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城郭探訪

yamaziro

唐国城 近江国(虎姫)

2015年07月17日 | 武将

山内一豊の初領地

山内一豊が、朝倉氏との戦い”刀禰坂の戦い”での功により、近江唐国四百石に封じられる。

初領地のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)虎姫町唐国   map:http://yahoo.jp/h3_Hll

目標地:唐国集落 南側

区 分:平城  

比 高:0m

現 状:水田

遺 構:顕彰石碑

初領期:織豊期

受領者:山内一豊

訪問日:2015.6.27

山内一豊公 顕彰碑(虎姫商工会) 

お城の概要

国道8号線の唐国の琵琶湖側・高時川の堤防のすぐ南の、唐国集落の南の田んぼの中に碑があります。

真新しい顕彰碑が立っています。

 

歴 史

山内一豊織田信長の家臣で、木下秀吉の部隊に所属していた。

1573年近江浅井氏の援軍として北近江に進軍してきた朝倉義景は、織田信長の攻撃を受け越前へ退却を始めた。

近江と越前の国境の刀禰坂で朝倉軍に追いついた織田軍は、そこで朝倉軍を散々に破った。その織田軍のなかに若き日の一豊がいた。
刀禰坂の戦いでのエピソードが残っている。
刀禰坂での戦いで一豊は、朝倉軍の弓の名手三段崎(みたざき)勘右衛門との死闘を繰り広げた。一豊は三段崎の矢を左のまなじりに受け、その矢は右の奥歯まで達した。しかし一豊は傷にひるむことなく三段崎を討ち取った。

顔の矢を抜こうと家臣の五藤吉兵衛為浄が口で矢をくわえたところ一豊は、「そんなことでは間に合わない。顔を踏みつけて抜け」と命じたという。さらに草履を脱ごうとした為浄に「そのままで良い」と命じ、為浄は草履のまま一豊の顔の矢を抜いたという。この三段崎を討ち取った功により近江唐国四百石を与えられた。

功名が辻-15【刀根坂古戦場】1573年、浅井氏救援のため木之本まで来ていた朝倉義景は敗色が濃厚にあると越前に引き上げる。それを信長軍が追撃して勝利した。この時、信長軍にいた山内一豊が顔面に鏃を受けた話は有名。

(参考. 掲示板)

 
 

天正元年(1573年)に浅井氏、小谷城落城後、織田信長から羽柴(豊臣)秀吉がこの地を与えられ、一豊も唐国に400石を与えられました。

山内一豊(官歴と所領推移)

  • 天正元年(1573年)、近江国唐国(滋賀県長浜市唐国町)に400石を領す。
  • 天正3年(1577年)、播磨国有年(兵庫県赤穂市有年)に700石を加増。時に、合計2,700石を領す(石高総計については異説あり)。
  • 天正10年9月25日(1582年10月21日)、播磨国印南郡(兵庫県南部地域)に500石を加増。
  • 天正11年8月1日(1583年9月16日)、河内国禁野(大阪府枚方市禁野本町あたり)に361石を加増。
  • 天正12年(1584年)9月、近江国長浜城主となって、5,000石を領す。
  • 天正13年6月2日(1585年6月29日)、若狭国高浜城主となって1万9,870石を領す。8月、豊臣秀次の宿老となる。閏8月21日(10月21日)、近江国長浜城主となって2万石を領す。
  • 天正13年(1585年)9月~天正14年(1586年)4月 正五位下対馬守に叙任(『一豊公記』)。なお豊臣家臣で一豊と同格の人物の多くは当時従五位下に叙せられているため、正五位下ではなく従五位下の誤記ではないかとの説もある。
  • 天正18年9月20日(1590年10月21日)、遠江国掛川城主として5万石を領す。さらに10月25日(11月22日)、遠江国周智郡一宮(静岡県周智郡森町一宮)1万9980石の代官にもなる。
  • 文禄3年9月21日(1594年11月2日)、伊勢国鈴鹿郡(三重県鈴鹿市)で1,000石加増。
  • 文禄4年7月15日(1595年8月26日)、遠江国内の豊臣秀次所有の蔵入地より8,000石を加増。
  • 慶長5年(1600年)11月、土佐国内9万8,000石(後の検地で20万2,600石)を領有する大名となる。
  • 慶長8年3月25日(1603年5月6日)、従四位下に昇叙し、土佐守に転任する(『徳川実紀』)。
  • 慶長10年9月20日(1605年11月1日)、卒去。
  • 1919年(大正8年)11月15日、贈従三位。

「内助の功」に関する逸話

馬と黄金の話

一豊夫妻の有名な逸話として、見性院は、『常山紀談』による嫁入りの持参金またはへそくりで夫・一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を木之本の馬市で購入し、主君織田信長の馬揃えの際に信長の目に留まり、それが元で一豊は加増されたといわれる。この逸話は、『藩翰譜』、『鳩巣小説』、『常山紀談』の3つに記載があり、藩翰譜には(見性院が)「鏡の筥の底より、黄金十両取り出しまゐらす」とあり、父からもらった金とされている。馬に関しては「東国第一の馬」と記載されている。一方鳩巣小説では「金子一枚」(十両大判一枚のこと、つまり十両)とあり、母からもらったとされていて、馬売りを「仙台より馬売りに参り候」と表現している。常山紀談では、父からもらった金を差し出したとある。また、どこで馬を手に入れたかについては3つとも安土城下とあり、馬揃えの時期に関しては、天正9年(1581年)2月28日とある。

一豊の妻である見性院(千代、まつ)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で名馬(鏡栗毛)を買った。この逸話は特に第二次世界大戦以前の日本において教科書に採り上げられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられた。真偽の程は定かではないが、千代紙の由来になった人物としても知られている。

参考資料:現地説明板・ウィキペディア

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


佐々木六角家臣団

2014年08月30日 | 武将

六角家臣団

近江守護 六角氏(佐々木判官家・佐々木備中家・佐々木近江家)、

六角一族 河端(八幡山)氏、愛智氏、山内氏、鯰江(毛利)氏、種村氏、野村氏、池田(村井)氏、駒井氏、高宮氏、坂田氏、

大原一族 大原氏(佐々木備中家)、春照氏、白井氏、

高島一族 高島氏(佐々木越中家)、朽木氏(佐々木出羽家)、平井氏、横山氏、田中氏、永田氏、谷氏、

馬淵一族 馬淵氏、青地氏、堀部(森川)氏、岡氏、青木氏、

井上一族 伊庭氏、井上氏、

愛智一族 楢崎氏、永原氏、山崎氏、池田氏、平井氏、高野瀬氏、

佐々木一族 葛岡氏、木村氏、落合氏、乾氏、竹腰氏、田付氏、

六角被官 目賀田氏、三井氏、建部氏、三上氏、梅戸氏、後藤氏、進藤氏、宮城氏、蒲生氏、音羽氏、小倉氏、九里氏、大津氏、山岡氏、今村氏、寺西氏、

甲賀衆 三雲氏、山中氏、美濃部氏、水原氏、望月氏、和田氏、多羅尾氏、山口氏、

河内衆 若江氏、

京極家

上杉家(加地氏)

織田家(佐々氏)

大覚寺統(関氏)

近江守護 

佐々木広綱-佐々木広綱-佐々木信綱-佐々木泰綱-六角頼綱-六角時信-六角氏頼-京極高氏-六角氏頼-山内信詮-六角義信-六角氏頼-六角高経(京極高詮)-六角満高-青木持通-六角満高-六角満綱-六角持綱-六角久頼-六角政頼-六角政堯-六角政頼-六角政堯-京極持清-京極孫童子-六角政堯-六角虎夜叉丸-京極政経-六角高頼-六角高貞?-結城尚豊-京極政経-細川政元-高島頼泰-山内就綱-六角高頼-六角氏綱-京極高清-六角氏綱-六角定頼-六角義賢

六角氏は佐々木氏の惣領でしたが、庶流の京極氏が南北朝時代に大躍進したため、近江一国にも満たない勢力となってしまいました。

武士団としての佐々木氏は大雑把に

佐々木定綱から始まり、近江中心に活躍した六角、京極、大原、高島、馬淵らと、

佐々木盛綱から始まり、備前・越後中心に活躍した加地、飽浦、新発田、竹俣らと、

佐々木義清から始まり、出雲・隠岐中心に活躍した隠岐、富士名、塩冶、富田らの3つに分けられます。


六角氏は佐々木惣領として近江に居続けますが、北伊勢にも勢力を持っていたので、尾張の織田氏とは境界を接していました。

そのせいか織田家臣には近江関係者を名乗る武士(佐々、森川、青木など)がかなりいます。

特に尾張南部に勢力を持っていた勝幡織田氏(信長の家)は河内長島を挟んで六角氏と向かい合っていたので、

美濃斎藤氏よりも六角氏と関係が深かったのではないでしょうか?


南北朝時代に庶流の京極氏が、義清流佐々木氏が持っていた出雲・隠岐守護職を手に入れ、それを京極庶流の尼子氏が奪います。

 

参考資料:http://www.geocities.jp/kawabemasatake/sasaki.html


山岡道阿弥

2014年07月29日 | 武将


不死鳥の寺、三井寺は永遠に生き続ける。

山岡道阿弥坐像山岡道阿弥像

三井寺は何度も焼き討ちにあっている。十世紀後半頃から天台座主の職や戒壇建立問題に端を発した、 比叡山延暦寺(山門派)と三井寺(寺門派)との確執は平安末から鎌倉時代にかけてエスカレートし、 ついに武力衝突へと発展する。歴史に残っているだけでも十数回を数えるという。世にいう「山寺両門の争い」である。
また、源氏の氏寺でもあった三井寺は、源平の戦いや南北朝の動乱に際して源氏や足利氏側について、 それぞれ治承四年(1180)、建武三年(1336)にも大損害をこうむっている。 さらに、文禄四年(1595)には闕所(けっしょ)(:財産没収)を豊臣秀吉に命ぜられる。 まさに、悲運の三井寺である。しかし、そのような運命の三井寺は、その都度ことごとく蘇り、 現在も天台宗寺門派の総本山として隆盛を誇っている。不死鳥の寺と呼ばれる所以である。 このことは、多くの支持者、支援者がいたからに他ならない。今回の特集、 山岡道阿弥(法名暹慶(せんけい))も文禄の闕所からの復興に並々ならぬ力を注いだ人物であった。




信長、秀吉、家康と仕え権力の中枢へ

山岡家は代々、瀬田城主をつとめていた。 現在、瀬田の唐橋の付近には山岡家を記念する「勢多古城 址碑」がたっている。

山岡道阿弥は、栗東武士として名高い瀬田城主の山岡景之の四男として生まれた。 山岡家はもともと、甲賀郡の毛牧村を本拠地とした地侍で、栗太郡、甲賀郡など湖南地方に広い勢力を築きあげていた。 父景之は文明・永正年間の頃、六角氏綱の下で「湖南の旗頭」を勤めたという。 この頃には、要衝瀬田の唐橋を支配する瀬田城を拠点としていた。
国宝・光浄院客殿は慶長6年に山岡道阿弥よって建立された。
道阿弥は、はじめ三井寺に入り、暹慶と称し光浄院の住持となったが、 戦国時代の動乱によって還俗を余儀なくされ、景友を名乗り織田信長に仕えることになる。

天正元年、武田信玄は満を持して入洛の途についた。 すでに信長と不和となった将軍足利義昭もこれに同調して軍を起こす。 道阿弥も義昭の誘いによって石山に要害を構えて、柴田勝家、明智光秀に率いられた織田の軍勢に対抗するが、 敗れて瀬田城を逃れる。巷間伝わる信長の気性からは考えられないことだが、 その後許されて、信長の旗下に加わることになった。
 
その後、信長が明智光秀の軍勢により本能寺で倒れるや、瀬田橋に火を放ち、安土城に向かう明智軍を防ぎ、 その功により秀吉のお咄衆として仕えている。
 
近鉄「桃山御陵前駅」付近にある町名表示板。
秀吉から伏見城下に屋敷を拝領した場所は、 現在の近鉄「桃山御陵前駅」周辺に当たり、今も「道阿弥町」という名前で呼ばれている。
 
しかし、秀吉の死後、急速に徳川家康に接近する。 関ヶ原の合戦には、石田三成方の長束正家の甲賀水口城を降し手柄を挙げ、 伏見籠城戦に参加した甲賀武士の子孫百名と九千石を家康から賜る。
道阿弥の子孫は江戸時代になっても幕府に仕え、将軍の側近である御書院番などを勤め明治維新を迎えている
 
道阿弥の足跡は三井寺の歴史そのもの。

山岡景隆像山岡景以像
 
三井寺の光浄院は、十五世紀前半に道阿弥の祖先にあたる山岡資広が開創したのに始まり、 代々山岡家の子孫が住持を勤めることになっていた。そのような訳で三井寺には道阿弥の肖像画が伝わっている。 本紙の下半分に大きく軍馬を描き、人物は左むきに座った姿で上半分で大きく描かれている。 道阿弥はやや小肥の温和な容貌で描かれている。茶人のような教養ある人物に描かれており、 とても戦乱の時代を生き抜いた覇気ある人物には見えない。 それだけいっそうに下半分の軍馬とちぐはぐで人物を描いたのか馬を描いたのかわからないような印象を受ける。 他にも、景隆、景以などの山岡家当主の肖像画も残されている。
道阿弥が伏見城から寄進した知恩院黒門(京都府指定文化財)
京都東山から眺望が広がる。山岡道阿弥がねむる墓所。
 
三井寺の光浄院は、十五世紀前半に道阿弥の祖先にあたる山岡資広が開創したのに始まり、 代々山岡家の子孫が住持を勤めることになっていた。そのような訳で三井寺には道阿弥の肖像画が伝わっている。 本紙の下半分に大きく軍馬を描き、人物は左むきに座った姿で上半分で大きく描かれている。 道阿弥はやや小肥の温和な容貌で描かれている。茶人のような教養ある人物に描かれており、 とても戦乱の時代を生き抜いた覇気ある人物には見えない。 それだけいっそうに下半分の軍馬とちぐはぐで人物を描いたのか馬を描いたのかわからないような印象を受ける。 他にも、景隆、景以などの山岡家当主の肖像画も残されている
 
文禄の闕所に際しては道阿弥の弟、暹実とともに三井寺復興に奔走することになる。 現在の国宝光浄院客殿こそ道阿弥の建立によるものである。まさに三井寺復興の大恩人であった。
今年三月、道阿弥が眠る京都、東山知恩院の墓所を訪ねた。 知恩院境内、信重院の御母堂様に道阿弥の墓所まで案内していただいた。 知恩院の黒門を通り、浄土宗の開祖法然上人をまつる御影堂の奥をすぎ、小高い山を登る。 幾箇所もの墓地を通り抜け、市内を一望する東山の山麓にへばり付くようにそれはあった。 われわれ取材班だけではとうてい見つける事が困難な場所であった。 また、我々が通った黒門は道阿弥が伏見城より知恩院に寄進したと伝えられており、 信重院には三井寺と同様、位牌が安置され手厚く供養されている。知恩院にとっても、大切な人物であった。
いづれにしても道阿弥が復興した光浄院は、それ以降変わることなく端正な姿を今に伝えている。 争いもなく平和な時が四百年も続いたのは三井寺の歴史始まって以来ではないだろうか。 これからもそんな時が永遠に続くことを道阿弥は願っているに違いない。

 

西 与一左衛門と海津浜の石垣

2014年06月29日 | 武将

    

 

 マキノの町の湖岸海津浜の石垣は、元禄14年(1701)に西浜の属する高島郡甲府領の代官となった西与一左衛門が、元禄16年(1703)に幕府領の海津東浜の代官 金丸又左衛門重政と協議し、幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を西浜に495.5m、東浜に668m築いたもの。

「元禄14年に・・・西与一左衛門が風波のたび宅地に被害の甚だしいのをあわれんで石垣を築いた。・・・・この石積みのおかげで水害がなくなった。村人たちがその業績をたたえ、院内に碑を建立し、毎年3月15日には、西与一左衛門の法会が営まれている。」

築造前の状況を『大崎寺文書 』(天和2年(1682年))では、次のように語っています。
 「・・最前より御訴訟申し上げ候とおり、浜がわに私どもの住み居り屋敷13 軒は、波除け石垣崩れ少しの風波にも家へ水が入り、難儀に仕り儀にご座候ゆえ、ご慈悲に願いの通り、入用銀6貫19匁5分をお貸し下され成され候ハバ、有難く存じます・・ ・・」(読下し文)とあります。

 村人達は、度重なる大波によって石垣が崩れ、被害に苦しみ借財を重ねていました。このような中、元禄14年、西浜村に甲府藩領代官・西与一左衛門が就任しました。 村人達の苦しみに同情した彼は、就任早々に石垣築造の偉業を成し遂げ、しかも、費用を村民の負担による「自普請」でなく、お上が負担する「御普請」であったといいます。

 西与一左衛門は、思いやりと実行力のある人物で、西浜・蓮光寺入口の案内板には、次のように書かれています。 「元禄14年に・・・西与一左衛門
が風波のたび宅地に被害の甚だしいのをあわれんで石垣を築いた。・・・・この石積みのおかげで水害がなくなった。村人たちがその業績をたたえ、院内に碑を建立し、毎年3月15日には、西与一左衛門の法会が営まれている。」

元禄14年(1701)現在の高島市マキノ町西浜の代官として着任した武士。年貢を減らすこと に尽力し、農民や漁民に慕われた。

  海津の石垣が築造されたのは、江戸期の元禄16年(1703年)です

海津西浜は水害から守られた。この石垣は嵐のたびに何度も改修され今日に至っている。

海津の古い伝統的な町並みは石垣より少し内側に、石垣と平行に通る街道の両側に展開する。その中に地酒の醸造元や、400年以上の伝統をもつ醤油醸造の家などがある。

海津西浜の街道の中程に海津天神社への参道がある。その参道より南側の街道の両側では切り妻造りで、街道に妻側を向けた妻入りの民家が多いのに、その北側では棟を街道と並行にした平入りの商家が多い。敷地の関係でそうなったと思われるが面白い現象である。妻入り、平入りに関係なく中二階の民家が多い。中二階は真壁造りでなかには出格子をはめた民家もあり、屋根は桟瓦葺である。

 

参考資料:高島市広報誌「歴史散歩」、海津の石垣

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


明智左馬之助 湖を駆ける!

2014年06月24日 | 武将

 

明智左馬之助湖水渡りのところ 

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君・織田信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。光秀の弟左馬助光春は、信長の居城・安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き返す途中、打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがりびわ湖を渡り坂本に帰った。しかし、時すでに遅く、秀吉の軍勢に囲まれ、6月14日、光秀の妻子らとともに、城と命運をともにした。湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている

  

明智左馬助の湖水渡り(歌川豊宣画「新撰太閤記」)

 
明智左馬助湖水渡りの碑(滋賀県大津市打出浜)

坂本城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

 
 

前半生

『明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。

秀満の前半生は『明智軍記』を始めとする俗書でのみ伝わっている。

明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年)斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。その際、父は自害するが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人した。

後半生

天正6年(1578年)以降に光秀の娘を妻に迎えている。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、天正10年(1582年)4月である。

天正9年(1581年)、丹波福知山城代となる。

天正10年(1582年)、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った。

  秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。

 吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した。

6月15日の夜、秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる。享年は俗書に従えば47。『兼見卿記』では、同年に処刑された秀満の父(名は不明)は享年63とされる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

 

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信長公記 遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事)

2014年03月27日 | 武将

信長公記 巻三 元亀元年

5、遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 5月19日、浅井長政は鯰江城①に軍勢を入れ、同時に市原②に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑③の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え④に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離⑤まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 ①現滋賀県愛東村 ②現永源寺町市原野 ③現永源寺町甲津畑 ④前出。近江から伊勢へ抜ける経路。 ⑤約22~24mほど

元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。



 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云たれる松が甲津畑の速水氏宅にある。

 

 

遠藤周作氏の『男の一生』では、千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。
『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。

簡単に説明すると浅井長政の裏切りにより織田信長が濃州岐阜に戻るとき、ここで待ち伏せに会い杉谷善住坊の鉄砲でかすり傷を負った。

杉谷善住坊のかくれ岩

「対岸の信長を狙撃」事件の「善住坊のかくれ岩」

 

 

-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------

その後磯野丹波守は信長より近江高島郡を与えられる。

丹波守は高島に隠れていた、かつて信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえ、天正元年(1573年)9月に岐阜へ引き出した。 

 

杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)

生年不詳 - 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。

鉄砲の名手であったという以外の人物像は不明であり、出身については織田家に滅ぼされた武家、甲賀五十三家の一つである杉谷家の忍者、雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。                                                                                         信長を狙った理由も、近江を追われた六角氏からの依頼、信長への個人的な恨み、鉄砲名人としての腕試しなど諸説ある。

元亀元年(1570年)4月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され一時京都に逃れていた(金ヶ崎の戦い)信長は、翌5月に岐阜城への帰還の途についていた。5月19日、善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江の千草越(千草街道)を通過していた信長を狙撃するが失敗に終わった。12-13間(20数m)の距離から2発撃ったとされるが、信長はかすり傷のみで済んだ。

その後は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。                                                 その結果、近江高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、近江高島郡の領主である磯野員昌に捕縛される。                                        織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。                

   

 参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!感謝!


信長の側室 お鍋

2014年03月27日 | 武将

信長の側室

関係図

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 鍋は、織田信長の側室の一人として有名な女性である。土豪の高畑源十郎の娘と云われているが確証はない。また、嫁ぎ先においても、八尾城(東近江市)の城主である小倉左近将監実澄とする説や高野城(東近江市)の城主である小倉右京亮実治とする説等がある。また、実治を実房とする説やおのおのの持ち城が八尾城や高野城、小倉城(東近江市)、佐久良城(日野町)と入れ替わって説明されている場合もあり諸説ある。これらは愛知郡小椋庄を領地として高野城と小倉城を居城とする東家と、神崎郡御園庄を領地として山上城を本城を構え、和南城、山田城、相谷城,九居瀬城、八尾山城等を一族の支城とする西家とが混同されているからと考えられる。いずれにしても、鍋には甚五郎と松千代(松寿)の二人の子供があったことは事実のようである。

さて、小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。鍋は2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸らと共に討ち死にした。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉が西軍についたため、鍋の領地も召し上げられた。しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

鍋の足跡を訪ねて

このように、鍋と鍋の夫小倉氏をめぐる遺跡が近江には残されている。

八尾城の詳細は明らかではないが、佐久良城、小倉城は現地でも遺構を見ることができる。また、佐久良城の近くの曹洞宗神護山仲明寺は小倉実澄の菩提寺として有名である。特に高野城については、平成14年度に高野館遺跡で永源寺町教育委員会が団体営圃場整備に伴う事前発掘調査を実施し、16世紀末から17世紀にかけての土器類と共に石垣が発見されたことで知られている。また、近くには秀吉が没してから、隠栖した場所として「お鍋屋敷」と称される伝承地もいまに伝えているが、高野に居住した確証は得られておらず詳細は明らかではない。

また、一時を過ごした小田には「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」と地元の子守唄(『近江八幡ふるさと昔はなし』)とともに、「お鍋さんの屋敷跡」という伝承が残されており、かつては、お鍋の弔いのために一本松が植えられ、「おなべ松」と呼ばれていた松があったという。現在、屋敷の伝承地の松は枯れ、かつて松が生えていた塚とその後に植えられた3本の松が残されている。信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)

 


甲賀武士と伴谷

2014年03月10日 | 武将

   橘       山中十郎            平        鳥居兵内               藤原       頓宮四方介
                 嶬峨越前守                      杉山八郎                            上山新八郎
                 宮島掃部介           夏見    夏見大學              橘        岩室大學介
                 倉治右近介           篠原    多羅尾四郎兵衞                  中山民部丞
                 平子主殿介           丹波    三雲新藏人                        高山源太左衞門
                 葛城丹後守           伴      大原源三郎           伴        伴 左京介
                 杉谷與藤次           源      和田伊賀守           源        芥川左京亮
                 土山鹿之助           伴      牧村右馬介                        宇田藤内
   源       望月出雲守           藤原    池田庄右衞門                     上田三河守
                 針 和泉守            平      服部藤太夫           藤原      長野刑部丞
   菅原     美濃部源吾                       大河原源太           伴        多喜勘八郎
   藤原     鵜飼源八郎                       大久保源内                         野田五郎
                 小川孫十郎           平      佐治河内守           藤原       内貴伊賀守
                 山上藤七郎           伴      上野主膳正           藤原      大野 宮内少輔
                 八田勘助                          饗庭河内守           伴        岩根長門守
   惟宗     神保兵内                          高野備後守                         黒川文内
   多々良   青木筑後守           源      隠岐右近太夫        平        高峰藏人
                 小泉外記                                                     藤原      新庄越後守
  甲賀53家の内4家は、伴谷の城主で
      上山新八郎は、大字山字上ノ山の上山城主で現在の山の字名の由来となった。
      伴 播磨守は、大字伴中山字城下の伴中山城主で現在の下山で、伴谷地域名の由来となった。
      八田勘助は、大字八田字中尾の八田城主で現在の八田の字名の由来となった。

 

伴谷は、大字八田、春日、下山、伴中山、山の五大字の総称で明治5年(1872)区制施行の時、甲賀郡第2区に入り同18年(1885)に連合戸長役場を春日に定め、同22年(1889)4月町村制実施にあたり伴谷村となり、村役場が伴中山に設置されました。明治35年(1902)村是を定め自治の実績を上げてきましたが、明治43年(1910)2月25日内務省の推賞を受け模範村と称せられました。古代より伴谷は、山直氏が支配し、本拠地でありました。
 永久2年(1114)8月源義光が支配し金光院領とし、永く燈明料を納めさせていました。

その後、園城寺内金光院に転じ、長寛2年(1164)以後は柏木荘の御厨司の支配下に入っています。
 
 
 大字八田   住家75戸

   八田は、古く八田勘助の所領で、後に岩根郷の一部で京都眞如寺中正派院所領、天正13年 (1585)水口岡山城主中村一氏、増田長盛、長束正家と次々代わり、伴上野介資光の所領となり、元和3年(1617)より國領半兵衛がこれに代わり正太郎に到り明治維新になりました。
  八田地区の小字 20小字
   勝谷 水口 門田 上出 中出 込田 中尾 芳谷 西畑 井ノ口 寺硲 勝負谷 灰坂 桐山 薊谷 小桐山 イフラ谷 中ノ町 向山 桃木谷
 


蒲生氏郷と日野 シリーズ「淡海の城」より転載

2013年08月09日 | 武将


 南北朝時代頃から佐々木六角氏の家臣、蒲生氏が日野の地主豪族として頭角を現してきますが、永禄11年(1556)の織田信長上洛の際には、蒲生賢秀はいち早く織田方につき、12才になる嫡男の鶴千代(氏郷)を岐阜に人質として送ります。

蒲生賢秀の嫡男の鶴千代(氏郷)が生まれた中野城(日野城)

鶴千代は信長に大層かわいがられ、元服後は信長の娘、冬姫と結婚します。


おそらく鶴千代は経済政策の数々を信長時代に学んだのではないでしょうか。

信長亡き後、鶴千代改め蒲生氏郷は、伊勢松阪・会津若松と領地替えされますが、その都度、日野から商人を引き連れて行きます。「人・物・銭」を
集める商業は、城下町作りには無くてはならないものです。このことは恐らく、信長が岐阜や安土で築いた城下町作りを参考にしていると思います。

 さて、近江出身の商人を一般に「近江商人」と言い、近江八幡・五個荘・日野が有名です。その特徴の一つは「他国商い」というものでした。他国商いとは家族を近江に置いたまま、一家の主が単身で他国に赴き、稼業に精励することです。ところが、同じ近江商人でも、「八幡の大店、日野の千両店」という言い伝えがあるように、八幡と日野では経営手法に違いがあったようです。これは次のようなことを意味しています。近江八幡出身の八幡商人は、大きな店を町の一等地に持つことを目的としますが、日野の商人は、千両貯まれば当初の行商から各地に拠点を置いて出店を設け、そこが軌道に乗れば、また枝店を持つというように、近江日野の本宅を核にして、親族縁者が分家や別家をして商家経営を展開してきたというのです。この枝店経営は、今のチェーン店
の原点ともいえるものです。


 氏郷が、伊勢松阪・会津若松と移っていくことが、逆に日野商人にとっては、販路を拡大することになったのです。(仲川)

 

 

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平姓津田氏(織田氏系)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年07月31日 | 武将

津田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 

津田氏(つだし)は、日本の氏族。祖を異にする複数の系統がある。

     1 平姓津田氏(織田氏系)

 

平姓津田氏(織田氏系)

津田氏
家紋
横木瓜
本姓 ・桓武平氏
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡津田庄
著名な人物 津田信澄
津田信成
凡例/ Category:日本の氏

近世大名の織田氏の出自を平氏とする説においては、平家の子孫が近江津田庄に逃れ津田姓を称し、その末裔がのちに越前に移住し織田氏となったとされるが、確証はない。

この津田氏は織田氏と同族で、藤原氏・忌部氏の系統が有力とされている。

織田氏の直系から見て庶流に当たる一門は津田氏を名乗り、主家との区別を付けていた。例えば、織田信長の弟織田信勝(信行)の子津田信澄などである。また、同じく信長の一族津田信成は大名に列したものの、江戸時代前期に改易されている。

江戸時代にも、丹波柏原藩主織田家の庶子、出羽天童藩主織田家の庶子などに津田姓を称し、藩士に列した人物を確認できる。例えば、大和松山藩主織田高長の五男津田頼房などである。

鳥取藩家老の津田氏も織田一族を名乗っている。初代は元綱で、その子・元房は池田忠雄に従って8,000石を与えられた。3代・元匡は池田光仲の移封に伴い、鳥取に移り、伯耆国八橋郡に所領を与えられた。元禄5年(1692年)、5代・元長の時に家老職に就いた。伯耆国八橋の自分手政治は明治維新まで続いた。菩提寺は八橋陣屋そばの体玄寺、現在も津田家の墓所が存在する。

改易された織田信重の子孫は細川氏に従い、豊前小倉藩及び肥後熊本藩の藩士となる。

慶長から寛永年間に作成されたとする「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳並軽輩末々共に」の物奉行に「津田三十郎」、側小姓に「津田左兵衛」の名が見える他、熊本県立図書館所蔵の慶安元年(1648年)の『真源院様御代御侍免撫帳』に「1千石 津田三十郎」、「4百石 津田半右衛門」、「3百石 津田平丞」とある。幕末の『肥後細川家分限帳』では五家の津田家が確認できる。このうち、津田平助(1000石)家の津田平士は西南戦争熊本隊に従軍する。また津田信弘(山三郎、400石)は実学党に与し、奉行(参政)となる。


浅井長政 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年07月29日 | 武将

 

 
 
浅井長政
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時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文14年(1545年
死没 天正元年9月1日1573年9月26日
改名 猿夜叉丸(幼名)、賢政、長政
別名 新九郎、備前守通称
戒名 養源院天英宗清
墓所 滋賀県長浜市徳勝寺
官位 従二位中納言
主君 六角義賢
氏族 近江浅井氏(自称藤原氏
父母 父:浅井久政、母:小野殿
兄弟 長政政元政之岡崎安休
浅井治政阿久姫大弐局
京極マリア
正室:平井定武の娘
継室:お市の方
側室:八重の方
万福丸[1]万寿丸長明政治茶々[2]くす刑部卿局
養子:井頼

浅井 長政(あざい[3] ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将北近江戦国大名。浅井家の3代目にして最後の当主。

浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、妻の兄・織田信長同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。[4]

 

生涯

家督相続

天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸

下克上によって、直接の主筋で北近江の守護であった京極氏を追い落とした浅井氏も、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れ、初代当主である浅井亮政(長政の祖父)の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も、生母・小野殿と共に人質になっていたとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。

15歳で長政が元服した際、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、長政に六角氏当主である六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせる。また、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻も強いた。

このような状況に不満を持つ家臣達は知勇に優れた長政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続したのであった。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため「賢政」の名と平井定武の娘を六角氏に返上し、名を新九郎に戻した。

浅井家の成長と六角家の衰退

愛知県春日井市の浅井氏宅跡にある浅井長政像。側室八重が生んだ子の七郎とその子孫がこの地に住んだという。

永禄3年(1560年)8月中旬、長政(新九郎)は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦い振りを披露した。これによって重臣の赤尾清綱海北綱親遠藤直経らを心酔させたと言われている。

野良田の戦いの勝因は、短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政が隠居した頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また朝倉氏に援軍を求めた様子もないことから、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政自身が戦の主導権を取っていたという見方もできる。合戦後は、朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開している。

同年の10月、父の久政が重臣らによって隠居させられ、家督を継いだ。

永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された。世にいう観音寺騒動である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せた。

この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議により膠着状態が続く。

織田信長と同盟

浅井長政夫人画像
お市の方

1560年代織田信長は、美濃国斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論であり、遠藤直経も反対だったという。最大の問題は、久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、互いに挑発を繰り返していた。

同盟の際、長政は永禄11年頃に信長の妹のを妻とした[5]

信長は浅井との同盟により上洛経路を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を大いに喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている[6][7]。 また一説にお市の婚姻は永禄8年(1565年)とする説もある。[8]

永禄11年(1568年)7月、越前国に滞在していた足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより、長政の宿敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退。浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護した。

同盟破棄・信長包囲網

元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。信長は殿を務めた羽柴秀吉らの働きにより、命からがら近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。

信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある。[9]

同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。先鋒の磯野員昌が織田軍の備え15段のうち13段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話はあるものの、信憑性は薄い。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。藤堂高虎は、姉川の戦いに名もない兵卒として参戦し、多くの武功を上げて長政に感状を送られた。

姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた本願寺野田城・福島城の戦い)が、反信長の意志を表した(信長包囲網)。9月には朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成織田信治らを討ち取る。だが、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行なったため、12月に信長と勅命講和することになる。また、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長の比叡山焼き討ちにあい、壊滅してしまう。

武田信玄との連携

元亀3年(1572年)7月、信長が北近江に来襲した。長政は父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いたが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。

同年9月、将軍足利義昭の要請に応える形で、武田信玄が甲斐を進発する。信玄はこの時、長政、久政親子宛に書状を送っている。

「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候」

その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破し(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。長政らに与えられた役割は、北近江の織田軍を岐阜に戻さないことである。北近江に織田軍を釘付けにすれば、信長は全力をもって信玄の軍勢とぶつかることができず、反信長連合軍の勝機は高まる。織田軍の物量に押され、じわじわと追いつめられていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦であった。

同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国。義景の撤退により、北近江に縛られていた織田軍は、美濃に戻った。この時、義景の軍と同様に悪条件がそろう長政の寡兵だけでは、退却する織田軍の追撃は難しかった。信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じることが出来ず、黙殺的態度を示した。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたが、翌年2月には進軍を再開し、家康領の野田城を攻め落とす。しかし、信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になった。

浅井家滅亡

天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を即座に落とし、やむなく義景は越前に撤退を始めた。信長は、逃げる朝倉軍を追撃して滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、軍を浅井氏に向けた。

もはや浅井軍は、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城滋賀県長浜市)が、織田軍に囲まれる。信長は家臣不破光治、さらに羽柴秀吉を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。

市が信長の陣営に帰還する際、浅井・織田軍共に一切の攻撃をしなかったと言われている。

同年9月1日9月26日)、父の久政と共に自害。享年29。墓所は滋賀県長浜市徳勝寺

一級史料と評される信長公記には、天正2年(1574年)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。なお、これをにして酒を飲んだという俗説もあるが、史料には見当たらない。信長はあまり酒を飲まなかったので、後世の作り話と考えられる。

系譜

浅井氏は始祖を正親町三条公綱(公家の嵯峨家)の落胤とする家系伝承を持ち、本姓藤原氏と称するが、江北に古くから土着している豪族に浅井氏があり、平安時代や鎌倉時代の記録に既に名が見える、古来の浅井氏に、公家の子息が入り婿したとも伝えられる。室町時代には、守護京極氏に従う国人領主の一つとして頭角を表す。やがて梟雄・亮政が越前・朝倉氏の後援によって国人一揆の盟主格であった浅見氏を倒し、江北第一の勢力として台頭するに至った。

両親
兄弟
姉妹
息子
  • 嫡男:万福丸(輝政)
  • 次男:万寿丸(直政 / 正芸 / 万菊丸 / 幾丸 / 虎千代丸)
    赤児だった万寿丸は命を助けられ、後に出家させられたが、その後、豊後細川藩を頼り子孫は杵築浅井氏として続いた。
  • 長明(七郎) - 八重の方との子で、信長からの追及の手を逃れ尾張に土着する。
  • 政治(円寿丸)
養子
  • 浅井井頼(政信 / 政賢 / 政春 / 政堅 / 長房)

家臣

脚注

  1. ^ 正室のお市との間の子とされるが、平井定武の娘が生母ともいわれている。
  2. ^ 『浅井氏家譜大成』を根拠として、一説に娘の茶々は正室のお市が嫁ぐ前に生まれたともいわれ、長政の実子ではないという説がある。
  3. ^ 名字および所領地名の「浅井」の読みは、以前は「あさい」が一般的であったが、現在は「あい」が正しいとされている。ただ、最新の研究では、やはり「あさい」が正しいという学説もある(宮島敬一著『浅井氏三代』参照)
  4. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」『駒沢史学』80号。
  5. ^ 『信長公記』によれば市は信長の「娘分」として長政に嫁いだという。また、逸話によると遠藤直経は、お市との婚姻の際に信長を暗殺する計画を長政に提案したという。
  6. ^ このとき信長の一字を拝領し長政と改名したという説がある。しかし、疑問点もあり、はっきりした事は分かっていない
  7. ^ なお、長政と市の婚姻時期について『信長公記』では永禄11年としているが、『浅井三代記』では永禄7年(1564年)となっている。市は天文16年出生とされ永禄11年時の婚姻では初婚としては遅い20代前半にあたることから市の出生年代や婚姻時期の誤り、初婚でない可能性も考えられており、北近江をめぐる地域情勢から婚姻を永禄4年段階とする説もある(太田浩司「北近江の戦国史」『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』)
  8. ^ 和田惟政が三雲定持に宛てた書状に「浅井備前守と信長の縁辺(婚姻)、入眼候…」とあることから、近江国矢島の和田惟政の元にいた覚慶(足利義昭)が、上洛を目指すために織田と浅井の婚姻を結ばせたとする(高澤等『新・信長公記』)
  9. ^ 『安芸毛利元就宛覚書』(毛利家文書)に「浅井備前守別心易色之由、帰洛之途中へ告来候」とあることを根拠に浅井氏挙兵は凱旋途中にその報を受けたとする(高澤等『新・信長公記』)

 


六角氏

2013年07月08日 | 武将

六角氏

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六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族の1つ。宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。なお、藤原北家流の公家六角家とは血のつながりは無い。

概要

近江源氏と呼ばれた佐々木氏の四家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。六角氏と名乗ったのは、京都の六角堂に屋敷を構えたからだと言われている。

鎌倉時代、佐々木氏は承久の乱で一族の多くが宮方に属した前歴もあって、鎌倉幕府から特に警戒されていた。佐々木信綱の死後、所領の多くは3男の泰綱が受け継ぐはずであったが、廃嫡された長男の重綱の訴えを幕府が容れたため、領土は兄弟で四分され、重綱と次男の高信、末子の氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となった。泰綱の子孫である六角氏が佐々木氏の嫡流であることは変わりはなかったが、その勢力は大きく減退することになる。鎌倉幕府の滅亡時は、六角時信は六波羅探題に最後まで味方したが敗れ降伏している。

同族である京極氏とは、佐々木道誉の代で台頭した室町時代以降敵対し、近江の覇権をめぐって争った。また、領内に比叡山が存在することもあって、室町時代を通じてその支配は安定せず、六角満綱・持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱の弟で後を継いだ久頼は京極持清との対立の末に心労により自害して果てている。

久頼の跡を継いだ六角高頼は応仁の乱では西軍に属し、持清と共に東軍についた従兄の政堯と戦い、長享元年(1487年)には9代将軍足利義尚、10代将軍足利義稙から討伐を受ける(長享・延徳の乱)。高頼はこの侵攻を2度に亘り跳ねのけ、守護代である伊庭氏との対立にも勝利し、六角氏の戦国大名化をなしとげた。ただし通説の久頼の没年が高頼の生前になってしまうため、久頼-高頼間に1世代あるとする立場もあり、佐々木哲は古文書に見える六角政頼をその間に置くべきとする。

戦国時代に入ると六角定頼(高頼の次男)が登場する。定頼は足利将軍家の管領代となり、近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、六角氏の最盛期を創出した。伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼしたとされる。しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においては、永禄3年(1560年)に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せはじめる。義賢の嫡男義治(義弼)の代においては永禄6年(1563年)に重臣中の重臣であった後藤賢豊父子を殺害して、六角家の内紛となる観音寺騒動が起こし、六角式目への署名を余儀なくされるなど、六角氏の弱体化は明らかとなった。このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去ることになる(観音寺城の戦い)。

その後、義賢と義治は甲賀郡の石部城に拠点を移し、信長に対してゲリラ的に抵抗したが、次第に歴史の表舞台から遠ざかることとなった。                     しかし本能寺の変頃までは弱小勢力ながら近江で活動していたようである。後に豊臣秀吉あるいは豊臣秀次によって家臣にとりたてられたという。

義治の婿養子・定治は豊臣氏・蒲生氏を経て前田氏に仕え、江戸時代には加賀藩士の佐々木家として1,000石となり、子孫が加増され2,100石で幕末に至った。義治の弟義定(観音寺騒動の後に義治に当主の座を譲られたと家伝にあるが、異説もある)の子孫も江戸幕府の旗本となった。こちらも本苗の佐々木氏を名乗っている。しかし義定の曾孫・求馬定賢が若年で死去し絶家となった。

義治の弟高一は織田信雄の家臣となり、その子正勝は生駒氏を称し、大和宇陀松山藩織田家の重臣となった。子孫は丹波柏原藩織田家に仕えた。

以上が従来の通説であるが、江戸時代に記された江源武鑑では、定頼の系統は六角氏庶家の箕作氏で陣代にすぎず、氏綱(高頼の嫡男で定頼の兄)の子義実系統が嫡流であるとしている。この書物では豊臣秀吉が氏綱の子義秀に仕えて偏諱を受けたことや、氏綱の子義郷が豊臣姓と侍従の官を授かった12万石の大名となった等と書かれており、寛政重修諸家譜の山岡氏系図などに引用されている。しかし、この書物は沢田源内という人物が書いた偽書であるとされており、同時代史料にこの系統の実在を裏付けるものは発見されていないこともあり、佐々木哲等の在野の歴史家を除いては支持されていない。

六角氏の一族

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

  • 寛政重修諸家譜』『系図纂要』『石川県姓氏歴史人物大辞典』に拠る。ただし室町後期から戦国時代にかけての系図は諸説ある。
                  佐々木信綱
        ┏━━━━━┳━━━━━╋━━━━━┓
       大原重綱  高島高信  六角泰綱  京極氏信
                    ┃
                    頼綱
 ┏━━━┳━━━━━┳━━┳━━┳━━┫
 頼明 宗信(宗継) 成綱 宗綱 時綱 時信
              ┃     ┣━━━┓
             森川宗春   氏頼 山内信詮(建部信詮)
                    ┣━━━┓
                    満高  義信
                    ┃
                    満綱
            ┏━━━┳━━━┫
            持綱  時綱  久頼
            ┃   ┃   ┃
            政信  政堯  高頼
                ┏━━━╋━━━━┳━━━━━┓
                氏綱  定頼  大原高保  梅戸高実
                    ┃    |
                    義賢   賢永
                    ┣━━━━━━━━━┓
                    義治(義弼)    義定(高定、賢永)
                    |   ┏━━━━━┫
                    定治  高賢    高和
                    ┃   ┃     ┣━━━━━┓
                    定之  高守(定治)高重(義忠)高慶
                    ┣━━━┓     ┃
                    定賢  定保    定賢
                    ┃
                    定明
                    ┃
                    定国
                    ┃
                    定則
                    ┃
                    定正
                    ┃
                   温二郎
  • 『寛永諸家系図伝』では、頼綱の跡は子・宗信(宗継)で、宗信から成綱・宗綱と直系で続き、成綱弟・時信へ至る。『寛政重修諸家譜』は事蹟の年代などから上記のように考証・修正している。

 

六角氏の主要家臣

室町時代

  • 山内氏(佐々木氏流)
    • 山内信詮
    • 山内政綱
    • 山内就綱
  • 伊庭氏
    • 伊庭満隆
    • 伊庭貞隆
    • 伊庭貞説

戦国時代

分国法

参考文献

(佐々木哲は高頼の父を政勝、高頼以降は氏綱の直系を正嫡、定頼系を陣代とする見解に立つ)

関連項目


旧近江国の出身の武将 関ヶ原の戦い

2013年06月23日 | 武将
  • 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

滋賀県出身の人物一覧は、Wikipedia 日本語版に記事が存在する滋賀県出身の人物の一覧表である。旧近江国の出身者も合わせて記述する。

関ヶ原の戦い
東軍
西軍

 


戦国武将明智光秀が近江の土豪に送った書状

2013年05月20日 | 武将

光秀の書状、旧家で発見 安土城考古博で初公開

明智光秀が奥村源内に送った書状。紙を折って書いているため、写真では、光秀の花押がある手紙の後半と、「明十兵光秀」と記された包紙(右)は逆に写っている=安土城考古博物館提供
明智光秀が奥村源内に送った書状。紙を折って書いているため、写真では、光秀の花押がある手紙の後半と、「明十兵光秀」と記された包紙(右)は逆に写っている=安土城考古博物館提供

 戦国武将明智光秀が近江の土豪に送った書状が滋賀県近江八幡市内の旧家から見つかり、同市安土町下豊浦の安土城考古博物館で18日から初公開される。同館は「光秀が出した文書は現存数が少なく貴重」と話している。

 書状は、志賀郡(現大津市)を支配していた光秀が湖南地域の土豪奥村源内に送った。四つの村の間で起きた船役をめぐる訴訟について事情を尋ねている。さらに、奥村が戦で手柄を立てたことを「浦山敷候(うらやましい)」と記している。

 文末に「六月四日」と日付があり、光秀の花押もある。書状の包紙には「明十兵光秀」と記されており、1571(元亀2)年~75(天正3)年の間に出したとみられる。

 書状は安土城考古博物館と近江八幡市市史編纂(へんさん)室が市内の旧家で発見した。戦国時代―安土桃山時代の他の文書9点と一緒に帖(折り本)に貼られていた。

 光秀は1582年に織田信長を討った「本能寺の変」で知られる。逆賊とされたため、光秀が出した文書は残りにくく、全国でも書状や禁制(きんぜい)など117点しか確認されていない。

 展示は6月16日まで。月曜休館。午前9時~午後5時。400円。

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


目加田清綱 (*)(佐々木)・摂津守。比牟礼八幡宮神職。六角義賢の代の当主

2013年05月12日 | 武将

目賀田* (*)(佐々木)。南北朝期。南近江守護代。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。分家に三井氏。>

目加田清綱 (*)(佐々木)・摂津守。比牟礼八幡宮神職。六角義賢の代の当主。事績不明。<後藤氏の被官・杉山藤八に追われ比牟礼八幡宮神職を奪われる。>

義峨* (*)(佐々木)。南近江守護代。<メガとかギガとか・・。><のちの蒲生家臣に儀峨忠兵衛あり。>