旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

240 ボストン 美術館

2012-02-25 06:00:20 | 散策
 ボストンは初め会社の方が東京から直接飛ばすとプランをたてていた程の地、現在松坂で有名、私もそれに乗っかって行きました。そもそもマサチューセッツ州はケープコッド等有名人の別荘地で有名で、特にアメリカ35代大統領ジョン・F・ケネディのゆかりの土地として知られ、それをセールスしてきましたが、独立の舞台になった事でも有名です。しかし、何時もの如く自分が行った事が無いのに情報たけで営業していました。済みませんでした。

 ボストン市内を見る為に、地下鉄を駆使して見て廻りました。そもそも予約してくれたホテルが中心部迄歩いて行ける距離では無かったのでしたが、地下鉄を利用して非常に便利に使いました。

 空港からホテルまで何時もの如くタクシーを使い、その後は殆ど地下鉄、一部をタクシーを使いました。地下鉄は4路線で色分けしてあり、観光客も簡単に利用できるのでした。地下鉄と言っても大部分は路面で、地下部分は中心部のみでした。治安も観光客がいる所は、悪いと言っている割には、非常に良かったのでした。ビーコンヒル等昔のままの建物があり観光には最適でした。

 ボストンに着いて外国で初めて大量の日本の芸術作品を見ました。私は以前外国にある美術品を見る事は、愛国心と言うか残念淋しいと思っていました。その考えが変わったのは最近の事で、特にここを訪れた時でした。

 ズート前、まだ会社に入って3-4年の時に東京在住のアメリカ人のボスと言うより、非常に優しい人がいました。その人は1ドル360円当時から日本に20年以上住んでいて骨董品を集めるのが趣味の人でした。六本木のしょうしゃなマンションの彼の部屋に訪れた時に、最初にその国宝級の豪華な屏風は立派な物で、彼にすれば非常に安かった骨董、殆どその屏風しか記憶に残っていない程の物でした。他のものも素晴らしい物ばかりでした。かなりな物を既にアメリカへ持って行ったそうで日本人として本当に非常に残念な思いをしていました。最終的に総てを持って帰り、美術館か博物館を現地で開いたと聞きました。ただ、その時に、私がその価値が分ったと言うとかなり心細く殆ど分っていなかったでした。

 しかし、良く考えると貧乏だった日本人が仮にこの美術品を持っていたらと思うと、2足3文、ひょっとして処分していたかも知れません。やはりその価値が分る外国の人に持って行って貰った方が作品の為に良かったと思う様になりました。現在は日本人が金持ちになって買い戻したとか言う話を聞く事がありますが、それはそれで良いと思います。誰が持とうと価値が変わるわけではありません、外国の美術館や博物館に大切に保存してあって良かったと思います。
 そんな考え方が出て来たのがボストン美術館です。確かに日本人としては、ここにある作品は悔しく惜しかったですが、素晴らしい日本美術品が今や外国だけで見られる浮世絵など数多く展示してあります。市心からちょっと離れますが行って下さい。

 街中は地中に埋め込んであるフリーダムトレイル自由の道のマークから歩くと約5キロの道のりに16ヶ所の歴史的な建物や歴史にゆかりの場所を見ることが出来ます。そこからちょっと行くとウオーターフロントで買い物やノースエンドで17-8世紀の家並みを見て、レンガの落ち着いたビーコンヒルで洒落たレストラン入るのも良いでしょう。

 日本の美術品を再発見の街ボストン、行ける機会を見つけて行って下さい。
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239 京都 永遠に不滅です (馬から落ちて落馬)

2012-02-17 06:59:24 | 散策
 東京から兄が来ましたので、年ととも(友)に先祖を敬いたくなるのか、墓参りに再び行きました。今回は清水さんを回らずに我が家の次に、大谷さんの姉のお墓参りに行きました。

 実家のお墓の近くにあって裏から入ることとなりました。姉が永代供養をしてあります大谷さんで、受付で既に登録済みのカードと供養としてお金を入れた袋を差し出すと受付終了となり、広い待合室で暫く待つ事になりました。ここはかなり規模が大きくて事務化しています。テレビには親鸞聖人の漫画がかかっていました。これも前回なかった様に思いました。そして待つ事約15分、若い僧侶が参加者の名前を読んで我々も含んで15人位の人達が僧侶について行く事になりました。
 
 大きな障子扉を引くと、古い梁は茶に新たに塗って新しい礼拝堂になっていました。前来たときは、靴を脱ぎ座敷に座り大変でしたが、今回はマルッキリ新しく、椅子が100程置いてあり私にとっては便利な近代的なシステムになっていました。しかし、ありがたみが薄れたように、建物と仏像は本物に違い無いと思うのですが、金箔等安っぽく感じました。焼香のやり方等の説明があり、新たに3人の僧侶が音響効果抜群にお経を詠む声が響き渡りました。
 法話を聞いた後、お昼にしようと以前に友人に連れられて来た事がある、寺町丸太町の北東側にある、珍しい中華の懐石を‘マダム香蘭’で頂きました。町屋を少し修繕して、靴を脱いで普通の家にあがる様な雰囲気でなかなか良いので機会があれば行って見て下さい。2,600円のコースを頂きました。
 
 再びお墓で母方のお墓が、七本松下立売りにあるのでの初めての墓参りをしました。特に特徴は無いけれど、私の行ったどの墓場より卒塔婆が多いのが、どこか東京で見た様な雰囲気でした。モット深くお墓研究して墓研究者となれば良いかも知れませんが、私の場合はやっぱり食べて行くには厳しいでしょう。自分で納得。
 
 近くにある達磨寺はお祖父さんが清水参道で買った大きな達磨が預けてあるはずなのですが、どうなっている事やら今は分りません。この辺りは、やたらお寺が多い地域でした。ついでだからと、梅の季節でもないのに中国人が多い北野さん迄歩きました。受験を終わったのか、これからなのか分らない人達で結構な人でした。

 電話案内で引越し先が不明な親戚を見つけ、以前の広いだけの古びた家が売れたので知恵公院の素晴らしいマンションを訪ねました。途中で我々兄弟が習字を習ったお寺は、今も昔と変わらずにあったのには懐かし思い出が一杯でした。ついでに近くにある古い情緒たっぷりの山中油も、そとにある水車を見ましたが、生憎と休みでした。代わって昔の面影が見当たらない整備された美しい二条公園を見て来ました。今は無くなってしまった、石でできた大きな滑り台、その横で食べた‘べた焼き’は思い出にのみ残るものとなりました。

 夕食は高倉の四条下がった所で、路地裏にある京都居酒屋 ‘お数いしかわ ’で食べました。本当の路地(私は‘ろーじ’と言っていました)で、5時30分の予約にも関わらず、もうお店の前は予約の人達が何組もいました。昼食を食べた所が、庶民の家なら、ここも庶民ですが下町の庶民の家と言う所です。普通ならこんな場所に新しく食べ物屋は作らないですが、それもお好み焼き屋さんが精一杯の雰囲気に居酒屋とはナカナカ考えたものだと感心させられました。1階はカウンター形式で2階もオープンになっていて座敷で、長屋風な雰囲気を持ちながらサンの壊れも残してあって面白い所でした。大体予算は飲み代込みで4,000円位です。一度行って見て下さい。

 今日は我が家のお墓参りにお付き合い有難う御座いました。今回も兄におもいっきり頼りました。
 (表題の‘馬から落ちて落馬’は長島選手が‘巨人軍は永遠に不滅です'と言ったのを思い出すので書いただけで、特に意味はありませんので、あしからず)
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238 バベットの晩餐

2012-02-11 06:00:57 | 散策
 ユトランドはヨーロッパからでたデンマークの半島です。その北の端の小さな村であった話でバベットの晩餐会’は私の沢山の映画を見た中でトップランクに入る作品です。前回のデンマークの話の流れで是非とも紹介したいと思います。

 そもそも最近映画を見る気にならなくなったのです。GyaO!で無料映画を見ていたのですが、それも面白くなくなりました。何を見たか忘れてしまいますが、多分、最後に映画を見たのがプリンセス トヨトミになると思います。如何に良い映画と言っても、堤 真一、役所 広司、西田 敏行等、出てくる俳優が何時も一緒では考えさせられます。監督で言うと、三谷 幸喜が目立ってますが、ラジオの時間(多分)等初めの頃は良かったのですが、空想映画ばかりで見に行く気も起りません。
 日本の映画は宣伝で、舞台裏を見せ過ぎです。昔、ケイン コスギの映画で橋から船の柔らかなマットに向けて飛び込むシーンを見せていましたが、それを見て行きたいとは!映画の宣伝部にいる人の気が知れません。それかと言うと、ジャキ-チェンは年取って来ましたし、レッドクリフは面白く見られましたが、CGを駆使している外国映画も面白く無くなって来ました。

 そこで、この‘バベットの晩餐’は1世紀以上前の昔のノルウェーの小さな村の話です。その話をデンマークに変えて1987年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品です。
 デンマークのユトランド地方の、なだらかな海岸線がノルウェーのフィヨルドの厳しい海岸よりこの映画で生きました。ノルウェーは一度ムンクを見に一度行きましたが、私の見た海岸線は素晴らしいですが、この映画ではやはりデンマークが舞台になったのは正解でした。
 
 話は、2人の美人姉妹が途中まで中心となって進みます。キリスト教の1会派の長の娘で2人姉妹が非常に質素な生活を送っていたのでした。そこにパリから逃げて来た女性を、家政婦として家に置きました。服も黒か灰色を常に着ていて、粗末な生活を送っている2人が何故、家政婦を雇う様な事になったのか映画を見て下さい。そして、その家庭の不味い料理法を直ぐに学んで、経済的にも料理で助けて、そのまま十数年間て働いていました。

 ここまでが暗い話ですが、毎年宝くじをその女性バベットが1枚買っていたのでした。それが当たり、牧師の生誕100年を記念して、その禁欲の生活をしている老人達に夕食を出すという話で、実際の映画はとても品のあるユーモアに満ちた面白い作品ですから、機会があれば楽しんで下さい。ここでは簡単に書きますが、将軍が晩餐に呼ばれて、その家政婦バベットがパリで超一流のシェフであったのでした。さらっと超一流のシェフと分かるところとか海亀のスープ、ウズラを食べる所、ブーブクリコ等総てに全員12人に、賞金1万フランを使いきった最後が最高です。

 ビデオに撮っていたのですが、私が貸した人間を忘れてしまって(これ読んでいたら返して下さいね)、今何処にあるのか残念ですが分かりません。ただ、映画の方が絶対に本を読むより素晴らしいです。フランチの贅を尽くしたフルコースを見るだけでも、映画を見る価値があると思います。

  
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237 第5回 デンマークを知ろう!

2012-02-04 09:41:32 | 散策
  デンマークを知ろう5回目に行って来ました。今回で参加2度目、時間が過ぎるのが早すぎますが、前回参加からこのブログを見ると早くも1年が過ぎました。大阪大学外国語学部デンマーク語専攻のゼミの学生の報告会と言うものでした。参加のみんなは、時間つぶしに来ていると思ったのですが、殆どが勉強熱心な年配の人達でした。この近辺だけで無く兵庫や京都からも来ているとはその熱心さに頭が下がる思いでした。

 少し遅れて始まり、各学生が順番に発表してデンマーク国の説明から始まって、初等教育、特別支援教育、そして言語と関係ない高齢者介護の現地報告があったのでした。驚いたのは、年は不明ですが、80歳の位の隣の方は、インターネットから得た情報をコピーして、それに幾つものマークが付いていて本当に熱心に勉強して参加していたのでした。学生達が、デンマーク語を勉強しているのに福祉学科にいる様に勉強しているのにも驚きます。

 デンマーク基本情報では、人口は約554万人(兵庫県558万人)で、面積は九州位ですが、昔デンマーク人にグリーンランドがデンマークの自治領で世界でも有数の大きな国だと言っていた事、それと学生達が巻寿司を現地で作った写真を見て、昔日本から持って行った高級日本茶を出した事を思い出しました。お茶の味は自分でもマズく感じたと言うか薄くて、砂糖を入れた方が良いのではと言われたのも思い出しました。欧州に行って味覚が変わったのに違いないと思いましたが、向こうの水に合わなかったに違いなく硬水・軟水の違いと今になって思っています。こんな日本茶を持って行く事が、京都出の何も知らない人間にできる事なんだと今気付きました。デンマークに行くのに、20才迄チーズを食べずにいた事が今となっては信じられません。日本人も気質が変わるはずです。

 学生たちはコペンがあるシェラン島とユトランド半島の間にあるフュン島のオ-デンセから南45キロ、コペンから165キロにあるスヴェンボー市と言う町に5日間滞在し勉強して来たものを発表しています。短い間に良く勉強していまして、デンマークに住んでいたかの様に何に対してでも答えていました。

 今の学生達は幸せと思います、ハッキリと決められたルートに乗って勉強をして、旅行費用はドネーションを集めていましたが、私の時代には思いつきもしないものでした。1ドル360円の40年以上前の頃は、日本では福祉と言う言葉も一般的でなかったのでした。まして、町の本屋でデンマーク語辞典も見つけられませんでした。私は現地で学校に通いデンマーク語と習ったのですが、現在とは隔世の差です。 

 このブログの初めの方に書いていますが、私はデンマークにいた時に様々な福祉施設を見て、又その二つの生活上問題ある家庭に生まれた子供の為の施設、フリボーにあるボーンイエメロナリュウは0歳児から学校行く迄の子供達(このいる間、強烈に覚えていますが、子供達が青カビのついたパンをわれ先に食べていたのは信じ難いでした)、コペンではオンダンパンション フォーリヘーヴェンは少し大きな子で働きに行っている子供達(貧困、近親相姦等の為)の施設に滞在(ここでの朝食の黒パンのオープンサンドは忘れられないです)する機会に恵まれました。
 その後必死になって覚えたデンマーク語を話す機会に恵まれずに、40数年を過ごしました。20年前に行った時は、私を可愛がってくれた食堂のおばさんディテマーは死んでしまって施設は変わっていて時代はどんどん過ぎて行くと感じました。

 その当時の話をこのブログで書いたのですが、良かったのか悪かったのかその知識を生かす事無く、卒業後は航空会社に勤めて無事?に定年を迎え今に至っています。

 今度は一度、デンマークのユトランド地方の映画の話‘バベットの晩餐’を紹介したいと思っています。


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