旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

473 イチローから... (毎週土曜日に更改しています)

2016-06-25 04:38:48 | ブログ
 江夏が阪神を辞めさせられてからプロ野球に関心が無くなり、パリーグを陰ながら応援している状態です。
 今の感覚で大昔、大阪にかってあった藤井寺球場に球団歴がややこしい近鉄vsオリックスを観戦をしました。キリスト教会のアメリカの若者達が夏休みに来ていたので、その15名つれて何にでも他人頼みなりますが、近畿日本ツーリストのお世話になり切符を手配したのでした。その節は大変お世話になりました。

 イチローを初めて見たのもそこで、そのイチローが打ったボールを目で追ってレフト見て、次に一塁ベースを見ると、既に、ビックリするような速さでベースを回って二塁を目指していました。その足の速さだけ覚えています。それ以来、イチローファンです。
 勿論、3塁側、近鉄サイドで三塁側にいましたが、アメリカ人15人で応援をすると、サッカーが未だ人気無い頃に、周りの人達も彼等に合わせウェーブするという具合で凄く盛り上がりました。 

 それを何故思い出したかというと、最近は外国の人は観光と爆買いばかりが話題なりますが、まだまだ本当に少数ですが野球観戦にまでいっている事でした。昨年9月に9~16日間で、観光地を巡りながら各都市でプロ野球を観戦するツアーもあったのです。費用は決して安くない1139ドルから2892ドルだったそうです。初年度の参加者は5人、今年は約40人に増えたそうで、いきなりリピーターもいたそうです。企画者様様、です。
 米国から来た本場ジャイアンツのユニホームの観客も、応援席でトランペットのリズムに合わせ手をたたき、応援歌を熱唱するという、お馴染みの光景も、海外からの観光客には「異次元の空間」になるのでした。

 私もダラスとニューヨークでメジャーリーグを観戦した事があります。ニューヨークでは切符を並んで貴重な当日券最後の席を手に入れて、松井選手をバックネット裏の席で観戦しました。

 1972年ロンドンで確かホワィトシティと言う所で見たサッカーの試合が、全席立ち席、前に鉄棒があって倒れない様にして、観客数がなんと10万人でした。驚く事は無くて、全ての1部から多分3部までそんな状態でした。友人の英国人がその頃あったミュウヘンオリンピックで観客が7万しか入らないのは座席を作ったからと馬鹿にしていました。当時は、巨人戦も6万人と何時も一杯でした。

 気候の違いでこうも欧州のピッチとは美しくなるものかと思っていたら、日本リーグ開催で綺麗なグリーン、日本国にお金が無かっただけの事のかと2重の意味でカルチャーショックでした。

 色々イチローが話題になって思い出す事が多いです。
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472 人生は暇つぶし (毎週土曜日に更改しています)

2016-06-18 01:55:10 | 目標
 「大切なのは自分の高下や貧富の差ではない、人間として生まれたことが、自分にとって無駄ではなかった。世の中の為にも少しは役だち意義があった。そう自覚して死ぬことができるかが問題だと思います。人間はいつか必ず死にます。」

これから何年生きているか分からないのに「還暦過ぎて家を買う馬鹿」。現役時代に、好き勝手をやって来た事に悔いはありません。旅行は勿論、飲み食い、好きなスポーツ等をやって、今までの人生に満喫してしています。
でも連れ添った人間は大変です。この点は、謝らなくてなくてはいけないと思っています(思っているだけです)。懲りもせず、もう一度あの田舎の風景をフィレンツオーラで満喫したいものです。

 人間長く生きていると、人の死を沢山知り見ることになります。まして、バイト先で異常に多く死を身近に、昨日まで、普通に話をしていた人が、今日は世の中に存在すら無いという事を身に染みて感じています。人間ははかないものだと日々感じています。

 そんな時に「人生は暇つぶし」、面白い事を言う人がいました。そうです、私の人生暇つぶし、そう考えると、生きて来た甲斐と云うのも変ですが、気楽になれます。キミマロさんが新聞の中で書いていました。苦労人は、面白い良い事を書いています。

今考えると、そして本当に自分の生きて来た人生を思うと、その時、その時は、まっしぐら一生懸命ですが、今考えると、暇つぶしと思えることが多いですと云うより殆どでした。

 この考え方に我ながら納得です。又、私の人生、其の物だと思います。 今まで大したことはやってないし、殆どの人は歴史上残る事を成し遂げていない事と思えば「人生暇つぶし」と言って誤りはないと思うのです。済みません私の基準から考えてしまって。個々の人で違うでしょうが、そのように思い当たる人がこれを読んでる人中には、同じことを思うのではないかと考えます。

 近頃になって、やはり自分の過去とか生きた証というか、何か証拠を残しておきたいと思えるのが無意味と感じられるのです。私のお祖父さんお婆さんはかろうじてどんな人が分かりますが、母親の旧姓は、その又お母さん、つまり、お婆さんの旧姓を分かる人は殆どいないと思います。過去帳を調べても、父親の名は同じでも分からないのです。そんなものだと思います。そしてどれだけ頑張っても忘れ去られてしまいます。

 だから、生きている間が花、自分の人生暇つぶしと考え、気楽に楽しく呑気にやって行くのが私にとっては一番...
 
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471 認知症、そして思い出 (毎週土曜日に更改しています)

2016-06-11 04:33:24 | 人間
 高齢者が5人に1人、10年後には約700万人が認知症になるらしいのです。ボケ老人に比べ優しく、まだまだ新しい認知症、生きているかもどうか怪しい10年後、私はそのグループに入らないように努力をして願っています。

 認知症、それは能の細胞が壊れることで、記憶が抜け落ちるなど様々な症状が出るとの事。世界に5000万人に迫りますが、未だに特効薬は生まれて無いそうです。元々壊れている私は、ご心配無く(誰も心配してない!お許し下さい。偶の一人突っ込みです)暫くは大丈夫だと思っています。

 そもそもアルツハイマー型認知症が報告されたのが、今から100年以上前1906年、戦前は50才に届かなかった日本人の平均寿命がいまや80歳を超えました。80歳を超えると5人に1人が認知症になるらしいです。発見から100年経っても良い薬が出て来ない、何も分からないなら、そうなる前に死にたいものです。しかし、認知症になっても幸せそうにしている方を見ると、今までの幸せな人生が分かるかも知れないです。

 いつまでも健康にいたいものですが、護施設には明らかに認知症と分かる人がおられます。認知症ではありませんが、施設で亡くなった様々な人を見ています。

 その中でも親しくして頂いた方、毎日、私がカーテンを開けて、起こすと「もう、そんな時間」と起きられる方がいました。起きているとベットで足を上げて健康に人一倍気を付けていた人が突然救急車で運ばれてそのまま帰って来ませんでした。病院に運ばれる数日前に、夢を見られて、その夢の中で幾つもの棺桶から中の人が笑っていたという話を楽しそうに語ってくれました。そんな事もあるのですね。

 かと思えば、毎朝、明日は来るのかと聞いて、毎日会うのを楽しみにしてくれる方がいました。「明日は休みです」と言うと、残念そうに毎回のように毎日着てくれたら良いのにと答えられました。
 先日、不思議に何故か順序を変え早めに行ったその部屋で倒れられていました。ベットから倒れて両足をベット掛けてポータブルトイレの間の床に倒れているのを発見しました。一番にマイクで助けを呼びました。それから直ぐに両足を抱えて床に下ろしました。意識がはっきりしていましたが、この方も、翌日亡くなったと聞きました。

 今考えると、この方の心臓がその時止まっていたら、AEDが届くまで習った心臓マーサージを行う事になっていたのかと思い冷や汗ものでした。訓練はキッチリやっとくべきだと改めて認識しました。
 
 その訓練を忘れた時分、しかも、こんなにも早く再認識させられるとは...
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470  思い出に残る先生たち  (毎週土曜日に更改しています)

2016-06-04 04:45:40 | ブログ
 小学校の二年生の時、幼稚園の二宮先生が亡くなったと聞いた事、それが人生最初の死と言うものでした。若いのに亡くなった事に大変ショックを受けた事を覚えています。

 同じ頃、机に縛りテープで口をふさいだメガネの沢田先生。その頃だから、今そんな事をしたらマスコミのいい材料になっていると思います。でも、悪かった事と未だに覚えているのは良かったかも知れないです。教師は大事だと、今更ながら思います。
 中学校の1年の時に、「ヒザボシ(膝頭)が痛い」と言ってまだ幼児言葉(本当は京ことば)を使うと言って注意をされた朝倉先生。それと弁論大会に出た時、後ろで耳に手を当てて、良く聞こえないと注意した能勢先生。音楽の先生でしたが、ビートルズの音楽が嫌いでした。 

 生涯の先生と言うと、古典の水谷先生です。高校時代の先生、友人とは、毎日学校に行って会って、年齢的にも大人への入り口でその意味で忘れ得ないです。その先生が亡くなったとは、未だに信じられないです。

 卒業してから手紙のみの繋がりだけでした。1972年に偶然、スイスの田舎で映画の如くバスから降りて来られた時に再会する事になったのです。私は貧乏旅でしたが、考えて見れば、当時、一高校の教師がハワイが夢の時代に欧州迄行くとは素晴らしい事です。
 余談ですが、京都の我が家の向かいの家族全員は、その何年も前に欧州にいっています。当時既に水洗トイレ、何町か先の堀川迄下水を通した事をしていと聞きました。その後、高校の友人が銀行勤めで預金の勧誘、私の名を出して預金を獲得した事を同窓会で謝っていました。

 当時は夏目雅子主演「鬼龍院花子の生涯」の「五社英雄」方が有名で「五所平之助」と聞いても知らなかった事を遅すぎますが、先生に謝らなくてはいけないです。その「五所監督」が日本初のトーキーを撮られ、『煙突の見える場所』等多くの作品、日本映画監督協会理事長を16年間もやられた方とは全く知らなかったです。採点のサインに「ごしょ」と書かれて、監督が亡くなられた後は、偲ぶ会の会長をされていました。お詫びを兼ねて、先生が書かれた数々の五所監督の本は、図書館に寄贈しました。

 その人生を見習う必要があるのが、好きな事をやられた事です。高校野球の公式記録員、そして旅行、「偲ぶ会」に毎年5月の連休に東京、亡くなる前迄、甲子園に毎週のように阪神ファンとして応援と人生を人一倍、精一杯楽しんでおられました。自分のやりたいように生涯を送られたと思います。一人で亡くなっても孤独死でもありません。亡くなっても私達の教師です。良い先生に学んだ事に感謝一杯です。
 
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