お城のデータ
所在地:長浜市高月馬上 map:https://yahoo.jp/zWND5D
現 状:集落・宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:伊吹氏
遺 構:?
目標地:走落神社
駐車場:走落神社前路上駐車場
訪城日:2018.5.20
お城の概要
国道365号線の山田川の阿弥陀橋を渡り、ここはすぐ国道から離れて右手の道をとる。この先は水路が流れる風情ある馬上(まけ)の集落が続く。右手の奥に走落神社がある。式内社で由緒があるが、旧堂は山の上にあり、明治の台風で崩壊、改築で現地に移転してきた。
神社を過ぎた先の三叉路の所に指先付の「左北国きのもと道」の道標が立っている。道標に従いここを左折して国道と合流する。
お城の歴史
走落神社の由緒
北国脇往還路として武門武将の往来繁く、この鳥居を通過の際は、必ず下馬拝礼した後に乗馬したと伝え、今もこの鳥居の近くに馬乗場という地名も現存する。天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。
Wikipediaには、、走落神社 (長浜市高月町馬上)
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに向かう豊臣秀吉は、当神社の鳥居の前で下馬し、必勝を祈願したと伝わっている。
高月町馬上の歴史
戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 馬上 住 伊吹源十郎」の名を記す。高月町馬上集落には、伊吹氏館が存在した。
『ウィキペディア』には、「戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。」織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です。
信長公記 巻六 元亀四年
11、決壊 阿閉謀叛の事
8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。 ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町
12、追撃 大筒・丁野攻破らるるの事
信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。
降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。
信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。
大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。
このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。
①現滋賀県木之本町内
天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。
江戸期には、近江彦根藩の武士に、140石取りの都筑弥次右衛門家という武士の家がある。彦根藩は平士以上は知行50石以上(江戸時代初期は35石)であり、馬上が許されました。直参の知行取の人数は時代によって異なりますが、明治元年の「侍中由緒帳」(彦根藩井伊家文書)による
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia(高月町馬上)、走落神社の社伝、『江州佐々木南北諸氏帳』
https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1325748777587694
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