城郭探訪

yamaziro

今郷城(おばん城) 近江国(水口)

2016年02月05日 | 丘陵城

市民活動によって発見された城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)水口町今郷 map:http://yahoo.jp/fMlJzn

別称:おばん城

目標地:丘陵下の新道・・御城山の土山マラソン標識・甲賀市土山 オー・デュ・プール

区 分:丘城 

標 高:215m  比高差:10m 

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀・土橋

築城期:室町期

築城者:大野氏か?

駐車場:丘陵にため池の手前に駐車可

訪城日:2016.2.3

お城の概要

東海道土山宿と水口宿の中間【現在では、土山町と水口町の境】の丘陵、城はあった。丘陵の森の中に鉄塔が建つ、北から鉄塔で東に送電線がⅬ字敷かれている。この鉄塔が主郭に建つ!

 丘陵下の県道182号線添い。国道1号線と平行道、水口町今郷と土山町大野の境に丘陵に鉄塔が見えます。この鉄塔が主郭、貯水池の東側が城跡です。

地元の有志が整備しているが、東側の一部が未整備です

お城の歴史

  • 近江興地史略(享保19年3月15日(1734))に、「今郷城 水口地帯となる。井戸、濠残る」とある。
  • 甲賀郡志・・大正15年(1926)6月10日に「城址 大野村大字今郷、大字大野元標より12町を距つる北方字「おばん」の高地にあり。東方なるは東西30間南北25間を有し築堤尚在し高1間半乃至り2間、南隅に2個の古井あり、雑草汚水の中に生じ深さ2尺余あり。北方に濠跡、1間半乃至2間を在す。また西方に方20間の城址あり出丸の如し。その西は断崖にして高さ18間余その下は即ち周濠にして今は耕地となる。南方は総て断崖を削るが如く濠跡は現時溝と相連り田用水となる。東跡は雑樹灌奔業生し西跡は開墾して畑地となす。」と記す。
  • 私たちの今郷・・・昭和55年(1980)9月 今郷の北のおばん、小字の名、姥が淵の高台に東西2地区に分かれて城址があって、東の方は面積二反、高さ2間の築堤がり、西方は一反の広さでありました。だれの城か不明です。元弘・建武(1331~1336)のころ、嶬峨氏の城か、または甲賀武士大野中務入道が永享年間(1429~1441)大野城へ移る前に住んでいた城とも言われています。

 

甲賀郡大野村に大野宮内少輔の宅跡あり大屋敷と云う。宮内少輔は、六角氏に仕う、その子を右近大夫と称す。この大野氏は、甲賀二十一家中、山北九家の一なり。姓氏と家紋 より

ウィキペディアに

大野村(おおのむら)は滋賀県甲賀郡にあった村。現在の甲賀市土山町の西端、野洲川の右岸、国道1号の沿線および水口町今郷にあたる。

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大野村・今郷村・徳原村・前野村・頓宮村・市場村の区域をもって発足。
  • 1955年(昭和30年)4月1日 - 土山町・山内村・鮎河村と合併し、改めて土山町が発足。同日大野村廃止。

「江州佐々木南北諸氏帳」大野城主 大野宮内少輔義宗・

            大野 住 大野助十郎

            大野 住 後信長髄尾州知田郡住 大野佐馬亮

            大野 住 大野左近・・・・とある

今郷好日会(いまごうこうじつかい) : 安全で確実なプロの技 from 2015年4月12日 to their timeline.

おんば城(今郷城)の整備活動
伐倒方向にワイヤーで引張りながら安全第一で伐採する薪割りくらぶTSRさんの技を見てください。

山城の魅力

 かつての近江国(現在の滋賀県)は、東海道や中山道、北陸道など主要な街道が交わり、琵琶湖の水運もあって歴史上たびたび重要な役割を果たしており、「近江を制するものは天下を制す」といわれた。

 城では国宝の天守閣を持つ彦根城(彦根市)や、豪壮な天主があったとされる安土城(近江八幡市)などが注目されがちだが、山の地形を利用して土塁や堀切などを張り巡らせた城郭も独特の魅力がある。築年代や由来もはっきりしないものが多いが、地域の歴史を顧みる上での貴重な“遺産”だ。

 そうした山城跡を、歴史愛好家の住民グループなどが自治体とともに“再発見”に努める動きが県内で活発化している。

散策道などを整備

 「土塁を囲って、柵を置いたらどうだろう」「遊歩道があれば、歩きやすくて多くの人が来てくれるのでは」

 昨年12月中旬、旧東海道が通る県南部の甲賀市水口町今郷の山中で、郷土史研究やまちおこしを手がける住民グループ「今郷好日会」のメンバーらが倒木を切ったり、草刈りをしたりしていた。

 同会は昨年4月、メンバーの1人が所有するこの山林で、高い土塁と深い堀に囲まれた「単核方形」の城館跡を発見した。

 甲賀市内には、こうした城館が約200あるとされるが、行政機関などによる調査でほとんどが発掘しつくされ、「もう新たな城館はない」といわれていた。そんな中での“大発見”。メンバーらは専門家のアドバイスを受けながら調査を続け、遊歩道や柵を設けて観光スポットにしようと整備を進めている。

 甲賀の城館は、甲賀忍者との関わりも指摘されるだけに観光資源としては有望だ。同会の福野憲二事務局長(59)は「地域の宝として全国発信したい」と力を込める。

yd_sankei3.jpg 城館跡の周辺整備を検討する「今郷好日会」のメンバー

動画を再生

 戦国時代(16世紀頃)の城館跡とみられる土塁や堀が、水口町今郷(いまごう)の小高い山の中で発見された。
 方形の土塁などの特徴から、甲賀衆の集落を守るために造られた「今郷城」跡とみられるという。[産経新聞・MSN]

参考資料:甲賀郡志、近江興地志略、私たちの今郷、姓氏と家紋・ウィキペディア・江州佐々木南北諸氏帳・今郷好日会(facebook)・ITmedia ビジネスオンライン > 過疎化の解決に:「近江を制するものは天下を制す」 埋もれた山城を発掘して“地方創生”に (1/3)

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上磯尾城 近江国(甲南)

2016年02月03日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町磯尾字堂坂 map:http://yahoo.jp/xiTXOC

区分 : 丘陵城

築城期:

築城者:

遺  構 :曲郭(削平地)、土塁、虎口状開口

標 高:240m  比高差:20m

目標地:上磯尾バス停

駐車場:上磯尾バス停

訪城日:2016.131

お城の概要

伊賀国阿山郡(現三重県伊賀市)と境界を接する、甲南町上磯尾集落の西側を丘陵部に立地しているが、城址の丘陵は開削され牧場に。

 伊賀からの侵入の物見廓か? 丘陵の西先端に土塁・物見廓・櫓の削平地が残存して平坦面をっている。その東側は大きく牧場平坦地で、北隅の下部に、北側が土塁にでなっている。街道の物見廓か?磯尾城の出城?支城?。 全体として削平が甘く、切岸は低く、丘陵城郭遺構と断定できていないが。開削が激しく構造も甲賀にはあまり見られないものである。

歴 史

「江戸名所図会」巻之一(天枢之部)愛宕山権現社

同(真福寺)南に並ぶ。 世俗、城州愛宕山に同じといへども、おのづから別なり。 本地仏は勝軍地蔵尊にて、行基大士の作なり。 永く、火災を退けたまふの守護神なり。
[中略]

【家康公伊賀越え】 しかるに、天正十年壬午の夏、台旗泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。 このとき多羅尾四郎右衛門といへる者の宅に、舍らせられける頃、あるじこの像を献ず。 その節、同国磯尾村の沙門神証といふを供せられ、この霊像を持して東国に赴きたまふ。 しかりしより御出陣ごとに、神証をしてこの勝軍地蔵尊を祈念せしめらる。 つひに、慶長八年癸卯の夏、台命によつて同庚子年、石川六郎左衛門尉、当山を闢き、仮に堂宇を造建したまひ、その後、同十五年庚戌、本社を始めことごとく御建立あり。・・・云々」

 地元に何らの伝承もなく、ほとんど削平されておらず、城郭遺構か不明である。

参考資料:遺跡ウォーカー

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谷出城   近江国(甲賀・下馬杉)

2016年02月02日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町下馬杉字谷出 map:http://yahoo.jp/d72g1V

区 分:丘城

現 状:竹林・森林

築城年:室町期

築城者:馬杉丹後守か?

遺 構:土塁・曲郭・堀切

目標地:下馬杉バス停

訪城日:2014.12.5・2016.1.31

お城の概要

 谷出城は、甲南町下馬杉集落の東側に迫る丘陵縁辺部に立地し、北から西出城、谷出城、小池城が尾根尾根続きに位置している。

西へ張出す丘陵先端部の背後に南から一つ、北から二つの谷が食い込み、取り残されるように南北に細長いY字状の丘陵が形成されている。

 谷出城は、その軸部の南端に南西以外の三方を土塁囲みとした約25m四方の主郭を置き、北東側の尾根筋に対して堀切を設けている。土塁は北隅が最も高く、郭面から3mを超えているが、南東面の土塁は約50cmと低く、堀切底面と地続き状態である。

この堀切北側の尾根筋にも小さな平坦地が約150mに亘り連旦し、中間には堀切状の地形も見られるが、後世の墓地利用が進んでおり、城郭遺構か判定が難しいようである。

 

歴 史

 在地土豪の馬杉氏に関係する城。

下馬杉・島神社・・・社伝によれば当神社は延徳二年四月に安芸の厳島神社の御分霊を勧請し時の領主馬杉丹後守が氏神として奉祀す。安永八年正月災害に依り破損甚しく同年六月改築し現在に至っている。

 水口町新城の永福寺の境内に子孫が建立した新庄兼重君記念碑(明治35年2月)があります。そこには新庄伊勢守宗重が康永年間(1342年~)に軍功を建て新庄と馬杉を領有し・・と記されていて新庄と名乗ったとされています。新庄家はその後、廃されますが、嘉吉年間(1441年~)に三木又右衛門が城を築き村名を新城と改めたと

駐車位置

谷出城・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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磯尾城 近江国(甲南)

2016年02月02日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町磯尾字東側map:http://yahoo.jp/W9_dGG

区分 : 丘陵城

築城期:

築城者:

遺  構 :曲郭(削平地)、土塁、虎口状開口

標 高:230m  比高差:15m

目標地:上磯尾バス停

駐車場:上磯尾バス停

訪城日:2016.131

お城の概要

伊賀国阿山郡(現三重県伊賀市)と境界を接する、甲南町上磯尾集落の東側を遮る南北に細い丘陵端部に立地している。

 構造は、南から北に向かって緩やかに傾斜する丘陵の先端を削平して平坦面を造っている。南端が頂部で墓地と畑に造成されている。その北側が最大の平坦地で、北西隅の下部に虎口状の開口部があり、北側が土塁にでなっ

ているが、南側は通路状の帯郭になっている。また、北側の土塁は、北へ行けば通路となり、北端の平坦地につながっている。開口部の内は約10m四方の平坦地で南北よりは一段低くなっており、上方からの攻撃を意識した造りと思われる。しかし、池に向かって開口しているため、池に関わる施設であった可能性も指摘されている。

 全体として削平が甘く、切岸は低く、丘陵続きを遮断する堀切等の施設も無く、城郭遺構と断定できていない。構造も甲賀にはあまり見られないものである。

歴 史

「江戸名所図会」巻之一(天枢之部)愛宕山権現社

同(真福寺)南に並ぶ。 世俗、城州愛宕山に同じといへども、おのづから別なり。 本地仏は勝軍地蔵尊にて、行基大士の作なり。 永く、火災を退けたまふの守護神なり。
[中略]

【家康公伊賀越え】 しかるに、天正十年壬午の夏、台旗泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。 このとき多羅尾四郎右衛門といへる者の宅に、舍らせられける頃、あるじこの像を献ず。 その節、同国磯尾村の沙門神証といふを供せられ、この霊像を持して東国に赴きたまふ。 しかりしより御出陣ごとに、神証をしてこの勝軍地蔵尊を祈念せしめらる。 つひに、慶長八年癸卯の夏、台命によつて同庚子年、石川六郎左衛門尉、当山を闢き、仮に堂宇を造建したまひ、その後、同十五年庚戌、本社を始めことごとく御建立あり。・・・云々」

 地元に何らの伝承もなく、ほとんど削平されておらず、城郭遺構か不明である。

 磯尾城

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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千町城  近江国(大津)

2015年12月25日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:大津市石山千町 map:http://yahoo.jp/uElcj0

区 分:丘陵城

現 状:山林(大平山トンネルの上)

遺 構:土塁、平担な突起部、櫓台

築城期:織豊期

築城者:

城 主:

標 高:170m  上水道施設管理道路より比高差:40m

目標地:北千町バス停

駐車場:路上駐車

訪城日:2015.12.23

お城の概要

城跡は、大平山団地の南、石山寺辺町と千町四丁目にまたがる東西に細長い丘陵上にある。高速道路の石山トンネルの上に位置し、大津市企業局の上水タンクの管理道路を利用して、城址直下に車で横付けできる。

高さ0.5~1.0m、幅1.2mの土塁のような土盛りが、東西に長く続いている。また、土塁の東端よりには、平担な突起部が南に向かって認められ、櫓跡か。

 城跡の南側には、石山から京都の笠取・醍醐へ抜ける岩間越えの道が通り、北側は、同じく石山から京都の陀羅谷に抜ける道あり近江国と山城国をつなぐ二本の間道をおさえる位置にある。

大津市の南部、石山と南郷に挟まれた地域。瀬田川に面した地域で町内の中心を東西に流れる千丈川は、古くから蛍の名所で小林一茶が「和睦せよ 石山蛍 瀬田蛍」と詠んだように、昔は多数のホタルが団子状になってぶつかり合う「ホタル合戦」がよく見られたという。

 遠方の鉄塔の右の頂部

歴 史

天正年間(1573~1597)に織田信長の家臣だった小野将監義政が、神崎郡伊庭村(現・東近江市能登川伊庭町)から移住し一千町の新田を開いたのが、地名の由来とされる。

他にも、源平争乱の戦場になったことが、由来との伝承もある。赤川という地名が残っており、戦乱で川が赤く染まったから、との伝承もある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、おおつの城、大津かんきょう宝箱

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応昌寺城(応正寺城) 近江国(西浅井)

2015年12月12日 | 丘陵城

お城のデータ

別 称:応正寺城

所在地:長浜市(旧・伊香郡)西浅井町野坂・塩津中  map:http://yahoo.jp/hKwciK

現 状:公園・森林

築城年:室町期

築城者:熊谷氏

区 分:丘陵城

標 高:146.4m

遺  構:土塁、空堀、堀切、石積

駐車場:塩津小学校

訪城日:2015.12.12

お城の概要

 往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所遺構があったのでは、応昌寺城は関連する城郭か!

城跡は塩津小学校の東側で標高146mの北から南に細長く伸びる丘陵頂部に約450m×約80~30mの規模で築かれている。

二股に分かれる南西先端部の下に応昌寺・神照寺がある。二股の付け根から先端にかけて遺構らしき構造が見られる程度である。二股の西側は公園整備で改変を受けているものの、堀切状の深い窪地で先端部が区切られているのが分かる。

東側は入り込む谷に面して石塁状の遺構が残る。付け根付近には低土塁が見られ、形状は虎口状である。不明瞭で分かりにくい。

城址は小学校の南の山~東に続き林道を挟んで、東西160間×60間、東端は切岸、武者隠しの様な凹状の遺構が残る

 

歴 史

元亀年間の昔、信長が越前の浅倉氏を攻めるために、軍勢を率いて当の応昌寺の門前を通行の折、突然事もあろうに落馬したが、それは門前の古木のもとに鎮守の荒神が祭られ、古伝では何人たりともその神前を乗馬等の乗り物のままで通行すれば、おとがめ・たたりがあると聞いて、信長は立腹のあまり荒神(木像)の頭部を切り落としたという。即座に激しい腹痛をおぼえ、さすがの信長もざんげせざるお得なかった云々・・・」の伝承があり、

 このあたりは往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所に該当する遺構があったのではと推測され、応昌寺城はそれに関連する城郭か。

また、応昌寺はその昔「高源庵」と呼ばれ”とんちの一休”で知られた一休和尚の師の華叟宗雲禅師が京都より堅田の称名寺祥瑞寺を経てここ高源庵に住まわれたとの古伝もあり、堅田とこの高源庵の深いかかわりも考えられ、その墓塔が応昌寺に建ている。

応昌寺の裏に”一休和尚”の墓

道案内

塩津小学校に至る。校門を入った右手に公園へ通じる散策道があり、それを登ると城跡

城跡は塩津小学校の南に面した標高146mの小山で、頂部一面公園施設になっている。

城山へ

林道に出ます

林道を横切って、そのまま東へ

林道の東の概要図

マユミの紅葉と実

東側曲郭へ

戻ります

林道です応昌寺の裏に”一休和尚”の墓応昌寺

神照寺

三重荒神碑と参道(神照寺の庫裡の裏)

西浅井杉林が城址小学校の前のスキー場(頂部応昌寺城)

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』1(1983.3)「伊香郡・東浅井郡の城」、遺跡ウォーカー 

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塩津浜城(塩津浜山城) 近江国(西浅井)

2015年12月07日 | 丘陵城

 

 

 お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町塩津浜(旧・伊香郡) map:http://yahoo.jp/cl_pF1

別 称:塩津浜山城

現 状:森林

区 分:山城

築城期:南北朝期

築城者:熊谷氏

標 高:212.5m   比高差:128m

遺 構:三曲郭、土塁、堀切・二重堀切、犬走り、竪堀、土橋、

訪城日 :2015.12.6

お城の概要

 塩津浜山城は、塩津浜集落の塩津神社および真宗大谷派の浄光寺の北方裏山に所在している。
琵琶湖の最北端の港で、古来より今津、海津とともに「湖北三津」と称せられ、かつては敦賀と大津その他琵琶湖の諸港を結んだ要港として栄えた。
城跡は、琵琶湖や塩津港を眺望できる絶好の高台に立地しており、常に港に出入りする諸船の動きを監視していた。
 縄張りは、尾根筋の標高212.5mから154.3mの間に三ヶ所の堀切を穿ち、各堀切に接した下方に土塁や郭、犬走り等を築いている。特に中央部の段郭や帯郭は良く削平され、切岸が鋭く、本城の中枢部と考えられる。
最高所の二重堀切は、大平山の上部より遮断。堀切が異様に目立つ、主郭部(旧愛宕社址)の曲郭から琵琶湖への眺望が印象的である。

歴 史

塩津浜は関東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃(1293~99)に補任してきた熊谷氏に関わりのある城郭と考えられているが、城歴の詳細は不明である。
この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

 「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

 

 旧塩津海道より遠景

近江熊谷氏

熊谷直貞の長男・直正が、近江国浅井郡塩津郷に住んだことに始まる。熊谷氏惣領を称した。室町時代には足利家奉公衆として室町幕府に仕えている。「塩津熊谷衆」はその筋にあたる。 近江国で地頭職を与えられ、赴任して以後、湖北地方一帯に勢力を延ばした。

系譜

『系図纂要』や『姓氏家系大辞典』(太田亮著)によれば、直正以下に4代みえている。熊谷直正━忠直━景貞━直綱━直朝と続いている。また一説によれば、直実━直方━忠通と続き、孫の直綱、その子・直朝とする説もあるという(『姓氏家系大辞典』)。

一族

  • 熊谷直鎮:備中守。六波羅退治「勇傑十六将」の一人として随一の奉公をし軍功を得る。
  • 熊谷直純:室町幕府奉公衆。将軍足利義政の政務に関して目安の手紙を送ったところ追放させられる。その後、高野山で出家。
  • 鳩居堂:近江国今西熊谷氏系統。 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会の資料

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126日 城歩会 無料見学城跡めぐり、城跡トレール調査

 �     長谷川博美Eメール  wwmy29831@maia.eonet.ne.jp

�    『城歩会』事務局 ●宮本まさこ 携帯 090-1583-9033

126() 講師長谷川博美 塩津城&塩津浜城『城歩会』無料見学会

集合場所 長浜市西浅井町 道の駅無料駐車場10時講師長谷川博美事務局宮本
 1 10時 道の駅駐車場(北端の観光案内展示場)受付
  • 塩津城祝山出丸
  • 塩津城東出丸
  • 塩津城本丸
 
  • 塩津浜城第一堀切郭
  • 塩津浜城第二堀切郭(本丸相当)旧愛宕神社址/奥琵琶湖展望
  • 塩津浜城第三堀切(二重堀切)

 

  • 大平山城候補地簡易測量調査
9 16時 道の駅駐車場帰着解
 

塩津城東出丸 近江国(塩津)

2015年12月07日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地: 長浜市西浅井町塩津浜(旧伊香郡) map:http://yahoo.jp/t1FdvI

築城年:南北朝期

築城者:熊谷氏

区 分:丘陵城

標 高:155m  比高差:50m

遺  構 : 土塁、曲郭、切岸

駐車場:道の駅 塩津海道あぢかまの里駐車場

訪城日 :2015.12.6

お城の概要

 琵琶湖では古代から湖上交通が盛んに利用 され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達していた。このうち塩津と敦賀を 結ぶ深坂越えの塩津道が最も古い陸路であったと考えられており、塩津浜は水陸交通の要所の地であった。

 塩津城山は、塩津浜の集落と北隣の集落の祝山(ほおりやま)との間にあり、東から西へ突き出した尾根の先端部を掘り切って独立した山塊とし、その山上に築かれたのが塩津城山城である。

 東背後の堀切は、大きく掘り下げられて塩津浜と祝山を結ぶ道路が通されている。その堀切と箱堀の間が東郭で郭内は二段に築成されている。箱堀の西側が主郭で、箱堀沿いには多聞櫓が構えられるような幅の広い土塁が築かれている。主郭の西側に急な切岸の二段の段郭が続いている。主郭と箱堀の南側と北側に跨って帯郭が設けられている。城の周囲は、急斜面の高低差の大きい切岸となっている。

塩津城東出丸は、城山城の東背後の丘陵にある、堀切で大きく掘り下げられて塩津浜と祝山を結ぶ道路が通されている。曲郭や土塁、

 

歴 史

 東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃に補任してきた熊谷氏の居城と云われる。
この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

 「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

新しい熊の爪跡

  参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会の資料

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塩津城出丸(祝山(ほおりやま)城) 近江国(塩津)

2015年12月07日 | 丘陵城

 

お城のデータ

別 名:祝山(ほおりやま)城

所在地: 長浜市西浅井町祝山(旧伊香郡) map:http://yahoo.jp/2b7l3j

築城年:南北朝期

築城者:熊谷氏

区 分:丘陵城

標 高:170m  比高差:85m

遺  構 : 土塁、枡形虎口、曲郭、切岸

駐車場:道の駅 塩津海道あぢかまの里駐車場

訪城日 :2015.12.6

お城の概要

 琵琶湖では古代から湖上交通が盛んに利用 され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達していた。このうち塩津と敦賀を 結ぶ深坂越えの塩津海道が最も古い陸路であったと考えられており、塩津浜は水陸交通の要所の地であった。

 塩津城山城は、塩津浜の集落と北隣の集落の祝山(ほおりやま)との間にあり、東から西へ突き出した尾根の先端部を掘り切って独立した山塊とし、その山上に築かれたのが塩津城山城である。

 東背後の堀切は、大きく掘り下げられて塩津浜と祝山を結ぶ道路が通されている。その堀切と箱堀の間が東郭で郭内は二段に築成されている。箱堀の西側が主郭で、箱堀沿いには多聞櫓が構えられるような幅の広い土塁が築かれている。主郭の西側に急な切岸の二段の段郭が続いている。主郭と箱堀の南側と北側に跨って帯郭が設けられている。城の周囲は、急斜面の高低差の大きい切岸となっている。
登り口が何処か分からなかったので、背後堀切の南端から獣除けフェンスを越えて城跡に入ったが、城正面(西側)に作業小屋があり、その手前の作業小屋の右手奥に登り口があるようである。

塩津城山城出丸(祝山(ほおりやま)城) 

祝山地区への城坂道を下りると墓地がある、墓地への参道10m程登って、西側の林に入ると段築の遺構(旧段々畑のように)が標高170m位まで続くが、西側の谷側に土塁や横矢・枡形虎口の城郭遺構が観察出来る。

祝山城中腹から「塩津城山城」

歴 史

 東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃に補任してきた熊谷氏の居城と云われる。
この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

  参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会の資料

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井上城  近江国(栗東)

2015年12月03日 | 丘陵城

井上城・・・遠景(栗東市井上の上水道施設より)

 お城のデータ

所在地:栗東市井上(旧:栗太郡) map:tp://yahoo.jp/I1wKqp

区 分:丘陵城

現 状:山林

標 高:210m 比高差:40m

遺構等:プリン型郭・帯郭・土塁・堀池

築城期:--期

築城者:宇野氏か?・小松氏か?

目標値:栗東市井上の栗東市上水道施設

駐車場:水道施設前の空きスペースに路上駐車

訪城日:2015.11.5

お城の概要

栗東市上水道で、この西側の丘陵先端が城址。

丘陵先端下の民家裏手から登れる小道があり藪漕ぎでした。山に入るとすぐに獣道のような藪漕ぎ進むと平削地・低土塁なる。さらに藪漕ぎで東に登り、植林された頂部にはプリン型郭、帯郭・土塁が残る。さらに東奥は大堀切のようで、降りてみると北向けに堀・池、南は尾根が続いている。

資料では単郭方形の土塁が残っているが、郭はプリン型、帯郭の北外側に土塁残る

金勝山への参道や信楽への間道の監視・敬語をしていたか?

お城の歴史

詳細不明

平家の落武者伝承

 一説には、小松宗定は平重盛の末裔で、名前を平宗定といい、当地に落ち延びた宗定は、高野左衛門尉と称し、平家一門追善のために開いたとも言われています。

また、新善光寺は、金勝寺別院の一つだったとされる多福寺が前身であったのではないかと推測されています。

 栗東には、その他にも平家の落武者伝承は残っていて、金勝寺で仏門に入り、修行を積んで山麓に御堂を建て、農業をしながら平家一門の菩提を弔ったという三因寺(栗東市井上)や出家して金勝寺で修行し、金勝山にある国見岩より故郷を偲んだとされる伝承などが残っています。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市観光協会HP

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山上城(山上陣屋) 近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 丘陵城

お城のデータ 

所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町山上 map:http://yahoo.jp/yHANDI

別 名:山上陣屋(江戸期)

区 分:丘陵城

築城期:平安末期 明応8年(1499)頃

築城者:小倉右近大夫賢治

遺 構:堀・石積・城跡碑

目標地: 安養寺

駐車場:安養寺の参拝者用駐車場

訪城日:2015.11.14

和南川の氾濫で流出した、山上城の跡地に安養寺を建立を生保4年に建築した。

お城の概要

安養寺があり、ここが城跡。安養寺山門前に【城址碑と文字】

山上城は愛知川の左岸、鈴鹿を超えて伊勢に通じる八風街道(国道421号線)沿いに築かれており、現在の浄土宗向上山安養寺、および旧永源寺役場一帯が城址である。

 安養寺境内には石碑が建てられており、この石碑付近が本丸跡とされる。安養寺東側の竹藪との境には堀跡が残っている。

歴 史

愛智郡小椋(現:東近江市(愛東町)小倉)に平安末期より小倉城を本拠とした小倉氏一族の城です。

小倉氏は室町中期に分裂し山上城を居城とする小倉氏は西家と呼ばれるようです。

 山上城は小椋荘、柿御園荘一帯に勢力を持っていた小倉氏が、伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に目をつけ、応仁の乱の頃より山上城を主力に山城として山田城、八尾城を築いたものである

 山上城は南北朝時代より小倉氏累代の居城として栄え、元来小倉(愛知郡愛東町小倉)を本拠としていたにもかかわらず、戦国時代になると、高野にも本拠が置かれるような形になった。

 小倉氏の居城は発祥の地愛知郡小椋庄に小倉城を有したが、室町中期に小倉家は3~4家に分家し小倉本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城・鳥居平城・長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、神埼郡御園庄(山上郡)を支配する小倉西家は山上城を本拠として和南城・山田城、相谷城・九居瀬城・八尾山城等の支城を設けた。

小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。

 

 元禄11年(1698)徳川幕府譜代の大名稲垣安芸守重定が1万3000石の諸侯に列せられて常陸の国より、近江国野洲・蒲生・神崎などの地を賜って神崎郡山上郷に山上陣屋を設けたのが山上城の跡地である。

 

 

 

お鍋の方

佐々木六角承禎の家臣 土豪:高畠源十郎(真二郎とも)の娘として近江八幡小田で生まる。佐々木六角承禎の重臣 はじめ高野城主である小倉実房に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。実房が戦死した後は信長の側室となり、織田信高(七男)・織田信吉(八男)・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。

 その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸・布施九郎らと共に討ち死にした。

鍋は信長の2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は鍋は、豊臣秀吉の奥向きの女房(侍女)として取り立てられる。秀吉や、秀吉の正室の高台院、側室の京極龍子から多大の信頼を得る。
 近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。
また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉と共に、石田三成側に立ったため、母子共に、徳川家康によって領地を没収される。
その後、高台院と豊臣秀頼から禄を与えられ京都で暮らし、慶長17(1612)年に没した。
 その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

小田(近江八幡)には、お鍋さんの屋敷跡」が残されており、お鍋の弔いお鍋塚の伝承地の「お鍋の松」は枯れ、今もその後に植えられた3本の松が残されている。

 信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。

  小倉鍋(おぐらなべ)(鍋(なべ)の方(かた))は、本能寺の変後信長の遺品を岐阜へ持ち帰り、信長が岐阜時代に祈願所としていた崇福寺へ納めて、信長・信忠(6月2日、二条御所で明智光秀勢に襲撃されて討死)父子の位牌を安置し、供養塔を建ててここを廟所としました。
 このことを同寺に依頼した鍋の書状が二通残されており、いずれも流麗な仮名文字で書かれています。
 一通は、「天正拾年(1582年)六月六日」の日付があり、信長が本能寺の変で倒れた4日後です。変後の混乱を恐れて信長の祈願所であった崇福寺へ「上(うえ・信長)の位牌所」とする旨を伝え、あらためて保護を依頼したものです。
 もう一通は、信長の重臣であった丹羽五郎左衛門(長秀)へあてたもので、日付はありませんが、前の書状に近い時期と考えられます。
 羽柴秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」(6月13日)の後、長良(岐阜市)に陣取った長秀へ、鍋の方が崇福寺で信長との間に生まれた三人の子に「親子の忌中」をさせたいので、長秀に同寺の警護を命じたものです。
 鍋の方は近江国の土豪高畠源十郎の娘です。同国八尾山城主小倉賢治に嫁ぎましたが、夫が反信長の六角氏に攻められて討死しましたので、信長を頼って岐阜城下へ賢治との間に生まれた二人の子どもを連れてやって来たのです。
 信長は彼女を側室とし、岐阜城下に居館を与えて保護しました。二人の間には、信高・信吉・於振(おふり)の二男一女が生まれています。
 崇福寺は現在でも信長ゆかりの品が残されているほか、毎年10月第一土曜日にはぎふ信長まつりにあわせて信長公追悼式が行われています。

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査」・『近江小倉城』・『神崎郡志』『織田信長と岐阜』、他  

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山田城 近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧・神崎郡)永源寺町山上町   map:http://yahoo.jp/gAAbLF

現 状:山上小学校・旧山上小学校

標 高:210m   比高差:30m

遺 構:和南川が前堀、切岸、土塁・堀

区 分:丘陵  

築城者:小倉氏   

築城期:室町期

目 標:山上小学校

訪城日:2015.11.14

お城の概要

山田城は、愛知川本流と和南川の合流点に向かって北北西に伸びる丘陵の先端部に築かれた丘城で、北東面は愛知川に、西面は和南川に向かって急激に20m程落ち込み、背後の南側は120mの比高を持つ山地となる台地状地形を呈している。
現在は、山田城は、和南山から嘴状に突きだした支尾根の先端部を利用した城だ。 西と北側は急斜面で、西を流れる和南川と北を流れる愛知川が堀の役目を果たし、西側にある八幡神社から見ると比高もあり、築城に適した要害の地と云える。

 現在は、山上小学校の旧敷地となっていて、城の遺構は何も残っていない。 八幡神社から小学校への登る「肥後坂」(旧小学校敷地東側)辺りが城跡の雰囲気を残していた。 

山上小学校のグランドの南に堀と低土塁となり遺構残っていた。県道188号線から小学校へ登る「肥後坂」(旧小学校敷地)や西側の切岸に城跡の雰囲気を残している。

お城の歴史

山田城は、室町時代に山上城主小倉氏によって築かれた。

山田城は、天正元年(1573)に図師越後守定清と見え、弘治年間(1500年代半ば)に六角義賢から感状を
 得た六郎兵衛尉もいる。また文明12年(1480)には、山田姓を名乗る山田右京亮幸実が見える、とあります。

小倉氏は、小掠荘・柿御園荘に勢力をもっていたが、応仁の乱後に山上城を拠点とし、出城の山田城や八尾城(詰め城)を築いた。 

肥後坂から遠景(山上小学校のグランドの南側に堀と低土塁が残る)

肥後坂

肥後坂

山上小学校のグランドの南側に『堀と低土塁』が残る

和南川の切岸の上

さくら -小倉殿の戦いー  より 小牧山へ

中略(抜粋)  夜が明けても、鳥居平城周辺では合戦が続いていた。
翌日、なお長寸城と鳥居平城の間で激戦が繰り広げられていたが、その分、愛知川沿いは比較的安心で、お鍋の一行と共に高野へ向かった。
「ご夫君が右近大夫殿に従うとすれば、それは八尾城が、山田城と山上城に近すぎるためです。両城から攻められることを恐れてのこと。でも、山田城の左近助殿がご本家側になれば、ご夫君もご本家側になられるかもしれません」

左近助は和南山の戦いでは静観していた。本家側ではなかったが、右近大夫に加勢したわけでもない。
 お鍋は納得したのだ。「先ず高野に帰って、ご夫君を説得するのです」「息子の命がかかっているのですもの。必ず説得します」 お鍋は強く頷いた。
「右京亮様は、八尾城でございます。山田城への攻撃のために──」
 八尾城に着いた時にはすでに宵の口で、戦支度は万端整っている。これは攻撃を止めさせることは不可能ではないかと、第六感が語っていたが、焦りがそれを否定していく。
 結局、翌日、右京亮は山田城を攻撃した。 右京亮に山田城を攻めさせたのは右近大夫だが、それには理由がある。
 長寸城の本家側はしぶとく、鳥居平城に何度も仕掛けてきていた。そして、蒲生家がいつ参戦してくるかわからない。
 右近大夫は確実に味方を確保しなければならなかった。鳥居平城を一旦諦めてでも。いつまで経っても態度をはっきりとさせない左近助を脅す目的で、山田城を攻撃させたのである。
まさしく右京亮が、山田城を攻撃しては誘ってきていた時分。 山田城が随分破壊された後であった。
**********************

 翌日は突然の激戦となった。
永源寺が突然、高野に繰り出してきたのだ。 永源寺の僧兵を率いているのは、九居瀬城主の小倉行国。永源寺は六角家に深く帰依されているから、謀反人は許せないのである。 攻められたら、応戦するしかない。右京亮は永源寺の兵に当たる。
右近大夫は永源寺に攻めて行くと、焼き討ちを開始した。永源寺はびっくりし、慌てて高野館から引き上げると、消火に奔走。その後はなりをひそめてしまった。
 右近大夫は勢いのまま、行き先を近くの相谷城に変更し、一気に押し寄せて行く。
 相谷城の面々はろくに戦わずに敗走。残された城兵たちは降伏した。
 その兵たちに、今度は九居瀬城を囲ませ、右近大夫の本隊はついに小倉城へ向かって行った。
  右京亮が行く前に、右近大夫が小倉城攻撃を開始してしまうだろう。「とりあえず、八尾城に行こう」 いったん高野を捨て去って、八尾城で陣を立て直すことにした。
 小倉城にはすでに、右近大夫が永源寺焼き討ち、相谷城を落とし、さらに九居瀬城への包囲などが伝わっている。
 左近助は山田城を右京亮に攻められたために、兵をそちらにも多く割いていたため、小倉城はやや手薄気味である。
 右近大夫についに取り囲まれたこと、そして、右京亮が永源寺と戦ったことなど、すでにお鍋の耳にも達している。右京亮が永源寺と戦になったのは、やむを得ない状況だったわけだが、そこは正確には伝わらないのが戦場だ。
「織田家家臣・滝川一益の手のものにござる。お助けに参りました」音もなくお鍋の傍らに寄った。(忍の者?)「主・滝川は甲賀の人なれば、ご存知やに存じまするが?」 しかし、今、織田家家臣と言ったような。
「相谷城の面々が敵に降伏、寝返って九居瀬城を包囲し──永源寺と戦った高野の面々は八尾城に籠もった──なるほど、右近大夫に囲まれても、この城に助けに来る軍勢は一つもないわけか。仕方ない……」 左近助は覚悟を決めたらしい。
ついに開戦となり。しばらくして小倉城は落城寸前にまで追い込まれる。城主・左近助の命は風前の灯火であった。小倉良親と言う人がいる。彼は相谷城にいたが、辛くもそこから逃走して、小倉城に向かおうとしていた。小倉城の現状を知る由もなかった。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』『近江小倉城』『小倉殿の戦い』

   今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


高野館(お鍋館=姫屋敷) 近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 丘陵城

虎口・・・信長の側室お鍋方(元小倉右京亮の正室)

お城のデータ

別 称:お鍋館・姫屋敷

所在地:東近江市(旧・神崎郡)永源寺高野町 map:http://yahoo.jp/IZ83KA

区 分:平城(河川段丘)

現 状:田畑地

遺 構:石垣、虎口

築城期:織豊期

築城者:豊臣秀吉

城 主:お鍋の方・羽柴武蔵守信吉は(信長とお鍋の子・織田信吉)

城 域:約80m×50m

標 高:205m  段丘下より比高差15m

目標地:紅葉橋・高野神社の鳥居

駐車場:路上駐車

訪城日:2015.11.14

お城の概要 

高野館は、高野地区の西端部、愛知川を見下ろす位置に築かれていた。 発掘調査の結果、石垣や虎口などが出土したが現在は埋め戻されている。

高野館、西辺には川原石を用いた野面積みの石垣が約50m程の長さに渡って残されていた。

現在も『姫屋敷』『お鍋館』には、本丸には本丸櫓跡や空堀が残り、穴太積(あのうづみ)の石垣が東西約七十mの長さで比較的良く保存されている。城跡は、全面水田に耕作されていて、前の細い田が堀の名残りといわれている。」とあります。

「姫屋敷」「お鍋館が位置している、愛知川右岸を下流へ行くと高野神社があり高野の集落で、旧八風街道の紅葉橋近く。

 

虎口

段丘下から望む

 

近江国の高野城主である小倉実房に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。

和南の合戦
右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、

  • 永禄元年(1558)織田信長の八風峠越えの道先案内が縁で手を組む、これより佐々木六角との関係を断つ。
  • 永禄2年(1559)の信長上洛の帰路では美濃衆の襲撃を回避する為に、小倉領から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと抜ける八風峠越えを行ったが、実房その際に織田軍の水先案内を務めた。
  • 永禄3年(1560)六角のゆかりの寺院永源寺に放火
  • 永禄4年(1561)永安寺・興源寺・退蔵寺他永源寺はの寺院に放火
  • 永禄13年(1570)に起きた金ヶ崎の戦いでも千種越えに協力して織田軍の岐阜城帰還を助けたが、
  • これに怒った六角義治承禎攻められ、八尾城で小倉右京秀切腹

実房の死した後は、信長の側室となり、信長の七男織田信高・八男織田信吉・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した(信高は1600年、関ケ原の戦いで西軍に加わり)後は、信長の側室の代表的存在として行動し、織田家の位牌所を守ったとされている。ただし、崇福寺に残る位牌所設置の書状の署名が「なへ」であるため、興雲院の書状であろうとされているが、「なへ」は当時の一般的な女性名であるため、興雲院ではない可能性もある。なお、次男・松千代は本能寺で信長に殉じた。こうした経緯を経て羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領(化粧料とも)として近江国愛知郡182石を与えられた。その翌年には更に400石を加増される。

秀吉の正室・北政所(ねね)に仕えて、孝蔵主・東殿(大谷吉継の母)と共に側近の筆頭

小倉右京太夫との長男・甚五郎が天正11年(1583)に加賀松任城主に任じられたという記録もあり。 

 信高は(1600年、関ケ原の戦いで西軍に加わり)、信高は愛智郡菩提寺村、神崎郡山上村などに2000余石、信吉は近江国神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに2000余石を与えられ、信吉は高野に城を築き居住したとされる。

関ヶ原の戦いで信高、信吉は西軍に加わったため改易、お鍋の領地も召し上げられた

 しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け、お鍋も京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。

『日本城郭体系 11』によりますと、城の歴史は「織田信長は近江へ入ると、永禄11年(1568)9月、永源寺に安堵書を与え、信長の側室「お鍋の方」の館がこの地に造られた。

「お鍋」は信長との間に二男一女をもうけて高野城に安穏な日々を送ったが、天正10年(1582)6月2日、本能寺で信長が討たれたのち、安土城は焼亡し、「高野城」も明智の支配下となり、「お鍋」もわずかの家臣と共に行方をくらました。』

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『近江神崎郡志』『日本城郭体系11』

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高野城   近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地 : 東近江市(旧神崎郡永源寺町)高野町 map:http://yahoo.jp/8mAbQx

区 分:丘陵城

築城年 :南北朝期      改築年 :織豊期

築城者:小倉右京亮実房   改築者:織田信吉

城 主:小倉右京亮実房   城 主:織田信吉

遺 構:土塁・基壇・堀・区割

現 状:圃場・森林

城 域:約80m×50m

標 高:210m ここから比高差9m

目標地:紅葉橋・高野神社の鳥居

訪城日:2105.11.14

駐車場:路上駐車

 旧八風街道沿い

お城の概要 

比定地(高野集落の北端の田地・林)

お城の概要

 高野城は、近江の古刹の一つである臨済宗の永源寺が近くに有るにも関わらず、その膨大な数に上る永源寺所蔵の中世文書にすら構築された年代や累代の城主名等を明らかにするような資料は残っていません。

 高野城は、縄張り等を示す絵図面もなく、「城屋敷」という小字名が残っているに過ぎません。

「姫屋敷」のお鍋館も含めて、小倉氏の河川段丘上の城。ここでは「城屋敷」を高野城とする。「姫屋敷」「お鍋館」は別途にする。

 

ここは、高野城は愛知川の河岸段丘上に有り、この八風峠越え(現在の根の平峠)を滋賀県側に下った通称八風街道と対峙する位置にあり、愛知川が天然の要害となっています。 

高野街道

高野城へ

高野城址

城跡は、全面水田に耕作されていて、前の細い田が堀の名残りといわれている。

一部は森林が残っています

西の段丘の出丸へ

河川段丘の下から…綺麗に下草の除去で石垣が(後世の土留め石垣か?)

歴 史

応仁の乱以降に愛知川沿いに展開する土豪の城砦や館のうちの一つですが、近くにある和南城とともに愛知川の上流に位置しています。

伊勢の国に通じる間道が集中しているところで、佐々木氏の部将小倉氏が「君が畑越え」、「八風峠越え」、「千草越え」といった交通の要衝に目付役を置き監視に当たらせた所です。

  高野城の築城年代は定かでないが、小倉氏によって築かれたとされる。小倉氏は、小倉城を本拠に蒲生、神崎、愛智郡の東部に勢力を張った一族で、室町中期になると三、四家に分流し、愛知郡小椋庄を領地とする小倉東家が高野城、小倉城を本拠にするようになった。

 本能寺の変後、秀吉より織田信吉は近江国神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに2000余石を与えられ、信吉は高野に城を築き居住したとされる。

『関原軍記大成』などでは、信高は弟信吉・信貞らとともに西軍に属して戦後赦免されたとする。弟信吉と同様に西軍に属したために失領したと思料される。もっとも、本戦に参加したとする記録はない。信高、信吉は西軍に加わったため改易、お鍋の領地も召し上げられた

 しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け、お鍋も京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・神崎郡志・安土城郭研究所、『日本城郭体系 11』

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武曽館 近江国(高島)

2015年11月10日 | 丘陵城

 お城のデータ

所在地 : 高島市(旧高島郡)高島町武曽横山 map:http://yahoo.jp/Bv006D

区 分:丘城

現 状:宅地・竹林

築城年 :室町期

築城者:横山頼信  (佐々木高信の孫の頼信が高島氏を称え、その孫・頼信

遺  構:土塁、堀

目標地:日吉神社

駐車場:日吉神社の空きスぺース

訪城日:2015.11.7

 

お城の概要

武曽集落は丘陵先端部に位置し、鴨川支流を西の堀に琵琶湖に向けて構える。

詰め城部カ? http://yahoo.jp/vkXwPs

『日本城郭大系』には、武曽集落の氏神である日吉神社の北西背後の丘陵上に土塁と堀に囲まれた削平地を横に連ねた遺構が残っているとする。

また、『滋賀県中世城郭分布調査』には、城郭体系の山城とともに日吉神社南東の土塁が残る居館跡を報告しており、武曽城は居館と詰城からなる城郭であったようだ。

武曽館

  • 居館は、武曽集落の東端付近で日吉神社の鳥居から100m程、東に行った道路北側の資材置き場のような建物の裏手にある。                               藪の中に西面、北面、南面の明瞭な土塁と堀が残存している。北西角では折れが見られ、東面は斜面となっているようだ。が、遺構付近の竹の繁茂は激しく、郭内へは立ち入り困難。

  • また、日吉神社の鳥居から100m程、西に行った道路の北側添いに土塁を伴った郭(館)が鴨川支流を堀に残存する。横山氏の一族か?。臣下の屋敷か?。

お城の歴史

横山城の支城で、佐々木氏庶流で高島七頭の一人で武曽横山を所領とした横山氏の城館とされる。

横山氏は、近江国守護・佐々木信綱の二男・高信が高島郡に移り、高信の孫の頼信が高島氏を称え、その孫・頼信が横山に移り住み横山氏を称えたことにはじまるとされる。

横山下野守高長のとき、浅井長政に攻められてその軍門に降った。しかし、元亀三年(1572)に織田信長に攻められて降伏した。翌天正元年(1573)には、同じく信長に降った(南西500mのところにあ)る伊黒城が、長政に攻め落とされている。その後の武曽城および横山氏について詳細は不明である。

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「高島郡高島町武曾横山」、形式は「平山城」です。城の歴史は「武曾城は、横山城の支城で、横山下野守高長のときに浅井長政に攻められて、横山の本城と共に敗れ浅井氏に降った。そして元亀三年(一五七二)、今度は織田信長の攻略によって降伏する。現在、武曾には字名として中殿・中殿前・大門等々が残っている。武曾城は、日吉神社の北西に位置し、南面は鴨川が西から東へ流れている。武曾城の本城横山に対する役割は、横山城が八田川を中心に北面を治めていたのに対して、武曾城は立地から鴨川を中心に横山城の南面を守るために築城されたものと解釈することが許されるであろう。」とあります。なお、高島郡高島町武曾横山は現在高島市武曽横山になっています。

次回に・・・・山上『詰め城』は、ここかhttp://yahoo.jp/vkXwPs

武曽集落(武曽城)  http://yahoo.jp/Am7OzR

  • 日吉神社・武曽集落

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日吉神社境内の神社 土塁・平削地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、 日本城郭体系、高島の城、淡海の城

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