旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

136 話

2010-02-26 17:31:42 | 日記
 モトモト勉強で、福祉施設をこれだけ見て来て、一番の印象があったのはオンダン パンションホーリヘ-ベンでした。毎朝会うたびに熱い抱擁をして、いつもニコヤカなディッテが忘れられません。その彼女に会いに行ったのですが、もう施設も無くなっていて彼女が亡くなった事を知りました。

 この訪問は、かなり古い昔の様ですが、私に取っては昨日の事の様です。今までは死と言うものは人事と思っていました。私も考え無くてはいけない歳なって来たのです。
 誰でも亡くなるのです。自分は今で若いつもりです。しかし、自分の知っている10歳位上の有名な人の死亡伝わってきます。これを書いて来て思い出す事が多くて驚いています。
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*オンダン パンション ホ-リヘ-ベン(Young People's Boarding Home)

  この施設は、青少年福祉事業団当局のもとに保護・監督されうべき人達に、特別な援助を必要とする若者の為に作られたものでした。一般社会人として自立するように、義務教育を受けている事が、ここの居住者の基本となっていました。

 即ち、16歳以上、21歳以下(実際は18歳)が対象者で居住者が、児童、青少年事業団の要求を満たしていなくてはなりません。

 もっとも重要な事は、家庭に住む事が出来ない、又、住むべきでない青少年に短期、長期の職業補導や紹介をする為に安定した下地を与え補える事を目的としています。そして、少なくとも、その訓練の間、援助を与える事を目的としています。それゆえに、見習いや他の訓練を受ける事も認めています。

 しばしば、家庭不和や一定の職業を持ちえない者が、余った時間を無意味、不適当に過ごしている人達にも、この施設では門を開いているのでした。
 この他に、両親の離婚により孤独をなった子供、同居困難(近親相姦等)、定職を持たない、不適当な職業を有する者等、これらの青少年の行動を適正なものにするべき活動も主な活動です。
 施設は普通の環境に囲まれた一般家庭のようである事が特色であり、それが一層発展した物を作りあげているのです。

 これらのことがこの施設で福祉の基準に丸みをつけ、他の施設にも影響を与えることになるでしょう。
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135 話

2010-02-23 20:48:07 | 日記
 
 御免なさい、今までのペースで書くのは無理になりました。このブログのデータになっているメモも日記も探しましたけど、どうしても見つかりませんので、今までの様に書く訳に行かなくなったのです。どうも、整理が悪いようです、10日に一回位に、たまに来てもらうと有難いです。

 この後は、日付は関係なく思ったまま思い出して書こうとおもいます。皆さんも何か自分の旅行の事をコメントしていただいたら嬉しいです。沢山の人が読んで頂いて有難う御座います。

 この後、この施設に後1ヶ月程居て、この後、ロンドンへ行き、キングスクロスに住んで、それからウェストハムスッテドに移り済みました。

 夏にケンブリッジでオペア(家事をしながら英語の勉強)をして、ウエストハムスッテド、その間にスコットランドへヒッチハイクをしたりオックスホ-ドの行ったり、ヨーロッパの各地を回ったりしました。そしてロンドンで、これが目的のローワーケンブリッジを取得しました。

 その後、ロンドンからニューヨーク迄、飛んで、バスでワシントンへ、そしてニュウオーリンズへ、そこの親戚回りをして南部の各州を回り、バスで遠路サンフランシスコとロサンゼルス迄行きました。

 アメリカでは、恐れを知らないと言うか、今ではできませんがバス停で一晩明かした事もありました。

 それから、ワイキキ迄飛んで、そこで又知人の弟さんの世話になって日本に帰って来ました。考えてみると、終わってみれば、これからの方が長くいて1年と数カ月いたのですが、世界1周をしたのですが、今ではできない凄い旅をしたと思います。それを思い出しながら、書いて行きますが殆ど忘れている事が多くて、前後すると思いますが、このブログを書くつもりです。

 自分がこんな事をやっていたとは、こんなに多くの人達とあっていたのは驚き一杯です。自分で覚えているつもりでも、何もかも忘れている事が多いことをしりました。日記、ちょっとしたメモがいかに大事か分かりました。そこから、古い昔も思い出すものです。皆さんも日々の事を日記だと大変ですので、是非メモ程度の事を書いて下さい。
 
 自分が生きて来た証として、将来その時どう生きたかきっと役に立つ事と思います。この年になって分かります。

 そんな訳でこのブログを続けて行くつもりですので申し訳ありませんが、たまで構いませんので覗いて頂ければと思います。
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132 子供達 

2010-02-19 20:12:22 | 日記
12月3日 快晴 金曜日

 昨夜は、遅くまで飲んだけれど、直ぐに眠れると思ったが、余り良く眠れなかったのでした。起きられずにいると、隣の部屋で子供達が遊ぶ音を、ノックと勘違いして戸を開けたのでした。勿論、誰もいませんでした。

 今日こそ手紙が来ると期待したのですが、今日も来なかったのでした。家から手紙が来ないのは、淋しい事でした。こんな田舎にいると、私に取っては 手紙が唯一の外とのかかわりであると思っていたのでした。

 昼からは、子供達を連れて外に出かけました。良く見ると、少し戸惑う程急に子供が増えていました。それもそのはず、週末だけ預かる子供達もいる事が分かりました。

 もう少し慣れるまで時間がかかると思ってけれど、子供達は直ぐになつきしきりりの私に寄って来たのでした。それだけに、遊んでやらなくてはと思って一生懸命遊んだのです。

 特に、6歳のヤーナがなついてくれたのは、嬉しかったのでした。初め年よりもズート上に見えて生意気そうな子だと思っていたが、なついてくれるとホットして特に嬉しかったのです。やはり、言葉が十分できない分、若さと力で遊ぶ事になって大変疲れたのでした。

 帰ってから、TV室に大きな子供を見て回ったが、そこでもみんなに抱きつかれて大変でした。

 この子達は、外国から来ている私の事をどう思っているのか聞きたいと思っても、私のデンマーク語の実力から、そんな質問ができたとしても彼らの返答が分かるはずが無かったのでした。

 夜は、スタッフの一人のマイの部屋で過ごす事になったのでした。今日は誰も来ていないので、2人きりで長く話したのですが、彼女のタバコ臭い息で、意気消沈。彼女は21歳で、キッチンで働いているが、昼間はどうも元気に見えないのが、彼女の常であったのでした。時間は十分ある。

 明日、お城を見に行く約束をしたのでした。(お城を見てどうする。どうも、じれったくてしょうがないと思うのですが、皆さん許して下さい。しかし、タバコの臭いは忘れません。)
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126 ユースでみんなと 

2010-02-12 19:36:54 | 日記
11月27日 曇り

 昨日は夜遅くまで話込んで、そのまま眠る事が出来ずに又、比較的に早く起きたのでした。

 居候2人が残って、他の連中は仕事に行ってしまったのでした。一人はドイツへもう直ぐ出発であると言う事や、その他 昨夜よりもっと自分の事を話したのでした。
 もう一人のゴンベイ(誰かどんな人間か忘れてしまったのですが、その時のゴンベイと名乗っていたようです)が、自分たちと女の娘の事を話したが、私と違い上手くやっている様でした。

 みんな、女の娘と上手くやっている様で、どうもこの点で恥かしながら、自分自身上手く行って無いと思ったのでした。

 私はこの人たちの事は全然覚えていません、この連中が、どんな関係でここにいたか、今となっては分かりませんが、少しの関わりでもあったら、こうやって泊まって行ったのでしょう。いい時代だったと今思います。

 私は習った折り紙を再度勉強して、5つの違った折り方をマスターしたのでしたが、それの方に熱心でした、全く可愛いものでした。
 仕事に行った連中は1時過ぎに帰って来たが、少しだけ話して、私はエリザ(ミセス クヌードサン)の所へ行か無ければならないの為に、1時30分にそこを離れたのでした。
  
 約30分程でエリザの所へ着きました。土曜日なので、クヌードサン氏以外は、家族みんながいたのでした。早速、今どんな事をしているか等、色々話したのですが、彼女が何でも良く知っているので、かえって驚かされる事が多かったのです。

 クヌードサン氏が帰ってきて、同じ事を言わなくてはならないのです。彼は初めて会ってからどうも話が合わない事が多くなっているが、ここはどうしても合していかなくてはならないといけないと思ったのでした。
 サンとマーチンら息子たちが、興味があるからと拳法の手を教えたりしたのでした。この旅行に行く前に護身術として少林寺拳法を習っていたので、色々教えたのでした。
 夕食後に、ミスターの運転で近くのリンビー迄送ってもらったのでした。そこから乗り継いで帰ったのでした。

 ロナリュウに着くと、日本から手紙が、届いていたので、久々なので大変嬉しかったのでした。
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125 久々のコペン 

2010-02-10 21:58:56 | 日記
11月26日 霧雨

 今日から7時間の労働が始まったのでした。午前中はいつもの様にオムツ替え、遊びの相手と本当に疲れる事をしたのでした。子供の相手は、私は言葉が出来ないので7-8人を一人ずつ机の上からジャンプした子を受けてやっのですが、みんなに大変喜がばれたのですが、それが非常にきつかったのです。1通りで終わりと思ったら、次から次へと後ろに回るのでエンドレス状態でした。喜んでくれるので止めようがありませんでした。かまってもらえない子供達の喜ぶ姿に、複雑な気持ちでした。

 金曜日だったので、オンダンパンションホーリヘィベンへ午後2時になったので直ぐに出ようと部屋で着替えたのでした。出る間際に、こちらに来て一番好きな歌バタフライ(AldrigMere)が、ロッテの部屋から聞こえて来たのでした。たまらなくなって部屋に入って聞きました。そこでロッテが未だ18歳と知りました。この様な若い娘が、ここで働いているんだと驚いきました。時間が無いので駅に行くと、次の電車迄1時間も待つ必要があったのでした。

 たまたま一緒になった、ティーナと少し話す機会を得たのでした。彼女は英語をかなり話す様に思ったのでした。コペン迄同行する事になったけれで、英語で話す会話に困ったのでした。

 コペンハーゲンに行ったついでに靴を買うつもりでイースターガードに寄ってきましたが、値切るつもりでいましたが、駄目でした。それでも、仕方無く靴を2足買ってからオンダンパンションへ挨拶に行ったのでした。

久々のペンションでベントが歓迎してくれたり、一番会いたかったディッテにいつもの様に熱い抱擁と大歓迎を受けたのでした。彼女はスープを進めてくれたのですが、思わず涙がでました。殆どの時間をキッチンで過ごしたのでした。みんな来てくれて暖かく迎えてくれまして本当にいい時間を過ごしたのでした。

 その後、ユースに行きひと夜を過ごす事になったが、そこでラーメンや味噌を御馳走になったのでした。ユースにやたら居候が増えて、総勢6人にもなっていたのでした。

 今夜はここで過ごす事になりました。

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124 慣れた仕事 

2010-02-09 19:47:39 | 日記
11月25日 雪 後 小雨 後 曇り

 大分慣れて来たので、できるだけ楽な仕事を務めてやる様にしたが、その方が返って仕事をサボっていることが分かると気を使わなくてはならない様になったのでした。結局仕事をした方が、楽であった。(慣れるとサボる悪い癖がでてます。)

 オウラが私の仕事の一日7時間の労働で時間表を作ってくれたので、かえって自分のやる事がハッキリしたので仕事がやり易くて精神的に楽でした。明日から、このスケジュールで働く事になりました。
 
 今日は先日預けたパスポートをリンデゴーさんから返してもらった、VISA延長も無事に終わったのでした。スタッフの数も多くて仕事は凄くはかどり楽であったが、それよりも終わりまでが長く感じたのでした。

 昨日少し飲み過ぎた為に、少し風邪をひいたのか、のどが痛く辛かったのでした。気をつけなくては、前回の様になると思いました。

 夜7時迄働かねばならなかったので、5時頃、4歳児以上の部屋を見に行くと、TV室にリーサとクラウスが居心地悪そうにいたのでした。彼女等は大きくなったので、別棟に移って来たのでした。少し、泣いた様な顔をしていたのでした。しかし、他の人に話しかけて、僕を無視したような態度を最後までとって、別れの時に無くかとおもったけれど、泣かなかったのです。少し、淋しい気分になったのでした。

 夜に、デンマーク語をリスベスから、ならったが、余り彼女は乗り気でなく学校に行くように言われたのでした。もう、デンマーク語を学校で習う事は考えていないので、彼女に教える気が無ければ他の手だてを考えねばならなかったのでした。

 仕事はかなりなれてきたように思えました、夜は久々にTVを見て過ごしたのでした。
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123 雪の街

2010-02-08 21:54:24 | 日記
11月24日 晴れ

 今までにない、夜の寝付きが悪く、それに夜に2-3度起きて良く眠れないのでした。どうも、忙しい疲れる、新しい環境に慣れて無いようである。今まで、ゆっくりする生活に慣れていた様です。
 朝起きるのが辛かったのですが、部屋は暖かくて冬の朝と言う感じでは無かったのした。
 
 それでも、どうにか起きて行くと、少しリスベットが早かったのか既に食事の用意をしていたのでした。

 オウラについて紙を買いに車でリーサ、パネラ、クラウスと一緒に出かけたのでした。やはり、寮での生活に変化をもたらす為に、事あるごとに外に連れて行くのだと思いました。そこで、紙は高いのは知っていたが、そもそも、京都にいる時には紙の値段など、気にしていない生活をしていたので分からなかったのですが、実際に物凄く高っかたのでビックリしたのでした。それ以外に馬にやる木くずを袋につめて帰りました。(馬を飼っていた記憶は無いですが、多分ここで、書いてあるから飼っていたのでしょう。)

 昼には、少し余裕ができたので、写真を撮りに外に出て行ったのでした。町は小さくて王家の夏の別荘といっても広いものでした。雪に覆われた家々がお伽話の様な街並みで、その通りの突き当たりに小さな肉屋がありました。その店で、今までに日本で見た事が無い、毛皮が付いたままウサギを店の中につっていました。これを多分店で皮と剥ぐのだろうが(確かめた訳ではありません)、丸っきりお伽の世界でした。

 警察に届け出を出す必要があったので、寮長のリンデゴーさん(頭の真中が薄くなった男性)がパスポートを預かってくれまして、手続きを代行してくれました。彼はとても優しくて気を良く話してくれますが、英語は一言も話せず全てデンマーク語でありました。

リスベットが、私に良く微笑み掛けるので気があるのかと思いました。今夜、ミーティングがあるので、部屋迄来て欲しいと、こちらが誘って欲しかったので喜び勇んで部屋に行ったのでした。
 部屋をノックすると直ぐに部屋に入れてくれたので、これはと思ったけれど、直ぐに用事で出て行って筋書き通り?にはナカナカいかないのでした。すべてこの調子で丸っきり駄目でした。
 
 ミーティングでは、ビールを沢山飲んだけれど、少しの期待もあったが意識してか入れ違いになってしまったのでした。
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122 やっぱりオムツ替え 

2010-02-06 21:27:32 | 日記
11月23日 曇り

 昨日苦労してオムツ替えをやったせいか、少しオムツの替えも慣れたのでした。今日の担当はリルボアだけだったので比較的に上手くいったのでした。昨日の様に、リルボアはウンチを蹴る事も無くて、汚くはなくて大助かりでした。
 それでも、やっぱりウンチをした時の替えはいやでした。

 午前中はそんな訳で時間を見つけて、この機会に、できうる限りサボる様に心がけたのでした。そうでもしなくては、ハードな仕事で、この先身体が持たないと思いました。そうは、言っても人が再々くるので、サボりを誤魔化す意味もあって得意の折り紙に精だして、今日は色々な箱を折って作ったのでした。

 すこし横になって見ていると、子供達が誰も見ていないと思い、リ-サ、ヨアンそれに少し大きな子でお医者さんゴッコをしていたのでした。流石に大きな子は、悪い事をしている意識があるのか間が悪そうに止めたのでした。 
 
 昼食後、初めてオウラと他の4人の子供と共に、ドライブに出かけたのでした。特に何が目的か分からないまま車に乗ったのですが、途中にちょっと太めのカーリンが乗りました。狭い思いをしながら、着いた家は、オウラの家族がいる家でした。

 こちらの習慣で、ファストネームを一番初めに言い握手をしあうと言うのを、その時点で未だ慣れていないので、私の名前を言うのが恥かしかったのでした。

 そこで、牧師と言う人と少し話したが、凄く英語が上手くて、余り上手なので私の英語が恥かしくなって誤魔化した所を、指摘されました。自分の英語は、まだまだとモット勉強すべきと思いました。
 これ以降は、心がけて英語はハッキリと話す様にして、疑問点や間違っているなら聞き直してもらう様にしています。

 暫らくして、雪の深い景色を見ながら帰りましたが、このデンマークでも雪の中でスリップしている車とかエンコしている車を救助したりした。何台も雪の中に入っている車も見たのでした。

 
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118 ボーンイエメ ロナリュウ 

2010-02-02 19:19:31 | 日記
11月19日 晴れ

 物音で起きました、10時過ぎになってたので、起き上がり服装を整えていると、モーン(クヌードサン)が覗いて、そして、息子がそれぞれ覗いた。余りに遅い私に驚いたのかも知れません。(他人の家に10時迄寝ているとは、どういう神経なのか、今の自分では考えられない事です。)

 今日は金曜日、昼過ぎにエリザが帰って来ると、1時になってやっと新施設へと出発したのです。

 新しい施設は ボーンイエメ ロナリュウ と言うフレデンスボーと言う王家の避暑地にありクヌードサン宅から3-40分車で行った所にありました。

 外側から見ると、わりと小さな家と思ったけれど、内に入ると、かなりその大きさに驚く程でありました。

 そこで、オウラ(27歳)に施設を案内してもらいましたが、エリザは何処でも気さくに長く子供と話をしたのでした。彼女の生徒が働いていて、どの娘もわりと美人であったのです。(北欧の美人は、本当に綺麗としか言い様がありませんでした。何処でも人を良く観察している?)
 私の部屋の回りは、女の娘ばっかしと言う事ですが、まだ、今日は内情が良く分からないのでした。

 オウラは4歳児迄の担当であると言う。この施設は、本当に小さいオムツから4歳迄の子、4歳から6歳、6歳から小学校低学年と3つに別れて、色々な層の子が生活を共にしている所であったのです。

 親がいない子、家族と一緒に何らかの理由で住めない子供の為の施設でした。ここの殆どの人がデンマーク語のみしかはなさい、全くの隔離地だったのです。 ここで、この長い冬を過ごすには、良い所と思ったのでした。

 夜になって、4歳のリーサが凄くなついて、私の名前をキタ、キタと読んで離そうとしないので肩車などをしたが、余り甘やかすと他の子供とのバランスを考えると、先が思いやられるのでした。

 とにかく、何も分かりませんが、今日半日で、非常に疲れてしまったのでした。

 
 
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