天慶の乱を鎮圧し、その
大功によって鎮守府将軍に任ぜられている。

佐々木盛綱 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年02月11日 | 武将

 

 
佐々木盛綱
Sasakimoritsuna.jpg
倉敷市藤戸盛綱橋の佐々木盛綱像
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 仁平元年(1151年)
死没 不詳
改名 秀綱、盛綱、西念
別名 三郎
墓所 群馬県安中市松岸寺
岡山県倉敷市
官位 左兵衛尉
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝、頼家、実朝
氏族 宇多源氏、佐々木氏
父母 佐々木秀義、源為義の娘
兄弟 定綱、経高、盛綱、高綱、義清、厳秀
信実、盛則、盛季
漁師を殺す盛綱(歌川国芳画)

佐々木 盛綱(ささき もりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。加地 盛綱とも呼ばれる。

近江の宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。幼名は秀綱。源頼朝伊豆の流人時代から仕え、その挙兵に従い治承・寿永の乱で活躍。備前国児島藤戸の戦いでは、島に篭もる平行盛を破った。

の『藤戸』、歌舞伎の『盛綱陣屋』にも登場する。

生涯

  • 文中の月日は全て旧暦
  • 改元の有った年は改元後の元号を記す

源平の戦い

近江国佐々木庄を地盤とする宇多源氏佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。平治元年(1159年)の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、渋谷重国の庇護を受ける。仁安元年(1166年)、元服して名を盛綱に改めると、16歳で伊豆に流された義朝の遺児・源頼朝の身辺に仕える事となった。

治承4年(1180年)8月6日、平氏打倒を決意した頼朝の私室に一人呼ばれ、挙兵の計画を告げられる。この時に頼朝は「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と述べた。頼朝は他の家人である工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、加藤景廉にも同様の言葉を述べていたが、それでも盛綱は当初から頼朝の信頼が厚かった事が分かる。

8月17日の挙兵の日、兄達が平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討った後、景廉と共に兼隆の邸宅へと赴きその首を獲った。20日、頼朝に従い相模国へと赴くが石橋山の戦いで敗れる。盛綱兄弟は石橋山で平氏側であった渋谷重国の館に逃れ、重国は喜んで盛綱らを迎え倉庫に隠しもてなした。安房へ逃れていた頼朝が再び兵を集め鎌倉に入ると、盛綱兄弟は再び頼朝の下に参じ、10月20日の富士川の戦いで平氏を破り、23日に相模国国府で行われた挙兵後初の論功行賞では、旧領の佐々木庄を安堵された。11月4日、常陸国府での佐竹秀義との戦いにも加わる。

寿永元年(1182年)6月7日、由比々浜での酒宴で、酒に酔い倒れた加藤景廉の介抱を行う。10月17日、頼朝の嫡子である源頼家が産所から邸宅に入る際の輿を担いでいる。

元暦元年(1184年)12月、盛綱は平氏追討の為備前国児島に在り、7日には平行盛が率いる五百余騎が篭もる城を攻め落とす。この合戦は藤戸の戦いと呼ばれ、『平家物語』にも描かれており、島に篭もる行盛に対し、漁師から馬でも渡れる浅瀬を聞き出した盛綱が、藤戸の海峡の波を馬で乗り越え先陣を切って攻め入ったとされる。なお地元ではその漁師を口封じの為に殺したと伝わる。それを題材として、謡曲「藤戸」が作られた。

鎌倉の御家人

平家滅亡後、源頼朝と弟の源義経との間で対立が深まっており、そうした中の文治元年(1185年)10月24日、頼朝は父である源義朝の供養を行い、盛綱もそれに列している。文治2年(1185年)10月24日、甘縄神社へ参拝した頼朝に随行する。文治4年(1187年)7月10日、源頼家が初めて鎧を着る儀式に加わる。建久元年(1190年)8月15日、頼朝の鶴岡八幡宮参拝に随行する。

同年7月20日、頼朝の邸宅での双六の最中に、盛綱の15歳の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち、流血へと至る事件が起きる。信実はその場を逃れ、盛綱はその後を追ったが、翌日に頼朝より信実を捕らえよと命じられる。しかし盛綱は、信実は既に出家を遂げ逃亡し、親子の縁を切ったと述べる。頼朝が盛綱に対し、祐経に対する謝罪を命じると、既に親子の縁を切った事を理由に謝罪を拒否した。

9月から11月、頼朝に従い上洛し、院への参上や石清水八幡宮への参拝などに随行する。建久2年(1191年)10月1日、奥州と越後国より牛15頭を頼朝に贈る。建久3年(1192年)11月15日、永福寺への参拝に随行する。建久4年(1193年)9月7日には後白河法皇の崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられる。建久5年(1194年)2月2日、北条泰時の元服式に、11月21日には三島大社の神事による笠懸に加わる。

建久6年(1195年)4月10日、東大寺供養の為に上洛した頼朝の参内に従い、この時には兵衛尉に任じられている。5月20日の天王寺参拝にも随行している。

頼朝が没した後の建久10年(1199年)3月22日には、出家しており西念と称する。建仁元年(1201年)4月3日、上野国磯部郷に在り、城資盛・坂額御前の反乱の制圧を命じられる。命令は4月5日に西念の下に届き、越後国鳥坂城に構える城資盛を激戦の末に破った(建仁の乱)。牧氏事件では、元久2年(1205年)閏7月26日京に在った朝雅を討つ軍に加わる。

没年月日は不詳であるが、倉敷市に盛綱のものと伝わる墓が残っている。


来年のNHK大河「軍師官兵衛」

2013年01月07日 | 武将

=長浜市 発祥の地、全国PRで集客=

黒田氏の始祖「黒田判官」を祭る黒田廟所(長浜市木之本町黒田)

 来年二〇一四年のNHK大河は、秀吉の軍師、黒田官兵衛(注)を描いた「軍師官兵衛」。黒田氏は伊香郡黒田村(長浜市木之本町黒田)が発祥の地とされる。戦国大河の聖地を歩きながら、集客に向けた長浜市の取り組みを聞いた。

市内に廟所や古戦場など史跡点在
観光パンフ、イベント館で紹介


 黒田氏の祖は、近江国伊香郡黒田村の荘園領主で黒田判官と呼ばれた。JR木ノ本駅から徒歩十五分の邸宅跡(長浜市木之本町黒田)には、黒田判官を祭る黒田廟所や先祖の地を顕彰する石碑がある。
 ゆかりの地はこのほか、羽柴秀吉が柴田勝家との信長後継者争いで勝利し、天下人への足掛かりとなった賤ヶ岳古戦場(長浜市木之本町大音)がある。官兵衛は勝家方の勇将、佐久間盛政の猛攻に遭うも、奮闘し守り抜いた。
 長浜市から少し足を伸ばせば、天下分け目の関ヶ原古戦場(岐阜県関ヶ原町)。官兵衛の息子・長政が、東軍の主力として参戦する一方で、隠居の官兵衛も東軍として居城の豊前中津城(大分県)を拠点に次々と西軍方の城を落とした。

 

黒田官兵衛をアニメ風にデザインした観光パンフレット

 長浜市は、このように点在する史跡をPRし、大河ドラマをきっかけに観光客を呼び込もうと、のぼり旗を市内観光施設に掲げ、観光パンフレット=写真=を県内外で配布している。
 また、戦国大河ふるさと博の閉幕に伴って昨年十二月閉館予定だった「きのもと館」(同市木之本町木之本)については、官兵衛関連資料の追加展示を行い、今年三月末まで期間延長している。
 同市観光振興課は「まだイベントは具体化していないが、まずは全国へPRしていきたい」と、今後の盛り上がりを期待している。
 黒田官兵衛(一五四六年~一六〇四年)秀吉の軍師として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、九州攻め、小田原攻めなど幾多の戦いで天下統一に貢献したが、その後は優れた軍才を疎まれた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、九州で挙兵して四方を攻め取った。晩年は表舞台から遠ざかり、風流を愛し京に没した。

 

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012006

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


探訪 景清道を、石寺~教林坊まで 2012.12.11

2012年12月12日 | 武将

====景清道====

楽座会館に車を置いて

中仙道の石寺道標

京・奥石神社方面

高宮宿・愛知川宿方面

観音寺城・観音正寺参道・・・「道中安全常夜灯」

観音寺城・観音正寺への参道は、武家屋敷址?里坊址のように石垣が??

景清道・・・安土、桑実寺方面へ

景清道を、今回は教林坊方面へ

危険場所には、鉄針線や虎ロープで!

 

 

 

景清の行止り

観音寺正寺へ登り道

教林坊へ下り道

 

教林坊の墓地

教林坊の上で・・・道がない(仕方無く、引き返し教林坊へ)・・・清水鼻まで行ける筈だが!

竹柵から教林坊

竹柵から教林坊

カエデの黄と赤(落葉前)

 黄葉毯だ・・・。

 赤葉絨毯だ・・・。

教林坊門

教林坊

安土駅方面へ

里坊址か?

 

里坊址か? 

〇に、隅立て四ツ目結 

楽座会館の車に戻り

 

本日の歩数    6,704歩   1時間13分    4.8km

消費カロリー  100.2kcal    脂肪消費量    14.3g

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


信長公記 巻三(一部) 太田牛一著

2012年11月12日 | 武将

 四月廿日 信長公京都より直ちに越前へ御進発。坂本を打ち越え、其の日、和邇に御陣取。

廿一日高島の内、田中が城に御泊。

廿二日若州熊河、松宮玄蕃所に御陣宿。

廿三日佐柿、栗屋越中が所に至りて御着陣。

翌日 御逗留。

廿五日越前の内敦賀表へ御人数を出ださる。信長公懸けまはし御覧じ、即ち手筒山へ御取り懸け候。彼の城、高山にて、東南峨々と聳えたり。然りと雖も、頻に攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千参百七十討ち捕り、並びに金ケ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り候。

翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出候。引壇の城、是れ又、明け退き候。即ち、滝川喜右衛門、山田左衛門尉両人差し遣はされ、塀・矢蔵引き下ろし、破却させ、木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候。是非に及ばざるの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ、

 四月朔日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛、丹羽五郎左衛門両人、若州へ差し遣はされ、武藤上野人質執り候て参るべきの旨、御諚候。即ち、武藤上野守母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構へ破却させ、

 五月六日 はりはた越えにて罷り上り、右の様子言上候。然る間、江州路次通りの御警固として、稲葉伊予父子三人、斎藤内蔵之佐、江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙あがり、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口を支え、追ひ崩し、数多切り捨て、手前の働き比類なし。さて、京表面々等の人質執り固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるねきの旨、仰せ上げらる。

五月九日御下、志賀の城・宇佐山拵へ、森三左衛門をかせられ、

 十二日に永原に、佐久間右衛門置かれ、長光寺に、柴田修理亮在城。安土城に、中川八郎右衛門楯籠る。此の如く塞々に御人数残しをかせられ、

千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 五月十九日御下のところ、浅井備前、鯰江の城へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止むべき行仕候。然れども、日野蒲生右兵衛門大輔、布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑まれ、千草・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく、

十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道昭覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく

五月廿一日濃州岐阜御帰陣。

たけくらべ・かりやす取出の事
 さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以って、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
 

六月十九日 信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀叛の由承り、たけくらべ、かりやす、取る物も取り敢えず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。

 六月廿一日、浅井居城小谷へ取り寄せ、森三左衛門、坂井右近、斎藤薪五、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ取り上げ、町を焼き払ふ。信長公は、諸勢を召し列れられ、虎御前山へ御上りなされ、一夜御陣を居えさせられ、柴田修理、佐久間右衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、江州衆に仰せ付けられ、在々所々、谷々入々まで放火候なり。


多賀・若宮・上坂・下坂の諸氏が京極家臣として活躍している。

2012年08月21日 | 武将

今井氏

三つ巴(藤原氏秀郷流)

 応仁の乱(1467)後、近江国の湖北地方は近江半国守護京極氏の内紛、六角氏との抗争、浅井氏の勃興などによって、戦火は絶える暇もなく続き、まさに戦国乱世の様相を呈していた。そのようななかで、戦陣に身を挺して活躍したのは、国人・土豪と呼ばれる武士たちであった。

守護や戦国大名の有力家臣は、国人領主である場合が多く、土豪たちはその下の家臣であった。戦国期京極氏の変遷を記した『江北記』には、京極氏の根本被官、つまり京極氏に初めから従っていた家臣たちとして、「今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・浅井・弓削・河瀬・二階堂」が挙げられている。これらの武士は、主として湖北各地に割拠する国人である、このほかに、多賀・若宮・上坂・下坂の諸氏が京極家臣として活躍している。

 今井氏は、藤原秀郷の後裔と伝えられ、承久の乱のとき院方に加わって、勢多橋で熊谷小次郎と戦った九郎進士俊綱を祖とする。美濃守高遠の代になって、応仁の乱が起きると、高遠は京極持清に属して各所に出陣した。『今井軍記』によれば、応仁元年(1467)には犬上郡の下安食に布陣じて高野瀬城を攻略した。翌応仁二年には甲賀郡の小佐治で合戦し、文明元年(1469)の七月には愛知郡の押立城を攻撃して、敵将の目賀田藤左衛門を斬った。翌文明二年の黒橋の合戦では、息郷・望月・村島・大原・服部らの諸将を討ちとり、その軍功により佐々木本郷の代官職を命じられたとある。

応仁の乱から戦国時代へ

 高遠の子備中守秀遠も持清に従って細川方に属し、京都にあって、五月には大宮の戦い、応仁元年の六月には芝薬師堂、七月にが獄門で戦い、それぞれの戦いに殊勲を立て、細川勝元より感状を与えられている。文明二年京極持清が卒去すると、重臣の多賀高忠と同清直の同族が相争った。秀遠は高忠を援け、翌三年米原の太尾山の合戦では一族の岩脇近俊ら多くの戦死者を出した。文明十八年、多賀宗直が専横をふるい、京極秀綱を追放するという反乱を起こした。このとき、秀遠は秀綱に従って、宗直に与する堀氏成を攻め、翌十九年には、国友河原で宗直と戦い、宗直側の赤尾・箱根らを討ちとった。その後、宗直は月ヶ瀬の城館で自殺した。
 明応四年(1495)、美濃守護土岐氏に内訌が生じ、六角高頼はそれに関与して湖北へ兵を進めて浅井郡宮部に布陣した。これに対し、京極秀綱改め高清は六角高頼を攻撃した。秀遠は子の清遠らと高清に従って奮戦した。
 翌年、土岐氏の家臣石丸利光が反逆したため、土岐氏の重臣斎藤利国は京極高清に援助を求め、高清はそれに応じて浅井直種・三田村らを遣わし、自らは弥高山に布陣した。六角高頼は石丸救援の兵を起こし、京極高清を討とうと、伊吹山麓に兵をすすめ、高清の軍と戦った。しかし、石丸利光が敗れて自殺したとの報に、兵を引こうとする六角軍を今井秀遠が追撃し、醒井・番場で六角軍の首四十余を得たという。
 清遠の代には、京極高清と京極材宗との合戦が繰り広げられ、多賀経忠が材宗方に付いたことから、清遠は高清方に加わり、伊庭氏の軍勢と戦い、戦功をあげたという。

時代に翻弄される

 このように、今井氏は室町時代を通じて京極氏に仕えて数々の合戦に参加し、功名をあげて所領安堵を受けた。そして、一族のほかに家子郎党として、土豪層をも組織し、京極氏の重臣としての地位を確立した。そして、箕浦城に拠って、戦国時代になると、京極氏の勢力下から自立して、ときには国人連合のなかに身を置きつつ、独自の領主制を形成する基盤づくりをも行っていった。
 ところが、秀俊の代になると、主家京極氏の家督争いの深刻化と、同じ京極氏根本被官家のひとつである浅井氏が威勢をふるうようになり、さらに、湖東の六角氏との抗争が激化。そのようななかで、湖北と湖東の境界となる天野川流域に拠点を有する今井氏は、時代の激流に翻弄されることになる。

.

箕浦城址

箕浦字殿にわずかな土盛りを残すばかりの箕浦城は、往時、北は通船川あたりまで、南は天野川から水路をひき防御の堀を設けいていたという。しかし、いまその面影はまったく失われている。今井氏が本拠としていた箕浦には、箕浦市場があり、秀吉が長浜に市を開くまでは物流・交通の要衝として栄えていた。それを裏付けるかのように、市場近くに八幡神社には、上洛途上の源頼朝が休んだという腰掛石が遺されている。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/160f45b15e2bac600ea6d703d3e9e89b

 享禄四年(1531)、今井氏の居館のある箕浦で浅井氏と六角定頼との合戦があり、六角氏が勝利した。

この戦いは享禄元年の内保河原の戦い以後も対立し続けていた京極氏の内紛が、高清・高延を擁立する浅井氏と、高慶を推す六角氏の争いへと発展したものである。今井氏は内保河原の戦いでは六角側であったが、その後、浅井氏側に付いたため攻撃を受けたという。しかし、当初は六角氏側であり、浅井氏と戦って敗れたことで浅井氏に従ったため、進退を疑われた秀俊は神照寺へ呼び出されて切腹させられてしまった。

かつては今井氏と浅井氏とは、ともに京極氏の重臣であったが、浅井氏は着々と勢力を拡大し戦国大名としての実質を持つようになった。一方、その波に乗り遅れた今井氏は、やがて浅井氏の家臣となることに活路を見い出すことになるのである。

秀俊自刃後、残された尺夜刃丸(のちの定清)は六角定頼を頼り、定頼も尺夜刃丸を庇護した。以後、今井氏は六角氏に従ってしばしばの出陣命令を受けている。そして、浅井亮政が死去したあとを継いだ久政は京極氏に攻められて、ついに天文十八年(1549)ごろに京極高広に降伏し、浅井氏はふたたび京極氏に従うことになった。このころ、尺夜刃丸も成人して定清と名乗っていた。


佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一

2012年08月21日 | 武将
三雲氏
●軍配団扇に一文字
●武蔵七党児玉氏後裔 
図柄は「寛政重修諸家譜-家紋」から作成。  



 戦国時代、江南の戦国大名であった佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一、児玉党の分かれと伝えられている。

玉党は藤原内大臣伊周の子伊行が児玉を称したことに始まるといい、児玉家弘はのちに庄を称し、その子弘方は浅見(阿佐見)氏を称した。その子浅見太郎実高は源頼朝に仕えて奥州征伐に従い勲功を挙げ、建保四年(1216)十二月左兵衛尉に任じた。


 浅見氏は武蔵国児玉庄をはじめ、上野国高山庄、吾妻郡中山村、越後国荏保等の地を領した。その後、実高六代の孫家実は関東より越後国に赴いた。おりしも一揆が起こり、家実は守護に属して一揆討伐に功を挙げたと伝えられる。家実は応永四年(1397)に死去したとあることから、南北朝時代を生きた人物であった。

三雲氏の登場

 家実ののち三雲氏の動向は知れないが、寛政重修諸家譜によれば明応年中(1492~1501)、新左衛門実乃(さねのり)が甲賀郡下甲賀を領して三雲に住した。そして、地名にちなんではじめて三雲を称した。その子源内左衛門行定は下甲賀ならびに野洲・栗太両郡を領して、三雲に築城してそこに拠ったという。かくして、近江国甲賀郡に土着した三雲氏は、甲賀五十三家の一つに数えられ、その領地の高は実に九万石であったという。


 とはいえ、寛永系図に記された三雲氏の伝承はそのままには受け取れないものである。郷土誌などによれば、三城雲は長享元年(1487)、足利義尚に攻められた六角高頼が、三雲新左衛門典膳実乃に命じて築かせたとある。

府軍との直接対決を避けて甲賀に逃れた高頼は、本城観音寺城の詰めの城として三雲典膳に城を築かせたのであった。義尚の六角攻めは鈎の陣と呼ばれ、三雲氏ら甲賀五十三家の武士たちは、六角氏に属して鈎の陣を夜襲するなどして散々に幕府軍を悩ました。


 近江国甲賀郡の各地に割拠して甲賀五十三家と呼ばれた武士たちは、勢力をたくわえ地縁、血縁で結ばれ、戦国期には六角氏の麾下に属して活躍した。とくに青木・山中・隠岐・池田・和田、そして三雲の六家は大身で甲賀六家と呼ばれた。また、先述の鈎の陣に殊勲のあった二十一武士は、甲賀二十一家と称され三雲新蔵人がその一に数えられた。

このように三雲氏は、甲賀武士の一として相応の地歩を築き、典膳実乃のころには六角氏から厚い信頼を受ける存在となっていた。

しかし、九万石という所領高は破天荒に多過ぎるものといえよう。

三雲城 縄張り

典膳実乃の築いた城ははじめ吉永城と呼ばれ、実乃のあとを継いだ行定がさらに整備し三雲城と呼ばれるようになったらしい。

 ●三雲城遠望 ●三雲城への道標・虎口の石組・あちこちに土塁が確認できる・古井戸の跡、底には落ち葉が。


行定の名乗りは六角定頼(1495~1552)の一字を賜ったと推測され、六角氏家中に重きをなしていたことがうかがわれる。


近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて

2012年08月18日 | 武将

ファイル:Hōgen no ran.jpg

『保元・平治の乱合戦図屏風』「白河殿夜討」
(江戸時代)メトロポリタン美術館所蔵

 

佐々木氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐々木氏
家紋
四つ目結
本姓 宇多源氏
家祖 源 経方
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡佐々木庄
主な根拠地 近江国、出雲国、隠岐国、越後国ほか
著名な人物 佐々木秀義
佐々木定綱
佐々木盛綱
佐々木高綱
佐々木義清
吉田厳秀
支流、分家 六角氏(武家)
京極氏(武家)
大原氏(武家)
高島氏(武家)
加地氏(武家)ほか
凡例 / Category:日本の氏族

佐々木氏(ささきし)は、平安時代に起こり近江国蒲生郡(現滋賀県近江八幡市安土町)佐々木荘を本貫地とした武家。

概略

佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗った事から始まるとされるが、これには異説もあり現在も議論されている。

宇多源氏の中でも佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。

祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。

治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木4兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる。

承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方へと属し、鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた広綱の弟の佐々木信綱は幕府方へと属した。幕府方の勝利により乱が治まると、敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され信綱が総領となる。

近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子に分けて継がれ、3男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、4男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。

鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し六波羅評定衆などを務める一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。

京極氏の系統である佐々木道誉は、足利高氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となる。

また、治承4年の頼朝挙兵時に平氏方につき、後に頼朝に従った佐々木義清(佐々木秀義の5男)は、初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と承久の乱の時に幕府方についたため、初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し近江源氏から分派して出雲に土着したため、この一族を出雲源氏という。

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!


甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した、後の甲賀流忍術の中心となった家々。

2012年08月18日 | 武将

甲賀五十三家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

甲賀五十三家(こうがごじゅうさんけ)は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

関連項目

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!