城郭探訪

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後藤賢豊「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老

2012年08月17日 | 武将

後藤賢豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
後藤賢豊
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄6年(1563年)
別名 重左衛門尉
官位 但馬守
主君 六角氏
氏族 後藤氏
父母 不明
兄弟 賢豊、妹(蒲生賢秀室)
後藤壱岐守、後藤高治

後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。

生涯

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、六角義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。永禄5年(1562年)、義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

 

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平井定武(六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ)

2012年08月17日 | 武将

平井定武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
平井定武
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 右兵衛尉、加賀守(通称)
墓所 滋賀県愛知郡愛荘町の生蓮寺
主君 六角定頼→義賢→織田信長
氏族 平井氏
父母 父:平井高好、母:某女
高明、娘(浅井長政正室)

平井 定武(ひらい さだたけ)は、戦国時代の戦国武将。近江国観音寺城主六角氏の重臣。子に平井高明、娘は浅井長政の正室(先妻)。加賀守。

経歴

後藤賢豊や蒲生賢秀、三雲成持らと並んで、六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ、近江国栗太郡平井(平居とも)に拠点を構えたとされる。

永5年(1525年)、六角氏と浅井亮政との戦での出陣や、天文22年(1553年)11月の浅井氏との和議に関する書状、さらには石山本願寺への使者として派遣されたことが本願寺側の記録に見えることから、六角氏の中で重きを置かれていたことがわかる。永禄11年(1568年)、織田信長が近江に侵攻すると、六角氏を離反して信長に降った(『言継卿記』)。以後の消息は不明である。

六角氏に臣従していた浅井久政の子、浅井賢政(のちの浅井長政)の烏帽子親であり、後に娘を長政の嫁に送り込む。六角氏の専横に怒った浅井家臣団が久政を廃して、長政を擁立すると離縁され、娘は平井家に送り返されたという。

『浅井氏家譜大成』によると、離別された娘は長政との間に浅井万福丸を産んだとされ、彼は万福丸の外祖父に当たるとされる。

 

 

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佐々木氏の出目

2012年08月14日 | 武将

系図

  (54)仁明天皇   (55)文徳天皇   (56)清和天皇   (57)陽成天皇   元良親王
               
                      惟喬親王     貞純親王   (源)経基清和源氏へ〕
     
            (58)光孝天皇   (59)宇多天皇   (60)醍醐天皇    
           
            人康親王   操子女王
(藤原基経妻)
    真寂法親王
(斉世親王)
     
                            敦実親王   (源)雅信宇多源氏へ〕

 

宇多源氏

59代宇多天皇の子孫。
第八皇子である敦実親王の子、源雅信・源重信 兄弟はいずれも左大臣となった。源重信の子孫は十二世紀初めまで公卿を輩出した。源雅信の子孫からも多くの公卿を輩出し、鎌倉時代以降、庭田家、綾小路家等に分かれ、明治維新に至るまで堂上家としての地位を保ち、栄えた。
堂上公家:庭田家、綾小路家、五辻家、大原家、慈光寺家
氏族:佐々木氏、出雲源氏諸氏

佐々木氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
佐々木氏
家紋
四つ目結
本姓 宇多源氏
家祖 源経方
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡佐々木庄
主な根拠地 近江国出雲国
隠岐国越後国ほか
著名な人物 佐々木秀義
佐々木定綱
佐々木盛綱
佐々木高綱
佐々木義清
吉田厳秀
支流、分家 六角氏武家
京極氏武家
大原氏武家
高島氏武家
加地氏武家)ほか
凡例 / Category:日本の氏族

佐々木氏(ささきし)は、平安時代に起こり近江国蒲生郡(現滋賀県近江八幡市安土町)佐々木荘を本貫地とした武家。

概略

佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。

宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗った事から始まるとされるが、これには異説もあり現在も議論されている。

宇多源氏の中でも佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。

祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた

 

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近江守・守護

2012年08月05日 | 武将

近江守

近江介

近江掾

守護

鎌倉幕府

室町幕府

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小野 妹子   近江国滋賀郡小野村の小野氏の出身

2012年08月05日 | 武将

小野 妹子(おの の いもこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の政治家。姓は臣。子に毛人・広人]がいた。冠位は大徳冠。

『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。

出自

近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で、春日氏の一族小野氏の出身。系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある。              一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子とするが、『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこの大樹の後裔と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である。春日仲君の娘老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだものと想定される。本当は、分かっていない。

 

経歴

『日本書紀』(巻第22)によれば、「十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、推古天皇15年(607年)、鞍作福利らと大唐(当時の中国は隋の時代)に渡る。                                                                                    推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国。ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失(紛失に関しては古来より議論がある。)、一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。                                                                                         翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。

小野妹子は「華道の祖」とされることがある

小野妹子墓

小野妹子墓は大阪府南河内郡太子町の科長神社南側の小高い丘の上にある。

小野妹子公園(滋賀県大津市小野)そばの唐臼山古墳(からうすやまこふん)を小野妹子の墓とする説がある。                                        唐臼山古墳南方の古墳は妹子の父の墓である可能性が指摘されており、大津市教育委員会による事前調査が行われたものの破壊され現存しない。

 

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近江 戦国大名

2012年08月04日 | 武将

近江の国 戦国大名  Wikipedia

武家官位としての近江守

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大工奉行 甲良備後守

2012年07月20日 | 武将

甲良豊後守宗廣(1574-1646)日光東照宮の寛永大造替の大棟梁

城普請大名藤堂高虎と大工奉行 甲良備後守

 

甲良町役場に車を止めて「

ガイドMAPを

甲良神社(甲良町法養寺)

甲良神社(甲良町法養寺)

祭神:須佐之男命(すさのお)・伊弉諾命(いざなぎ)・伊弉冉命(いざなみ)

甲良神社は佐々木京極氏によって、永正15年(1518)弓削村(現・竜王町弓削)から御神体を迎えたと伝わる。
この法養寺は甲良大工発祥の地ともいわれている。
佐々木氏の子孫で、日光東照宮造営の棟梁をつとめた甲良豊後守宗廣が、慶長9年(1604)この社を修理したとされる。
この神社は古くから上の郷の総社として奉仕され、明治5年(1872)には郷社になった。

甲良宗廣の祖と生誕地
   甲良宗廣は甲良町法養寺に生まれる。甲良家は、中性から甲良に住む工匠で、もともと社寺の建築造営を担う大工を職務としていたと思われる。現に、永禄九年(1566)に造営された重要文化財の油日神社楼門(甲賀町)も棟札に、「内棟梁大工御子息甲良五郎左衛門殿・・・」とあり、甲良家が有力な名工であったことを物語っている。甲良光広の孫にあたる宗廣は、慶長九牛(1604)三十歳の時、幕府に召し出され、江戸の僧上寺造営の棟梁をはじめて務めたのである。そのあと、彼の畢生の業績として後世に伝えられた日光東照宮造営の大棟梁となった。甲良家の始祖ともなった宗廣は、幼年期から郷里の近くにある湖東三山の西明寺・金剛輪寺・.百済寺といった優れた建造物に親しみ、これらが格好の研究材料になる恵まれた環境にあったといえる。
藤堂高虎と宗廣
   東照宮は初め元和二年(1574)、同郷の藤堂高虎が作事奉行として造営されたが、現在に見るほどの立派さはなかった。同郷の宗廣が幕府作業方棟梁に召され絢襴豪華、壮麗無比の東照宮に生まれ変わった。
帰郷後の宗廣  
   宗廣は、六十三歳(1636)になった時、大棟梁の職を「子の宗次に譲り、甲良に帰郷する。しかし、生誕他の法養寺は、水害が多く彦根藩により村落が移されたため生家もなく、やむなく隣村四十九院の檀家の唯念寺に住まいすることとなった。宗廣は帰郷しながらも郷里の寺院の造営に援肋する。まず唯念寺の本堂を寄進し新築するが、惜しくも幕末に焼失する。また、信長の兵火で焼失し、甥が住職をしていた百済寺(愛東町)の本堂造営にあたる。晩年、宗廣は法衣の自像を彫り、唯念寺に残し、正保三年(1646)、七十二歳で情熱の生涯を終えた。

甲良豊後守宗廣記念館

甲良豊後守宗廣(1574-1646)の偉業をたたえ、幕府作事方(さくじがた)大棟梁職の甲良家に関する資料を展示する資料館です。江戸時代末期に建てられた旧家を利用した展示棟と、新築された研修棟が渡り廊下でつながれています。                   展示棟には、宗廣自筆の鯉の絵の掛軸や甲良大工道具などの甲良家や宗廣を偲ばせる資料が展示されているほか、収蔵室や談話室もあります。研修棟では、講演会が開かれたりもします。                                                                                   甲良豊後守宗廣は、甲良町法養寺の出身で代々宮大工の匠家を勤める家に生まれました。関白近衛(このえ)家館門や洛東吉田神社の造営を行い、寛水13年(1626)の日光東照宮人造替の大任を最後に仏門に帰依しました。                                                   宗廣の墓所は京都真如堂(しんにょどう)と東京芝の正念寺のニか所にあります。                                                              また、甲良家12代にわたって秘伝「神拝式書(しんぱいしきしょ)」、建築設計基準の嚆矢である「本途帳(ほんとちょう)をはじめ、数々の資料・図面など日本建築学界に多大の功績を残しています。

甲良氏(こうらし)は、江戸幕府の作事奉行輩下である幕府大棟梁を務めた家系である。建仁寺流として11代まで続いた。

  • 主に日光東照宮造営、修理を行った。江戸時代末期には安政大地震によって崩壊した江戸城修復なども行った。
  • 初代は甲良宗広(1574年-1646年)といい、現在の滋賀県甲良町法養寺出身。慶長元年(1596年)、京都近衛関白殿御門を建てる際、左甚五郎より片扉宛分を仰せ付けられ、褒美をいただいた。現在、甲良町には甲良豊後守宗廣記念館がある。
  • 3代宗賀の時、日光東照宮修繕の褒美として切米100俵と市谷の地(市谷甲良屋敷=現在の市谷柳町25番地)を拝領する。また自らは拝領地に居住せず、千住に屋敷を設けている。現在、東京都新宿区市谷甲良町にその名を残すが、前述のように屋敷地跡は隣接の市谷柳町となる。
  • 10代甲良棟全(明治11年(1878年)没)は安政大地震で倒壊した江戸城破損部の修繕を行い実質、最後の大仕事となった。
  • 11代甲良棟隆(匠造、明治43年(1910年)没)の際、明治維新を迎え、廃業した。流派は10代の子である大島盈株に引き継がれ、のちに初代新橋駅等の鉄道建築物の造営に貢献した。
  • 甲良氏は、11代棟隆の子・伝次郎(鉄道省技師)が昭和21年(1946年)に没して断絶した。菩提寺は港区正伝寺。

城普請大名「藤堂高虎」

2012年07月20日 | 武将

高虎公園の藤堂高虎(1555~1630) 

藤堂高虎(とうどう たかとら)b
(プロフィール)
七度主君を変え、豊臣秀吉・徳川家康にも仕えた戦国武将で、外様大名でありながら徳川十七将に数えられる知勇兼備の将。
不義理者と評価されることが多いが、実際には仕えた主君を裏切った事はなく、滅私奉公の如く働いた。

城普請大名藤堂高虎と大工奉行 甲良備後守

誕生
   天文二十四年(1555)、近江国藤堂村(在土)に生まれる。父藤堂虎高は京極家の後、浅井家に仕えた犬上郡数村の領主。藤堂家は、中原氏(平安時代以来の朝廷に仕えた大臣)の家柄であるが、高虎時代は状勢より藤僚氏系と名のった。
徳川時代
   慶長五年(1600)四十五歳・関ケ原戦で家康に従軍し、功績をたて今治二十万石の城主となる。以後、丹波篠山城・亀山城の普請奉行に任ぜられる。慶長十九年(1614)五十九歳・江戸城普請奉行となる。元和三年(1617)六十二歳・東照宮の縄張りを賞せられ、三十二万二千九百余石の大大名となる。寛永七年(1630)七十五歳・十月五日没す。寒松院(津市)に葬る。
藤堂高虎
十五歳にして191Cmの体格
   生まれたときから乳母の一人の乳だけではたらず、家来の女房から乳をもらった。三歳には餅を食い、六歳で大人の食事をし、七歳で40Kgの荷物を持ち、元服の十五歳には191Cmの筋骨たくましい怪童であった。
高虎公園内(高虎像)
高虎公園内(高虎像)
誠意ある人柄
   生涯を通じて誠意を冬くす人に対して必ず誠意を冬くす人であった。若武者時代は父に従って湖北の雄「浅井家」に仕え織田信長軍(姉川合戦)とよく戦った。浅井家滅亡後、秀吉の弟「秀長」に仕え、彼の実力が認められるようになる。主君秀長が死んだ時は、高野山で出家(僧になる)までする。徳川家康に武家屋敷を建てた時、自費を払って裏門を造営する。秀吉亡きあと、後見人石田三成の高慢なところに嫌気がさしていたところ、徳川家康の誠意に共感し、家康こそが私の主君と決断し関ケ原戦で徳川軍として善戦する。家康は高虎の仕事に対する気構えと忠臣精神を認め、遺言状の後見人としての扱いをたまわり、伊勢国三十二万石余の大名となる。
築地土木の天才
   高虎の体は巨人であったが、指がなく全身は刀傷で切り刻まれていた。彼の武勇を語る証である。そればかりではない、高虎には築城工事に優れ名築城家としての才能があった。秀吉時代は伊予大洲城、宇和島城、家康時代は普請奉行としてヨーロッパ築城技術を取り入れた今治城、二条城、穴太衆(滋賀)の石垣技術をフルに利用した再建の大阪城、日本一高い石垣の伊賀上野城、伏見城の補修、そして城主となった津城、また、江戸城の修築などと日光東照宮である。家康の命によって日光東照宮の大棟梁となった甲良豊後守宗廣は、高虎と同郷である。ときに高虎四十五歳、宗廣二十八歳であった。

甲良町役場に車を止めて

近江国の豪族であったが、虎高は武田信虎に仕えて偏諱を受けたという。のち浅井亮政に仕えた(『寛政重修諸家譜』、太田亮『姓氏家系大辞典』)。 虎高の子・高虎は、浅井氏・阿閉氏・磯野氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏と主を次々と乗り換え、最後は伊勢国津藩三十万石を手に入れる事に成功している。

高虎公園

 八幡神社は、五命という女神を祀り、戦勝、家内安全五穀豊穣を祈ることで知られています。                                                                           在士(ざいじ)八幡神社の創基ははっきりわかりませんが、藤党影盛(とうどうかげもり)が石清水八幡宮を勧請して建立したのが始まりといわれ、極彩色の本堂は藤原氏が大名になる時に修復されたと伝えられます。                                                                       鳥居脇と本殿裏にある紫藤は、八幡神社を勧請した時、影盛が子孫繁栄米を祈願して植えたと伝えられています。                                                         毎年5月中旬頃が最盛期で、棚いっぱいに藤の房が下がります。1房が1m以上もあり、さながら藤のカーテンのようです。毎年5月の弟2日曜には在士(ざいじ)の化切りと呼ばれる藤切祭りが行なわれ、東京の藤堂家に贈ることが毎年の行事となっています。藤堂家では、贈られた12の花房で花見の宴が催されるといいます。昭和52年(1977)1月、藤が町の花に選定されています


石田三成の隠岩窟(オトチ洞窟)  近江国(木之本)

2011年08月23日 | 武将

石田三成が関ヶ原の戦いに敗れた後、逃亡し、隠れていたと岩窟

ついに三成が・・・。

 その三成が最後に隠れていたとされる洞窟が木之本町の古橋に2011.9.18に放送されました。

別 名:大蛇の岩窟・オトチの洞穴

所在地:長浜市(旧:伊香郡)木ノ本町古橋  map:http://yahoo.jp/VxsrzR

目標地:己高庵

区 分:隠れ岩窟

標 高:410m 比高差:林道の登り口から230m

現 状:山林

遺 構:岩窟・説明板

時 代:戦国期

武 将:石田三成

駐車場:己高庵から林道を2kmで登り口、林道の登り口から900m、比高差:230m(40分)

訪問日:2011.8.20

己高庵の駐車場にある案内板 

岩窟の概要

右に法華寺を見ながら、林道を約2km進み(途中、1km地点で林道はY字で左手に進みます)、登り口に標識と説明板がありますので、そこから登ります。 林道入口から登り口まで、林道には、貝洞、谷ケ平、居張滝、藤蔵ケ谷、仏の谷、ヒル谷、東荒谷、西荒谷などの標識があります。

 林道の登り口からきついつづら道を登ります。山道にも各所に標識がありますので、迷うような心配ありません。 岩窟入口には石田三成の家紋の入った幟があります。その左手方向に岩窟への入口があります。 岩窟への入口は大人一人がやっと通れるような竪穴で、内に入るために梯子が取り付けてあります。内部は入口とは別にもうひとつ岩の割れ目があり、そこから光は差し込むものの、真っ暗です。今は相当に埋まってしまったようですが、当時は25平米ほどの広さはあったと言われるようです。懐中電灯が必要です。

岩窟のある山中は、岩窟もせまい竪穴であることもあり、また、この地区はクマの出没するところであり、単独行動は危険です。

歴 史

 慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、再起をかけて逃亡し、この山中に潜伏した。

 しかし、徳川家康の命で探索をしていた田中吉政(虎姫・三川城主)の手のものに捕縛され、大津城にあった家康のもとに連行され、その後、六条河原で処刑されました。

 この古橋は三成の母の出身地であり、三成が幼少の際は法華寺に修行したとも伝わるため、縁のあるこの古橋に逃げ延びたようです。 

最後の緩(ゆる)やかな坂をたどると、迎えてくれる。さあ、到着です!

オトチ洞窟、オトチ(オロチ)=大蛇のことだそうで!

唯一ビューポイント琵琶湖が見る。

最後の緩(ゆる)やかな坂をたどると、迎えてくれる
林道から、石田三成の隠岩窟まで約30分・・・これがキツイ!前日の雨で登山道はヌカルミ、水が流れている所も・・・・!

関ケ原の合戦

石田三成は、関ヶ原で野戦を挑むこととなる。

 そして9月15日、豊臣臣下の東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いいが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、東軍:細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた

 その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。
 しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政(近江・三川城主)の追捕隊に捕縛された。

 一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。

 9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された。

 辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。

後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑

参考資料:ウィキペディア

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