城郭探訪

yamaziro

丸山城   近江国(竜王)

2016年05月26日 | 丘陵城

丸山城

お城のデータ
所在地:蒲生郡竜王町岡屋  map:http://yahoo.jp/NWqAW3
現 状:林+笹地+畑地
区 分:丘陵城
築城期:
築城者:
遺 構:土塁痕か
目標地:県道165号線の岡屋の信号
駐車場:農道に路上駐車
訪城日:2016.5.22
お城の概要
 滋賀県道165号線の岡屋の信号の東に「DAIHATU」の看板が見える。
県道の西は祖父川(水口春日~甲西下田~竜王町岡屋~西川で日野川へ)が流れる。
「DAIHATU」滋賀竜王町工場の西端の位置しているが、笹竹(矢竹)で踏み込めず。一部土塁痕が残るが、全容を把握できず。 
お城の歴史
詳細不明
           


田んぼの真ん中に林山の神が祀られているとうだが  近畿地方の農耕儀礼、とくに稲作の祭には、米や農作物で象った人形(ひとがた)を供物として神に供えるものがある。そして、これらの祭には、たいていその由来として、昔「人身御供」の風習があって、今は、その代りに人形の供物を供えているのだ、といういわゆる「人身御供譚」が伝承されている。いったい、「人身御供」の代りに人形を供えるとは、どういうことなのだろうか。

 民俗学では、この人形御供についてほとんど議論されていないというのが現状である。民俗学においては、人形(ひとがた)といえば、もっぱら、災いや穢れを祓う道具として扱われてきたからだ。例えば、『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)の「人形」の項には、「災いや穢れを祓うために、人の身代わりとしてつくられた人体を模したもの。紙などの人形を身体の上でなでまわして、人の受けた災いや穢れを背負わせてから流したり焼いたりして災厄を除く。」と定義されるのみである。
      丸山城・・・遠景(山の神)より
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4、
本日の訪問ありがとうございす!! 

下田城/下田館 近江国(甲西)

2016年05月25日 | 丘陵城

下田城

 

お城のデータ
所在地:湖南市(旧:甲賀郡甲西町)下田 map: http://yahoo.jp/3sQyRL
現 状:竹林+寺地+畑地
区 分:丘陵城
築城期:室町期
築城者:
遺 構:廓(敷割り)・土塁・切岸・腰廓・竪掘・物見櫓
目標地:慶圓寺
駐車場:慶圓寺の駐車場を利用
訪城日:2016.5.23
お城の概要
 慶圓寺の南側丘陵の竹藪に城郭遺構が残る、タケノコの竹林に整備され改変はあるが、敷割りや土塁・切岸・腰廓・竪掘残る。また畑地にはなっているが廓跡みられる。
お城の歴史
詳細不明だが、慶圓寺の南側丘陵の頂部に日枝神社のお旅所がある。
 応永年間に、下田村が開拓された時、日吉大神の御分神を祀ったと伝えられ、当時の鎮座地は当所の慶圓寺近くにあった。寛文年間の甲賀郡々代藤原宣一興清浄な丘陵であった。
    応永年間に、下田村が開拓された時、日吉大神の御分神を祀ったと伝えられ、当時の鎮座地は当所の慶圓寺近くにあった。寛文年間の甲賀郡々代藤原宣一興清浄な丘陵であった。
        
                           
下田館
お城のデータ
所在地:湖南市(旧:甲賀郡甲西町)下田 map: http://yahoo.jp/bOEesc
現 状:寺院
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:
遺 構:土塁
目標地:慶圓寺
駐車場:慶圓寺の駐車場を利用
訪城日:2016.5.23
お城の概要
 下田の町は中央を南東から北西に向かって祖父川が流れる。また、下田館(慶圓寺)も丘陵部に位置する。
応永年間(1394~1427)に、下田村が開拓された時
お城の歴史
詳細不明
              

南東から北西に向かって祖父川が流れる。
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・2(甲賀の城)・10、『後法興院記』、遺跡ウォーカー
  本日の訪問ありがとうございす!! 

中村城     近江国(栗東市)

2016年05月20日 | 丘陵城

中村

  

お城のデータ
所在地:滋賀県栗東市御園  map: http://yahoo.jp/9nBHfj
現 状:寺院跡
区 分:丘陵城
築城期:室町期~鎌倉期
築城者:中村次郎八
遺 構:旧善勝寺跡の背後の切岸・石段の横の城道
標高:153m  比高差:13m
目標地:覚圓寺・平和堂フレンドマート御園店
駐車場:覚圓寺・平和堂フレンドマート御園店(駐車場あり)
訪城日:2016.5.19
お城の概要
滋賀県中世城郭分布調査3(旧野洲・栗太郡の城)では、中村城は、「石取りで山ごと消滅と思われる」と記す。
が 旧善勝寺跡(近年(=2007年6月は残存してた)焼失したか=yahoo mapの航空写真には残存する)の裏山は、6m程登ると、平削されグランドに整備されいた。
裏山への斜面(土塁・切岸)には、石仏が配され、歴代住職の墓地も残存する。また、 旧善勝寺跡の庭園・池・石仏群が残存した。
城郭遺構は、裏山斜面の土塁・切岸や南側に小平削地(廓跡か?)残る
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗太郡 中村住 中村次郎八」の名が見える。が詳細不明。
          
善勝寺の千手観音立像   栗東市御園
 浄土宗寺院善勝寺(御園)の本尊千手観音立像は、平安時代11世紀初めごろの作で、中央の顔の左右にさらに顔をあらわすという、日本で数例しか知られない珍しい姿をしています。こういった姿は天台宗にゆかりをもつと考えられます。それにしてもなぜ、浄土宗のお寺に天台宗に関わる本尊がまつられているのでしょうか
 栗東の金勝寺周辺は、奈良時代以来、奈良の仏教界と深いつながりを持ってきました。比叡山を中心とする天台宗が広まり始めるのは平安時代半ばのことです。11世紀半ばに編さんされた『本朝法華験記』には、金勝寺の二人の僧が、天台宗で重視される法華経を信仰して往生を遂げた話が載せられています。また12世紀半ばの1142年に造られた金胎寺(荒張)の本尊阿弥陀如来坐像には、浄土の教主である阿弥陀如来に結縁するため、像の内側に40人ほどが名を記しています。やがて比叡山で学んだ法然が浄宗の開祖となるように、もともと浄土の教えは、天台から派生していったものです。そして平安時代後期には栗東にも確実に天台浄土教が広まっていました。
 金勝地域の浄土宗寺院の中心となる阿弥陀寺(東坂)は、室町時代に隆堯(1369~1449)によって開かれました。隆堯は念仏を広めるため多くの書物をあらわしましたが、その中で自らを「天台沙門(=天台の僧侶)」と記しています。天台と浄土の教えは、かつては今よりずっと連続的なものととらえられていたのです。
 ところが江戸時代になると、寺院は一つの宗派に属すよう定められ、歴史的に天台、浄土にまたがる性格を持つ寺々も、天台宗あるいは浄土宗へと分かれていきました。
 冒頭に紹介した善勝寺の本尊千手観音立像は、かつて善勝寺が天台色の濃い寺院だったころの歴史を今に伝えているのです。
(「りっとう再発見」27 『広報りっとう』821号(2007年6月号)掲載)
背後の裏山5m程へ
 頂部平坦地はグランドに
土塁・切

岸の斜面の石仏群(寺院遺構か?)           歴代住職の墓地?  

崖崩れ防止工事中       
寺院庭園址 瓦・火鉢類 石仏群 
井戸

・池  

 下りの石段
石段横の城道

    覚圓寺   本堂

 
覚圓寺の裏に駐車した。


御園の歴史と文化
金勝中村上山依村合絵図

 栗東市御園(みその)地区は、金勝川と細川の流域に広がる平野部とその周辺の丘陵地に位置します。地区内は明治7年(1874)に成立した旧御園村域に相当する古くからの集落がある地域と、昭和44年(1969)に開場した栗東トレーニングセンターの敷地にあたる地域の二つにわけることができます。
 旧御園村域には、中村、山入、蔵町、辻越、上田、御園の6つの集落があり、江戸時代は金勝中村(こんぜなかむら:中村、山入、蔵町)と上山依村(かざまわりむら:辻越、上田、御園)の二村に分かれていました。御園村はこの二村が明治7年に合併して成立しています。
 御園村が成立した背景には、もともと上山依村に属していた山入が、江戸時代初期に行われた村界決定の際、金勝中村へ入れられたという事情があります。しかし、行政上金勝中村となったといっても、水利や祭りといった日々の暮らしにおいて山入と上山依村との関係は切り離せないものでした。明治に入ると、山入、上山依村は何事も「一村同様」のように付き合ってきたため、山入が金勝中村から分村し、上山依村へ合村したいと訴えました。
 江戸幕府によって区切られた村と、実際に暮らしていた人びとのつながりにずれが生じたことによるこの問題も、金勝中村と上山依村がひとつになり、御園村の誕生によって解決しました。このとき上山依村が主張した「両上山依」という日々の暮らしに直結した集落同士のつながりは、現在でも生きています。御園地区では、このような小集落同士のまとまりがさまざまな場面で機能しており、これが御園地区の特徴となっています。
 また、日本中央競馬会栗東トレーニングセンターの開場は、ここに移住してきた中京競馬場や阪神競馬場関係者によって、御園地区を含む金勝地区に都市的な生活スタイルをもたらしたのです。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3(旧野洲・栗太郡の城)、江州佐々木南北諸氏帳、御園の歴史と文化(栗東歴史民俗博物館HPより)

本日の訪問ありがとうございす!!


一の瀬城 近江国(多賀)

2016年05月05日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:犬上群多賀町一の瀬 郭1map:http://yahoo.jp/D54LFv

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:

築城者:一ノ瀬氏

遺 構 :土塁、竪堀、畝状竪堀、虎口、井戸

標 高:264m  比高差:50m

目標地:一ノ瀬草の根ハウス

駐車場:北城登り口の空地

訪城日:2016.5.5

お城の概要

一ノ瀬城は、一の瀬集落から南東の仏ヶ後に向かう道の切通しあたり、即ち犬上川が歪曲するところの舌状山地にある。この城は道で分断されているが、犬上川の流れを大きな堀濠状に利用した城と考える。その為か川との反対側の防御が全く無い。東側に土塁とその斜面の竪堀を巡らし、更に犬上川の流れを取り込んだ堅固さで、山麓館や集落の詰め城の役割か?。

 犬上川上流の仏ヶ後集落を結ぶ道は旧・新の二本あり、城を三つに分断している。南・中・北に分かれ、南と中は旧道で分断され、土塁や竪堀が部分的に残るが・・・?

 北城は、関電の鉄塔管理道登り、鉄塔部分は、破壊が激しく不明だが、その奥に城郭遺構が残存する、北遺構は、西側中央に向かってすり鉢状に落ち込み、その底部に虎口状遺構が残る。その上部の南側と東側半分程に帯状の削平地と土塁が取り巻き、外側斜面には畝状に竪堀が穿たれている。北側に削り残した土塁と斜面の廓部も斜面で未完成のまま。東頂部に平坦地が在り物見櫓か、また、東に延びる尾根は長土塁に削り出され尾根巾無く、犬上川向かって畝状竪堀が残る。

この城は、東側と南側に土塁や竪堀が配置され、一ノ瀬集落側には認められず、南側と東側が防御正面と見られる。

 北城の北に段廓のように、小規模の削平地と井戸が残る、山麓屋形か?(関電の鉄塔管理道を登らず、特進する}

お城の歴史

『淡海国木間攫』には、犬上郡 一之瀬村 当所ニ一ノ瀬氏居城アリシト云、山ニ城アリシト俗云フ、未其人知ラズ、後ニ苗字ヲ替タル猶追考記置ベキモノ也、民族盆中ノ躍歌ニ おどらハ踊れ勇んでどれ一の瀬殿の見御座る と記す。

『近江温故録』の一之瀬の項に、「此辺ニ城山アリテ一之瀬ハ本丸也ト云フ城主ヲ知ラス盆ノ躍歌ニ (をどらハをどれ勇んでをどれ一の瀬殿の見ござる) ト今ニ此処ノ民間ウタヒ来レリ然レハ一ノ瀬氏アリト見ユ・・・・」

あり、一ノ瀬に城のあったこと、城主に一ノ瀬氏であったことをうかがえる。一ノ瀬氏の居城とも。

一向宗の砦とも云われ、詳細は不明である。


北城へ・・・カーブミラーに横の駐車空地(関電鉄塔管理道登り口)

地デジアンテナ塔

北側山麓廓へ

林道の反対側の中城へ

中城と南城の間の旧道の切通し

南城南城を旧道入り口から


一ノ瀬草の根ハウス

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(旧・犬上・愛知郡の城)

 本日の訪問ありがとうございす!!

 


仮称)中山城 近江国(日野)

2016年03月29日 | 丘陵城

お城のデータ 

所在地:蒲生郡日野町中山西谷  map:http://yahoo.jp/F71HYy

現 状:山林

遺 構:廓・土塁・

区 分:丘陵城(関氏の詰め城か?)

築城期:織豊期

築城者:蒲生氏の家臣 関一政?(光明院に蒲生一族の墓石)

遺 構:廓・土塁・切岸

目標地:光明院・中山西会議所

駐車場:中山西会議所に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要
日野中山西集落の光明院の東側丘陵上(境内か?)綺麗清掃され、今は珍しい半鐘塔が建っている。

その丘陵への登り道を進むと竹藪がある、中でシイタケ栽培をされているが、南側は削り残した土塁・東側を削り込んだ平削地、北側は切岸状で10m×10mの廓が残存する。綺麗清掃され舌城の西側丘陵も城郭遺構か?

また、光明院には「蒲生一族の墓石」が残る。

お城の歴史

蒲生氏郷は、・・・その後は清州会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、氏郷自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた

蒲生氏の家臣 関一政 (?~1625年)

 関盛信の子。天正十年末、蒲生氏郷は布施忠兵衛に嫁いでいた妹を離縁させ、関一政に嫁がせた。天正十一年、伊勢亀山城主。天正十二年、織田信雄と戦う。同年、蒲生氏郷から一万石を賜る。天正十八年、韮山城攻めに参加。同年十月、白河城四万八千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。慶長三年、蒲生家から独立し、信州川中島三万石。慶長五年、関ヶ原合戦で西軍に属し、竹中重門と共に東軍の犬山城を攻める。竹中重門が東軍に寝返る際、その説得を受けて共に寝返る。慶長十五年七月、伯耆黒坂五万石。慶長十九年、大坂冬の陣に参戦。家臣同士の争いが起きた事から改易される。寛永二年十月二十日没。甥氏盛が跡を継ぐ

 関氏盛 (?~1674年)

   関盛吉の子。伯父一政の跡を継ぐ。安芸守。近江蒲生郡五千石。幕府寄合衆となる

廓内に墓石


中山西集落

光明院参道

蒲生氏の墓石

参考資料:光明院説明板、蒲生氏の家臣団

 本日の訪問ありがとうございす!!


佐生日吉城(佐野山城・佐生城) 近江国(能登川)

2016年03月07日 | 丘陵城

 

 ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

  後藤氏館 佐生日吉城 北向観音 仮称)伊庭山城 仮称)北須田山城 仮称)石馬山城 見学会に参加

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡)五個荘町下日吉~佐野町  map:http://yahoo.jp/88pj-6

別 称:佐野山城・佐生城

区 分:丘陵城

現 状:山林

遺 構:曲廓・土塁・堀・石垣・虎口・竪堀・城跡碑・案内板

築城期:室町期

築城者:後藤氏

標 高:160m 比高差:60m

目標地:北向観音又は佐生町佐生橋

駐車場:佐生橋の空地

訪問日:2016.2.20

お城の概要

基本的には単郭の城が。但し、石垣の城で、主郭の南側に高さ3m程度で30mほどと西側に2カ所に10mほど、

 東側に虎口の大石の石垣が残ります。南西隅は算木積みもしっかりとした石垣です。

主郭には後藤氏の御子孫が建てられた城址碑があります。

城址碑は南側山麓の日吉神社の横(旧五箇荘町側)にもあり、「佐野山城址碑」と刻まれています。

佐生城は六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊の居城で、観音寺城が築かれている繖山の南東尾根の先端、比高約60mほどの尾根上に築かれており、観音寺城の東端の防御拠点であるともいえる。
 地形的には、繖山に沿って東西に流れていた瓜生川が、山塊がとぎれるこの地点で流れを北に変える。この地形を利用して、南側と東側は瓜生川が堀の役目を果たしている。

 大手道は東近江市佐生町の瓜生川に掛かる新浄土橋南側から登るルートで、約15分ほどで佐生城に至る。
もう一つのルートは能登川高校の前から北向十一面岩屋観音への石段下まで車で乗り付け、案内板に沿って尾根を東に下れば10分足らずで佐生城に至る。こちらが搦手道で、北向岩屋観音から尾根を西に登れば地獄越えを経て観音寺城の沢田邸に至る。

 佐生城は35m×25mほどの主曲輪を中心に北の支尾根に2段、主曲輪東側にも曲輪を配している。曲輪の削平状態はお世辞にも良いとはいえないが、主曲輪西面と南面には石垣が積まれている。
 特に西面の石垣は巨石を4mほどの高さに積み上げ、隅角は算木積みがなされ、スケールや技法的にも観音寺城の石垣と比較しても遜色がない。
ただ、長さ35mほどにわたって築かれた石垣は山の地形に沿って湾曲しており、また曲輪の削平状態からも本格的な城つくりがされているとはいい難い。
 主曲輪の西と東には平虎口が設けられ、主曲輪西側と南側には1mほどの低土塁が確認できる。

お城の歴史

観音寺城の支城。 六角氏の重臣後藤氏が城主の城ですが築城時期は定かではありません。永禄六年(1563年)に後藤堅豊親子が六角義弼に謀殺された事に端を発した観音寺騒動が起こっています。

佐生城は中羽田に後藤氏館(居館)を構えていた六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊の居城であるが、築城時期は定かではない。

 後藤氏は代々六角氏の宿老を勤めた一族で、進藤氏とともに“六角氏の両藤”と呼ばれて重用されたが、永禄6年(1563)六角義賢(六角承禎)から家督を継いだ当時18歳の六角義治(後の義弼)は、ことごとく義治の采配を批判する執権・後藤但馬守賢豊の存在が邪魔になり、種村三河守、建部日向守等に命じて嫡男の又三郎と共に誅殺させた。

 義治の理由なき後藤父子の誅殺を進藤、目賀田、三井、馬淵、楢崎、伊庭、平井、永原、池田、横山、三雲、木戸、荒井など六角家の主だった家臣達は批判し、後藤父子と最も親しかった永田景弘、三上恒安、池田秀雄、平井定武、進藤賢盛らの5人は、対立していた江小谷城の浅井氏の援助を得て、観音寺城のある撒山を囲み、城へ攻め上った。

 手勢わずか三百余の義治は観音寺城を支えきれず、蒲生賢秀を頼って日野中野城に落ちのび、後藤氏とも縁城関係のあった蒲生賢秀の斡旋で和議が成立した。
 和議にあたって出された条件によって義治は隠居し、六角氏の家督を弟高盛(承禎次男・義定)が相続、更に「六角氏式目」に署名して、六角氏の当主としての権限の縮小を余儀なくされた。
 後藤氏は賢豊の家督を次男高治が継ぎ、旧領を回復した。

 これを観音寺騒動(後藤兵乱)といい、この兵乱を機に六角氏内部の団結は瓦解し、5年後の永禄11年(1568)には織田信長の入洛を阻止することができず、六角氏は没落していくことになる。

 六角氏が織田信長に滅ぼされた後、後藤氏は蒲生氏に仕えた。なお、この観音寺騒動によって浅井長政は漁夫の利を得て、労せずして愛知川北岸までの支配権を得ることになる。

 クリックすると拡大します

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会資料、『ウィキペディア(Wikipedia)』 

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 

 


滝川城 近江国(甲賀・甲賀)

2016年02月20日 | 丘陵城

前堀・・・櫟野川 

お城のデータ

別 称:五反田城 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町油日~檪野  map:
区 分:丘城 

標 高:   比高差:20m 
現 状:山林

遺 構:曲廓・土塁・説明板
築城期:室町期

築城者:滝川氏 
目標地:檪野寺

駐車場:檪野寺参拝者用駐車場

甲賀市市史跡
訪城日:2016.2.14


お城の概要

 城跡は尾根先端を削り込んで作られ、基本は甲賀の典型的な単郭方形の城ですが、主郭西側の堀切から帯郭状廓、東側のにも副郭のような削平地がある。主郭南側が櫓台になっていたのか高い土塁が残る。この南側土塁下に低い土塁で囲まれた池がある。高い南側土塁の外側は深い堀切が明瞭に残ります。なお、城の西側には滝川西城、北側400m先には滝川支城がある。

山の神

お城の歴史

滝川一益が居城したことから滝川城と呼ばれ、またこの地の名称から五反田城とも伝えられます。滝川一益は甲賀大原庄に生まれ、16才まで在住した後、織田信長の配下に加わりました。石山本願寺攻めや伊勢長島一揆鎮圧などに武勇を上げ、信長四天王のひとりとして数えられました。後には関東一円を支配する管領となりますが、元亀元年(1570年)に信長の近江守護六角氏追討と六角氏支援の甲賀武士を攻める大将とされ、故郷の親類・同胞を攻めることとなり、戦国時代の世の下克上と悲話を物語る城跡です。 <現地案内板より 甲賀町教育委員会>

大原荘の東部、櫟野一帯に蟠踞(ばんきょ)した滝川一族の本拠、『近江與地志略』に「瀧川氏居城の跡なりといふ」と見える。

東側の瀧川城が滝川氏の本城と伝わる。

市指定史跡。

一族から出て織田氏の重臣として活躍した滝川一益(かずます)のゆかりの城としても知られる。織田信長の四天王と称され、特に伊勢平定や関東進出に絶大な貢献をした滝川一益を輩出した滝川氏の本城と伝えられる。瀧川城は檪野川南岸の丘陵に所在し、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられる。

1570年織田氏の六角氏追討戦で一益の同胞の甲賀武士は瀧川城に籠城し、六角氏に味方した為、瀧川一益が甲賀武士を攻める大将として選ばれ、親族同胞と戦い瀧川城を落城させ甲賀武士団を壊滅させた。瀧川城は、戦国の世の習いを語り継ぐ悲話の城である。

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系

 本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


戦国時代の甲賀~油日館・油日神社・滝川城・擽野寺

2016年02月16日 | 丘陵城

連続講座「近江の城郭」第4回 戦国時代の甲賀~上野城・滝川城

 甲賀地方は近江国の南東部に位置し、奥まった場所だったこともあって、守護六角氏の権力からは自立した勢力が展開した地域です。甲賀の人々は甲賀郡中惣と呼ばれる自治集団を組織し、自分たちの暮らす場所を自分たちで守り、経営していました。

こうした甲賀地方には約250ヶ所の城跡が残ります。この数字は、突出した権力が存在せず、人々が連合していたことを示しています。

今回の講座では、甲賀地方の城として上野城跡と滝川城跡を文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

油日会館での講座から、参加しました!

講義:油日会館(甲賀市甲賀町油日2522)

現地見学:上野城跡・滝川城跡(甲賀市甲賀町油日・櫟野)

油日館

油日神社見学

滝川城へ

前堀・・・櫟野川山の神

櫟野寺参拝

擽野寺十一面観音坐像パンフレットをコピー

擽野寺如来菩薩坐像パンフレットをコピー

滝川西城

 日時 平成28年2月14日(日) 10:00~16:30

  場所 講義:油日会館(甲賀市甲賀町油日2522)

現地見学:上野城跡・滝川城跡(甲賀市甲賀町油日・櫟野)

3.行程 JR油日駅→上野城跡→油日会館(講義・昼食)→油日神社→滝川城跡→櫟野寺特別拝観→極楽寺→JR油日駅

 全行程約10km ※山登りあり

主催 滋賀県教育委員会 協力 甲賀市教育委員会

講師 講義「戦国時代の甲賀」 畑中英二(滋賀県教育委員会文化財保護課)

      現地探訪 甲賀市教育委員会歴史文化財課専門職員

櫟野寺特別拝観料450円が必要

 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係

  〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所


今郷城(おばん城)    近江国(水口)

2016年02月15日 | 丘陵城

踏査図・・・中井 均氏

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)水口町今郷町 map:http://yahoo.jp/fMlJzn

目標地:丘陵下の新道・・御城山の土山マラソン標識・甲賀市土山 オー・デュ・プール

別 称:おばん城

区 分:丘城 

標 高:215m  比高差:10m 

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀・土橋

築城期:室町期

築城者:嶬峨氏・大野氏か?

駐車場:丘陵にため池の手前に駐車可

訪城日:2016.2.3

中世城館 おばん城址(今郷城)

お城の概要

東海道土山宿と水口宿の中間【現在では、土山町と水口町の境】の丘陵、城はあった。丘陵の森の中に鉄塔が建つ、北から鉄塔で東に送電線がⅬ字敷かれている。この鉄塔が主郭に建つ!

 丘陵下の県道182号線添い。国道1号線と平行道、水口町今郷と土山町大野の境に丘陵に鉄塔が見えます。この鉄塔が主郭、貯水池の東側が城跡です。

地元の有志が整備しているが、東側の一部が未整備

甲賀郡今郷村地券総絵図(明治12年)今在家村と小里村が合併して今郷村に

お城の歴史

  • 近江興地史略(享保19年3月15日(1734))に、「今郷城 水口地帯となる。井戸、濠残る」とある。
  • 甲賀郡志・・大正15年(1926)6月10日に「城址 大野村大字今郷、大字大野元標より12町を距つる北方字「おばん」の高地にあり。東方なるは東西30間南北25間を有し築堤尚在し高1間半乃至り2間、南隅に2個の古井あり、雑草汚水の中に生じ深さ2尺余あり。北方に濠跡、1間半乃至2間を在す。また西方に方20間の城址あり出丸の如し。その西は断崖にして高さ18間余その下は即ち周濠にして今は耕地となる。南方は総て断崖を削るが如く濠跡は現時溝と相連り田用水となる。東跡は雑樹灌奔業生し西跡は開墾して畑地となす。」と記す。
  • 私たちの今郷・・・昭和55年(1980)9月 今郷の北のおばん、小字の名、姥が淵の高台に東西2地区に分かれて城址があって、東の方は面積二反、高さ2間の築堤がり、西方は一反の広さでありました。だれの城か不明です。元弘・建武(1331~1336)のころ、嶬峨氏の城か、または甲賀武士大野中務入道が永享年間(1429~1441)大野城へ移る前に住んでいた城とも言われています。
  •  甲賀市史【第七巻】甲賀の城(P475)に、188今郷城(今郷小字崩谷) 丘陵・曲廓・土塁・堀 良好 山林 「城址」(郡志)。今郷集落の北方丘陵上にあり。3方土塁で囲まれた方形城館・・・とある

 

現地解説の安土城考古博物館の細川学芸課長

鉄塔のヘンスの中にも土塁

未整備の空堀

中世の城館跡みつかる 城密集地、専門家驚き「まだあった」 産経新聞 2014.4.18

 中世(16世紀頃)の城館跡とみられる土塁や堀が、甲賀市水口町今郷(いまごう)の小高い山の中でみつかった。地元で郷土史の研究やまちおこしを手がけるグループ「今郷好日会」が発見し、方形の土塁などの特徴から、中世城郭に詳しい中井均・県立大人間文化学部教授は「今郷城」跡とみる。戦国時代の甲賀市域は全国屈指の城密集地域で、メンバーらは「地域活性化につながる観光資源として生かしたい」と話している。

 中世の近江国は1300の城があったとされる。このうち甲賀市では約200の城跡が確認され、今郷地区にも、中世の城館「今郷城」があったと言い伝えられるが、どこに誰が造ったかなどは分かっていない。推定地はあったが場所の特定には至っていない。

 このため、同会が昨年2月、推定地周辺の丘陵地を調べたところ、人工的に掘られた溝や土塁のようなものを発見した。

 そして今月3日、中井教授とともに現地を調査。この結果、高さ6メートルの土塁が1辺30メートルの長さで方形に巡らされ、その周囲には幅2~3メートルの堀が築かれていたことが分かった。一部は、送電線の鉄塔が建ち、破壊されていた。

 中井教授によると、方形に巡らされた土塁の形は「単郭方形」と呼ばれ、甲賀地域で多くみられる中世城館の構造。土塁の内側には、集落を治めた地侍(甲賀衆)らの居館が建ち、有事の際は住民を避難させる場所として使われたとみられる。

 中井教授は「市内の城館跡は調査し尽くされたと考えていたので、『まだあったのか』と驚いた。元々は集落を守るために築かれた城。今度は地域の人々の手で大切に守ってほしい」と話している。

 今郷好日会は、平成22年に今郷地区の住民らで結成。市の補助を受け、現在21人が史跡調査をはじめ、地区を通る旧東海道の案内板設置や景観美化などの活動を手がけている。今郷城跡についても、今後周辺の樹木を伐採したり案内板を設置したりして、観光スポットとして整備する。同会の福野憲二事務局長(59)は「地域の誇りとして史跡を守り、魅力発信に結びつけたい」と話している。

 

facebook【今郷好日会(いまごうこうじつかい)】に「緊急告知です!「おんば城(今郷城)見学会」 参加者募集中」1月16日
安土城考古博物館でのおんば城(今郷城)整備活動紹介パネルの展示を記念して来る2/14(日)城址の見学会と整備体験会を実施します。安土城考古博物館の学芸課長さまの解説もあります。興味をお持ちのみなさま是非ご一報ください。

今郷好日会(いまごうこうじつかい)さんの写真
 現地集合ですが駐車場は農免道路沿いの圃場の道路です。当日はスタッフが案内しますのでご安心ください。
甲賀市水口町今郷字山ノ中1663番で検索してください。
城跡は向いの丘陵地にあります。雨天の場合も現地見学と細川さまの解説はあります。また、豚汁のサービスもありますので是非ご参加ください。お待ちしております。
 

参考資料:甲賀郡志、甲賀市史(甲賀の城)、見学会レジュメ、今郷好日会(facebook)

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


小川西ノ城 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月10日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町小川小字伊吹谷 map:http://yahoo.jp/UvSxeh

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:室町期

築城者:鶴見(小川)行俊

標 高:370m  比高差:40m

遺 構:堀切、空堀、土塁、畝状竪堀、井戸

目 標:清光寺

駐車場:清光寺の登り口駐車城

甲賀市指定史跡

訪城日:2016.2.8

小川西の城 近江国(甲賀・信楽)

お城の概要

小川集落にあり、清光寺西側の丘陵部に位置している。中手川を隔てた南東の丘陵部には小川中ノ城が、また、小川中ノ城の東南東の山上には小川城が所在している。
小川の地は、京都から伊賀・伊勢方面への交通の要衝に位置し、勢力をのばした多羅尾氏が多羅尾からこの地に支配の拠点を移した。城の遺構も甲賀・伊賀方式から脱皮した構造が見られる。
 この城が築かれる以前は、現在、城の北側の谷に所在する大光寺の前身である大興寺があったと云われ、応仁の乱を避け信楽庄に避難した近衛政家がこの寺に応仁2年(1468)8月19日から10月19日の二ヶ月間にわたり滞在したとの記録が残り、政家の対面の場となった「清故庵」は、城の東、丘陵先端部にある清光寺の位置と伝えられている。

城の構造は、南側の東へ伸びる尾根に築かれた東城と、西から北東方向に伸びる尾根に築かれた西城とに分けることができる。東城は丘陵頂部に主郭、その東側に空堀で区画しされた二郭、三郭が続く。西城は北東と北西の尾根筋を二条ずつの堀切で遮断し、北から南西に四郭、五郭、六郭が配される。両城とも連郭となっており、単郭方形を基本とする甲賀方式とは異なる構造である。
主郭は、東西70m、南北50mで南側を除く三方に土塁の痕跡が残存し、東から北側に空堀がめぐる。虎口は南側に開口している。東斜面には畝状竪堀も見られる。空堀を隔てた東側が二郭で、東西35m、南北30m、北面と東面の一部に土塁が残り、東側を除く三方に空堀がめぐる。さらに空堀を隔てた東側に三郭があり、西面を除く三方を土塁で囲繞され、西面に虎口が開口し、空堀を通路としている。これら三つの郭は、南北軸より少しずつずらせてあり、横矢が効く様にしている。なお、南側の下方に東西に細長い平坦地が付帯しているがどの部分まで城域か判断出来ないようである。
東城の北西端の鞍部を隔てて西城となる。西城は、西端頂部に東西15m、南北20mの櫓台状の六郭を置き、東側と西側に堀切を敷設している。西側の堀切の北西外50m程にもう一条堀切を設け、それらを横堀で結び「エ」の字状とする特異な形態となっている。東側の堀切を隔てて西面に櫓台状の土塁を伴った郭があり、その北東一段下がって東西35m、南北50m程の西面と北面に低土塁が残る四郭を配している。五郭は、六郭東側の堀切を南に通り抜けた南側に設けられている。四郭の北東方向60m間隔で二条の堀切を穿ち尾根続きを遮断している。

清光寺の背後の丘陵上が城跡で、(案内板ある)石段左手の坂道を上り突き当たりから山に入る。

歴 史

 築城年代は定かでないが小川氏によって築かれたと伝わる。その後、近衛家領信楽荘の荘官の多羅尾氏が整備したと考えられている。
なお、同氏は、15世紀代に信楽庄を支配して中央に進出し、三好氏の被官になった一族がいたと考えられ、河内国の守護代となり、永禄6年(1566)6月松永久秀に与して、淀城に籠った多羅尾常陸介は同族と見られている。

鶴見長実の子、鶴見行俊は小川氏を称して代々続いたが、長享元年(1487年)に多羅尾和泉守に敗れた小川成俊は山城国和束庄へ逃れ、以降は多羅尾氏の所領となった。

 天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで所領に戻る際に設楽で一夜を明かしたのが、この小川と伝えられる。 文禄4年(1595年)に多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、秀次に連座して改易された。

その後に徳川家康に召し出されて旗本となり、江戸時代には多羅尾代官陣屋を構えている。これは多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

天満宮から

小川城・・・遠景中ノ城

大光寺へ下りた。四ツ目結

大光寺の裏山・・・遠景

県道沿いの駐車場・・・西ノ城の案内板がある

登城道・・案内板正面が登城道(清光寺駐車場)

天満神社

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


小川中ノ城 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月09日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町小川 map:http://yahoo.jp/T2crID

目標地:小川のバス停

区 分:丘城

標高:390m  比高:60m

現 状:山林

遺 構:曲廓・土塁・堀切・武者隠し

築城期:織豊期・・嘉元3年

築城者:鶴見伊予守・小川俊盛

駐車場:登城口に

訪問日:2016.2.8

主郭背後を三重の堀切が守るお城。

お城の概要

 集落東側の山すそに「中之城」の案内があり、ここから登ります。5分程度で主郭に到達します。尾根先端を削平し、尾根は大きな堀切で切断されていて、郭の尾根側(堀切)は削り残しの大きなコの字状の土塁が残っていました。この郭はけっこう広く、幅20m*長さ40mくらいあるでしょうか。監視の城というより出撃の城つう感じです。この中之城から堀切の先の尾根をさらに登っていくと小川城に到達します。この間、小郭が二箇所、堀切が連続して数箇所認められます。本城と支城の連絡道がきれいに残っているという感じです。中之城から小川城まで1.5Kmと表示ありますが そんなに距離は感じませんでした。

小川中ノ城は、小川城の居館とも云える城。

 山頂の小川城と麓の中ノ城は、尾根伝いに登城道が通じているが、その尾根を三条の堀切で防禦し、馬蹄形の切込土塁で三方を囲んだ広い曲輪となっていて、伊賀や甲賀によく見られる豪族居館様式の縄張りとなっている。 

この城の見どころは何と言っても幅約10m・深さ約8m程もある主郭背後の大堀切だろう。

 

 

歴 史

小川城は、嘉元3年に鶴見伊予守によって築城されたとされているが、小川俊盛によって築かれたとの説もあり、築城年代・築城者については定かではない。

 戦国時代、小川城は多羅尾氏が城主となり、信楽一帯の盟主として勢力を誇ったが、文禄4年に豊臣秀次事件に連座し改易され、小川城は廃城となった

 尾根道であるが、土塁が畝状にいくつも!ここから「中の城郭」域です。中の城址~小川城への案内板・・・ここを下って行きます。大堀切竪堀も左右に大きく、はっきりと!大堀切(深さ5m)この上が中の城主郭で狭いこの道下れば集落、西の城へ主郭

 山すそに集落東側の「中之城」の案内があり、ここから登れます。5分程度で主郭に到達します。尾根先端を削平し、尾根は大きな堀切で切断されていて、郭の尾根側(堀切)は削り残しの大きなコの字状の土塁が残っていました。この郭は、幅10m×長さ10mくらい。監視の城というより出撃城・出丸・物見櫓ヵ。この中之城から堀切の先の尾根をさらに登っていくと小川城に到達します。この間、小郭が二箇所、堀切が連続して数箇所認められます。本城と支城の連絡道がきれいに残っている。中之城から小川城まで1.5Kmと表示ありますが そんなに距離は感じません

駐車スペース

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


多羅尾古城  近江国(甲賀・信楽)

2016年02月09日 | 丘陵城

城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町多羅尾小字古城 map:http://yahoo.jp/kVF87F

現 状:森林

区 分:丘陵城

標 高:520m 比高差:50m

築城期:室町期

築城者:多羅尾氏

廃 城:元亀年間

遺 構:曲廓、腰廓、堀切、土塁、土橋、物見櫓

目標地:多羅尾小学校・里宮神社・市民センター

駐車場:市民センター

訪城日:2006.2.8

お城の概要

 多羅尾中野集落へ北西に伸びた尾根の先端を削平して曲輪としている。尾根を切岸にして土塁状に残すのはこの辺りの城館によく見られる加工である。尾根上は少し自然地形があり、その先に一条の堀切を設けて遮断している。南側に帯曲輪があり、ここは畑となっていたようである。

構造は、東側の丘陵続きを堀切で遮断し、先端から削り込み東西35m、南北25m程の主郭。東面は掘り残しの櫓台状の土塁とし、土塁の天端は12m四方程の広さがある。主郭の南側下方には、東西40m、南北10m程の腰郭、麓からの城道もこの腰郭に通じていたと見られている

多羅尾小学校の南側の県道に大戸川の橋を渡った所に、岩洞山不動尊の石碑と案内板背後の丘陵が城址。 南麓民家への道を突き当りまで、動物除けの柵を越えて斜面の登城道(元大手道)を上る。

歴 史

城主が多羅尾氏と云われ、多羅尾集落を支配するための拠点とした城館であった。

 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は11世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。13世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁4年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

 、この光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。多羅尾古城・・遠景(多羅尾城山城の下から)  破壊された大手道

東側の億から回り込んで大手道に

ここから

Ⅱの腰廓

主郭部

山麓廓か、畑か

空き家の民家(県道沿いに人形が2体)西谷へ。堀切(竪堀?)を下りてきました。

多羅尾氏 抱き牡丹/藤巴●藤原北家近衛氏流 

『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。

                 浄願寺 http://tempsera.at.webry.info/201204/article_20.html
 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

多羅尾氏、勢力を伸張

 多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
 室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。
 応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469~87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。

表舞台への登場

 多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。
 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長
に仕え天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。

 家康の伊賀越え

 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京師に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康っまた非常に危険な状況に身をおいていたのである。

 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。

栄枯盛衰を味わう

 山崎の合戦後、織田家中に勢力を伸ばす秀吉に対して、北陸の柴田勝家や信長の三男・信孝と滝川一益らが反秀吉の姿勢を示した。この情勢を察した秀吉は、柴田勝家が雪に閉じ込められている間に伊勢の一益と岐阜の信孝をたたこうと計画、大軍を近江国・草津に集めた。一方、浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じた。
 この長政軍の前に立ちはだかったのは多羅尾光俊で、四男光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた長政軍を光俊は夜襲で撃退した。敗れた長政は力攻め愚をさとり、光俊に和睦を申し入れ、一人娘を光俊の三男光定の嫁にする条件で和睦は成立した。かくして、多羅尾光俊は秀吉に従うようになり、天正十四年頃には、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和に八万石余を領する大名となったのである。
 やがて、豊臣秀吉が天下を掌握すると、秀吉の養子秀次が近江四十三万石を与えられ、近江八幡に城を築いた。近江の太守となった秀次は領内の視察を行い、多羅尾城にも立ち寄った。光俊らは一族をあげて秀次を歓待、その場に光太の娘万も連なった。万を気に入った秀次は、光俊・光太に万をもらいうけたいとの申し出を入れ、光俊・光太らは万を秀次のもとに差し出した。のちに、これが災いして多羅尾一族は没落の憂き目にあうことになる。
 天下人となった秀吉は朝鮮への出兵を行い、その留守を秀次に命じた。秀次は京都の聚楽第に住して、国内の政治にあたったが、次第に残虐な行為を募らせるようになり「殺生関白」のあだ名をつけられた。その背景には秀吉に実子が生まれたことに対する我が身の不安、秀吉の吏僚である石田三成らの策謀があったといわれる。文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次を高野山に追放、さらに切腹を命じ、秀次の首を三条大橋西南の加茂河原にさらしたのである。さらに、翌八月には秀次の妻・子供、側室らをことごとく処刑した。そのなかには多羅尾光太の娘お万の方も含まれていた。
 この秀次粛正事件により、秀次と関係があったという理由で光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目となった。光俊は光太とともに信楽に蟄居、雌伏のときを強いられたのである。

 多羅尾公民館(市民センター)に駐車

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


多羅尾城山城 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月08日 | 丘陵城

城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町多羅尾字城山、井出山 map:http://yahoo.jp/-JS7kM

現 状:森林

区 分:丘陵城

標 高:520m 比高差:30m

築城期:室町期

築城者:多羅尾氏

廃 城:元亀年間

遺 構:曲廓、大堀切、土塁、物見櫓、虎口桝形

目標地:多羅尾小学校・里宮神社・市民センター

駐車場:市民センター

訪城日:2016.2.5・2006.2.8

お城の概要

 東へ伸びた尾根の先端を掘り下げて削平し、背後の尾根を土塁状に残して曲輪としている。曲輪は南北に長く東に二段の小段が付き、南は土塁状に削り残した尾根に向かって段々になっている。西背後の尾根は南北両側から傾斜が付き、西側を堀切で遮断している。

 登城口・・・県道の終点から南へ橋を渡り多羅尾陣屋跡の方に進む。大同川の橋を渡って直ぐに西側に赤い消防ホース格納箱があり「多羅尾9」とある。これの北側に細い通路があり、この道が山上に通じている。

 信楽町多羅尾のうち浦出集落の北、多羅尾代官陣屋の北方に、丘陵東先端部に築かれている。大戸川が城の北裾を流下している。
構造は、西側の丘陵続きを両側に土塁を伴う堀切で遮断し、先端から削り込み東西30m、南北70mの主郭を造成し、さらに南側に段々に高くなる三段の平坦地を、主郭東側には段々に低くなる二段の郭を付帯させている。虎口は、主郭の北西隅に開口し、一段低い内桝形から土塁北側を回り、北西麓へと下っていたと思われる。現在は、東端から登る道が付けられている。
堀切内側の土塁は高々と聳える巨大なもので見応えがある。

歴 史

城主が多羅尾氏と云われ、多羅尾集落を支配するための拠点とした城館であった。

 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は11世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。13世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁4年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

多羅尾代官屋敷跡方面

主郭部

主郭背後の大土塁

大堀切

多羅尾代官屋敷跡の北端(頂部に石垣が見える)多羅尾城山城の下・・県道から南から見上げて

登城口

 

多羅尾集落の辻から旧道を行くと多羅尾小学校の隣にこの里宮神社が鎮座する。

里宮神社(さとみやじんじゃ)(宮の谷)

御由緒
本殿は建久年間那智新宮より素盞鳴尊を勧請したのが創祀で、産土神とし奉祀する。その後、安政元年近衛基平の子、高山太郎師俊が紀伊那智新宮より大年神を勧請し、社名を里宮神社と号し現在に至る。本社の造営費等は高山太郎師俊が姓を多羅尾と改め明治維新まで多羅尾代官として、寄進せられた。

 天正信長時代には牛頭天王(ごずてんのう)として村の人達がお祀りしたといわれている。

更にその後、近衛家の支流高山太郎師俊(後、多羅尾と改め)、多羅尾村を領し、江戸時代安政年間同、紀伊那智新宮の大年神(おおとしがみ)(農業の神)お迎えし里宮神社(さとみやじんじゃ)と称し今日に至る。

多羅尾氏 抱き牡丹/藤巴●藤原北家近衛氏流 

『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。

                 浄願寺 http://tempsera.at.webry.info/201204/article_20.html
 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

多羅尾氏、勢力を伸張

 
多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
 室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。

 応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469~87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。

表舞台への登場

 
多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。

 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。

家康の伊賀超え

 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康また非常に危険な状況に身をおいていたのである。
 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。

栄枯盛衰を味わう

 山崎の合戦後、織田家中に勢力を伸ばす秀吉に対して、北陸の柴田勝家や信長の三男・信孝と滝川一益らが反秀吉の姿勢を示した。この情勢を察した秀吉は、
柴田勝家が雪に閉じ込められている間に伊勢の一益と岐阜の信孝をたたこうと計画、大軍を近江国・草津に集めた。一方、浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じた。

 この長政軍の前に立ちはだかったのは多羅尾光俊で、四男光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた長政軍を光俊は夜襲で撃退した。敗れた長政は力攻め愚をさとり、光俊に和睦を申し入れ、一人娘を光俊の三男光定の嫁にする条件で和睦は成立した。かくして、多羅尾光俊は秀吉に従うようになり、天正十四年頃には、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和に八万石余を領する大名となったのである。
 やがて、豊臣秀吉が天下を掌握すると、秀吉の養子秀次が近江四十三万石を与えられ、近江八幡に城を築いた。近江の太守となった秀次は領内の視察を行い、多羅尾城にも立ち寄った。光俊らは一族をあげて秀次を歓待、その場に光太の娘万も連なった。万を気に入った秀次は、光俊・光太に万をもらいうけたいとの申し出を入れ、光俊・光太らは万を秀次のもとに差し出した。のちに、これが災いして多羅尾一族は没落の憂き目にあうことになる。
 天下人となった秀吉は朝鮮への出兵を行い、その留守を秀次に命じた。秀次は京都の聚楽第に住して、国内の政治にあたったが、次第に残虐な行為を募らせるようになり「殺生関白」のあだ名をつけられた。その背景には秀吉に実子が生まれたことに対する我が身の不安、秀吉の吏僚である石田三成らの策謀があったといわれる。文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次を高野山に追放、さらに切腹を命じ、秀次の首を三条大橋西南の加茂河原にさらしたのである。さらに、翌八月には秀次の妻・子供、側室らをことごとく処刑した。そのなかには多羅尾光太の娘お万の方も含まれていた。
 この秀次粛正事件により、秀次と関係があったという理由で光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目となった。光俊は光太とともに信楽に蟄居、雌伏のときを強いられたのである。

 多羅尾公民館(市民センター)に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

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小池城 近江国(甲賀・甲南)

2016年02月08日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町下馬杉字小池 map:http://yahoo.jp/nzxhsQ

区 分:丘陵城

遺 構:土塁・曲郭・堀切

築城年:室町期

築城者:馬杉丹後守か?

廃 城:元亀年間 

標 高:235m  比高差:35m

目標地:下馬杉バス停

駐車場:バス停の空きスペースに路上駐車

訪城日:2016.2.8

 

お城の概要

小池城は、谷出城の南東100mに位置にあり集落側に突き出した。

下馬杉バス停から小池地区の西端曲廓は梅・茶園から登城・・・藪漕ぎして北へ、東の土段上は物見櫓か、西下に曲廓がある。堀切を回り込み曲廓が2つ(共に墓地)、東端の主郭背後土塁へ北側から、戻って・・主郭・・集落へ

下馬杉集落背後の丘陵先端に谷出城・西出城があり背後と側面にL字で土塁・堀切。その背後の土塁から、尾根筋に郭がある、藪漕ぎすると曲廓に!。また、谷出城、南東側の別丘陵に小池城がある。この三つの城は一帯とした城と考えられます。

 歴 史

 在地土豪の馬杉氏に関係する城か。

下馬杉・島神社・・・社伝によれば当神社は延徳二年四月に安芸の厳島神社の御分霊を勧請し時の領主馬杉丹後守が氏神として奉祀す。安永八年正月災害に依り破損甚しく同年六月改築し現在に至っている。

 

墓地が続きます

いちばん東の主郭へ

獣害ヘンスから集落へ

 

   小池城・・・遠景 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、

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神山(こうやま)城() 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月06日 | 丘陵城

西側の土塁

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町神山字城山 mao:http://yahoo.jp/rEdi2l

別 称:甲山城

現 状:グランド

区 分:丘陵城

築城期:南北朝期

築城者:神山氏

標 高:310m  比高差20m

目標地:県道422号線の神山信号・神山会館

駐車場:グランド横空地

お城の概要

神山城は神山会館の東側にある通称「城山」と呼ばれる丘陵の北西端に築かれている。大戸川と南川は合流する。神山集落を見下ろす小高い丘に築かれ、現在はグランドとなっている。比高20m程の丘陵で、南西側にL字に土塁が残っている。以外はグラウンドの造成により破壊された。

付近には『木戸口』『城山』の城郭関連地名が残る。

 この土塁から推測するに、伊賀・甲賀で多く見られる単郭方形の縄張りを城であった思われるが、南土塁の下に1段低くなった副曲廓はある。東側の括れは堀か?北側は南川を堀に切岸状である。

西麓の県道側から車道が山上まで通じている。

歴 史

甲山(こうやま)城(信楽町神山)=神山城

建武4年(1334)4月「小佐治右衛門三郎基氏軍忠状」「佐治文書」には、

 「近江国御家人小佐治右衛門三郎基氏・同孫九郎頼氏申候、信楽依蜂起馳参之処、13日、於杣野河宮付御手、自伊賀槙山路責人之処、自信楽東山相向御敵大勢之間、自同晩□(影)到終夜合戦、及太刀打之間、凡捨身命責戦、家人源三郎討死仕華、同14日、信楽上郷自甲山東口始、切破数十ヶ所木戸逆木、焼払城郭華」とある

築城年代は定かではないが神山氏によって築かれた

南北朝の動乱

 元弘の変に際して、上洛してきた幕府軍は鈴鹿を避けて美濃を通って京に入っている。このことから、山中氏が反幕府的であったことをうかがわれ、建武の新政がなると後醍醐天皇から鈴鹿警固役を沙汰する旨の綸旨を賜っている。しかし、足利尊氏の謀反によって新政が崩壊すると、山中氏は美濃部氏、小佐治氏らとともに守護佐々木氏に属して尊氏に味方した。
 建武四年(1337)、甲賀の南朝方頓宮氏が五辻宮を奉じて信楽で挙兵、飯道寺城と勅使の岩倉城に立て籠った。

これに対して中山四郎右衛門尉、小佐治基氏らが、信楽に攻め込み、夜を徹して激戦がおこなわれた。翌年、五辻宮を奉じた南朝軍が蜂起、北朝方の山中道俊・頼俊および小佐治基氏は激戦のすえに南朝方を伊勢に奔らせている。
 その後、山中氏は観応の擾乱に際して南朝方に転じたこともあったが、南北朝の動乱期を北朝方として行動した。やがて動乱は北朝方の優勢となり、明徳三年(1392)、足利義満によって南北朝の合一がなった。かくして、足利将軍を頂点とする中央集権体制=足利(室町)幕府が確立されたのである。そして、近江国の北守護は佐々木京極氏、南守護は佐々木六角氏が任じられた。
 足利義満は室町幕府全盛時代を現出したが、義満の死後、幕府政治は次第に衰退兆候をみせるようになった。嘉吉元年(1441)、足利義教が赤松満祐に殺害されると、幕府の権威を大きく揺らいだ。以後、幕府政治は混乱の度を深め、将軍家、有力守護家の家督争いが引き金となって、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。乱に際して、江北の京極氏は東軍に、江南の六角氏は西軍に属して対立した。文明年間になると六角と京極の抗争が激化し、文明二年(1470)、蒲生郡黒橋で激戦が行われ甲賀武士は六角方として奮戦した。

主郭部のグランド

南西の土塁

土塁下の曲廓

 

主郭部の南東部も削平されクランドとなり、その先の尾根続きに林・竹林があるが、・・・約100m先南東に削平地と堀状遺構があるが、城郭遺構では無いようだ。

が、林・竹林も有事の砦として温存していたか?

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史 甲賀の城 

 本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!