城郭探訪

yamaziro

馬上(まけ)城 近江国(高月町馬下)

2018年05月22日 | 居城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:長浜市高月馬上 map:https://yahoo.jp/zWND5D

現 状:集落・宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:伊吹氏

遺 構:?

目標地:走落神社

駐車場:走落神社前路上駐車場

訪城日:2018.5.20

お城の概要

国道365号線の山田川の阿弥陀橋を渡り、ここはすぐ国道から離れて右手の道をとる。この先は水路が流れる風情ある馬上(まけ)の集落が続く。右手の奥に走落神社がある。式内社で由緒があるが、旧堂は山の上にあり、明治の台風で崩壊、改築で現地に移転してきた。
 神社を過ぎた先の三叉路の所に指先付の「左北国きのもと道」の道標が立っている。道標に従いここを左折して国道と合流する。  

お城の歴史

走落神社の由緒

Hashiriochi shrine.jpg

北国脇往還路として武門武将の往来繁く、この鳥居を通過の際は、必ず下馬拝礼した後に乗馬したと伝え、今もこの鳥居の近くに馬乗場という地名も現存する。天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える

Wikipediaには、、走落神社 (長浜市高月町馬上)

 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに向かう豊臣秀吉は、当神社の鳥居の前で下馬し、必勝を祈願したと伝わっている。

高月町馬上の歴史

戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。

 『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 馬上 住 伊吹源十郎」の名を記す。高月町馬上集落には、伊吹氏館が存在した。

『ウィキペディア』には、「戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。」織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です

これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。

信長公記 巻六 元亀四年

11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  

①現滋賀県木之本町内

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、家、屋外

天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 江戸期には、近江彦根藩の武士に、140石取りの都筑弥次右衛門家という武士の家がある彦根藩は平士以上は知行50石以上(江戸時代初期は35石)であり、馬上が許されました。直参の知行取の人数は時代によって異なりますが、明治元年の「侍中由緒帳」(彦根藩井伊家文書)による

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia(高月町馬上)、走落神社の社伝、『江州佐々木南北諸氏帳』

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1325748777587694

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箕作城(箕作山城・清水山城)近江国(五箇荘)

2018年05月19日 | 山城

 

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡の)五個荘山本町  map:http://yahoo.jp/8eDKEd 

別 称:清水山城

区 分:山城

現 況:山林  

築城期:鎌倉期

築城者:六角政尭

遺 構:石垣・土塁・城跡碑・案内板:

標 高:325m 比高差:200m

目標地:貴船神社

駐車場:山本自治会館か・路上駐車

訪城日:2016.11.5

お城の概要

箕作城は、観音寺城と中山道を挟んだ南側に2つある山のうち、北側の峰上にあります。こちらの山を通常清水山と呼び、南箕作山と地元住民は呼び。すなわち、箕作(山)城は箕作山の上の箕作城には数千人を収容できるほどの規模はないため、南の箕作山には小脇山城がある。

城跡へは、北麓の貴船神社脇が大手であろう。南東麓の建部神社脇からは、近年地元住民が登城路を整備、西の主郭から、北西麓の清水鼻へ搦め手道か?

 今回は貴船神社参道脇から登下山した。尾根筋に出てすぐに、箕作城址石碑(大正期)が建つ。縄張り図によっては、ここも城内に含まれているのですが、石碑や鉄塔の建設によって地形が改変されいる。また比高差200mの急斜の尾根上で土塁は低土塁で

 主城域は、大きく分けて東西2つの曲輪からなっる。東側の曲輪が清水山山頂(城石碑建つ)にあたり、西の主郭には、石垣がわずか残る。両曲輪とも、城外側に虎口跡と石垣の痕跡が見受けられます。また、両曲輪とも樹木が伐採されていて、眺望絶景となって中山道のいます。、鉄塔建て替え工事に伴うものだ。新調された鉄塔の脇には、土塁跡

箕作城は、石垣や虎口を備えてはいるものの、両曲廓の尾根道脇は、5mの規模で、とても3千人が籠城。城内だけでなく清水山全体に陣取っていた。。

お城の歴史 

 応仁の乱の後、六角高頼に対抗するため、幕府が送り込んだ佐々木政尭が清水城を築いて籠城したといい、これが箕作城の前身とも云われる。 

永禄11年(1568年)織田信長が六角氏の観音寺城を攻めたとき、六角氏は箕作山城に建部源八郎と吉田出雲を入れて守りを固めた。しかし、佐久間盛信や木下藤吉郎などが攻めかかって城は落城、六角父子は夜陰に紛れて甲賀へ逃れたと云われる。

箕作城 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館。

本丸の石垣がわずかに残る。

  • 応仁の乱で六角高頼の観音寺城に対抗して佐々木政尭(まさたか)が築城。

  • 天文19年(1550)頃、佐々木六角高頼が改修。
  • 永禄11年(1568)、織田信長の攻撃で落城し以後は廃城となった(観音寺城の戦い=箕作城の戦い}。

観音寺城の支城です。六角定頼が天文十九年(1550年)に改築城しましたが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました

 

信長公記 巻一

4、上洛  信長入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるるの事

 永禄11(1568)年9月7日、信長公は義昭殿の元へ参上し、出陣の挨拶を述べた。

「江州をひと呑みに討ち果たし、お迎え申し上げる」
そうして信長公は濃尾勢三(信長所領の兵に家康の援軍も加え、総勢四万~六万と伝えられる。)四州の軍兵を率い、同日岐阜を出立した。

 軍勢は平尾村(現岐阜県垂井)で夜を明かして翌8日江州高宮(現滋賀県彦根市)まで進み、この地に二日間滞在して人馬の息を休めた。11日になって休息を終えた軍勢は愛知川近辺まで進軍して野陣を張った。ここから馬を駆けまわして付近の敵状を探索した信長公は、沿道に散在する敵城には目をくれずに進軍し、六角承禎親子が立てこもる観音寺城(現・安土町)に近接する箕作城(現五箇荘)へ向かった。翌12日、信長公の命を受けた佐久間信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽長秀・浅井新八らによって箕作城の攻撃が開始された。攻撃は申刻(午後3時過ぎ)より始まり、夜半に城は落ちた。

 信長公の所領となってまもない美濃の将士は、この戦ではさだめし先手として追い使われることになろうと覚悟していた。しかしいざ戦が始まってみると、信長公は美濃衆などに構わず馬廻りだけで攻撃を開始してしまった。この思いもよらない戦の仕方に、美濃三人衆などはただ驚くばかりであったという。

 落城後、信長公は箕作山に陣を据え、翌日にも六角氏の本拠観音寺城を攻める勢いを示した。ところが箕作の陥落をみた承禎親子は抵抗は不可能とみて城を捨てて逃亡してしまった。翌日織田勢はやすやすと観音寺城へ入城を果たした。観音寺落城によって付近の六角残党が軒並みに降伏してきたため、信長公は人質を差し出させた上で彼らの所領を安堵してやり、一国を支配下に収めた。盟約通り江南を平定した信長公は、14日不破光治を迎えの使者に立てて美濃立正寺へ向かわせた。・・・云々

箕作(みつくり)城の戦い

  箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

  これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。そこで秀吉は蜂須賀正勝の夜襲案を採用することにした。

 1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、いわゆる火攻めを行うというものだった。それと同時に秀吉隊も手に松明をかざして一斉攻撃を展開したために城兵たちも防ぎきれず、2百余人の犠牲者を出して退散してしまったのである。

 この箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。翌日になって義賢父子が逃亡したことがわかると六角氏重臣の平井定武・後藤高治らもことごとく信長に降った。

  最後まで抵抗の姿勢を示した日野城主の蒲生賢秀(氏郷の父)も、神戸友盛の説得によって降伏した。

 観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

 しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。

 9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった

 戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。

 木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

 長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・『ウィキペディア(Wikipedia)』・『信長公記』

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遠藤嘉右衛門(直経)の墓

2018年05月16日 | 武将

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然

遠藤塚の位置 map:https://yahoo.jp/Oja3cw

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 須川 住浅井隋兵 遠藤主膳 遠藤喜右衛門(直経)」と記す。

遠藤直経(えんどう-なおつね)は、近江の須川城主・遠藤主膳の子として1531年に生まれました。通称は遠藤喜右衛門。

藤家の先祖は近江に所領を得た鎌倉武士で、まだ浅井家が京極家の被官に過ぎなかった頃からの、浅井家における譜代の家臣でした。

要するに浅井家は京極家の家臣だったのですが、浅井亮政が主家の衰退に乗じて下剋上を成し遂げて、小谷城主として独立し、朝倉家の支援を得て戦国大名となります。
すると、遠藤家は小谷城下にある清水谷に屋敷を与えられた重臣となっていました。

他の写真 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1308429692652936

画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、屋外、自然

遠藤直経は浅井家随一の智将写真の説明はありません。

ウィキペディアは、直経は近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)の柏原庄の出身。代々須川山一帯をおさめ須川城を居とした。

赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏被官であった頃以来の譜代の家臣であった。遠藤直経が討ち死にしたと伝わる地に遠藤塚があったが、現在は取り壊され、移転された場所に直経の墓がある(滋賀県長浜市)

遠藤直経

遠藤 直経(えんどう なおつね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将浅井長政の家臣で、知勇兼備の謀将として知られる。通称は喜右衛門(きえもん)。は直経であるが、史料・講談等では遠藤喜右衛門の名で登場する。

 
 
遠藤直経
Endo Naotsune2.jpg
「太平記英勇傳・遠藤儀右衛門政忠(歌川国芳作)」
時代 戦国時代
生誕 享禄4年(1531年[1]
死没 元亀元年6月28日1570年8月9日
別名 通称:喜右衛門または喜右衛門尉
主君 浅井久政長政
氏族 遠藤氏
父母 父:遠藤主膳
孫作、喜三郎[2]仁兵衛

生涯

遠藤氏の先祖は、鎌倉武士の出身といわれ鎌倉時代に近江に所領を得て下向したとされている。直経は近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)の柏原庄の出身。代々須川山一帯をおさめ須川城を居とした。赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏被官であった頃以来の譜代の家臣であった。

小谷城下の清水谷に居館を持つことを許されており、直経自身は子に居城を任せ館に在番していた。直経は浅井長政の傅役的存在で長政が幼い頃から相談役を務めてきた。そのため長政からの信頼が厚く、長政が六角氏攻めを決意するに当たり真っ先に相談をしたのが直経と浅井玄蕃だった。


早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、永禄11年(1568年)、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあった時、近江佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられていた直経は、信長暗殺計画を長政に進言した。しかし、長政(または久政)は毒殺は信義に反するとしてそれを受け入れず、直経も主君の命に背くわけにはいかずに、結局暗殺計画は未遂に終わった。

朝倉氏と織田氏との関係が悪化すると朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかの決断を迫られていた際、直経は織田側につくべきであると強硬に主張した。これには朝倉家当主の朝倉義景の優柔不断な対応に直経が愛想を尽かしていたことに加え、浅井側の重臣として信長と接するうちに信長の内政外交の手腕を高く評価するようになったという事情があった。結果的に長政の父・久政らの朝倉側につくべきとする意見を長政が採用したことから、またも直経の進言はいれられなかった。[要出典]

元亀元年(1570年)の姉川の戦いで、浅井軍総崩れとなって大敗が濃厚となった後、直経は味方武将三田村左衛門の首級を掲げて織田の武将に成りすまして敵陣に入り、信長の暗殺を謀った。しかし本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中重治の弟・竹中久作(重矩)またはその後見として参加していた不破矢足に見抜かれてしまい、捕らえられ斬首され、その首は竹中久作の手柄となった。竹中兄弟は以前美濃国斎藤家を離れた後、客分として浅井家中にあった時期があり、浅井家の重臣である直経の風貌を知っていたためといわれている。

odani84-s小谷城下の遠藤屋敷址(滋賀県長浜市)

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然遠藤直経が討ち死にしたと伝わる地に遠藤塚があったが、現在は取り壊され、移転された場所に直経の墓がある(滋賀県長浜市)

参考資料:現地説明板・ウィキペディア 

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総山城 近江国(長浜 垣籠/米原山東 村井田)

2018年05月15日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ

所在地:長浜市垣籠/米原市山東町村居田   map:https://yahoo.jp/iSGREu

現 状:山林・山頂(古道)

区 分:山城砦

築城期:織豊期

築城者:織田軍(氏家直元か)

遺 構:土塁・堀切・堀割・曲輪

標 高:229m 比高差:100m

城 域:100m✖250m

目標地:長浜垣籠 天満神社

駐車場:天満神社鳥居横駐車場

訪城日:2018.5.11

お城の概要

 長浜市垣篭町と山東町村井田の境界の臥竜の尾根に、横山城から見れば尾根伝いに北の地点、龍ヶ崎砦の中間に、横山連峰の北の端も最高所。

 総山城は標高229mに郭があり、尾根伝いに北に115mの間に6箇所の郭を段城に配し、南に130mの間にも1条の堀切と5箇所の郭を設けており、姉川の古戦場を見渡せる。

最南端は峠道が掘割(高約10m×幅約10m)。これは尾根道を遮断する為に、本来の峠道を”姉川の合戦”の時にさらに掘り下げたか?

 最高頂は曲輪跡、南端の掘割の北側ピークは「犬飼古墳」であり、本来の古墳地形に防禦を加えたか?。垣篭町一帯には多くの古墳が散在する。

お城の歴史

 姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井正澄、弓削家澄、今井氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死した。

朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。一方、初期戦闘で苦戦した織田方では坂井政尚の嫡子である尚経らが戦死している。横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にした。

 城郭資料は不明で、姉川戦いで織田軍の陣城として急造されたか?。規模と築城技術から推測される。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外犬飼坂を登る。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然堀切として、掘下げられた峠道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然長陵への参道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然山城へのハイキング道を北へ

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然南端の犬飼古墳の石碑

画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、屋外、自然古代文字刻印石碑

他の写真

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318668001629105

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318668561629049

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・現地古墳説明板・ウィキペディア

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木尾城 近江国(長浜市浅井町木尾)

2018年05月15日 | 丘陵城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所座地:長浜市木尾 map:https://yahoo.jp/CFa3Ss

通 称:城山

区 分:平山城

現 状:森林(自然林)

築城期:

築城者:

遺 構:曲輪・櫓台・坂虎口

標 高:127m  比高差:20m

目標地:あねがわ温泉(を500m北上北側急陵)

駐車場:南側の城址空地に駐車

訪城日:2018.5.11 

お城の概要

現状、平山で自然林で矢竹の密集で、藪漕ぎして頂部を目指したが、遺構の見学は断念した。

北側の麓に、滋賀県教育委員会の「文化財を大切にしよう」の石柱が二本立っている。

城山の周囲は、農地整備が進み「城山」だけ残るが、その城山に重機で破壊されされ初めている。

お城の歴史

城山(木尾城)について・・・『木尾のいまむかし』・・・(1995年4月 佐治寛一著『喜寿の春』)

『木尾のいまむかし』には、「慶長七年検地帳に地名として掲載され「じようやま」と称しその他古書に散見される。

城山は、壬申の乱の戦跡にして当時近江軍が拠守せし塁砦であり、西北東の三方に城の腰・白渕・古淵の地名が有る様に、川や沼に囲まれた一大要害であった。

麓より弥生時代の石棒が出土(県の博物館に保管されている)、又麓には横穴式の登り釜や八嶋持等跡ある。此の一帯は古くより開かれ重要な位置を占めてた。

アセビ林道に多くの古墳と城郭あるが、この城山を起点してるもようである。調査の結果、中央に大きな古墳が二基ある。

北側には、小谷城へ通じる主要道ある。おそらく中世の烽火(のろし)場であり、小谷城・横山城との烽火の中継点であった思われる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然

他の写真https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318666204962618

参考資料:滋賀県城郭分布調査、長谷川博美氏の資料、『木尾のいまむかし』、遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございます


木尾館  近江国(浅井 木尾)

2018年05月15日 | 居館

画像に含まれている可能性があるもの:屋外木尾町公民館前

お城のデータ

所座地:長浜市木尾町 map:https://yahoo.jp/6bNUoJ http://www.isekiwalker.com/iseki/244276/

現 状:木尾集落宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:早水(速水)大隅守

目標地:木尾町公民館

駐車場:木尾町公民館

訪城日:2018.5.11、2018.5.20

写真の説明はありません。

お城の歴史

『淡海国木間攫』には、「木ノ尾村 枝郷大滝村。野田村ノ南ニアリ。枝郷大滝村ハ北ノ方ノ別住ス。昔早水(速水)大隅守ト云武士居住ス。宅地跡残レリ。当所ニ田根ノ沼云テ二ケ所アリ。民族相伝云」


他の写真https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318666771629228

木尾館遺跡 第5次調査-建物の柱や溝の跡が見つかりました-(木尾町)http://www.city.nagahama.lg.jp/0000000386.html

 木尾館遺跡第5次調査 全景木尾館(きおやかた)遺跡は木尾町にある中世の城館跡として知られています。天守閣などが建っていたような城ではなく、中世の武士が住んでいた居館の跡です。

木尾館遺跡第5次調査は、個人住宅建築にともなう発掘調査です。調査では柱穴や土坑(柱以外の穴など)がたくさん見つかりました。時代は中世で、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの=地面に穴を掘って柱を立てた建物)などからなる集落の跡と考えられます。

 

木尾館遺跡第5次調査 柱出土状況出土品は土師器皿※1や陶器※2、の破片などが見つかりました。中には、縁の部分が焼けこげており、燈明皿(とうみょうざら※3)として使用した跡が残る土師器皿の破片もありました。

柱穴には柱の根元が残っていました(写真中)。柱は立てられたままの状態で出土しました。上の方は腐ってしまっていましたが、残っているものには運ぶ時に引張るためのひもなどを通すための穴が加工されているものもありました。

溝では土が崩れないように板と杭を用いて土を留めた板柵土留がされていました。(写真下)

木尾館遺跡溝第5次調査 板柵土留

 ※1 土師器 素焼きの焼き物 ※2 陶器 窯で焼かれた硬質の焼き物 ※3 燈明皿 電気の無かった時代に、明かり用に皿の中に油を入れ、ひもをつけ、火をつけたもの

(平成25年7月10日発行)

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『淡海国木間攫』、発掘調査報告書

本日の訪問ありがとうございす。


観音寺城(御屋形・大手道・観音寺城・桑実寺) 

2018年04月29日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:木画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然、水

山麓の御屋形跡の土塁画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然本丸

 

「戦国の近江」地域の魅力発信事業・連続講座「近江の城郭 足利将軍と近江」第5回足利将軍と近江

  応仁元年(1467年)に始まる応仁・文明の乱は、約11年間にわたり、全国を戦乱の渦に巻き込みました。その結果、室町幕府の権威は衰退し、各地に実力で領国支配を成し遂げる戦国大名が台頭します。戦国時代の幕開けです。

しかし、近江では強力な権力を持った戦国大名は誕生せず、鎌倉時代から近江守護であった六角氏の支配が織田信長の上洛まで続きます。一方で、室町幕府の権威が衰退した結果、畿内での政争に敗れた足利将軍が京都を離れ、有力守護の領国に在国する事態が頻発します。近江へは守護六角氏の支援を求めて12代将軍義晴や13代将軍義輝がやってきており、足利将軍と深いかかわりを持つところが、「戦国の近江」の特徴の一つとなっています。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041648435997731画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041650929330815

今回は、12代将軍足利義晴が約3年間滞在した桑実寺とそれに続く近江守護六角氏の居城観音寺城の現地探訪

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然桑実寺御所跡

参考資料:

本日の訪問ありがとうございす!!

 

 


絹川(衣川)陣所(天満宮の遺構) 近江国(大津)

2018年04月28日 | 陣所

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、橋、屋外、自然

お城のデータ

別 称:天神社の遺構

所在地:大津市衣川3丁目 map:https://yahoo.jp/t_zBtZ

現 状:神社・山林

区 分:丘陵/陣城

築城期:織豊期

築城者:浅井・朝倉軍

遺 構:平削地・土塁・櫓台・

目標地:衣川天満宮

駐車場:天満宮の路上駐車

訪城日2017.4.16、2018.4.26

お城の概要

堅田駅から徒歩約1.3km、明神橋近くに衣川天満宮があり、明神橋を渡るとき、参道脇は桜が咲いてました。今は衣川天満宮で、背後に丘陵があり、天満宮の駐車場を利用この日は、祭礼であった(普段は見ることが出来ない神輿も)。

 春日山から南東に舌状に伸びる、衣川天満宮の丘陵に、城郭遺構が残る。詳細不明であるが、築城期は志賀の陣の絹川陣所である。

お城の歴史

『來迎寺要書』一  真雄和尚

元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

 一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木、飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々。

志賀の陣の浅井・朝倉軍の陣所。

訪城日:2018.4.26

天満宮の由緒https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1044819262347315

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/944526269043282画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、木、橋、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、靴、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、バイク、木、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、雲、植物、屋外、自然

 参考資料:『滋賀県中世城郭分布報告』『來迎寺要書』

本日の訪問ありがとうございす!!


田部城 近江国(長浜市木之本町田部)

2018年04月28日 | 居館

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、家、屋外

お城のデータ

所在地:長浜市木之本町田部  map:https://yahoo.jp/_K2sHI

現 状:寺社地、宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:田部氏

遺 構:田部家墓

標 高:145m  高差:-

駐車場:西光寺前駐車場スペース

目標地:西光寺

訪城日:2016.6.4、2018.7.21

お城の概要

木之本町田部集落の西光寺の門前の宅地が。「遺跡ウォーカー」の比定地である。

遺構は破壊されているが、田部集落の墓地には立派な「田部家」がある。https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1042126439283264&set=pcb.1042126992616542&type=3&theater

お城の歴史

当初は浅井氏の家臣の田部氏の居館(城)

元亀争乱の際には朝倉氏が駐屯し、その後は、丁野の中島宗左衛門も在城しました。

『江州佐々木南北諸氏帳』には「田部山城主 住 佐々木随兵 田部民部少輔信頼 元勢州田部義士後弾正正義氏男」とある。

信長公記』 巻六 元亀四年

11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

 参考資料:信長公記、江州佐々木南北諸氏帳

本日の訪問ありがとうございす!!


田部山古墳群砦(仮称田部山砦) 近江国(木ノ本・川合)

2018年04月25日 | 

画像に含まれている可能性があるもの:1人https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042186799277228

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町川合 map:https://yahoo.jp/MF1cE4
現 状:山林(古墳)
区 分:砦(陣城)
築城期:織豊期
築城者:朝倉氏?

標 高:155m  比高差:25m 

遺 構:古墳・曲輪・低土塁・土塁・犬走り・帯廓・堀切(竪堀)
目標地:国道303号城山トンネル
駐車場:国道303号城山トンネル駐車場
訪城日:2018.4.21(城郭フォーラム)

お城の概要

木之本町川合の国道303号城山トンネルの上に位置する。

登り口は、城山トンネルの東側の電飾道路表示板を北に入る。

東西約100m×南北約70m程のL型に7つ古墳があり、砦要塞されている。

お城の歴史

近年、城郭研究家長谷川氏が発見され。この日初めて現地説明会を実施された。踏査図で、現地説明をされた。

歴史的、資料はない。

 元亀争乱時に朝倉軍の陣城か??、或いは、賤ヶ岳合戦時の羽柴秀吉軍の本陣(木ノ本地蔵院)の後詰め砦か???。

写真の説明はありません。 下剋上の織豊期にロマンは膨らむ!!!

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然円墳で発見された石臼破片

画像に含まれている可能性があるもの:橋、屋外城山トンネルの上の杉の木の辺り主郭。

 

参考資料:城郭フォーラム(長谷川博美氏の踏査図)

本日の訪問ありがとうございす!!


高野館  近江国(高月)

2018年04月25日 | 居館

写真の説明はありません。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042189115943663

お城のデータ

所在地:長浜市(旧・伊香郡)高月町高野map:http://yahoo.jp/2UVOXO

現 状:寺社地、宅地

区 分:居館

築城期:弘安6年(1283年)

築城者:高野の臣

遺 構:土塁・空堀・石垣?

標 高:145m  高差:-

駐車場:高野神社前駐車場スペース

目標地:満願寺(高野太子堂)・高野神社

訪城日:2018.4.21

お城の概要

比定地は高野集落の背後の山裾に位置す、高野神社。

滋賀県中世城郭分布調査に記録が無く、遺跡ウォーカーや長浜市の遺跡リストに丸山城遺跡と検索できる。

高野神社に高野太子堂(観音堂)・満願寺が同居する、集落側は石積みで、両脇・背後は土塁で囲む。

お城の歴史

城郭の歴史は不詳ながら、寺院や神社の歴史・由緒は明確に残されている

寺院・神社の由緒

満願寺の伝・伝教大師坐像、像内に墨書があり、これによると鎌倉時代、弘安6年(1283)仏師院信によって造像されたことが判明し、国の重要文化財に指定されている。良源は観音菩薩の化身といわれ、鎌倉時代には「法華経」に説く観音三十三応現身の数にちなんで、33あるいはその倍数66の大師像が盛んに造像された。頭部は前後に三材を寄せ、内刳りを施し玉眼を嵌入。体部は左右に各一材を、さらにその両脇に一材を寄せ内刳りを施すなど、細かく寄木している。朱唇・衲衣の黒色などがわずかに残り、頭髪・顎髭の毛筆を写実的に描くなど洗練された手法が認められる。

高野観音堂

大師堂に安置されている像は、天台宗の開祖・伝教大師(最澄)の肖像と伝えますが、そのお姿から比叡山中興の祖・慈恵大師良源(元三大師)を表しているとみられます。弘安6年(1283年)仏師院信によって作られたことが判明し、国の重要文化財に指定されました。

木造伝教大師坐像 
  高月町高野・高野神社(大師堂安置)
  一躯 鎌倉時代 弘安6年(1283)院信作

  檜材 寄木造  彩色 玉眼  像高75.8cm
伝教大師最澄像と伝えるが、鋭く前方を凝視し、右手に独鈷杵、左手に念珠を執る姿から「叡山中興の祖」と称された慈恵大師良源(元三大師)の肖像と考えられる。
頭部は前後に三材を寄せ、内刳りを施し玉眼を嵌入。体部は左右に各一材を、さらにその両脇に一材を寄せ内刳りを施すなど、細かく寄木している。朱唇・衲衣の黒色などがわずかに残り、頭髪・顎髭の毛跡を写実的に描くなど洗練された手法が認められる。
像内に墨書があり、弘安6年(1283)仏師院信によって造像されたことがわかる。
良源は観音菩薩の化身といわれ、鎌倉時代には『法華経』に説く観音三十三応現身の数にちなんで、33あるいはその倍数66の大師像が盛んに造像された。伊香郡最古の寺院が己高山諸寺であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。

社伝によると、高野の臣が始祖大名草彦命を祀ったのを始めとする。伊香郡最古の寺院が己高山諸寺であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。己高山諸寺とは己高山五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺、観音寺別院として飯福寺、鶏足寺、圓満寺などがあり、鶏足寺の末寺が己高山満願寺である。

  高野神社 滋賀県長浜市高月町高野297 

「高野の祝」が、その始祖大名草彦命を奉祀するという。
この地は伊香郡最古の寺院、己高山諸寺(五ヶ寺)であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。
飛地境内地に式内天比々伎命神社がある。

薬師堂と社叢
祭神  大名草彦命、大山咋命

鳥居と拝殿

由緒

 『近江伊香郡志』によると、「神亀元年(724)創建、式内、往昔高野の臣此の土地を開拓し祖神大名草彦命を奉祀す。」とある。『新撰姓氏録』の和泉国神別によると、大名草彦命之後也として高野がある。紀の国造の紀直と同じ祖。
 社伝によると、「高野の祝」が、その祖大名草彦命を奉祀するによってその始めとしている。
 後、この地は伊香郡最古の寺院と認められる己高山諸寺が存していた。現在、境内に己高山満願寺と称する薬師堂がある。己高山諸寺に含まれる観音別院の鶏足寺の末寺が己高山満願寺にあたる。行基菩薩がこの地で薬師の像を刻み一堂を立てたと言う。
 また最澄が薬師如来に詣で、百日の参籠をなし、願満ちて薬師堂を建立し、満願成就に因み、己高山満願寺と号したと伝えられる。この時、最澄が天台の守護神である大山咋命を合わせ祀ったと寺伝、社伝で伝えている。

本殿 間口五尺・奥行き五尺の流れ造。天保年間(1830~)再建。
 道路の正面には薬師堂が建っている。西向き。南側が神社の境内だが、神社の正面は釣り鐘、その北側に池があり、石組みが整っている。 背後は山林。

 高野の集落に入る所に「野大神」が鎮座している。

神池と釣り鐘堂

 

参考資料:作図:長谷川博美氏、遺跡ウォーカー、高野神社・満願寺HP

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


小谷城清水谷 発掘調査概報

2018年04月24日 | 発掘調査

小谷城総図 長浜城歴史博物館蔵

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然写真の説明はありません。写真の説明はありません。

 浅井三代の暮らし跡を初確認 長浜・小谷城

長浜市は18日、国史跡「小谷城跡」(同市)のうち、戦国大名の浅井三代が暮らしたとされる「御屋敷跡」で、初めて遺構が見つかったと発表した。御屋敷跡の存在自体は絵図などから推定されていたものの、実際に人が暮らした痕跡は確認されていなかった。 

 発掘調査で見つかったのは、生活の跡を示す石組みの溝と、敵の侵入を防ぐ土塁。

 溝は長さ二・五メートル、幅二十八センチ、深さ三十センチで、自然石を二段に重ねて並べてある。形状などから、生活排水を流すための水路と推定できるという。

 土塁はもともと、地表にわずかな盛り上がりがあり、存在は推定されていた。今回の発掘調査で埋まっていた部分が新たに分かり、高さ二・五メートルの土塁と特定した。

 周辺からは銅銭や皿、水がめの破片など約百二十点が出土。十六世紀後半の戦国時代の遺物とみられ、当時、人が住んでいたことを裏付けると。

 御屋敷跡は、江戸時代後期に描かれた「小谷城跡絵図」など複数の絵図で以前から位置などが推定される一方、発掘調査は手つかずだった。市は将来の史跡公園化に向けて基礎史料を得るため、二〇一六年七月から調査を続けている。

 市歴史遺産課主幹の牛谷好伸さんは「今回の結果は絵図を裏付ける内容。今後は、見つかった溝の用途を特定し、周辺に建築物があったことを示す礎石がないか調べる」と話す。

 二十一日に一般向けの現地説明会があった。参加希望者は、午前十時半に小谷城戦国歴史資料館前に集合。予約不要で無料。雨天時は、同市湖北町の雲雀山交流会館で開く。

 (問)同課=0749(65)6510(渡辺大地)

 <小谷城> 浅井亮政(すけまさ)、久政、長政の3代が居城とした山城で、小谷山(495メートル)に築かれた。浅井三姉妹の出生地。織田信長によって1573年に落城したが、攻略に3年を要したほど堅固な城として知られる。

 城跡面積は147万平方メートル。本丸などの「城郭跡」(93万平方メートル)と家臣団屋敷などの「清水谷」(54万平方メートル)で構成される。「御屋敷跡」は清水谷のごく一部。(中日新聞社)

その他の写真  https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042100902619151

[PDF]35. 小谷城清水谷 発掘調査概報

www.shiga-bunkazai.jp/download/dayori/017.pdf

35. 小谷城清水谷 発掘調査概報 滋災保軒先刻哨湖北町議:五に位鐙する小谷山詰茶答 lこ、農業用水の水路が敷設されるよとになり、路線部 分にあたる帽3m、長さ 150mについて、 ßl3病]53~7 月末より8月にかけて絢主主を実施した。http://www.shiga-bunkazai.jp/download/dayori/017.pdf 

参考資料:発掘調査報告書・中日新聞社・長浜市HP・長浜市歴史博物館

本日の訪問ありがとうございす!!


星ヶ崎城(鏡山城) 近江国(竜王)

2018年04月23日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ 

所在地:蒲生郡竜王町鏡   map:http://yahoo.jp/Sca-1H

別 名:鏡山城

現 状:山林

区 分:山城 

標 高:247m  比高差:130m

築城期:室町中期

築城者:鏡久綱

遺 構: 石垣・曲輪・土塁・竪堀・池・石碑

目標地:道の駅「かがみの里」

駐車場:道の駅「かがみの里」駐車場

訪城日:2018.3.31

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外写真の説明はありません。

お城の概要

 星ガ崎城へは、道の駅「かがみの里」から西光寺跡を経ても登れる。旧中山道へと入る。旧中山道の鏡地区の中ほど山手側の住宅地の横から細い山道が星ガ崎城へと続いている。

 中山道に面しているこの道が星ガ崎城の大手道。山形が比較的なだらかであるだけに道が分かり難いが、所々木にぶら下がっている「星ヶ崎城址」の表示板を目印に登ると尾根道に出る。尾根筋には堅堀らしきものが幾つかみられる。小さなピークを二つほど越え、登り初めて約30分ほどで山頂に着く。

 山頂の主曲輪はおおよそ50m×20mほどで、城址を示す石碑が建てられている。
南側斜面に高さ3m、長さ20mほどの石垣がしっかりと残り、北東側の斜面にも長さ2mほどの石積みがみられる。また主曲輪の東側虎口にも石が散乱しており、当時は主曲輪周囲に石積みがなされていたであろうことを窺わせる。

なお、北側山麓には鏡氏の居館である井上館がある。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の歴史

築城者は、竜王町鏡の土豪、鏡氏とされるが、定かではない。

伝承によると、鎌倉時代、鏡久綱の居城であったが、承久3年(1221)の承久の変に破れ、鏡氏は滅亡する。その後、馬渕氏、六角氏が城主となる。

永禄9年(1566)に起きた観音寺騒動の際に、反旗を翻した家臣の永原氏が永原城に立て籠もったのに対して、六角承禎が星ケ崎城に入って対峙したという記録がある。

仕え星ヶ崎城は佐々木氏の支流鏡氏代々の居城で、鏡山の星ヶ峰にある。

鏡氏は佐々木定綱の二男定重を祖とし、定重の子久綱が鏡庄を領有して鏡氏を称した。

 久綱は承久の乱に官軍に属して尾張で戦死し家系は絶えたが、京極氏より入りこれを継がせたとある。鏡高規とその子定頼は、後に織田信長に仕えた。

城の立地状況は、観音寺城の東の陣城とされた佐生城とよく似ています。佐生城は愛知川を前面に置き、東からの攻撃に対しての橋頭堡となる城で、しかも石垣が築かれています。

星ヶ崎城もこれより西にある信長時代には佐久間信盛が江南の支配拠点に置いた永原城があります。永原城の東の抑えになる陣城で前面には日野川があり、橋頭堡となる城です。石垣を主郭のみに用いる点も共通しています。

織田が近江侵攻を計った時に、六角義治が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたとあり、そのうちの一つという説もあります。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041139442715297

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041184852710756

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041186402710601 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城歩会資料・作図:長谷川博美氏(城郭研究家)

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景清道 近江国(安土)

2018年04月23日 | 番外編

景清道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/grid?lst=100004577532882%3A100004577532882%3A1552802155

観音寺山麓の景清道伝説によると景清道は、 

平景清が平氏再興の祈願をするため尾張国より京都の清水寺へ通った道とも
寄寓していた近江八幡の旅庵寺より桑実寺の薬師如来に眼病平癒のために日参した道ともいわれている。

景清道は 近年 ルートの調査がされましたが全てがはっきりとわかっていませんが信長の下街道建設以前から中仙道(東山道)の間道として使われていたようです。
湖東地方に古くから「景清道」と言う道があり、古来より多くの人々が往来してきた。「景清道」は道の名称であるが、源平時代の武将名が道の名に定着している。景清道は、人里離れた山の中や、田の畦のようなところをくねくねと走っているのは、景清が関所を通過せずに、通行しようとして作ったためといわれている。

(中近世古道調査報告書 朝鮮人街道 滋賀県教育委員会)画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

本日の訪問ありがとうございす。


講座:戦国の敦賀城(まぼろしの敦賀城)

2018年04月15日 | 講座

写真の説明はありません。

日 時:2016年12月18日

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

写真の説明はありません。

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外画像に含まれている可能性があるもの:足立 厚さん、座ってる、テキスト写真の説明はありません。

敦賀城の歴史

1575年(天正3年)に織田信長により越前は平定され、1583年(天正11年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭。その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り三層の天守を持つ敦賀城を築城したが、まもなく頼隆は九州平定中に病死したため、代りに1589年(天正17年)大谷吉継が5万石で敦賀城に入城した説、また大谷吉継の前に秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となったという説がある。

吉継は敦賀城を水城として大改修した。1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。その後、城は吉継の家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され、結城秀康によって代官が派遣されていたが、1616年(元和2年)に一国一城により、敦賀城は破却された。

 廃城以降、主郭部には小浜藩の役所(奉行所、代官所)とお茶屋(陣屋)が置かれた。小浜藩は、1624年(寛永元年)に京極忠高の所領となったが、1634年(寛永11年)に京極氏は松江城へ転封となり、代わって酒井忠勝が小浜藩主となった。

 以降、幕末までの240余年を酒井氏が支配する。なお、分家である敦賀酒井氏(敦賀藩とも鞠山藩ともいう)の陣屋は旧金ヶ崎城近くに建てられた。明治に入ると、廃藩置県により1871年(明治4年)に県庁舎が置かれたが、さらに警察署、裁判所、病院と変遷した。1909年(明治42年)には、敦賀尋常高等小学校が移転、現在は敦賀西小学校になっている。

現在の敦賀城

敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、南は三島町の霊山院から稲荷神社、東は水路の残る旧笙の川沿い付近で西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のライン、で囲まれる南北500m、東西300mの範囲という。現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはないが、以下の遺構などがある。

  • 敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれている。2009年、新校舎建設に伴い、小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見された。
  • 来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられる。
  • 来迎寺の書院には、腰高障子13枚が残る。敦賀城破却時に移されたと伝わる。
  • 真願寺には、敦賀城の礎石が残る。本寺は敦賀城域の北西隅に当たるという。
  • 真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われる。また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っている。
  • 八幡神社には、敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居がある。
  • 西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったようである。
  • 関ヶ原合戦後、福井藩主となった結城秀康によって、代官が派遣されたことから、結城町の地名が残る。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人写真の説明はありません。
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  • 参考資料;『ウィキペディア(Wikipedia)』、講座:敦賀城レジュメ
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