旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

245 大阪も綺麗な所あるやん!

2012-03-31 06:21:14 | 散策
 大阪を散策し始めて、今までの吉本、大阪のおばちゃん、豹柄等々、それもあるけど違う大阪もあるんだと気付いたのがここ2-3回でした。お寺の数は、大阪府の方が、京都府より多いのに気付き、まだまだ知らない地域が多いと改めて見直しました。この前、初めて降りる駅として、玉造駅で降りましたが、玉造稲荷神社に行っていないので今日はそこから始めました。

 同じ駅で降りるのも芸が無いと、1駅手前JR森ノ宮で降りました。この駅も初めてで、先の方が便利と思いましたが出口は後ろ側に一つだけでした。右手に大阪城公園を見て信号を渡り、結局お城を後ろにして玉造神社へと行きました。

 途中幹線道路を外れて、いい加減に公園を横切って歩いて見て気づきました。大阪には公衆便所の数が少ないと、東京との違いが分かりました。東京は公衆トイレが多いのに、公衆道徳が悪いのか、比較的に広い公園にもありません。別にトイレに今行きたいのではないのでしたが、大阪維新の橋下さんなんとかしないといけません。

 ここにも坂があって(大阪にも坂があります、総て今までの坂は上町台地です)道路も片側1車線あり歩道もあって広くて良く整備されていて、今までの大阪のイメージが次第に変わったて来たのでした。坂の上に玉造神社があり裏から細い道を登って入って行きました。丁度、1組が七五三のお祝に社殿の中で祈ってもらってました。大阪城に行こうと思って正面で無く反対側から出ようとして、秀頼が奉納した鳥居があるのを思い出して又戻りました。
 戦災にも倒されずに来たのが、私の本によると、先の阪神淡路大震災で倒れたとの事で半分埋もれていると書いてありました。境内の端に沢山の石が置いてあるのでこれかなと思いました。やっぱりこの古い柱に違い無いと、反対側を見ると、鳥居の2メートル程上だけが頭を出していたのでした。
 一度はそこから出ようとしたのですが、見逃すはずが無い程大きな銅像、残念ながら見逃していましたが、今まで何を見て来たのか、大きな秀頼の立像があり公家服を着ていました。この辺りは良質の水に恵まれたと千利休居士顕彰碑があって、住居も近くにあったとの事でした。伊勢迄歩講起点と言う指針があり横に神宮まで170キロと書いてありました。‘笑いを大切に’と言う秋田実の石碑もたっていましたが、総てを見逃す所でした。
 
 舗道もある比較的に広い道を行くと陸橋を渡るとピース大阪があります。大阪にこの様な立派な施設、つまり戦争の悲惨さを伝える物があるとは知らなかったでした。入場料も、多分みんなに見てもらいたいと言う250円でした。入口入ると、大きなきな爆弾が目の前に、こんなに大きな物が何度も50回以上、数限りなく落とされた大阪が何も無くなるのは当然と思うように飾れていました。靖国神社と比べて見て、戦争の悲惨さがずっと分かるものでした。

 そこを出て大阪城のお堀の石垣は特に立派なものでした。その堀のそばに梅林があって満開で沢山の人が鑑賞してました。昔昔、多分小学生の時に一度来て天守閣に上がるのにエレベーターで上がって、その鉄筋コンクリートに大阪城はツマラナイものと決めてそれ以来きてません。しかし、この年になって、大阪人がお金を出し合って大阪城を再建したと、今なら素晴らしい物と思えるようになりました。外国の人、それも中国系の人が多く、そこで、大阪土産に何かないかと思いましたが、殆ど街中で買えるありきたりのものでしたが、もう少し大阪城を主体に考えれば売り上げ伸びるのに残念な事でした。とりあえず大阪城の形をした、もなかを買いました。
 特に外観は特に一見に値すると思いました。ちなみに外観だけで、中は今回は止めておきます。

 

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244 新たな大阪 再発見 

2012-03-24 05:45:11 | 散策
 初めて降りる駅、JRの‘玉造駅’そして初めて行く地域でした。私のあてにならない地図によると左側、どちらから見てか、つまり西へ、とりあえず細い商店街に入り南へといい加減に行きました。磁石が必要になって来る程の狭い商店街で、誰かに聞こうと思っていたら右(西?)側の広い道路の向こうに其れらしき神社が見えました。急ぐことは無いので、そこを目指して歩いて行きました。

 第一目的の地、三光(さんこう)神社を見つけました。2-3日前迄知らなかったので偉そうに言えませんが、真田幸村が大阪冬の陣の時に大坂城の出城を作った所であるらしい。この前信州の真田迄行った所ですが、石段に六文銭の旗があり、境内には真田幸村の武者姿の立像がありました。一番見たかったのは、大阪城迄通じていると言われる洞窟でした。入口は鉄柵で入れない様にしていましたが、石室状の約1メートル50と1メートル程の石穴で、中を覗いて見ると2-3メートル程入ってそこからどうなるか分かりませんでした。映画のプリンセス トヨトミの作者はここを見たのに違いないと思い、これだけでも大きく夢一杯になりました。その上に、大阪らしく?本物もこんなだったのかも知れませんが、安っぽい6文銭の矢盾がその上に飾ってありました。

 神社自体は小さな物ですが、裏側は公園になっていました。左側を上って行くと、また柵があり、何かと覗くとお墓でした。お墓自体、高さはそうでもありませんが、通常より大きさが半分位の石のお墓が沢山整然と並んでいました。遠くから良く見ると、先の戦争で亡くなった兵隊さん達のお墓でした。
合掌

 この辺りと言うか、大阪全般焼け野原になったのですが、ここも終戦直前に焼けてしまったと記述してありました。京都に住んでいると嘘のようです。京都の我が家の後ろに爆弾が一発落とされたのですが(伏見にも1発計2発と聞いています)、それでも大変な事だったと聞いていました。この辺りは凄い数の爆弾が落とされたのでしょう。
 
 比較的に広い道路を円珠庵(幸村が冬の陣の時に陣所を構えた所)を探して心眼寺坂を行くが、地図の様に無いので通りすがりの人に聞いても住んでいないので分らないと残念ながら諦めました。
 この辺りは道路が大阪らしく無く、お寺も(勘違いしていましたが、大阪は寺が多いです)、学校も多くあり、良く整備されていて今までの大阪のイメージは変わりました。ここが円珠庵かも知れませんが、地図と違ったのですが、お寺があり6文銭の旗が立っていました。

 その整備されている道を、北に行くと、これ又多分、見て見ないと分らない広い敷地に米国のハワイにある近代建物風、立派なアーチ型の門に右側に大阪女子学園、左側に1884年創立のウヰルミナと表札が上っていました。中を見られず残念でしたが、そのまま行くと、道路を挟んで、広い駐車場がある聖マリア聖堂がありました。マルッキリ今までの大阪のイメージ(どんなイメージや!済みません一人突っ込みでした)が変わりました。大阪の人、誠に御免なさい、大阪にも文教地区があるのです。

 青刻(きざみ)昆布発祥の地の石碑が玉造越中公園にありましたが、白黒ドラマ横堀川で片岡仁左衛門がこれだけは覚えている、多分誰も知らないと思いますが‘これが真昆布や’と言っていた昔を思い出しました。

 団体さんが何かを見ているので、そこを見ると、昔の細川邸があって、明智光秀の娘で細川忠興の妻ガルシア夫人が、忠興が徳川家に見方した為に、石田光成に大阪城に人質として入る様に言われてのでした。それを拒否して、洗礼を受けていたので自殺は許されないので、ここで家臣に胸を突かれたと言う話しのゆかりの地越中井と言う井戸の跡でした。その近く聖マリア聖堂にガラシア像があります。

 前回が超庶民の町でしたら、この辺りは中級以上の家が多くあり、初めての綺麗で整備充分の大阪、見直しました。

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243 まだまだ大阪

2012-03-17 07:47:32 | 散策
 動物園の反対側で、昼ごはんを食べました。表に関西ウオーク等3誌に載っていた記事を張り出してあるのに釣られて入りました。と言いますのも、これまで入ろうと思ったこの地域お店一般にサンプルがほこりも被って何十年もたった様なものばかりで入る気がしなかったのです。

 表に切り抜き写真が貼ってあって、店主も比較的に若い人で気が良さそうに見えたので、考えた末にお腹も減ったので入りました。焼酎をロックで注文して、あてに広島直送の牡蠣のフライが680円でしたから、丁度良いなと思いました。店主は思った通りの人で、多分お母さんと思われる、お婆さんと二人でやっていて、カウンターに座ったのでした。
 後から来て隣に座ったのが、今日が初めて集まった6人の団体で、自己紹介等聞きたく無くても聞こえて来ると言う狭い店でした。そのグループ、貧困を考えると言う大学のサークルグループで色々な学校から3対3の男女が集まっていました。なかなか上手いアプローチ?でした。

 昼食を終わり、また動物園前から通天閣に入って行く事になったのです。ここから急に人通りが多くなります。動物園前も通常の凄い下町ですが、今まで行った所とは比べられないでした。雑多な物を露店で売っている所を、さらに狭いガード下を抜けると幅3メートル足らずのジャンジャン横町となります。東京の人は先ずイメージがわかないと思いますが、上野のアメヤ横丁を狭くした短い道で生鮮食品を取り扱っていないと思って下さい。この前よりも天気が良いのか(今考えると空が見えてたか、多分アーケードがあった様に思います。)人が増えて串カツ屋さんとかに列を作って、広い将棋屋さんも混んでまして、大変な人人でした。

 そこで思い出したのが、高校時代アメリカのチャタヌーガから来た私の英語の先生が京都の河原町通りで人が多いのにビックリして今日は何のお祭りかと驚いていた事を思い出しました。ここを見たら、先ずビックリして何と言ったでしょう。

 ジャンジャン横町を過ぎると、少し広くなったいて若い労働者層の大阪人が着る服とかも売っていました。新世界は昔ルナパークと言われてビリケンさんが有名で幸福のシンボルとなっています。知りませんでしたが、新聞の記事に、そもそもビリケンさんは大阪に来る2年程前に銀座にあってと言われてまして一時期はやったそうです。通天閣が見える所迄来ると益々人が多くなって人の間を通って行く事になりました。

 反対に回っていますので、人通りも多いように感じたのですが、通天閣では一発屋と言ったら怒られるかも知れませんがこの頃めったに見なくなった安田サーカスの団長や黒ちゃんの等身大のマネキンがあり、団長のふんどしが色変わりしてました。又、この正面口は前回と同じく広くがらんとした通りで、スーパー等前回見て無い所を見ましたがさして新しい物は無かったでした。

 そこから電気屋さんの日本橋街になります。前の夫婦が歩きながら聞きたくもない大きな声をだして、口喧嘩をやっていました。東京の秋葉原とは規模的に大分違うのですが、昔と違うアニメを扱う店が目立ってきました。古いビルの高島屋別館の中に入ろうと思って、家具を売っていたのに今は結婚式の案内等やっているのに気付いて関係無いと止めました。

 黒門市場が右手にありましたので、2‐30年ぶりに行きました。日曜日でもあり東京の築地と違い活気に欠けるように思いました。テレビで見たふぐの店等ありましたが、美味しそうな豆腐を買って、そして違うお店で、色々な種類の白天を買って帰る事にしました。この辺は難波から少し外れているのでこの道路以外は日曜日と言う雰囲気でした。
 
  
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242 紹介されない大阪

2012-03-10 06:00:17 | 散策
 実は前回雨が降ってしまって行けなかった飛田に行こうと思いまして、珍しく行くのに本を調べてからと思い、本屋、そして図書館で探しましたが殆ど見つかりませんでした。西暦2000年をもって国の登録有形文化財となった大阪で良く知れている‘百番’が遊郭のお店を買って有名になったので、もう少し本に載っているかと思いました。
35年程前に友人に面白い所があるからとついて行ったので、もう一度、前から行ってみたかったのでした。以前夜に行って雰囲気は知っていますので、私自身一人が夜に行くのはちょっとはばかれる?と思って、朝、家をでました。飛田と言うだけで、良く行ったなと言われます。その様な所です。

 動物園前を降りて、通天閣と反対側に行くと商店街に入りました。多分日曜日でもあるのか、それとも普通にシャッターを閉めているのか分からないですが、寂れた商店街が長く続いていました。ニュ-ス テン(東京の方は分からないでしょうが、夜5時30分から毎日やっているニュ-ス番組です)で金曜日の6時25分位から映る、スーパー玉出があるのでビックリしました。こんな寂れた所にあったのでした。もう一つのスーパー玉出が、道路を抜けて行くとあったので更に驚かされました。こんなスーパーの一つで主婦とシェフの対決の為、TV番組で買い物してるとは信じがたいでした。自分が、こんな早い時間に食事を終わりTVを見ているのも信じられません。

 道行く人が、自転車に乗っている人の方が歩いている人達より多くて、横道に違う商店街があり、アーケードの屋根も破れている所もあって、なんとも静かなものでした。細い道に入ると、角に若い人が立っていて、そこを曲がると狭い家の前にもう一人立っていました。そこに何があるのか、朝にビールを持った人が入って行きましたが、なんとも不思議な怖い光景でした。
 
 商店街を外れると超庶民の家が2-4メートル幅であり、上の方に狭い道路をまたいでオーエス劇場の古びた看板がありました。古びた日焼けしたノボリが3本あり、大衆演劇場があったのでした。森川竜馬の一日座長公演とあり、切符買う所には御入場料金1,300円、上演時間が書いてありませんでした。
又、戻り しばらく行くと誰が買うのか時計屋さんに何十万円もする時計が陳列台に並んでました。

 そして阪神高速の下を抜けて行くと飛田となります。まず有名な百番を探そうとしていたら、行き倒れのお婆さんがいたりして、警察官が来てました。大体3‐400メートル4方程の所に、今までと違い良く整備されている広めの道路があり、各道路何メートルかの幅で、規則正しく2階の腰壁から突き出た屋号の書かれた店の看板、1階は玄関脇に提灯、両引きの玄関扉があって、その脇に格子窓、さらにその隣に通用口があります。昼前なのに、もう開いているお店もありました。
 比較的に綺麗な所でしたが、入口の扉は開いたままで、上がりかまちに座布団が敷いてあり、二人の女性がいて、一人が40‐50歳位のお姉さんがやりてばーさん宜しく、ちょっと目が合うと声を掛けてきました。もう一人若い女性が少し派手な服装で、ニッコリ笑って座布団に座っていました。服装は現在的ですが、まさに大正時代(知りませんが)にタイムスリップしたように思われました。
 戸が開けっぱなしになっているので、どの家も石油ストーブが入ってましたが、夜はライトアップされるに違いないからやっぱり昼間来て良かったでした。お姉さんが若くまぶしく美しいので思わず目を奪われそうになりました。行かないと分からないです。

 広めの道路を暫く行くと少し離れて‘鯛よし百番’があり、昼間もやっていると思ったけれど、夜だけ予約のみとなっていました。そこだけ立派な飛田 百番とインターネットで調べて下さい。

 暫く歩くと急に立派なマンション群が出てきました。そして109で有名な阿倍野キュウズモールが目の前に出てきました。さっきの西成区から再開発の済んだ阿倍野区に変わるだけで、黒沢明監督の‘天国と地獄’の様な有様でした。
 
 
 
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241 星一 から思いつくまま

2012-03-03 06:00:01 | 散策
 星新一の明治人物伝を読みました。暇つぶしに読んだ本ですが、伊藤博文、新渡辺稲造等の人物を10人紹介しています。その中のエジソン、野口英世は有名ですが、花井半蔵段々分らなくなって中村正直、杉山茂丸に至っては始めて目にする偉大な人が出てきました。これら総ての人が明治の人で、星新一のお父さん星一と関わりあった偉人の人達です。

 これを読んで古くは、遣唐使や遣隋使の頃は、海外に行くのに命を掛けて行ったのですが、どんな船で行ったのか、又、幕末はどんなだったでしょうか疑問が増えて行きます。皆向こうの知識を得る為に人は生死をかえりみずに海外に行ったと思うのでした。50年数年前に、兄が沖縄まで船で行って船酔いが大変だと言っていました。そして明治はどんどん遠くなりました。

 私は(勿論命等かけていないけど)京都から初めて出て、欧州に当初2人で行く予定でプランを立ててましたが、急にもう一人が行かないと言い、最初からプランを作りなおす状態でどんな気持ちで行ったか今思い出せません。私の海外に船で出た時は、たかだか40年程前の事でした。
 
  星新一は本の中で、素晴らしい新しい形で、父親を紹介した記録だと思います。父の星一の事は実際直接には本の中で殆ど述べられてないですが、歴史上の人物10人の記録を一人一人充分に丹念に調べ上げて、尚且つお父さんの苦労や素晴らしさを読んでいる内に、さり気無く分って来ると言う書き方でした。これ程、明治の有名な人に関わったと言うのは珍しいです。アメリカに行ってる日本人が殆どいない時に行っていると、誰でもこんな人とお付き合い出来ると勘違いします。そんな人たちがいたのでした。

 武家社会の色が大きく残っている明治に生きた人は、昨日まで黙っていても食い扶持には困っていない人、その人に仕えた人も良し悪しは別にして大変だったと想像できます。この人をと見込んだ人なら幾らでも肩入れすると言う人もいたのは、今となっては夢の世界です。金銭感覚を抜いての見返りを求めない投資でした。

 話は飛んで、私は言うのも父に申し訳なく、親の記録を廃棄してしまった人間です。テープレコードに取ってあった父の今となっては遺言をげんが悪いと消してしまって、その父親が欧州にいた時に亡くなったのでした。その時に家族が私のいる所の電話番号がどうして分ったのか、今になって不思議に思います。自分自身が、父の年を越しての疑問です。
 そもそも欧州の私の番号を知るのに大変戸惑った事だろうと、現在の様に携帯電話で何処にいても気軽に通じるのが普通になって、地球も狭くなった事を痛感せざるを得ないのです。電話が掛って来て、それを受けた時に確かHANG UPと言われて何度も受話器を置いて交換台の人に注意された事も思いました。その時は誰も回りに聞く人がいないのですから、何度かめで分ったのでした。仕方なかったですが、父親の死とは考えられない事でした。

 又、母親に国際電話を掛けた時の事、家にいなかったので母親の友人宅まで電話をつないでくれると言う親切な事がありました。コレクトコールで電話を掛けた為にその友人宅迄請求書が行って日本に帰ってから笑い話で言われました。電話交換の方も親切にフォロウしてくれたに違いありません。

 空港勤務をしている時に、クレイムの電話を私が受けただけで数人の人が、電話を掛けて自分の電話番号だけ言って、直ぐに電話を切る人がいたのでした。トールフリーの電話は無いので、私の場合は再び電話を掛けて来るのを待ちました。今勤めたとしても、待つ事に違いありません。やっぱりこちらからは電話を掛けないでしょうね!
 電話の話で終わりましたが、いつもの様に思いつくまま皆さんに付き合わしました。済みません。
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